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平地治美の漢方ブログ 

漢方(漢方・薬膳・鍼灸...)全般についてのブログです。コメント大歓迎。

鍼灸が出来るのは杉山和一先生のおかげ!

2015年01月28日 | 鍼灸
1月18日に杉山検校遺徳顕彰会・春の交流会に参加してきました。

  ①式典 10:00~
   挨拶、祝辞
  ②杉山鍼按治療所報告
  ③講演「三部書と杉山検校の偉業」
             講師 松本 俊吾先生
                日本伝統鍼灸学会理事
                鍼灸経絡紘鍼会会長
  ④琵琶演奏「検校杉山和一」「うつぼ猿」
                都 穂鳳師匠
  ⑤当会常務理事 鹿濱 秋信氏「東京都知事賞」受賞祝賀会ならびに
   新年交流 ~15:00閉会


こんな感じの内容で毎年開催されています。
これだけの内容で美味しいお弁当とお酒も出て3000円。
皆さまも是非会員になって、来年参加してください。



まずは宮司さんによる厳かなお祓いから始まりました。
今年も鍼灸の神様が守ってくれそうです。

そして松本俊吾先生の講演は、不勉強の私にもとてもわかりやすいものでした。

杉山和一といえば鍼灸学校で習うのは「管鍼法を作った人」というくらいでしたが、
戦後の日本における鍼灸存続に大きく影響していたとは知りませんでした。

杉山和一は1682年に両国に「鍼治講習所」を設立し、その後に後継者達が全国
45箇所に広げて現在の盲学校の基を作りました。
これにより後継者の育成が可能となったのです。

明治期に「非文明な野蛮的療法」と言われて廃止されかかった鍼灸が存続できた理由
の一つとして、この盲学校の存在は大きかったようです。
鍼灸を廃止すれば盲人の職業を奪うことにもつながります。
それは世論が許さないでしょう。
そのため、明治政府は鍼灸を廃止できなかったのです。


もしもここで鍼灸が廃止になっていたら、今私たち「鍼灸師」という職業は存在して
いないでしょう。
こうして鍼灸で生活ができるのも、杉山和一先生のおかげなのです。

これは盲学校だけでなく、晴眼者の鍼灸学校でも教えるべき大切な歴史ではないでしょうか?

鍼灸師以外の方も興味を持っていただきたいので、まずは公益財団法人杉山遺徳顕彰会をご覧いただければと思います。

記念館設立に向け来月2月8日に開催されるチャリティー寄席や、今年から開講される、
大浦慈観先生が発見した杉山和一の按摩術の講習会の案内もあります。

伝統医療文化研究会でも、いずれ杉山和一関連のイベントを企画する予定ですので
その際は皆さん奮ってご参加下さい。




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駒井一雄と鍼灸復興運動 2

2014年11月11日 | 鍼灸
ジャーナリスト油井富雄により、鍼灸ジャーナルに連載された駒井一雄関連記事:
近代鍼灸史9~11

(鍼灸ジャーナル 近代鍼灸史9)

琵琶湖湖畔・伝統療法・墨灸の跡取りだった駒井一雄
1日に患者1000人。港までできた繁盛ぶりの痕跡

昭和初期、鍼灸で医学博士号を取り『月刊東邦医学』を私財を投じて発刊し続けた駒井一雄。一体どんな人物だったのか、滋賀県の駒井の故郷を訪ねた。

●漢方復興のオピニオン雑誌に私財投入
 昭和9年に発刊した『実験鍼灸医学誌』、それを改題した『月刊東邦医学』は、昭和19年まで続き、鍼灸・漢方界のオピニオン雑誌として発刊された。漢方医学の氷河期というべき時代の希望の雑誌として位置づけられている。
この雑誌を創刊し、発刊し続けたのは駒井一雄(明治31年~昭和57年)だった。駒井自身が戦後語ったところでは、1冊30銭の値段が付けられていたが、1冊の雑誌を作るのに68銭かかり、東邦医学会会員(月あたりの会費50銭)には無料で送られていた。
続ければ続けるほど雪だるま式に赤字は増えていく、『月刊東邦医学』は営利を目的として創刊したわけではないものの、鍼灸を中心とした漢方医学の普及のために毎年私財を投じていた。『実験鍼灸医学誌』『月刊東邦医学』の雑誌のバックナンバーに目を通すと駒井の漢方医学を通した医療再生の情熱は、現在でも読む者の心を焦(こ)がすほどだ。
駒井一雄とはいかなる人物だったのか?
 <代々続く“穴村の墨灸”の家に生まれ、京都府立医科大学を卒業、その後、京都帝国大学医学部第二生理学教室で、鍼灸を題材に医学博士号を取得した>と昭和9年8月の『実験鍼灸医学雑誌』創刊号には簡単に紹介してある。
 鍼灸界に大きな功績を残した駒井一雄については、これまであまり語られることがなかった。駒井の漢方医学に対する熱さの原泉を現代に蘇らせてみたい。

●穴村の“もん屋”さんが屋号
 駒井の故郷、穴村(滋賀県草津市穴村町)を訪ねた。草津は東海道五十三次にある宿場町、JR東海道線で京都から快速電車で20分ほどで草津駅に着く。
 まず、草津市内の図書館で郷土資料を漁ってみた。
 『草津市資料集5・歴史写真集』(平成8年草津市編集)には、<草津の名所>として駒井の家が紹介されている。
 <穴村のもんや・明治42年ごろ>として、駒井の家の写真が掲載されている。
 解説は<常盤村大字穴にあった墨灸は、県内のみならず広く京都あたりまで名をはせていた。明治42年の『滋賀県がいどぶっく』にも穴村灸の施術院として多くの人々が訪れた>とある。
 郷土史家の書いた『ひぼこの里 吾名邑(あなむら)』(平成12年刊・石田市蔵著)には<琵琶湖に蒸気船“一番丸”が就航したのは明治2年といわれる。さらに明治16年2月に、大津と志那中の穴村港へ寄港するようになった。次第に利用客も増え、穴村の墨灸が栄えると共に、この港に活気を増した……>(要約)とある。
 墨灸とは、艾のエキスをツボに筆などで塗る治療法で、熱さも、のちのち熱傷跡も皮膚に残らないツボ療法として、かつては幼児・子供の治療法として普及した。
土地の人は墨灸のことを紋状に跡が一時的に付くことから“もんもん”と呼び、駒井家の屋号は“穴村のもん屋さん”だった。京都や阪神地区から墨灸を受けにくる客を“きよろし”と呼ばれ、穴村港を開くほど繁盛した様子が分かった。
 駒井の家の穴村町は、草津駅から5キロ北東にある。そこから琵琶湖までは2キロほどある。

●明治期の様子を記した絵が待合室に
 現在、駒井一雄の孫にあたる方が診療所を開設(医療法人社団あなむら診療所・駒井厚彦院長)し地域医療に従事している。
 看板は内科・小児科・消化器家を標榜し、塀を巡らした敷地、庭の大きな松にかつての面影はあるが、西洋医学を中心にした診療所のようだ。。
 診察の合間の突然の訪問ながら、駒井厚彦院長は、取材に応じてくれた。
 待合室には、鍼灸医師・駒井徳郎(駒井一雄の父)邸とあり、明治22年の資料を元に書かれた絵のようだ。
厚彦院長は「祖父のことは、この絵を見ていただければ」と撮影掲載を許可してくれた。
 見ると、この絵は、昭和47年に十二代・駒井一雄自身が、地元の画人に依頼して描いてもらったものだ。
城郭を思わせる古い門には<あな灸>の看板の文字が読み取れ、庭には今でもある地を這う龍の如く手入れされた松の大木。大きな母屋から料亭や旅館を思わせる増築された当時では珍しい瓦ぶきの屋敷が見える。庭には、親子連れらしい墨灸客が何人も見える。
 再び、玄関前に目をやると木製の乳母車や子供たちが団子らしき物を持って走り回っている姿がある。
 玄関に待機する人力車には、大津、彦根、長浜・八日市といった滋賀県内の都市名の他に京都、大坂などの行き先を示した文字が読み取れ、その繁盛ぶりが見てとれる。
 また、厚彦院長はある漢方団体の鍼灸講習会の修了証書も掲示してあったが、特に漢方を強調しているわけではない。
「私の知っている祖父は、灸の治療をやり、よく京都や大阪の方にも出かけて行ったのを覚えているぐらいです」と厚彦院長。駒井一雄は鍼灸の復興運動に情熱を傾けていた戦前の様子は、あえて語り次ぐことをしなかったのかもしれない。
 前述の絵には、駒井一雄が昭和47年に記した文が挿入され<当家は穴村の墨灸と呼ばれ代々有名であった。約三百年前、印(い)岐(き)志(し)呂(ろ)神社の宮司だった駒井九郎衛門が神のお告げで伊吹のもぐさと漢方薬を使って独自の墨灸を発見し、熱くないのとよく効くので子供専門の灸として県内を始め京阪、福井、岐阜方面から多くの患者が通院した…>という文字が読み取れる。

