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近代鍼灸史9~11
(鍼灸ジャーナル 近代鍼灸史9)
琵琶湖湖畔・伝統療法・墨灸の跡取りだった駒井一雄
1日に患者1000人。港までできた繁盛ぶりの痕跡
昭和初期、鍼灸で医学博士号を取り『月刊東邦医学』を私財を投じて発刊し続けた駒井一雄。一体どんな人物だったのか、滋賀県の駒井の故郷を訪ねた。
●漢方復興のオピニオン雑誌に私財投入
昭和9年に発刊した『実験鍼灸医学誌』、それを改題した『月刊東邦医学』は、昭和19年まで続き、鍼灸・漢方界のオピニオン雑誌として発刊された。漢方医学の氷河期というべき時代の希望の雑誌として位置づけられている。
この雑誌を創刊し、発刊し続けたのは駒井一雄(明治31年~昭和57年)だった。駒井自身が戦後語ったところでは、1冊30銭の値段が付けられていたが、1冊の雑誌を作るのに68銭かかり、東邦医学会会員(月あたりの会費50銭)には無料で送られていた。
続ければ続けるほど雪だるま式に赤字は増えていく、『月刊東邦医学』は営利を目的として創刊したわけではないものの、鍼灸を中心とした漢方医学の普及のために毎年私財を投じていた。『実験鍼灸医学誌』『月刊東邦医学』の雑誌のバックナンバーに目を通すと駒井の漢方医学を通した医療再生の情熱は、現在でも読む者の心を焦(こ)がすほどだ。
駒井一雄とはいかなる人物だったのか?
<代々続く“穴村の墨灸”の家に生まれ、京都府立医科大学を卒業、その後、京都帝国大学医学部第二生理学教室で、鍼灸を題材に医学博士号を取得した>と昭和9年8月の『実験鍼灸医学雑誌』創刊号には簡単に紹介してある。
鍼灸界に大きな功績を残した駒井一雄については、これまであまり語られることがなかった。駒井の漢方医学に対する熱さの原泉を現代に蘇らせてみたい。
●穴村の“もん屋”さんが屋号
駒井の故郷、穴村(滋賀県草津市穴村町)を訪ねた。草津は東海道五十三次にある宿場町、JR東海道線で京都から快速電車で20分ほどで草津駅に着く。
まず、草津市内の図書館で郷土資料を漁ってみた。
『草津市資料集5・歴史写真集』(平成8年草津市編集)には、<草津の名所>として駒井の家が紹介されている。
<穴村のもんや・明治42年ごろ>として、駒井の家の写真が掲載されている。
解説は<常盤村大字穴にあった墨灸は、県内のみならず広く京都あたりまで名をはせていた。明治42年の『滋賀県がいどぶっく』にも穴村灸の施術院として多くの人々が訪れた>とある。
郷土史家の書いた『ひぼこの里 吾名邑(あなむら)』(平成12年刊・石田市蔵著)には<琵琶湖に蒸気船“一番丸”が就航したのは明治2年といわれる。さらに明治16年2月に、大津と志那中の穴村港へ寄港するようになった。次第に利用客も増え、穴村の墨灸が栄えると共に、この港に活気を増した……>(要約)とある。
墨灸とは、艾のエキスをツボに筆などで塗る治療法で、熱さも、のちのち熱傷跡も皮膚に残らないツボ療法として、かつては幼児・子供の治療法として普及した。
土地の人は墨灸のことを紋状に跡が一時的に付くことから“もんもん”と呼び、駒井家の屋号は“穴村のもん屋さん”だった。京都や阪神地区から墨灸を受けにくる客を“きよろし”と呼ばれ、穴村港を開くほど繁盛した様子が分かった。
駒井の家の穴村町は、草津駅から5キロ北東にある。そこから琵琶湖までは2キロほどある。
●明治期の様子を記した絵が待合室に
現在、駒井一雄の孫にあたる方が診療所を開設(医療法人社団あなむら診療所・駒井厚彦院長)し地域医療に従事している。
看板は内科・小児科・消化器家を標榜し、塀を巡らした敷地、庭の大きな松にかつての面影はあるが、西洋医学を中心にした診療所のようだ。。
診察の合間の突然の訪問ながら、駒井厚彦院長は、取材に応じてくれた。
待合室には、鍼灸医師・駒井徳郎(駒井一雄の父)邸とあり、明治22年の資料を元に書かれた絵のようだ。
厚彦院長は「祖父のことは、この絵を見ていただければ」と撮影掲載を許可してくれた。
見ると、この絵は、昭和47年に十二代・駒井一雄自身が、地元の画人に依頼して描いてもらったものだ。
城郭を思わせる古い門には<あな灸>の看板の文字が読み取れ、庭には今でもある地を這う龍の如く手入れされた松の大木。大きな母屋から料亭や旅館を思わせる増築された当時では珍しい瓦ぶきの屋敷が見える。庭には、親子連れらしい墨灸客が何人も見える。
再び、玄関前に目をやると木製の乳母車や子供たちが団子らしき物を持って走り回っている姿がある。
玄関に待機する人力車には、大津、彦根、長浜・八日市といった滋賀県内の都市名の他に京都、大坂などの行き先を示した文字が読み取れ、その繁盛ぶりが見てとれる。
また、厚彦院長はある漢方団体の鍼灸講習会の修了証書も掲示してあったが、特に漢方を強調しているわけではない。
「私の知っている祖父は、灸の治療をやり、よく京都や大阪の方にも出かけて行ったのを覚えているぐらいです」と厚彦院長。駒井一雄は鍼灸の復興運動に情熱を傾けていた戦前の様子は、あえて語り次ぐことをしなかったのかもしれない。
前述の絵には、駒井一雄が昭和47年に記した文が挿入され<当家は穴村の墨灸と呼ばれ代々有名であった。約三百年前、印(い)岐(き)志(し)呂(ろ)神社の宮司だった駒井九郎衛門が神のお告げで伊吹のもぐさと漢方薬を使って独自の墨灸を発見し、熱くないのとよく効くので子供専門の灸として県内を始め京阪、福井、岐阜方面から多くの患者が通院した…>という文字が読み取れる。
●墨灸客のお土産・伝説の草木団子
往事を賑わいぶりを示すものは他にもある。
『あなむら診療所』の前に吉田玉栄堂という店に入ると、あな村名物の草木(そうもく)団子の陳列が見える。
パッケージには子供の顔に<あなむらのお灸にいったら、あなむら名物くし団子>とある。
店の若い婦人が応対してくれたが、戦後は串団子は作っておらず、10数年前にNHKテレビで放送されたのがきっかけで、伝統を守るべく一時注文販売に踏み切ったのだという。陳列してあるのは中身がない包装箱だという。
もう、当時を知る人は少ないが、草津市立図書館には、老人会が地元の歴史を残すべく古老たちの談話をまとめた記録『吾那邑むかしばなし』(平成8年・白寿会私家版)を発見した。その談話や前述の『ひぼこの里 吾名邑』や『くさつこぼればな史』(平成10年草津市教育委員会)などから当時の様子を再現してみよう。
<墨灸が良く効くという二日灸、二十日灸、日曜日には1日1000人を超す墨灸客が訪れた。多くは浜大津から汽船で穴村港に付き、馬車や人力車に乗れない人は、長い列になって春には蓮華草が咲く田圃道を列になって歩いた。ほとんどが幼児や子供客のために港には貸し乳母車もあった。待合室に入りきれなかった親子連れが番号札を持って、もん屋さんの庭、門前、お宮の前には待っている親子連れで溢れ、子供向けのおもちゃ屋、ラムネ、赤や黄色のニッキ水等の飲み物を売る店が軒を並べ、診療日には縁日のような賑わいだった。
中でも草木団子に醤油で味付けして炭火で焼く香ばしい匂いがあたり一面に漂い、墨灸客の胃袋をくすぐった。