●墨灸客のお土産・伝説の草木団子
 往事を賑わいぶりを示すものは他にもある。
『あなむら診療所』の前に吉田玉栄堂という店に入ると、あな村名物の草木(そうもく)団子の陳列が見える。
 パッケージには子供の顔に<あなむらのお灸にいったら、あなむら名物くし団子>とある。
 店の若い婦人が応対してくれたが、戦後は串団子は作っておらず、10数年前にNHKテレビで放送されたのがきっかけで、伝統を守るべく一時注文販売に踏み切ったのだという。陳列してあるのは中身がない包装箱だという。
 もう、当時を知る人は少ないが、草津市立図書館には、老人会が地元の歴史を残すべく古老たちの談話をまとめた記録『吾那邑むかしばなし』(平成8年・白寿会私家版)を発見した。その談話や前述の『ひぼこの里 吾名邑』や『くさつこぼればな史』(平成10年草津市教育委員会)などから当時の様子を再現してみよう。
 
 <墨灸が良く効くという二日灸、二十日灸、日曜日には1日1000人を超す墨灸客が訪れた。多くは浜大津から汽船で穴村港に付き、馬車や人力車に乗れない人は、長い列になって春には蓮華草が咲く田圃道を列になって歩いた。ほとんどが幼児や子供客のために港には貸し乳母車もあった。待合室に入りきれなかった親子連れが番号札を持って、もん屋さんの庭、門前、お宮の前には待っている親子連れで溢れ、子供向けのおもちゃ屋、ラムネ、赤や黄色のニッキ水等の飲み物を売る店が軒を並べ、診療日には縁日のような賑わいだった。
 中でも草木団子に醤油で味付けして炭火で焼く香ばしい匂いがあたり一面に漂い、墨灸客の胃袋をくすぐった。
 草木団子は、20センチほどの竹を10本ほどの串になるように裂き、小指の先ほどの米団子を串1本に5個ずつ刺し扇状に広げたもので、200年ほど前に、お灸の後の楽しみにと地元の人が子供向けに始めたもの。
 青竹の扇型は、子供たちへ末広がりの未来への願いであり、祈りを込めた。
 太平洋戦争のさ中の食糧統制で草木団子が作れなくなった……

●日本医術の祖神を祀る安羅神社が
 『あなむら』診療所のすぐ近くには、かつて墨灸客がくつろいだお宮がある。
 安羅神社。『安羅神社由緒略記』には<日本医術の祖神・地方開発の大神>とある>。
 読むと墨灸と何らかの関係がありそうだ。
 祭神は、天日(あまのひ)槍(ほこの)命(みこと)。この地を“ひぼこの里”というのはこれに由来する。
 天日槍命は『日本書記』などに表記されているが、4世紀ごろに朝鮮半島から新羅の国の皇子の名だ。
 <天日槍命は、日本永住を決意され来帰。兎道河(宇治川)をさかのぼって、近江の国・吾名邑に辿り着き、暫く住んだ後に従者を留められ、越前・若狭を通って但馬の国に辿りついた・後年、ここに留め住みし民が天日槍命の恩徳を慕って神社を立てた>(由緒記を要約)
 土地の名の穴は吾名、神社の名も現在は“やすら”と呼ばれるが、古代朝鮮の伽那(かや)の国の中の安羅(あや)・安那(あや)の土地の名に基づくものと思われる。これは吾名、穴に音は通じる。
 遣唐使を派遣する以前、鉄器、農耕、仏教、医術、呪術などの多くは朝鮮半島の渡来人が半島内の戦いから逃れ日本に帰化、移り住み伝えた文化がある。
 神社が創建されたとされる7世紀後半は、飛鳥からここ穴村からほど近いところに天智天皇が大津京を開いた時代でもある。現在は旧東海道、JRの駅に添って町は形成されているが、大津から海上交通を使い琵琶湖の湖畔に町は発展していたようだ。

●鍼灸術の原型・温石が社宝
<天日槍命は地方の開発の他に、こと鎮魂術をよくせられ、人々の心身の病苦を解消せられ救世済民の実をあげ人々の尊敬を受けられた>(由緒記)
 医術の祖神といわれる由縁は、安羅神社の社宝として神殿に蔵している10数個の小判型の黒色の小石だ。
 <この小石は京都大学理学部地質学教室の松下進教授や民俗学の有識者の調査で、付近の野洲川の源流の玄武岩と同質。黒色になっているのは、石を火にあぶり温め幹部に当てて治療したものと推定される>(由緒記要約)
 温(おん)石(じゃく)。鍼灸の原型をなす医術と言われ、昔は中央アジアなどでも原始医術として盛んに行われ、中世期の温石が各地から出土している。
 神社の石灯籠には<昭和13年・駒井一雄>と記したものもある。
 月刊『東邦医学』の発刊し、執筆者も多彩になり、元時事新報記者・竹山晋一郎が東京支局長を引き受けた年でもある。
 それにしても、このころ、診療と漢方復興のための運動をどう両立させていたのだろう。
 終戦直後のGHQが“野蛮な治療”として抹殺しようとした時にどうしていたのだろう。
 いまは、もうないという墨灸客でごった返した穴村の波止場跡に向かった。後方には近江富士と呼ばれる三上山、右手には優良な艾を産する伊吹山がかすかに望める。



(鍼灸ジャーナル 近代鍼灸史10)
穴村をゆく2
駒井の墨灸客で作られた穴村港の跡を訪ねる
大衆向けお灸の啓蒙書や専門家向け著作も

 戦前月刊『東邦医学』を発刊し、鍼灸界に貢献した駒井一雄の故郷を訪ねた。古くは渡来人が住み着いた琵琶湖湖畔の集落。江戸時代に独自の“墨灸”を開発した家に生まれたのだった。


●1日1000人の施術した!?  
滋賀県草津市穴村町、現在の東海道線JR草津駅から琵琶湖湖畔に向かって4キロ。田園地帯に穴村の昔ながらの家並みが見える。
 昭和初期、鍼灸で医学博士号を取得し、鍼灸界に一大変革をもたらした雑誌『東邦医学』を私財持ち出しで発刊し続けた駒井一雄(明治31年~昭和57年)の自宅は、この村の中心ある鎮守の森の安羅神社のすぐ隣、小川を巡らし塀がある風情はそのままだ。
ここから琵琶湖湖畔まで歩いてみた。
 “穴村の墨灸”の12代目、艾などの薬草のエキスをツボにつけていく。この子供向けのお灸を受けに京都・大阪から患者が殺到していた。
その繁盛ぶりは、前回に述べたが、二日、三日、五日、八日、二十日と“日(か)”と読む日や日曜日には特に繁盛した。1日300人。多い時に1000人を超えたという。
そんな数をどうやって施術したのか、当初は疑問だったが、モグサなどの薬草のエキスを主成分にして顔や主なツボ患者に塗るという作業だ。一列縦隊に並んでもらい、次から次へとエキス塗っていくと、それもあながち不可能な数字ではない。
対象は子供だけに村を訪れる人数はその倍以上ということになる。
 それだけの人を集めると、草津駅から穴村までの鉄道の計画もあった。
<草津駅から穴村まで軌道バスを走らせる計画を立てて出願したことが昭和5年1月16日の大阪朝日新聞滋賀版に掲載されている。この穴村鉄道は実現していないので、おそらく不許可になったものと思われる。当時穴村は県内はゆうに及ばす、京都、大坂から大勢の人たちがやってきた。特に春先の葉の花や蓮華草の花の咲くころに、馬車や人力車がひっきりなしに走り続け、また多くの人たちが志那中の穴村港から長い列をなしてやってきた。道路には遠方からやってきた。大坂、京都、名古屋なナンバーの珍しいシボレーやフォードの高級車が列をなして駐車していた>(『ひぼこの里 吾名邑』より)
 主な、“きよろし”(お灸の客を土地の人はそう呼んだ)は、琵琶湖お水上交通を利用し、大津から定期船に乗って志那中という場所の穴村港に着いた。

●艾の産地の伊吹山が近くに
 この穴村港は昭和37年に廃止になった。現在は琵琶湖に向かう県道・栗東志那中線として整備されている。また、湖周道路のさざなみ街道やメロン街道など周囲の道路事情は一変している。
 ただ、いまだ田園地帯であることは変わらず、旧道はそのまま農業用道路として穴村港から駒井の家までいまでも現存する。
 琵琶湖の彼方には大津の町並みが蜃気楼のように見え、バックには比叡山。米原から岐阜方面を見やると、伊吹山の山がかすかに見える。お灸で使う最良の艾(もぐさ)は、この伊吹山で採れるという。目と鼻の先にその産地があることを思えば、駒井の先祖が江戸時代に艾を使った独自のお灸を開発したのも単なる偶然ではないのではないか。

(注・伊吹山・標高1377mその稜線は滋賀県と岐阜県県境を形成する。地質的、気候的に薬草植物の適地とされ、伊吹山にしか見られない植物が分布している。織田信長かポルトガル人宣教師から、薬草栽培の必要性を説かれ、伊吹山に薬草園を開き、外国原産の植物も持ち込まれた。お灸の原材料の艾は、伊吹艾といわれて良品とされる>

 旧道の行き止まり、普通の民家風の建物が並ぶ、まだ琵琶湖湖畔までは100mもあり、後年埋め立てられたようだ。石垣を積んだ岩壁、切符売り場の建物は、港が廃止された後は民家となっていたが、現在では空き家でそのままの形で残っている。