草木団子は、20センチほどの竹を10本ほどの串になるように裂き、小指の先ほどの米団子を串1本に5個ずつ刺し扇状に広げたもので、200年ほど前に、お灸の後の楽しみにと地元の人が子供向けに始めたもの。
青竹の扇型は、子供たちへ末広がりの未来への願いであり、祈りを込めた。
太平洋戦争のさ中の食糧統制で草木団子が作れなくなった……
●日本医術の祖神を祀る安羅神社が
『あなむら』診療所のすぐ近くには、かつて墨灸客がくつろいだお宮がある。
安羅神社。『安羅神社由緒略記』には<日本医術の祖神・地方開発の大神>とある>。
読むと墨灸と何らかの関係がありそうだ。
祭神は、天日(あまのひ)槍(ほこの)命(みこと)。この地を“ひぼこの里”というのはこれに由来する。
天日槍命は『日本書記』などに表記されているが、4世紀ごろに朝鮮半島から新羅の国の皇子の名だ。
<天日槍命は、日本永住を決意され来帰。兎道河(宇治川)をさかのぼって、近江の国・吾名邑に辿り着き、暫く住んだ後に従者を留められ、越前・若狭を通って但馬の国に辿りついた・後年、ここに留め住みし民が天日槍命の恩徳を慕って神社を立てた>(由緒記を要約)
土地の名の穴は吾名、神社の名も現在は“やすら”と呼ばれるが、古代朝鮮の伽那(かや)の国の中の安羅(あや)・安那(あや)の土地の名に基づくものと思われる。これは吾名、穴に音は通じる。
遣唐使を派遣する以前、鉄器、農耕、仏教、医術、呪術などの多くは朝鮮半島の渡来人が半島内の戦いから逃れ日本に帰化、移り住み伝えた文化がある。
神社が創建されたとされる7世紀後半は、飛鳥からここ穴村からほど近いところに天智天皇が大津京を開いた時代でもある。現在は旧東海道、JRの駅に添って町は形成されているが、大津から海上交通を使い琵琶湖の湖畔に町は発展していたようだ。
●鍼灸術の原型・温石が社宝
<天日槍命は地方の開発の他に、こと鎮魂術をよくせられ、人々の心身の病苦を解消せられ救世済民の実をあげ人々の尊敬を受けられた>(由緒記)
医術の祖神といわれる由縁は、安羅神社の社宝として神殿に蔵している10数個の小判型の黒色の小石だ。
<この小石は京都大学理学部地質学教室の松下進教授や民俗学の有識者の調査で、付近の野洲川の源流の玄武岩と同質。黒色になっているのは、石を火にあぶり温め幹部に当てて治療したものと推定される>(由緒記要約)
温(おん)石(じゃく)。鍼灸の原型をなす医術と言われ、昔は中央アジアなどでも原始医術として盛んに行われ、中世期の温石が各地から出土している。
神社の石灯籠には<昭和13年・駒井一雄>と記したものもある。
月刊『東邦医学』の発刊し、執筆者も多彩になり、元時事新報記者・竹山晋一郎が東京支局長を引き受けた年でもある。
それにしても、このころ、診療と漢方復興のための運動をどう両立させていたのだろう。
終戦直後のGHQが“野蛮な治療”として抹殺しようとした時にどうしていたのだろう。
いまは、もうないという墨灸客でごった返した穴村の波止場跡に向かった。後方には近江富士と呼ばれる三上山、右手には優良な艾を産する伊吹山がかすかに望める。
(鍼灸ジャーナル 近代鍼灸史10)
穴村をゆく2
駒井の墨灸客で作られた穴村港の跡を訪ねる
大衆向けお灸の啓蒙書や専門家向け著作も
戦前月刊『東邦医学』を発刊し、鍼灸界に貢献した駒井一雄の故郷を訪ねた。古くは渡来人が住み着いた琵琶湖湖畔の集落。江戸時代に独自の“墨灸”を開発した家に生まれたのだった。
●1日1000人の施術した!?
滋賀県草津市穴村町、現在の東海道線JR草津駅から琵琶湖湖畔に向かって4キロ。田園地帯に穴村の昔ながらの家並みが見える。
昭和初期、鍼灸で医学博士号を取得し、鍼灸界に一大変革をもたらした雑誌『東邦医学』を私財持ち出しで発刊し続けた駒井一雄(明治31年~昭和57年)の自宅は、この村の中心ある鎮守の森の安羅神社のすぐ隣、小川を巡らし塀がある風情はそのままだ。
ここから琵琶湖湖畔まで歩いてみた。
“穴村の墨灸”の12代目、艾などの薬草のエキスをツボにつけていく。この子供向けのお灸を受けに京都・大阪から患者が殺到していた。
その繁盛ぶりは、前回に述べたが、二日、三日、五日、八日、二十日と“日(か)”と読む日や日曜日には特に繁盛した。1日300人。多い時に1000人を超えたという。
そんな数をどうやって施術したのか、当初は疑問だったが、モグサなどの薬草のエキスを主成分にして顔や主なツボ患者に塗るという作業だ。一列縦隊に並んでもらい、次から次へとエキス塗っていくと、それもあながち不可能な数字ではない。
対象は子供だけに村を訪れる人数はその倍以上ということになる。
それだけの人を集めると、草津駅から穴村までの鉄道の計画もあった。
<草津駅から穴村まで軌道バスを走らせる計画を立てて出願したことが昭和5年1月16日の大阪朝日新聞滋賀版に掲載されている。この穴村鉄道は実現していないので、おそらく不許可になったものと思われる。当時穴村は県内はゆうに及ばす、京都、大坂から大勢の人たちがやってきた。特に春先の葉の花や蓮華草の花の咲くころに、馬車や人力車がひっきりなしに走り続け、また多くの人たちが志那中の穴村港から長い列をなしてやってきた。道路には遠方からやってきた。大坂、京都、名古屋なナンバーの珍しいシボレーやフォードの高級車が列をなして駐車していた>(『ひぼこの里 吾名邑』より)
主な、“きよろし”(お灸の客を土地の人はそう呼んだ)は、琵琶湖お水上交通を利用し、大津から定期船に乗って志那中という場所の穴村港に着いた。
●艾の産地の伊吹山が近くに
この穴村港は昭和37年に廃止になった。現在は琵琶湖に向かう県道・栗東志那中線として整備されている。また、湖周道路のさざなみ街道やメロン街道など周囲の道路事情は一変している。
ただ、いまだ田園地帯であることは変わらず、旧道はそのまま農業用道路として穴村港から駒井の家までいまでも現存する。
琵琶湖の彼方には大津の町並みが蜃気楼のように見え、バックには比叡山。米原から岐阜方面を見やると、伊吹山の山がかすかに見える。お灸で使う最良の艾(もぐさ)は、この伊吹山で採れるという。目と鼻の先にその産地があることを思えば、駒井の先祖が江戸時代に艾を使った独自のお灸を開発したのも単なる偶然ではないのではないか。
(注・伊吹山・標高1377mその稜線は滋賀県と岐阜県県境を形成する。地質的、気候的に薬草植物の適地とされ、伊吹山にしか見られない植物が分布している。織田信長かポルトガル人宣教師から、薬草栽培の必要性を説かれ、伊吹山に薬草園を開き、外国原産の植物も持ち込まれた。お灸の原材料の艾は、伊吹艾といわれて良品とされる>
旧道の行き止まり、普通の民家風の建物が並ぶ、まだ琵琶湖湖畔までは100mもあり、後年埋め立てられたようだ。石垣を積んだ岩壁、切符売り場の建物は、港が廃止された後は民家となっていたが、現在では空き家でそのままの形で残っている。
●乗合馬車は、ほとんど駒井の患者たち
錆びついた飲料水のブリキ製の看板が、かろうじて売り場兼待合室であることが分かる。
岩で築いた岸壁は、そのままだが、いきなりこの場所に来たら、単に農業用水を琵琶湖から引いた貯水池としか見えない。
草津教育委員会編纂の歴史写真集と見比べて、やっとかつて港があったと思えるほどだ。ただ往時を知るポプラの枯れ木が琵琶湖からの風を受けながらしっかりと地についたままの姿で残っている。
その写真には、帽子をかぶった5、6歳の女の子、わんぱく盛りの着物を着た男の子も写っている。遠くから、駒井の診療を受けに来たのだろう。
大人の足でも港から、駒井の墨灸の“もんやさん”までには30分から40分はかかる。むずがる幼児の手を引いて歩く距離にしては長い。