●乗合馬車は、ほとんど駒井の患者たち
 錆びついた飲料水のブリキ製の看板が、かろうじて売り場兼待合室であることが分かる。
岩で築いた岸壁は、そのままだが、いきなりこの場所に来たら、単に農業用水を琵琶湖から引いた貯水池としか見えない。
草津教育委員会編纂の歴史写真集と見比べて、やっとかつて港があったと思えるほどだ。ただ往時を知るポプラの枯れ木が琵琶湖からの風を受けながらしっかりと地についたままの姿で残っている。
その写真には、帽子をかぶった5、6歳の女の子、わんぱく盛りの着物を着た男の子も写っている。遠くから、駒井の診療を受けに来たのだろう。
大人の足でも港から、駒井の墨灸の“もんやさん”までには30分から40分はかかる。むずがる幼児の手を引いて歩く距離にしては長い。
人力車もあったが、台数が限られていた。そこで、昭和4年に現在ではバスに相当する乗合馬車の営業許可が出ている。
昔の写真には、この馬車が客を乗せて、走る姿が見える。港には煙を吐く蒸気船が写っている。
乗合馬車は定員が10人、計5台が船が港に着くと、“もんやさん”までピストン輸送をした。
穴村港から墨灸前の停留所まで大人15銭、往復が25銭、小人は半額で、昭和19年まで続いた。戦後は、乗合馬車が復活していない。
それは、爆発的な人気を誇った“墨灸”の賑わいが戦前ほどではなくなったことを意味する。

●休診日には馬車も出店も休業
ここで駒井の経歴書の行間を埋めてみよう。
 二・二六事件があった昭和11年に『実験鍼灸医学誌』から『東邦医学』に改題した。
翌昭和12年には日中戦争が勃発し、戦争の時代に突入してゆく。『東邦医学』当初、大坂の鍼灸師が編集を担当していたが、都合で辞退し、その役目は駒井自身が行っていた時期がある。その間も月1回の発行は行われ、しかも巻頭言の他に駒井は2、3編の原稿を執筆していた。
 昭和13年には国民健康保険が誕生、鍼灸師営業取締規則の改正問題が起き、国会請願などで上京することも多くなる。もちろんこの日や講習会の日は、“墨灸”は休診となるが、乗合馬車や人力車、店先の出店も同様に休日になったほどだった。
 当時は上京するにしても2,3日の連続休診になるだけに、関わる商売の人たちは、“休みをあまり取らないでほしい”との要望を出したほどだったという。

●竹山晋一郎の採用。大衆向け啓蒙書も
 昭和13年には、駒井は新たな二つのことに取り組んでいる。
ひとつは、駒井自身が多忙を極め、編集作業に関しては素人であることの認識のもとに、編集の専門家を探していたこと。さらに関西中心になりがちな雑誌の内容を東京支局を開設を目論でいたことである。その結果が竹山晋一郎を編集者として採用したことだった。この経緯に関しては次号に述べよう。
もうひとつは、鍼灸の大衆化に向けて新しい試みをしていることだ。婦人雑誌の月刊雑誌『主婦の友』に、お灸に関する記事を連載し、それを再構成し『素人でも出来るお灸療法』(昭和13年・主婦の友社刊)を出版している。
専門家向けには『経絡経穴学』(昭和14年・春陽堂刊、昭和51年に績文堂より復刻)と大書も刊行、『東方医学』を毎月私財を注ぎ込んで出し続け、その一方では、大衆を説得するには婦人雑誌へと、その熱い思いを実現するだけの実行力は、これまでの誰にもできなかったことでもある。またその後も出ていない。

●鍼灸医師を――そのために自覚を
当時の駒井が、鍼灸界の将来像をどう描えていたのか?
『東邦医学』のバックナンバーを閲覧すると“鍼灸医師法”という言葉が頻繁に見られる。鍼灸師を鍼灸医師として認知するよう働きかけていたことを意味する。駒井自身は京都府立医科大学を卒業し医師免許を取得し、医師の診療行為としてお灸を実施していたが、鍼灸師を“鍼灸医師”として認知することは、医師法の問題も絡みかなりハードルが高かったはずだ。
それに関しては駒井が執筆した巻頭言のタイトルをあげると<医術家の国家試験批判>(昭和11年10号、11号)、<衛生国策を論ず>(昭和12年3号) 、<臨時医専に漢方科を併置せしめよ>(昭和14年5号)と、医師資格試験や国の医療政策が西洋医学に偏り弊害を招いていることを論駁(ろんばく)している。
さらに<鍼灸家の自覚を促す>(昭和14年6号)、<鍼灸医学を正しく認識せよ>(昭和14年9号)、<(鍼灸師)試験制度について>(昭和16年4号)と、鍼灸師側のいまだ不備なる点を指摘し、各自の自覚と鍼灸の教育制度にまで触れている巻頭言がある。
注目されるのは、健康保険の法律に関してもの申している。戦前に大きな会社が設立した健康保険組合(現在の社会保険に相当)と国民健康保険法に関してのものだ。そのどちらも戦後再編成されたが、昭和36年に完成した国民皆保険制度とは趣きを異にしている。とはいえ、その中に、鍼灸術の健康保険適用を主張し運動を行っている。
細部の文章は省略するが、見事なまでの鍼灸復興、東洋医学復興の熱情溢れる論稿が並んでいる。筆が立つ鍼灸家は他にもいるが、それを自分自身の惜しみない行動、金銭的投入を考えれば、その功績は戦後あまりにかえり見られないのが不思議なことだ。

●戦況悪化で休刊。終戦時には村長に
駒井の経歴書には、<昭和19年7月・滋賀県栗太郡常盤村村長><昭和20年4月・滋賀県マッサージ師会顧問>とある。
昭和19年になると『東邦医学』はページ数も少なく、駒井の巻頭言も<決戦四年の年頭所感>(昭和19年1号)と、非常時の鍼灸師の役割として、国民の健康増進に貢献することを強調鍼灸師の在り方を説いている。3号では<日本鍼灸医術研究所の発足にあたりてその所懐>という巻頭言が掲載されている。
これは、同年7月に高野山において、日本鍼灸医術研究所を設立するという予告記事だ。
しかし、昭和19年の3号を最後に『東邦医学』は出ていない。戦況悪化で発行不能になったのだ。各地で米軍の爆撃が本格化し、交通網は遮断、活動自体も不可能になった。
駒井は地元に帰り、穴村一体を包括する常盤村の村長に就任したのだった。
 
墨灸客でごった返した穴村の港も様相が一変した。1枚の穴村港を示す写真がある。
出征兵士を見送る人が、幟を立てて見送っている。このころになると、墨灸に訪れる乗船客はなく、こんな光景が毎日続いたのだろう。
<千人針を懐に赤タスキをかけた出征の若者が汽船に乗ると、赤、黄、緑のテープが交差して、万歳万歳と叫び、船は波を切って沖へ沖へと進んでいくと、帰りはえもいわれるわびしいものでした>(『くさつこぼればな史』より。古老の回想談から要約)
小学校の校庭ではバケツリレーの防火訓練、竹槍での訓練が続けられ、戦地にいる兵隊たちへの慰問袋つくりが行われていた。村長である駒井は、出征兵士の見送りの先頭に立ち、在郷軍人や婦人会などの訓練の責任者でもあった。駒井に限らず当時の自治体の長は、そういう立場にあった。
戦後、駒井は、なぜか鍼灸の全国運動から身を引いている。ただ駒井の採用した『東邦医学』の編集要員竹山晋一郎は大化けし鍼灸界に貢献、さらに駒井の師匠である石川日出鶴丸もGHQと対峙して鍼灸界に尽力している。次号で触れるこれらもまた駒井が残した間接的な功績でもある。



(鍼灸ジャーナル 近代鍼灸史11)
 戦前の鍼灸界に『東邦医学』という雑誌を私財を投じて出し続けた駒井一雄。その雑誌を開くと駒井の熱く語る肉声が聞こえる――文中敬称略

『日本鍼灸医術研究所』設立を報じる最終号
戦後は鍼灸復興活動をしなかった謎?

●半生は『東邦医学』で辿れるが……
 駒井一雄(明治31年~昭和57年 )の人生の足跡を辿るには、昭和9年の夏に創刊した『実験鍼灸医学誌』(オリエント出版の復刻版を参照)と、その3年目にあたる昭和11年から『東邦医学』(出版科学研究所の復刻版を参照)のバックナンバーを閲覧することで、現在でもある程度は可能だ。
 ただ、戦況悪化で発行が中止、それ以降の人生は活字からは、伺い知る情報が限られる。
かつて穴村の“墨灸”として繁盛した滋賀県草津市穴村町には、門構えや庭の樹齢数百年は越える龍が昇るが如く息づく松の木がそのままに、現在“あなむら診療所”(孫に当たる駒井厚彦院長)がある。
「祖父のことは、鍼灸界の古い方の方が詳しいでしょう。晩年まで京都のお寺などにいっても診療はしていたようです。何かの表彰を受けてことや優しい祖父ぐらいしか……」と、戦後生まれの厚彦院長は、祖父の鍼灸界に残した大きな功績は、直接は知らない。
 全精力を鍼灸の復興と普及の全国運動を展開した駒井の戦前に交流のあった人たちが鬼籍に入っている以上、その姿を私財を投じて発刊し続けた『東邦医学』に語ってもらうしかない。

●自宅に集合し琵琶湖湖上の懇談会も
 『東邦医学』には、昭和16年ごろまでは巻頭にモノクロ写真で構成されたページがあり、会員の活動の様子が読み取れる。
 昭和14年には琵琶湖湖上懇談会なるものを催し、総勢10数名の鍼灸家が駒井の自宅の穴村の“もんやさん”に集合。その庭で記念撮影をした。
 周辺都市から押し寄せる駒井の患者たちが乗る乗合馬車に乗って穴村港まで行き、そこで船を貸切り、宴会を催した写真がある。
 また自宅書斎で、原稿の執筆をする駒井の姿を映した貴重な写真も掲載されている。
 駒井の巻頭言は、鋭く当時の医学界や医療制度を論じ、鍼灸学術論稿はこれまでに鍼灸が経験したことのない経穴学を学術的に追究しようとする気概に溢れている。

 ●熱き思いがほとばしる最終号
 戦後の駒井の消息は、終戦後は滋賀県鍼灸師会会長職を歴任したこと、昭和48年には鍼灸界への功労によって、勲四等瑞宝章を授与されたこと。昭和51年には読売新聞社より医療功労者賞を受賞している。確かに、そこに駒井が居たのだが、しかし、全国規模での鍼灸界を取り巻く活動に一切登場することはなかった。
 ここで、『東邦医学』の最終号を検証してみよう。
 昭和19年、米軍の爆撃機が日本本土を射程内にとらえ、それを迎撃し、防ぐだけの軍事力は日本にはなくなっていた時期だった。印刷する紙も不足、『東邦医学』はこの年の3号(3月末ごろ発行)を最後に事実上の終刊となる。
 いま振り返ると、戦況は悲観的だったが『東邦医学』の誌面は希望に満ちていた。
 巻頭言は、駒井が<日本鍼灸医術研究所の発足に当たりて所懐を述ぶ>と、鍼灸研究の新しい組織の発足について述べている。
 日本鍼灸医術研究所は、前年の昭和18年12月に発足、所長は駒井一雄、副所長を竹山普民(晋一郎)が務め、本部を東京都豊島区椎名町の東邦医学東京支社に置いている。
 雑誌に掲載された設立趣旨には<後世方医学の全面研究と共に、鍼灸古典を再検討して鍼灸医術本来の姿を探求再現して実際の臨床に役立たしめ、併せて近代医学のとの連携に於いて合理化を図り、来るべき医術として、最も古きものを最も新しく生かさんとするものである。しかも文献的研究にを避け、あくまでも実際的臨床に役立つものたらしめんとする…>とある。

●柳谷素霊、岡部素道、井上恵理、本間祥白、小野文恵、間中善雄……伝説の鍼灸家たちが
 駒井の巻頭言から要約すると<古典を現代医療に生かすために経絡研究と鍼灸家への教育>、<広く応用し、国民に健康に寄与>の二つの大きな目的があった。
 その発会式ならびに記念講演会は昭和19年2月11日、紀元節の日に東京の神田・駿河台の東京医師会館で行われた。本来、ここにいるべき人の中にはすでに召集令状をもらい戦地にいたものも少なくない。
ただ、出席者は当時の厚生省衛生局の業務課長、医務課員のほかに、鍼灸家では名前のみ列挙すると柳谷素霊、城一格、本間祥白、岡部素道、井上恵理、小野文恵……。医師資格を持ったものでは駒井の他に石野信安、矢数有道、間中善雄…らの名前が並び参加者は約200名。
宣誓書は本間祥白が読み上げた。
<……明治以後わが国における鍼灸医術は、近代医学の影響下にかえって臨床的には無価値に等しいものとされるに至った。ここに古典を再検討し、その古典を明らかにし、鍼灸術本来の姿に還すと共に臨床的にも役立つよものたらしむるべく研究を行う。同時に鍼灸家の再教育を行い、時局下、健民、健兵の国家的要請に応えんとす。不肖、われら研究員たる光栄に浴し、研究所の趣旨に従い、その目的達成に協力邁進せんとす。ここに宣誓す>と、壇上に掲げた日の丸に誓った。

当時、漢方の古典にある経絡の習得、会員の各々の地元において、工場や住民に対しての鍼灸治療の奉仕活動が実施されていたが、それをより充実させた活動にするための組織だった。
この時期になると遠く中国や朝鮮半島にまで足を伸ばし、戦地の軍人に対しての鍼灸の施術の奉仕活動など、戦争の勝利に向けての鍼灸の社会的貢献に向けての奉仕活動も盛んに行われていた。

●駒井が所長だが東京中心の組織
これまでの鍼灸の学術研究やその普及といった東邦医学社の発展的解消ではなく、より古典の経絡の習得を明確にし、かつ臨床重視の鍼灸を明確にした日本鍼灸医術研究所と別団体を意味した。両者のトップは駒井で会員は駒井以外は東京に集中し、柳谷素霊、竹山晋一郎を中心にした鍼灸は“古典に還れ”を旗印にしたものだった。
設立記念会の駒井の挨拶の中では、これまで毎年・大坂や京都において1週間にわたる合宿研修を行っていたが、昭和19年の夏は奈良高野山で行うと発表した。
その駒井の言葉を引用してみよう。
<今年は、仏教の聖地高野山において東邦医学と日本鍼灸医術研究所の合同の錬成の場として、鍼灸医術をして新日本医学の建設を具現化すべく、猛然と起(た)って運動を展開せんとする所存である……従来の如く浅薄なる講習気分で明日の開業のための役立たせようというケチな方々の受講を謝絶し、真の鍼灸医術の飛躍に向かって身を持って協力しうる士を待つ切なるものがある>

●時局悪化、紙が配給されず…終刊
当時の公刊雑誌は、政府の統制のもとに行われ、昭和16年には類似雑誌の統廃合が指示され、紙はすべて配給によって賄われていた。そんな中でも『東邦医学』は統廃合を免れ、単独で出し続けていた。
ところがこの昭和19年の春になると、公刊雑誌を発行するための紙の配給がままならなかったために印刷できなかったのだ。おそらく印刷されなかった昭和19年4月発行予定の原稿は用意されていたはずだった。以後、物資供給は終戦まで好転することはなく、事実上の自然廃刊となった。
日本鍼灸医術研究所という新しい組織は発会して、会員の意気は揚がったが、この時期から米軍の日本本土爆撃が始まっている。
東京在住者は地方への疎開がはじまり、鉄道網も寸断され移動もままならない。食べるものさえない時代が続くことになる。

●村長を務め一時公職追放の時期も
駒井自身も昭和19年7月には郷里の滋賀県栗太郡常盤村の村長に就任、これまで各地で鍼灸の講演や工場などの施術慰問は控え、郷里で墨灸の診療を行うとともに、村政に尽くすことになる。
この年の夏の高野山での夏期講習会は、実施はされたかどうかは確認できない。ただ、行われたにしても、時局を冷静に判断すれば参加人数も限られ、設立記念大会に描いた盛り上がりがあったかどうか……。
駒井の村長就任は、ある意味では、全国の地方の市町村長がそうであったように、地元の民間人、在郷軍人を組織して本土決戦に備える立場にあった。また、その村で出征兵士を見送る最高責任者でもあった。
おそらく、駒井の自宅に近くにある、かつて鍼灸の原型のひとつである古い温(おん)石(じゃく)が社宝である安羅(やすら)神社(この連載の10参照)にお参りして、穴村港から出征する若者たちを何度も見送ったはずだ。
やがて戦争が終わると、これも全国のどこの市町村長がそうであったように一時的な公職追放が待っていた……。
その後、駒井は墨灸の診療を行う一鍼灸家として琵琶湖湖畔の故郷穴村で過ごし、出張診療してもせいぜい京都あたりまでだった。
そして、かつての鍼灸医術を日本の新医学として認知せしめる――と情熱を燃やした時の同志たちと自ら積極的に交流を持とうとした形跡が全くない。かろうじて、駒井を師と仰ぐ人たちが『東邦医学』の復刻版や自らの著書『経絡経穴学』の復刻版の出版に際して、穴村を訪れると、懐かしく懇談したという話があるだけだ。

●師匠・石川日出鶴丸がGHQと対峙
その一方、終戦直後も積極的に鍼灸界の発展に大きな意味を持つ、駒井ゆかりの二人の人物に触れておこう。
一人は、駒井自身が京都府立医科大を卒業後、京都帝国大学医学部の第2生理学教室に入局、昭和9年に<鍼灸の実験的研究>という論文で医学博士号を取得した時の指導教授である石川日出鶴丸(明治11年~昭和22年)だ。
石川は、駒井が活動を開始してから、顧問格として駒井を支え続けた。京都帝国大学を退官後は、三重県立医科大学の校長に就任し鍼灸診療と鍼灸の研究団体を設立している。
終戦後、日本を占領したGHQは、鍼灸を廃止せよ――指示を出したことがある。この際にGHQに対して鍼灸の効果や医学的な有効性に対して事情説明したのが石川だった。
もう一人は、竹山晋一郎(明治33年~昭和44年)だ。前述の日本鍼灸術研究所の設立は、この竹山主導で行われ、戦後はこの竹山が東京地区の鍼灸家をとりまとめ指導的立場で活躍した。