人力車もあったが、台数が限られていた。そこで、昭和4年に現在ではバスに相当する乗合馬車の営業許可が出ている。
昔の写真には、この馬車が客を乗せて、走る姿が見える。港には煙を吐く蒸気船が写っている。
乗合馬車は定員が10人、計5台が船が港に着くと、“もんやさん”までピストン輸送をした。
穴村港から墨灸前の停留所まで大人15銭、往復が25銭、小人は半額で、昭和19年まで続いた。戦後は、乗合馬車が復活していない。
それは、爆発的な人気を誇った“墨灸”の賑わいが戦前ほどではなくなったことを意味する。
●休診日には馬車も出店も休業
ここで駒井の経歴書の行間を埋めてみよう。
二・二六事件があった昭和11年に『実験鍼灸医学誌』から『東邦医学』に改題した。
翌昭和12年には日中戦争が勃発し、戦争の時代に突入してゆく。『東邦医学』当初、大坂の鍼灸師が編集を担当していたが、都合で辞退し、その役目は駒井自身が行っていた時期がある。その間も月1回の発行は行われ、しかも巻頭言の他に駒井は2、3編の原稿を執筆していた。
昭和13年には国民健康保険が誕生、鍼灸師営業取締規則の改正問題が起き、国会請願などで上京することも多くなる。もちろんこの日や講習会の日は、“墨灸”は休診となるが、乗合馬車や人力車、店先の出店も同様に休日になったほどだった。
当時は上京するにしても2,3日の連続休診になるだけに、関わる商売の人たちは、“休みをあまり取らないでほしい”との要望を出したほどだったという。
●竹山晋一郎の採用。大衆向け啓蒙書も
昭和13年には、駒井は新たな二つのことに取り組んでいる。
ひとつは、駒井自身が多忙を極め、編集作業に関しては素人であることの認識のもとに、編集の専門家を探していたこと。さらに関西中心になりがちな雑誌の内容を東京支局を開設を目論でいたことである。その結果が竹山晋一郎を編集者として採用したことだった。この経緯に関しては次号に述べよう。
もうひとつは、鍼灸の大衆化に向けて新しい試みをしていることだ。婦人雑誌の月刊雑誌『主婦の友』に、お灸に関する記事を連載し、それを再構成し『素人でも出来るお灸療法』(昭和13年・主婦の友社刊)を出版している。
専門家向けには『経絡経穴学』(昭和14年・春陽堂刊、昭和51年に績文堂より復刻)と大書も刊行、『東方医学』を毎月私財を注ぎ込んで出し続け、その一方では、大衆を説得するには婦人雑誌へと、その熱い思いを実現するだけの実行力は、これまでの誰にもできなかったことでもある。またその後も出ていない。
●鍼灸医師を――そのために自覚を
当時の駒井が、鍼灸界の将来像をどう描えていたのか?
『東邦医学』のバックナンバーを閲覧すると“鍼灸医師法”という言葉が頻繁に見られる。鍼灸師を鍼灸医師として認知するよう働きかけていたことを意味する。駒井自身は京都府立医科大学を卒業し医師免許を取得し、医師の診療行為としてお灸を実施していたが、鍼灸師を“鍼灸医師”として認知することは、医師法の問題も絡みかなりハードルが高かったはずだ。
それに関しては駒井が執筆した巻頭言のタイトルをあげると<医術家の国家試験批判>(昭和11年10号、11号)、<衛生国策を論ず>(昭和12年3号) 、<臨時医専に漢方科を併置せしめよ>(昭和14年5号)と、医師資格試験や国の医療政策が西洋医学に偏り弊害を招いていることを論駁(ろんばく)している。
さらに<鍼灸家の自覚を促す>(昭和14年6号)、<鍼灸医学を正しく認識せよ>(昭和14年9号)、<(鍼灸師)試験制度について>(昭和16年4号)と、鍼灸師側のいまだ不備なる点を指摘し、各自の自覚と鍼灸の教育制度にまで触れている巻頭言がある。
注目されるのは、健康保険の法律に関してもの申している。戦前に大きな会社が設立した健康保険組合(現在の社会保険に相当)と国民健康保険法に関してのものだ。そのどちらも戦後再編成されたが、昭和36年に完成した国民皆保険制度とは趣きを異にしている。とはいえ、その中に、鍼灸術の健康保険適用を主張し運動を行っている。
細部の文章は省略するが、見事なまでの鍼灸復興、東洋医学復興の熱情溢れる論稿が並んでいる。筆が立つ鍼灸家は他にもいるが、それを自分自身の惜しみない行動、金銭的投入を考えれば、その功績は戦後あまりにかえり見られないのが不思議なことだ。