●元新聞記者・竹山、経絡治療の旗振り役
竹山は、元新聞記者で、『東邦医学』の編集を昭和13年から担当することになる。さらに自ら鍼灸師の資格も取得して、柳谷素霊らとともに経絡治療の旗振り役となっていくと同時に多くの鍼灸家を育てていった。
竹山と駒井との出会いがなかったら、これらの弟子たちも様相も変化し、鍼灸の普及も全く違ったものになっていたはずだ。
また、竹山も戦後の鍼灸が再び抹殺されかかったGHQの占領下に奔走していた。
駒井が鍼灸界に残したものは、この石川と竹山らが行ったGHQ占領下の鍼灸復活の経緯もまたそうなのである。(以下次号)



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駒井一雄と鍼灸復興運動 1

2014年11月10日 | 鍼灸


ジャーナリスト油井富雄により、鍼灸ジャーナルに連載された駒井一雄関連記事:
近代鍼灸史7~8


(近代鍼灸史7 駒井一雄)
戦前『実験鍼灸医学誌』『東邦医学』を刊行した駒井一雄の勇気と忍耐と功績

これまで昭和初期に活躍し、沢田流として弟子たちに間接的に伝えられてきた沢田健(明治10~昭和13年)の人物検証を行ってきた。同時期に鍼灸界の救世主といっても過言ではない人物が関西に登場する。駒井一雄(明治31年~昭和57年)である。文中敬称略

●京都帝大医学部で鍼灸の研究で医学博士号を取得
駒井一雄は明治31年、滋賀県の現在の草津市穴村町に生まれる。先祖は代々“穴村の墨灸”として関西地区では有名な家で、京都府立医科大学を昭和2年に卒業している。駒井がなぜ鍼灸研究の道に入ったのかは次号以降に記すが、昭和9年6月、京都帝国大学医学部第二生理学教室教授の石川日出鶴丸のもとで『鍼灸の実験的研究』の研究論文において医学博士号を取得している。
鍼灸をテーマに学位を取った者は以前にもいた。ここであえて駒井を取り上げたのは、表面上の肩書きや略歴書からだけではない。駒井の業績で燦然と輝くのは、昭和9年8月『実験鍼灸医学誌』を創刊、昭和11年には『東邦医学』と雑誌名を改題し、戦争で雑誌発刊が困難となる昭和19年3月まで出し続けたことにある。驚くことに2、3の合併号があるものの、ほぼ毎月コンスタントに出し続けている。
駒井が事実上の主宰者として関わった11年間に出された雑誌を順を追って手に取ってみた。全冊を通して読むことができるのは、それぞれ復刻版『実験鍼灸医学誌』(平成15年・オリエント出版)、『東邦医学』(昭和54年・出版科学研究所)が出されたことによる。こうした閲覧は、駒井ら雑誌発行の当事者の思いだけでなく、復刻版の刊行に尽力した人たちの思いまでも伝わってくる。

●創刊前年に『経方治方学会』を立ち上げる
駒井は、『実験鍼灸医学誌』の創刊に先立ち、もともと駒井らが前年度からあたためてきた鍼灸家の全国組織『経方治方学会』を昭和8年の秋に結成、学位論文の担当教授の石川日出鶴丸を名誉会長に駒井自身が会長に就任していた。その機関雑誌として創刊したものだった。
創刊号(巻1第1号)には、『経方治方学会』の三大綱領が掲載されている。原文のまま記しておこう。
一・経穴及ビ経絡ニ関スル学説ヲ汎日本的根本的統一ヲ図ルコト
一・経穴及ビ経絡ノ臨床的科学的受験的研究ノ指導者タルコト
一・鍼灸術ニ関スル学説及ビコレガ実験的報告ノ年次的概括ノ対外的報告期間デアルコト
当初、月1回の研究例会と年に1度の1週間にわたる鍼灸講習会が開かれていた。第1回の研究例会は、昭和9年6月24日、大阪・大槻記念会館講堂において開かれたことが創刊号に記してある。参会者の人数まで判明しないが、会場写真を見ると40人を超えていたことが推察される。講演者は、駒井の他に大阪の医者や鍼灸家で開会の挨拶は、駒井とともに『経方治方学会』の創設に関わった大坂の保濱彌一郎が行っている。
保濱は、まず以上の三大綱領を示し<今後真の鍼灸医学を大成するためには、必ずその由来する古文献を基として、鍼灸の実践家の所説、経験、実験、治験等を研究資料にして、現代医学よりこれを再検討があり、それには医学者と古典家、鍼灸実践家が握手して共同研究を行うことが重要である>(以下引用文は、原文を尊重し現代表記に筆者改編)と述べている。
保濱は、鍼灸家で医史研究を行っており、学会設立には駒井の右腕となった。初期の編集責任者であると同時に『経方治方学会』本部も保濱の居住地の大坂市に置かれている。
創刊号には保濱が『駒井先生の学位論文通過を祝す』という報告がある。それによると、<(駒井が京都帝国大学において)未曾有の『鍼灸医学の実験的研究』の学位論文を提出中のところ同大学医学部教授会において、さる6月25日満場一致をもって通過し……>とある。
第1回の研究例会の翌日に鍼灸論文での医学博士号通過したということになる。

●経絡・経穴治療が忘れ去られた大正・昭和初期の日本の鍼灸
そんな熱気が漂う中、創刊号は世に出た。菊判と当時は言われた大判の全136ページ。執筆者は、石川日出鶴丸を始め京都帝国大学医学部の教授、講師陣、関東からは代田文誌、柳谷素霊、医史学研究の安西安周らが名を連ねる。他に四国、山陰、九州からの執筆者が名を連ねる。創刊号の一冊だけでもいかに幅広い地域に声をかけたかを知ることができる。
 巻頭にある駒井自身の『発刊の辞』を読んでみよう。その書き出しはこうだ。
<経絡および経穴は皇漢医道の根本義で、これを正しく理解せぬば、その症候も病理も診断も治療の方針も処方も何も判るものではない。鍼灸治方は経絡、経穴の応用技術であるから、経絡、経穴に根拠を置かぬ鍼灸治方はないわけである>
 鍼灸の科学的解釈の研究実績をひっさげて、さっそうと登場した駒井の立場は、この冒頭の一句で鮮明に打ち出している。
 続けて<今日ほど経絡、経穴が軽視され、現代ほど鍼灸技術の萎微沈衰している時代はない。この最大原因は五十年来鍼灸術が本道を離れていたということである>とある。
 ここで明治以降の鍼灸界の歴史を振り返っておこう。
明治8年以降、明治政府は医師資格試験の実施をうたう『医制』(交付は明治7年)を実行していった。その試験科目は、西洋医学のみに限られ、事実上漢方医学は排斥されたのである。明治16年には医師は医師資格を明確に規定する『医師免許規則』(太政官布告三五)、『医業開業規則』(同三四)が出され、江戸時代まで“鍼医”として存在した言葉自体が抹殺されたのである。
 とはいえ、鍼灸、按摩・マッサージに対する国民的需要は政府の方針とは無関係でもあったことがうかがえる。明治18年には、『鍼術灸術差許方』(内務省通達甲一〇)によって、鍼灸治療開業については、従来開業の者、新規開業の者、その修業履歴を検討し、営業許可を与えるとして、各道府県に委ねている。
盲学校関係者や鍼灸家有志たちの強い請願もあり、明治44年には『鍼術灸術営業取締規則』(内務省令一一)『按摩術営業取締規則』(同一〇)が制定され、鍼灸や按摩・マッサージの施術に関する全国統一的な法制が成立した。

●鍼灸の経絡・経穴治療復活に「真摯なる一指を染めん!」
あくまで目の不自由な人や職業確保的色彩が強く、投薬や瀉血などの外科的行為の禁止を規定、野放し状態の改善を目指した“取締規則”だった。漢方医学としての経穴に関しても、当時明確な規定がなく、大正8年になって慌てて簡素化されたものを決めたほどだった。駒井が登場した昭和初期は、漢方医学的な古典に基づいた経絡や経穴は、無視され、その効果さえも疑問視する風潮が医学界には漂っていたのである。
発刊の辞を続けよう。<われらがここに、(石川)教授の指導のもとに、現代科学者と古典家と鍼灸家の協力になる日本経穴治方学会を結成し、機関誌を発行するゆえんのものは、従来すでになすべくして、いまだなさざりし、これらの研究にまず真摯なる一指を染めんとするからである。この大事業の完成は、もとより微力なる一学会が、なし得べき所にあらざるも、ただ一部分たりともこれを担当し、この困難にして前途遼遠なる道程を歩み通さんとする勇気と忍耐を持つものである>
 以後の駒井の活動を見ると、“真摯なる一指を染めん”“勇気と忍耐”、その言葉通りに、生き方としても美しく、志し半ばにしても見事なまでの生き方をしたのである。

●“沢田流”を伝えた代田も創刊号から連載開始
 創刊号の執筆内容から、この雑誌の持つ意味を検証してみると、現在の鍼灸史そのものをこの1冊から推察できる部分もある。
 まず、代田文誌はこれまでにも述べたが、創刊号で『沢田健校定 十四経発揮図譜の解説』の連載を開始している。これは雑誌が『東邦医学』となってからも継続し、足かけ4年37回で最終回となり、連載をまとめたのが“沢田流”を今に伝える『鍼灸治療基礎学』だ。書いて行動する鍼灸家代田の登場や“沢田流”が今持って語られることはないだろう。
 この近代鍼灸史の連載は柳谷素霊(明治39年~昭和34年)以前の鍼灸界にスポットを当てる企画だが、柳谷の直弟子、孫弟子を抜き現在の鍼灸界を語れず、鍼灸理論においても柳谷を抜きに語れないといっても過言ではないだけに、創刊号に記された柳谷の文章を解析してみよう。