●戦況悪化で休刊。終戦時には村長に
駒井の経歴書には、<昭和19年7月・滋賀県栗太郡常盤村村長><昭和20年4月・滋賀県マッサージ師会顧問>とある。
昭和19年になると『東邦医学』はページ数も少なく、駒井の巻頭言も<決戦四年の年頭所感>(昭和19年1号)と、非常時の鍼灸師の役割として、国民の健康増進に貢献することを強調鍼灸師の在り方を説いている。3号では<日本鍼灸医術研究所の発足にあたりてその所懐>という巻頭言が掲載されている。
これは、同年7月に高野山において、日本鍼灸医術研究所を設立するという予告記事だ。
しかし、昭和19年の3号を最後に『東邦医学』は出ていない。戦況悪化で発行不能になったのだ。各地で米軍の爆撃が本格化し、交通網は遮断、活動自体も不可能になった。
駒井は地元に帰り、穴村一体を包括する常盤村の村長に就任したのだった。
墨灸客でごった返した穴村の港も様相が一変した。1枚の穴村港を示す写真がある。
出征兵士を見送る人が、幟を立てて見送っている。このころになると、墨灸に訪れる乗船客はなく、こんな光景が毎日続いたのだろう。
<千人針を懐に赤タスキをかけた出征の若者が汽船に乗ると、赤、黄、緑のテープが交差して、万歳万歳と叫び、船は波を切って沖へ沖へと進んでいくと、帰りはえもいわれるわびしいものでした>(『くさつこぼればな史』より。古老の回想談から要約)
小学校の校庭ではバケツリレーの防火訓練、竹槍での訓練が続けられ、戦地にいる兵隊たちへの慰問袋つくりが行われていた。村長である駒井は、出征兵士の見送りの先頭に立ち、在郷軍人や婦人会などの訓練の責任者でもあった。駒井に限らず当時の自治体の長は、そういう立場にあった。
戦後、駒井は、なぜか鍼灸の全国運動から身を引いている。ただ駒井の採用した『東邦医学』の編集要員竹山晋一郎は大化けし鍼灸界に貢献、さらに駒井の師匠である石川日出鶴丸もGHQと対峙して鍼灸界に尽力している。次号で触れるこれらもまた駒井が残した間接的な功績でもある。
(鍼灸ジャーナル 近代鍼灸史11)
戦前の鍼灸界に『東邦医学』という雑誌を私財を投じて出し続けた駒井一雄。その雑誌を開くと駒井の熱く語る肉声が聞こえる――文中敬称略
『日本鍼灸医術研究所』設立を報じる最終号
戦後は鍼灸復興活動をしなかった謎?
●半生は『東邦医学』で辿れるが……
駒井一雄(明治31年~昭和57年 )の人生の足跡を辿るには、昭和9年の夏に創刊した『実験鍼灸医学誌』(オリエント出版の復刻版を参照)と、その3年目にあたる昭和11年から『東邦医学』(出版科学研究所の復刻版を参照)のバックナンバーを閲覧することで、現在でもある程度は可能だ。
ただ、戦況悪化で発行が中止、それ以降の人生は活字からは、伺い知る情報が限られる。
かつて穴村の“墨灸”として繁盛した滋賀県草津市穴村町には、門構えや庭の樹齢数百年は越える龍が昇るが如く息づく松の木がそのままに、現在“あなむら診療所”(孫に当たる駒井厚彦院長)がある。
「祖父のことは、鍼灸界の古い方の方が詳しいでしょう。晩年まで京都のお寺などにいっても診療はしていたようです。何かの表彰を受けてことや優しい祖父ぐらいしか……」と、戦後生まれの厚彦院長は、祖父の鍼灸界に残した大きな功績は、直接は知らない。
全精力を鍼灸の復興と普及の全国運動を展開した駒井の戦前に交流のあった人たちが鬼籍に入っている以上、その姿を私財を投じて発刊し続けた『東邦医学』に語ってもらうしかない。
●自宅に集合し琵琶湖湖上の懇談会も
『東邦医学』には、昭和16年ごろまでは巻頭にモノクロ写真で構成されたページがあり、会員の活動の様子が読み取れる。
昭和14年には琵琶湖湖上懇談会なるものを催し、総勢10数名の鍼灸家が駒井の自宅の穴村の“もんやさん”に集合。その庭で記念撮影をした。
周辺都市から押し寄せる駒井の患者たちが乗る乗合馬車に乗って穴村港まで行き、そこで船を貸切り、宴会を催した写真がある。
また自宅書斎で、原稿の執筆をする駒井の姿を映した貴重な写真も掲載されている。
駒井の巻頭言は、鋭く当時の医学界や医療制度を論じ、鍼灸学術論稿はこれまでに鍼灸が経験したことのない経穴学を学術的に追究しようとする気概に溢れている。