●柳谷素霊28歳、冷静沈着、十分な古典検証。その後を彷彿
柳谷は、昭和9年当時28歳。東京両国の東京鍼灸学校の副校長格の時代のことだった。創刊号を飾った柳谷の論題は『経穴研究の一方法としての原典批判法を提唱す』だ。これも興味深い鍼灸界にとっては歴史的原稿といってもいいだろう。
まず柳谷は<鍼灸医学の基礎であり、深き伝統と因縁を有する経穴学に対し、これが実在性と効用性に対し、疑惑と不信の念を持って眺める向きは現代鍼灸家にありて決して少なくはない>という。
当時は、“経穴は実在しない。物理的刺激療法である”との批判は、鍼灸家内部にもあったのだ。
<経絡治療には、文献によって異説紛々あり、同一穴においても甲説に拠るべきか、乙説を拠るべきか迷わざるを得ぬが……それが経穴はないという理由にはならない>として、柳谷の文体は、相手の主張を一部認めることから始まる論法をとっている。結論からいうと<(私は)一部盲信者に見るが如き、何でもかんでも経絡、経穴がある書に記載されているがごとく、絶対寸分違わぬものだと盲信しているわけではない。……真に治効ある穴の闡明(せんめい)、確定を熱望するがゆえに原典批判的方法論的立場より、これを整理し按配し、これにある系統を与えて、実験と実地の篩(ふるい)にかけ真実性を把握する道しるべと念願している……>
柳谷の文体は、当時の東洋医学の復興を試みる他の論稿にありがちな、強引さも感情に走った破綻もない。他の論稿と比較しても冷静さが際立っている。
<古典聖籍は久しき伝来を経るがゆえに錯簡、闕語、前後転倒、文意難渋等決して少なくはない。ことに幾版を経たるものに至っては、筆写誤入等相当多きをあげることができる>
とかく、東洋医学信奉者はある古典をバイブルの如く信奉しがちだが、それが写本であったり、注釈や加えたり、簡略化している場合がある。だからこそ、原典を批判的に読む必要であり、科学的実験や実践によって証明していく必要がある――という主張だ。
柳谷は、三焦にある天牖(てんゆう)穴について、実に15の古典籍をあげ、考証を加え、備考として明治以降から昭和初期までの鍼灸家7人の見解も加えて、具体的な<原典批判法>を試みている。
鍼灸の実践家、教育者、弟子に慕われた柳谷の個性も創刊号から伺え、柳谷を取り巻く人たちが起こしたその後の鍼灸界に及ぼした影響も予感させるものがある。
駒井の創刊した『実験鍼灸医学誌』の波及はそれだけではなかった。本題はこれからだ。担当教授の石川日出鶴丸をも刺激して、そのことは終戦直後鍼灸存続に重要な意味をもっている。舌鋒鋭い鍼灸界傑出の文筆家排出にも貢献している。これには駒井がなぜ医学部を出て鍼灸の普及発展に捧げたのから紐解く必要がある。


(鍼灸ジャーナル 近代鍼灸史8)
月刊『東邦医学』を私財を投じて出し続けた駒井一雄
鍼灸治療を軸に東西医学の融合の展望の夢を託す

 昭和9年、京都帝国大学医学部で鍼灸をテーマに医学博士号を取得した駒井一雄は、『実験鍼灸医学誌』を創刊し、鍼灸家や医家の鍼灸の学術論稿や主張を発表する場となった。ところが、その雑誌は2年半後に雑誌名の『東邦医学』と改題した。なぜ……。文中敬称略
 
●1週間の集中鍼灸講習会も開催
鍼灸界の初の試みが成功
駒井一雄(明治31年~昭和57年)が昭和9年8月に創刊された『実験鍼灸医学誌』は、昭和11年からは様相を一変、雑誌名を『東邦医学』とした。
昭和16年には、物資の節約を名目に各雑誌の統廃合が政府から強制されるが、その後も『東邦医学』は単独で出し続け、戦況が最悪となって出版不能となった昭和19年3月まで続いた。
現在『東邦医学』の全号に目を通すことが可能なのは、昭和54年に復刻版(出版科学総合研究所・現在絶版)が出されたからだ。 (注・『実験鍼灸医学誌』はオリエント出版から復刻版が刊行されている)
『実験鍼灸医学誌』の昭和10年8月号には、その予告に相当する駒井の論稿が記されている。
昭和10年8月、駒井の設立した鍼灸の研究団体の『経穴治方学会』は、毎月の定例会を催していたが、この年の夏に大阪市で1週間にわたる講習会を開き、鍼灸界に大反響をもたらしていた。数日に及ぶ講習会は、他の鍼灸団体でも開催していたが、主たる目的は鍼灸や按摩・マッサージの資格試験の受験生向けのものだった。参加者は鍼灸師だけでなく医学者や医師で漢方医学を志す者などこれまでにない広範な層から参加していた。
その直後に筆を執ったのであろう、昭和10年8月号『実験鍼灸医学誌』の巻頭辞にはこうある。
<余(私)は、純学問的立場を堅持しつつ、鍼灸術の近代医学への参入を期し、一般医家へこの学に対する認識を深めんがために行動をしてきた。ここにおいて余は、決然として日本の治療医学改善の目的よりも、温故知新的意味よりも、固有の日本医学との融合統一を期して、世の識者、特に一般開業医、新進医学者等にわれらの理想を述べるべき別途の方策を講ずべき必要に迫られていることを感知した。近々に『東邦医学公論』を刊行し実践的運動に第一指を染めん>(『実験鍼灸医学誌』昭和10年8月号)
表題は少し変更されたが、すでに『東邦医学』発刊の予告までしている。漢方を復興すべし、鍼灸術をもっと広範に――という思いが先行した主張はとかくいつの時代にもあるが、駒井は一大運動に発展させるために、これらの弊害にも細心の注意を払っていた。
<とかくこの機関(鍼灸関連雑誌)は党派的感情に支配されて、かえって重要事項を逸脱し、世の誹(そし)りを招く……余は、医家より鍼灸家へ、鍼灸家より医家への忠実なるレポーターの忠実なる任務を円滑に遂行する覚悟を有する……単に鍼灸家のみの言論機関として終始することがないことを再び声明し、あくまで側面的に鍼灸家の利益擁護に責する>(『実験鍼灸医学誌』昭和10年8月号)

●京大生理学の権威・石川日出鶴丸が全面支援
つまり、これまでの『実験鍼灸医学誌』では、表題からも鍼灸界のみに終わってしまう。漢方を独自に学んだ医師、西洋医学のみをかたくなに盲信する医師たちにも読める雑誌にしよう――ということだ。
かくして、2・26事件のひと月前の昭和11年の1月末、『東邦医学』が会員に送付された。表紙には、初めての発刊なのに第3巻1号とある。あくまで『実験鍼灸医学誌』の延長線上にあることが表紙からもうかがえる。
最初のページには、京都帝国大学医学部第二生理学教室教授の石川日出鶴丸の写真入り祝辞がある。
<今回、一般治療医学の領域から東洋伝統の医学と近世医学との統一を計る目的で東邦医学と改題し、一躍進を企画せられましたのは、これより先、私の抱懐していました理想と全く一致せるもので……>(昭和11年1月号)
石川の生理学者としての実績は、著書が当時の医学部のみならず他の学部においても生理学の教科書と採用され、全国に名が轟いていた。
石川がなぜ、鍼灸に興味を持ったか、その後の鍼灸界への貢献は次号に譲るが、単に駒井の学位論文の担当教授だったというだけでは説明がつかない鍼灸界への全面支援を行っている。

●医学教育に純日本医学=東邦医学の講座を
次のページには、駒井自身の写真と改題の挨拶がある。
<今や日本は世界のあらゆる方面に対して、独自の見解を持して勇往邁進すべき運命に逢着している。ただ軍事上のみならず社会の文化の各方面においても精進を要請されている。ここに治療医学においては、将来医育機関に純日本医学講座の新設というふうに、従来の医学者の偏見を是正せんがために『東邦医学』を発刊し、余の意志の達成に努めることになった>
これが書かれた3年前には、日本は国際連盟を脱退した。またこの年の翌年の昭和12年には日独防共協定が成立し、日中戦争に突入していく。そういった当時の日本の状況を引きながら、欧米の医学に対して、日本古来の伝統医術の普及を声高に叫ぶ。
鍼灸、漢方という言葉を使わず、明治以降に漢方医学、皇漢医学と呼ばれた医学を純日本医学と称している。これらを医育機関、つまり大学医学部や医専(当時)の講座に採用されるよう運動するというのだ。純日本医学というのは漢方医学、それを東邦医学として、表題に思いを込めたのだろう。
この号の社説には、駒井の長文の説明がある。
<今日の医人は、かつて本邦において特異なりし漢方医学を軽視して学ぶことを潔しとしない風潮はなお現存している……余らは漢方医術の特質が信憑すべき価値あるものと認めつつ、これと現代医学をいかに融合統一せしむべきか日夜肝胆を砕きつつある>と、当時の医師や行政機関への説得することも視野に入れた雑誌名の改題だったことがわかる。

●鍼灸界の向上を目指し“闘う雑誌”に変貌
続けて<鍼灸家・マッサージ家、按摩師、またいわゆる療術家等がある。これらの幾部分の人士が果たして正しき医学的知識を包蔵するか、たとえ、今日の法規において医療行為の限界を付与されているにせよ、医人と同じく人体に操作を加えて病患に癒快を与える以上、不合理な操作は生命維持に重大な支障を与える。ゆえに一部の鍼灸家諸氏には努めて正しい医学知識の体得と徹底、民衆より信頼されるべき鍼灸家たらしめ、従来から主張している理論の普遍化を図らんとするに至った>と、鍼灸界のレベルアップを図る雑誌であることも表明する。
また、<将来、世が記述する所論は、医人に酷なることもあろう、治療家の死命を制するが如き辛辣なこともあろう>と、単に学術雑誌でもなく、同好の士の機関誌でもなく、闘う雑誌を宣言する。

●経絡、経穴学の真髄を示し、和漢洋の医学を統一融合
駒井は、雑誌名改題と同時に東邦医学社を設立、以下の社是を掲げた。
1・治療医学の領域より近代医学を厳正に批判す
2・古方医学の紹介と批判ならびにこれが近代医学との相関性を論ず
3・医制および療界の現況を慎重かつ公正に論議し、これが善導を期す
4・日本経穴治方学会と緊密不離の関係を保持し前の3綱領の実現を期す
その他に東邦医学会綱領がある。<経絡、経穴学を指標とし和漢洋三医学の融合統一>
<経絡、経穴学の古典医学の真髄を明示、実験的研究を表示>などのほか、駒井の当時の夢の一端が表れている綱領を全文引用しよう
<東邦医学は現代日本の医師、鍼灸師、按摩師、療術師および国民全般にわたりて、各々の立場での参考資料の提供を求め、強固なる治療団体結成を期し、保健思想啓蒙運動に邁進せんとす。これは日本の福祉増進に寄与するのみならず、行き詰まれる世界の医学に一大功名を寄与するに至れるべければなり。しかもその中心指標は経絡の学にして、これが基準は鍼灸師におき、真摯なる奉仕によりて理想の実現を期し得べく、鍼灸師の猛省奮起を要望せんことを期す>
鍼灸界の充実による医療への貢献、国民の健康感の意識改革、世界に鍼灸情報を発信とまだまだ脆弱な基盤の上に存在している鍼灸の果てなき将来像をしっかりと描いていた。

●出せば出すほど赤字。最盛期に1600部発行
『東邦医学』は会員には無料で郵送のほかに一般にも売られていた。毎号50~80ページで値段は1冊30銭。当時のちょっとした単行本の値段は1円、ハードカバ―の本は2円前後の時代のことだ。普及しやすい値段にしていた。
ところが後年、駒井自身が当時の状況を「雑誌を1冊作るのに実際は68銭かかっていた。会費は50銭、広告も載せていたが全部無料だった。したがって売れば売るほど赤字だった」(復刻版の駒井の序文)と記している。その赤字は駒井の私財によって埋められていたのである。

●講習会記事から伺える参加者の熱意
ともかく、月1回の定例研究会、解剖見学会も駒井の母校である京都府立医大で行われ、毎年夏には、これまで通りに1週間にわたる集中講習会も開催した。
東邦医学会の第1回の講習会は、昭和11年8月4日から10日まで京都府立医大を会場に行われている。同年の9月号に講習会の記事がある。
それによると、参加者は北海道から九州まで全国におよび約80人ほどで、臨床治療鍼灸学、臨床診断学、神経生理学、病理学、細菌学の治療まである。生理学の授業では京都府立医大から京都帝国大学医学部生理学教室まで徒歩で移動した。
<帝大まで行進す。白髪の古武士の如きあり、禿げ頭の紳士あり、妙齢の美人あり、青年あり、千姿万態いずれも皆使命の天職を自覚する学徒である。不遇の天地を開拓せんとする戦士学徒の集まりである。この行進を眺めて感慨無量、あゝ尊いかな、多幸あれ戦士!学徒!>(『東邦医学』昭和11年9月号)
記録した人の鍼灸に対する熱情が先走りしているが、講習会の熱気あふれる雰囲気がうかがえる。
3日目の夕刻には、八坂神社の南門内にある老舗料亭・中村楼での講演会と懇親会だ。講師は東京から招いた沢田健、沢田流の元祖だ。(この講演の模様は・この連載の5回で詳報)
このような講習会は年1回大々的に行われ、鍼灸を学ぶ人たちにとっては格好の機会だったに違いない。

●東京の漢方復興運動とも連動。“運動”を起こす予感
時を同じくして東京では、昭和11年2月、矢数道明、大塚敬節の医家と鍼灸の柳谷素霊、薬学の清水藤太郎らが立ち上げた拓殖大学での定期的な漢方講習会が開始される。
『東邦医学』の雑誌を閲覧すると、これらの東京のメンバーも寄稿者として名を連ねている。東京に居住する元・時事新報記者の竹山晋一郎が編集を受け持つのが昭和13年9月からだが、それ以前にも関西を基盤とする雑誌とは思えないほど政治の中枢である東京を意識し、全国規模で知られた雑誌となっている。
巻頭の辞の見出しを列挙すると<新東洋医学建設と本会の使命><医術家の国家試験批判><皇漢医方の治療方針の統一に就いて><衛生国策を論ず><保健省創設決定を喜び当局に要望す><新しい経穴学を建設する運動を開始せよ>など、鍼灸界、医療界、医療政策を司る行政に“運動”を起こす意気込み感じられる。
駒井一雄の名は、現在では年輩の鍼灸家か鍼灸の歴史に興味をある人以外に知る人は少ない。しかし、駒井一雄がいなければ、現在の日本の鍼灸界の姿は一変、存在さえも危うかった――そう確信するほどの出来事もある。
私財を投じての雑誌刊行、いかなる人物で、戦後はどうしていたのか。駒井の生まれ故郷と晩年を過ごした場所を訪ねてみたくなった。(次号につづく)



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内晴明

2014年02月07日 | 鍼灸
石原克巳先生による刺針です。

内晴明(涙袋(赤い部分)と白目の間)に2cm程度刺したところです。

刺針するとき眼球が動いてしまうので難しいのですが、さすが石原先生。


近視に特に良いということでしたが、刺針後、すぐに効果を実感されたようです。



この後、眼窩鍼も実演してくださいました。

現代の人は血管が脆いのか青あざが出来やすいので、現在はほとんどなさらない
ということです。

重篤な眼科疾患で青あざが出来てもよい、、、という患者さんに限って試してみる価値
があると思います。



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最強デトックス「鼻腔鍼」

2014年01月31日 | 鍼灸
昨日の漢方公開講座は昨年度の最終回でした。
参加いただいた皆さま、ありがとうございました。

試食いただいた「当帰生姜羊肉湯」ベースのスープ

講義風景


今回は花粉症対策を含め、春先のデトックスについて話しました。

最強の組み合わせとして

断食
鼻腔鍼(Bスポット療法)

ちょうど花粉症が出始めたというHさんにモデルになっていただき鼻腔鍼を実演。



鼻腔に刺入後、メキメキッという音がし施術後はかなり出血しましたが、直後に肩こりが
とれたそうです。

断食もそうですが、この鼻腔鍼はかなり強い刺激ですから、身体としては危機を感じて
自然治癒力が発動するため、思わぬ症状が改善することがよくあるという話をしました。

鼻腔鍼を自分でするのは難しいので、代用としてアーユルヴェーダの点鼻薬アヌタイラオイル
をお土産にして予防していただくようにました。これもけっこう強烈な刺激です。

とにかく花粉症に向けては胃腸の調子を整え汚いものは排泄し、万全の体制で臨んで
いただきたいですね。


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風邪と打鍼

2013年11月28日 | 鍼灸
数年ぶりにひいた風邪がなかなか治らず(やっぱり風邪は休まないと治りませんね。。。)
最後は胃が弱ってきて気力も落ち込んだ気虚の状態になってきました。

体調が悪い時に

「自分の分身を作って肩に刺絡をして背中に散針をしたい、、、」

とよく思うのですが、今回ふと

「背中は無理だけど、自分でお腹に打鍼をしてみたらどうか?」

と思いつきました。

まずはじめに関元に金の鍉針で火曵きの鍼をしたところ、呼吸が楽になり
息が吸い込める感覚を得ました。

自分で腹診をするのもけっこう難しいものですが、夢分流の肺と胃の部分が
堅くゴリゴリとして、少し押しただけでも痛みを感じます。

この硬結にひたすら打鍼をしました。

これがはじめは難しかったのですが、慣れてきてコツが掴めてくると
見えなくてもけっこう命中するようになってきました。

強過ぎると吐き気がし、弱すぎるとかゆいところに手が届かないような
いやな感じです。しかし、調度良く命中したときの気持ちよさはなんとも
言えず、硬結が柔らかくなる度に気分がスッとしていきます。

病んで必要な時の打鍼が、これほど気持ちよく効果が大きいとは!