●熱き思いがほとばしる最終号
戦後の駒井の消息は、終戦後は滋賀県鍼灸師会会長職を歴任したこと、昭和48年には鍼灸界への功労によって、勲四等瑞宝章を授与されたこと。昭和51年には読売新聞社より医療功労者賞を受賞している。確かに、そこに駒井が居たのだが、しかし、全国規模での鍼灸界を取り巻く活動に一切登場することはなかった。
ここで、『東邦医学』の最終号を検証してみよう。
昭和19年、米軍の爆撃機が日本本土を射程内にとらえ、それを迎撃し、防ぐだけの軍事力は日本にはなくなっていた時期だった。印刷する紙も不足、『東邦医学』はこの年の3号(3月末ごろ発行)を最後に事実上の終刊となる。
いま振り返ると、戦況は悲観的だったが『東邦医学』の誌面は希望に満ちていた。
巻頭言は、駒井が<日本鍼灸医術研究所の発足に当たりて所懐を述ぶ>と、鍼灸研究の新しい組織の発足について述べている。
日本鍼灸医術研究所は、前年の昭和18年12月に発足、所長は駒井一雄、副所長を竹山普民(晋一郎)が務め、本部を東京都豊島区椎名町の東邦医学東京支社に置いている。
雑誌に掲載された設立趣旨には<後世方医学の全面研究と共に、鍼灸古典を再検討して鍼灸医術本来の姿を探求再現して実際の臨床に役立たしめ、併せて近代医学のとの連携に於いて合理化を図り、来るべき医術として、最も古きものを最も新しく生かさんとするものである。しかも文献的研究にを避け、あくまでも実際的臨床に役立つものたらしめんとする…>とある。
●柳谷素霊、岡部素道、井上恵理、本間祥白、小野文恵、間中善雄……伝説の鍼灸家たちが
駒井の巻頭言から要約すると<古典を現代医療に生かすために経絡研究と鍼灸家への教育>、<広く応用し、国民に健康に寄与>の二つの大きな目的があった。
その発会式ならびに記念講演会は昭和19年2月11日、紀元節の日に東京の神田・駿河台の東京医師会館で行われた。本来、ここにいるべき人の中にはすでに召集令状をもらい戦地にいたものも少なくない。
ただ、出席者は当時の厚生省衛生局の業務課長、医務課員のほかに、鍼灸家では名前のみ列挙すると柳谷素霊、城一格、本間祥白、岡部素道、井上恵理、小野文恵……。医師資格を持ったものでは駒井の他に石野信安、矢数有道、間中善雄…らの名前が並び参加者は約200名。
宣誓書は本間祥白が読み上げた。
<……明治以後わが国における鍼灸医術は、近代医学の影響下にかえって臨床的には無価値に等しいものとされるに至った。ここに古典を再検討し、その古典を明らかにし、鍼灸術本来の姿に還すと共に臨床的にも役立つよものたらしむるべく研究を行う。同時に鍼灸家の再教育を行い、時局下、健民、健兵の国家的要請に応えんとす。不肖、われら研究員たる光栄に浴し、研究所の趣旨に従い、その目的達成に協力邁進せんとす。ここに宣誓す>と、壇上に掲げた日の丸に誓った。
当時、漢方の古典にある経絡の習得、会員の各々の地元において、工場や住民に対しての鍼灸治療の奉仕活動が実施されていたが、それをより充実させた活動にするための組織だった。
この時期になると遠く中国や朝鮮半島にまで足を伸ばし、戦地の軍人に対しての鍼灸の施術の奉仕活動など、戦争の勝利に向けての鍼灸の社会的貢献に向けての奉仕活動も盛んに行われていた。
●駒井が所長だが東京中心の組織
これまでの鍼灸の学術研究やその普及といった東邦医学社の発展的解消ではなく、より古典の経絡の習得を明確にし、かつ臨床重視の鍼灸を明確にした日本鍼灸医術研究所と別団体を意味した。両者のトップは駒井で会員は駒井以外は東京に集中し、柳谷素霊、竹山晋一郎を中心にした鍼灸は“古典に還れ”を旗印にしたものだった。
設立記念会の駒井の挨拶の中では、これまで毎年・大坂や京都において1週間にわたる合宿研修を行っていたが、昭和19年の夏は奈良高野山で行うと発表した。
その駒井の言葉を引用してみよう。
<今年は、仏教の聖地高野山において東邦医学と日本鍼灸医術研究所の合同の錬成の場として、鍼灸医術をして新日本医学の建設を具現化すべく、猛然と起(た)って運動を展開せんとする所存である……従来の如く浅薄なる講習気分で明日の開業のための役立たせようというケチな方々の受講を謝絶し、真の鍼灸医術の飛躍に向かって身を持って協力しうる士を待つ切なるものがある>
●時局悪化、紙が配給されず…終刊
当時の公刊雑誌は、政府の統制のもとに行われ、昭和16年には類似雑誌の統廃合が指示され、紙はすべて配給によって賄われていた。そんな中でも『東邦医学』は統廃合を免れ、単独で出し続けていた。
ところがこの昭和19年の春になると、公刊雑誌を発行するための紙の配給がままならなかったために印刷できなかったのだ。おそらく印刷されなかった昭和19年4月発行予定の原稿は用意されていたはずだった。以後、物資供給は終戦まで好転することはなく、事実上の自然廃刊となった。
日本鍼灸医術研究所という新しい組織は発会して、会員の意気は揚がったが、この時期から米軍の日本本土爆撃が始まっている。
東京在住者は地方への疎開がはじまり、鉄道網も寸断され移動もままならない。食べるものさえない時代が続くことになる。
●村長を務め一時公職追放の時期も
駒井自身も昭和19年7月には郷里の滋賀県栗太郡常盤村の村長に就任、これまで各地で鍼灸の講演や工場などの施術慰問は控え、郷里で墨灸の診療を行うとともに、村政に尽くすことになる。
この年の夏の高野山での夏期講習会は、実施はされたかどうかは確認できない。ただ、行われたにしても、時局を冷静に判断すれば参加人数も限られ、設立記念大会に描いた盛り上がりがあったかどうか……。
駒井の村長就任は、ある意味では、全国の地方の市町村長がそうであったように、地元の民間人、在郷軍人を組織して本土決戦に備える立場にあった。また、その村で出征兵士を見送る最高責任者でもあった。
おそらく、駒井の自宅に近くにある、かつて鍼灸の原型のひとつである古い温(おん)石(じゃく)が社宝である安羅(やすら)神社(この連載の10参照)にお参りして、穴村港から出征する若者たちを何度も見送ったはずだ。
やがて戦争が終わると、これも全国のどこの市町村長がそうであったように一時的な公職追放が待っていた……。
その後、駒井は墨灸の診療を行う一鍼灸家として琵琶湖湖畔の故郷穴村で過ごし、出張診療してもせいぜい京都あたりまでだった。
そして、かつての鍼灸医術を日本の新医学として認知せしめる――と情熱を燃やした時の同志たちと自ら積極的に交流を持とうとした形跡が全くない。かろうじて、駒井を師と仰ぐ人たちが『東邦医学』の復刻版や自らの著書『経絡経穴学』の復刻版の出版に際して、穴村を訪れると、懐かしく懇談したという話があるだけだ。
●師匠・石川日出鶴丸がGHQと対峙
その一方、終戦直後も積極的に鍼灸界の発展に大きな意味を持つ、駒井ゆかりの二人の人物に触れておこう。
一人は、駒井自身が京都府立医科大を卒業後、京都帝国大学医学部の第2生理学教室に入局、昭和9年に<鍼灸の実験的研究>という論文で医学博士号を取得した時の指導教授である石川日出鶴丸(明治11年~昭和22年)だ。
石川は、駒井が活動を開始してから、顧問格として駒井を支え続けた。京都帝国大学を退官後は、三重県立医科大学の校長に就任し鍼灸診療と鍼灸の研究団体を設立している。
終戦後、日本を占領したGHQは、鍼灸を廃止せよ――指示を出したことがある。この際にGHQに対して鍼灸の効果や医学的な有効性に対して事情説明したのが石川だった。
もう一人は、竹山晋一郎(明治33年~昭和44年)だ。前述の日本鍼灸術研究所の設立は、この竹山主導で行われ、戦後はこの竹山が東京地区の鍼灸家をとりまとめ指導的立場で活躍した。
●元新聞記者・竹山、経絡治療の旗振り役
竹山は、元新聞記者で、『東邦医学』の編集を昭和13年から担当することになる。さらに自ら鍼灸師の資格も取得して、柳谷素霊らとともに経絡治療の旗振り役となっていくと同時に多くの鍼灸家を育てていった。
竹山と駒井との出会いがなかったら、これらの弟子たちも様相も変化し、鍼灸の普及も全く違ったものになっていたはずだ。
また、竹山も戦後の鍼灸が再び抹殺されかかったGHQの占領下に奔走していた。
駒井が鍼灸界に残したものは、この石川と竹山らが行ったGHQ占領下の鍼灸復活の経緯もまたそうなのである。(以下次号)
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