今回、自分で体感して驚きました。

この治療を境に胃の調子が劇的に良くなり、翌日には咳もほとんど出なくなりました。

慢性的な疾患に使用することが多かったのですが、今回自分で体感して
もっと幅広く使用できるのではないかと思いました。

この機会に、打鍼の古典など見直してみようと思います。


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不知火検校 2 「検校」について

2013年09月25日 | 鍼灸
日本には古くから盲人を守るための優れた制度がありました。
「検校」というのはその制度の中の役職名です。

第五十四代仁明天皇の皇子である人康(さねやす)親王は若くして失明。
隠遁した人康親王は自分と同じ盲人を集め、琵琶や管絃、詩歌を教えたそうです。
人康親王の死後、側に仕えていた盲人に検校と勾当の2官が与えられ、これが
「検校」と呼ばれる盲人の官位の始まりといわれています。

その後しばらく下火となってしまったこの制度が活気づいたのは江戸時代。
幕府は盲人が男性盲人の互助組織「当道座」に属することを奨励しました。
かなり自治的な運営が行なわれ、 検校の権限はしだいに大きなものとなり、
社会的にもかなり地位が高く、関東の座を取り締まる「惣録検校」になると
十五万石程度の大名と同等の権威と格式を保ちました。

江戸時代には優れた音楽家となる検校が多く、その後の音楽界大発展の大きな
原動力となりました。

生田検校(生田流箏曲の始祖)、
八橋検校(京都のお菓子「八ッ橋」は八橋検校が由来!)、
尾張藩の吉沢検校

などのように、専属の音楽家として大名に高待遇で召し抱えられる検校もいました。
また杉山和一のように鍼灸医として活躍したり、塙保喜一のように学者として名を
馳せた検校もいます。

視覚障害は世襲と関係ないため、平曲、三絃などの音楽または按摩・鍼灸の業績が認められれば
一定の期間をおいて検校まで73段に及ぶ盲官位が順次与えられました。
しかしそのためにはとても長い年月がかかり、早く取得するためお金による盲官位の売買も公認され、
当道座によって自治的に各盲官位が認定されるようになりました。

ではお金で検校になるには?
最低位から順次位階を踏んで検校になるまでには総じて719両が必要であったそうです。
1兩が現在のいくらに相当するのか?
1兩≒4万円として計算したとしても300万円近い金額です。
按摩師が貯めるには大変なことと想像できます。

そこで官位の取得に必要な金銀取得を助けるため、元禄頃から幕府は高利の金貸しを認めていました。
特に幕臣の中でも禄の薄い御家人や小身の旗本等に金を貸し付けて、暴利を得ていた検校もおり、
「不知火検校」でも富の市が按摩師の他にサイドビジネスとして旗本にお金を貸す場面があります。

私達鍼灸師の憧れの人・杉山和一も金貸しをやったのかしら?
なんだかイメージできません。。。

「不知火検校」ではお金儲けのためなら人殺しも平気でする、という按摩師の検校が主人公ですが、
清貧に甘んじてコツコツお金を貯め、悪いことを一切しないで実力のみで検校になる
正義のヒーローみたいな検校物語も作ってほしいですね。


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不知火検校(しらぬいけんぎょう)1

2013年09月24日 | 鍼灸
今月号の医道の日本「鍼灸パラダイム談義」では
武田時昌先生が盲人の按摩鍼師について書いてくださっていてとても面白い。

しかし悲しいかな、私達以下の世代は「不知火検校」「座頭市」と言われてもピンと来ないのです。
勝新太郎さんによる大人気番組で、もう一回り上の世代の方はテレビで夢中になって見ていたようですね。

そんな折、「不知火検校」が36年ぶりに松本幸四郎により復活上演、ということで
新橋演舞場に観にいってきました。
松本幸四郎さんが演じるダークヒーローの按摩鍼師・富の市。
悪の限りを尽くし、最後は師匠を殺して盲人としての最高位・検校にまで昇りつめます。

ちなみに「不知火」とは九州や四国の海の沖にゆらめいて見える蜃気楼で
人魂のように見えるものだそう。

作者の宇野信男は

「悪い人間というものは見るからに悪そうには見えないものだ。
 それどころか、見るから愛嬌のある人がびっくりするような人間であることがある。
 そういう人は平気の平左で悪いことをして、知らん顔している、
 びっくりするような悪事を働いて、ニコニコしたり、どこを風が吹くか、
 というような顔をしている...........
そんな人間を前々から書いてみたいと思っていた」

と語っていますが、富の市はまさにその通り、金のためならどんな悪事でも働きます。
そのやり方というのが人の良心を利用したものが多く、一例の師匠殺しは
まず一番優秀な弟子となって師匠の心をつかみ、その後周到な計画を立てて殺してしまいます。
良心をもたないサイコパスのような人は昔からいたのですね。
この舞台では「鍼治療のシーン=殺人シーン」で、人を助ける為の鍼を平気で殺人の手段として使います。

これでもかという悪事のオンパレードで救いのない感じですが、とうとう最後は
富の市の悪っぷりについていけず、恐ろしくなって精神的におかしくなってしまった
仲間の内部告発によって捕えられます。

捕えられて群衆から石を投げられ「人!」と言った人に見えぬ目を向け

「オレのように胆が据わっていないから、お前達は目開きのくせに悪いことの一つもできず、
 ジジイになりババアになっていくだけ。楽しみと言えば祭りをみることくらいだ。
 思えば不憫なやつらだ.....」

と憐れむように言い捨てます。

そして、共に悪事を働いてきた相棒の生首次郎に向かって

「あばよ、地獄でまってるぜ!」

と爽やかに去って行きます。
縄をかけられているのに風格が漂い、美しい姿はまさに「悪の華」。

36年前の十七世勘三郎が主演する舞台を観た大映の人が

「これはぜひ勝新太郎にやらせたい」

と強く推し、後の座頭市シリーズにつながり大スターになっていったそうです。

勝新のものも是非視てみたい。
鍼灸学校の指定DVDにして皆で鑑賞するのも面白いかもしれないですね。



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裏内庭(うらないてい)

2013年03月06日 | 鍼灸

一昨日の深夜、腹痛で目が覚めトイレに駆け込んだ私。
ベッドに戻り横になると、またすぐに便意を感じトイレに戻る、、、
そんなことを5回くらい繰り返し、これは放っておいて治る種類のものでは
ないかもしれない、、、と危機感を感じました。

まず五苓散を服用し、触っただけで痛かった腹部のツボ水分、足三里に鍼を
したあと、足裏の裏内庭にお灸をしました。

まず左の裏内庭から開始し、まったく熱くないのですえ続けたところ、35壮
にしてようやく熱さを感じました。右は最初から熱かったので2壮で終わり。

この時点で腹痛が治まり眠くなり、朝まで3時間くらい眠ることができ、翌日は通常通り
仕事をすることができました。
ただ、一夜にしてで2kg近く脱水したのでいまだに何となくだるさが残りますが。


(以下、以前「おけら」に投稿した記事)
この裏内庭、食あたりの際の特効穴です。
他にも、胃痙攣、つわり、胃の痛みの治療等によく使われます。
ツボの取り方は、足の第2指に印をつけ折り曲げて、印が足裏に当たったところです。足の甲側に胃経の内庭というツボがあり、その足裏側にあるので裏内庭という名前がついています。

 半米粒大(米粒の半分くらいの大きさ)に艾(もぐさ)をひねってお灸をします。連続して3回熱さを感じるまで、100壮でも200壮でも続けます。ちなみに壮(そう)というのはお灸の数え方。赤痢にかかった人は、600壮すえてやっと熱さを感じたそうです。

 この裏内庭には、次のようなエピソードがあります。
 かつて明治三名人のひとりと謳われた能楽の宝生流の家元・宝生九郎が寿司にあたり舞台で胃痙攣様の症状を起こしたそうです。客は気付かなかったようですが、森道伯先生は家元の異変を察し、幕間の僅かな時間に所持していた鍼で裏内庭に施術しました。その結果、発作は止み、無事に舞台をつとめたそうです。

 通常は灸をするツボですが、このような咄嗟の判断をされた森先生は臨床家の鏡です。
 先生を見習い、何も持っていない場合はタバコを近づける、楊子やペンなど尖ったもので刺激する、手で揉むのも良いと思われます。


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テイ鍼

2012年10月14日 | 鍼灸
写真は佐藤金銀店で作ってもらったテイ鍼です(テイの字は金+是です)。

「ていしん」とは霊枢・九鍼十二原第一に記載されている九鍼の1つで「刺さないハリ」。
鍼を刺されることが怖い、鍼の刺激に敏感な患者さんに対して、刺さずに治療するができます。

鍼灸学校で習うのは毫鍼(細い、刺すハリ)を使った治療がほとんどで、鍉鍼や員鍼など刺さない鍼が使われることはあまりないでしょう。
私も、石原克巳先生に師事して初めて手にしました。

鍉鍼を使って気を操作をすることにより、経絡を通じさせて気血を調えることができます。

向かって右がプラチナ、中央は金、左は銀です
実際の臨床では

     金.....補法
プラチナ、銀.....瀉法、疎通

と使い分けております。

今年は夏バテの患者さんが多かったので、頭にプラチナで施術することが多かったですね。
頭や目ががスッキリした、頭痛が治った、よく眠れた、、、等の
嬉しい御報告をたくさんいただきました。

弘法筆を選ばず、、となりたいところでもありますが、やはり良いものは良いですね。
念願のテイシンを手に入れ施術できる喜びを、日々味わっております。


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