アールグレイ日和

春畑 茜(短歌人+里俳句会)のつれづれ。
降っても晴れても、そこにサッカーはある。

矢嶋博士さんの歌を読む①(題詠マラソン2005より)

2005年03月24日 14時24分29秒 | 短歌あれこれ
題詠マラソン2005に矢嶋博士さんが復帰したそうだ。
途中棄権しようが復帰しようが、それは参加者個々の自由であり、一歌人として矢嶋さんがまた題詠マラソン上に完走まで歌い続けること自体、それはそれでよいのではないかと思う。おそらく復帰するのに(ご本人は言わないだろうけれど)多少の躊躇いはあったはずである。途中棄権するよりも復帰する方が何倍も勇気がいることだと思う。

ただ、今回のことがほかの参加者に思わぬ波紋を呼び、ちょっとした騒ぎになってしまっていることに関して、同じ短歌人の仲間として、また題詠マラソン参加者として、心が痛む。
題詠マラソンのスタッフの皆様には申し訳なく思う。


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さて、矢嶋博士さんの題詠マラソンBBS(給水所)での発言、

> 正々堂々と、私の短歌のアキレス腱を「ぶったぎる」論を待ちます。息の根をとめてみよ。短歌論として、構造、響き、律、の総合ろんとして。ですね。
[2005年3月23日、NO.3431]

を受けて、僭越ながら矢嶋さんの題詠マラソン投稿歌について、少々雑感を書く。無論わたしは矢嶋さんを「ぶった斬り」たいわけではないし、無用な論争をしたいわけでもないので、その点はご容赦願いたい。きちんと読んで、思ったところを書く。ただそれだけである。

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[758] 004:淡 矢嶋博士 2005年03月01日 (火)

大阪市東淀川区 にわがかへる春くるべしや もはや桃の節句空しく この年もむなしく過ぐす そんなことはありかつましじ

淡路なるこころ弱りし妻をおきてふたりごをおきておまへは何をしてゐる 


→この詞書だけで一首が作れる内容である。はっきり言ってこの様な作り方はもったいないし、むしろ詞書の内容に読者は引きずられてしまい、肝心の歌の方がちょっともの足りなく感じられてしまう(残念である)。淡路という地名には独特の匂いがあっていい。でもなぜ「淡路なる」の「なる」なのか・・・。「淡路にしこころ弱れる妻をおき~」としたほうが韻律がよくなるし、意味もわかりやすくなるのではないかと思う。「おきて」の繰り返しもこの歌では果たして成功しているのだろうか。字余りも気になる。しかし、大阪に離れて暮らす妻子を思う歌がせつなく(まるで防人の歌のようであり)、矢嶋博士とは、時々過激な発言をするのに、こころやさしいひとなのだとこの歌を読んで思った。


[745] 002:色 矢嶋博士 2005年03月01日 (火)

十時間勤務をはるは 二十五時にして凍る道を 三月の道にい寝られずば 昼を来し道をかへらな

自販機の真夜(まよ)白色のひかりのぼり凝る白桃の花の下ゆ来ぬ


→この歌も字余りが多い。意図的にしているのかと思うが、どうも調べが散漫になってしまう。自販機の白色のひかりと、白桃と、一首の中に「白」がふたつもあって、うるさく感じられるところが惜しい。白桃にこだわる気持ちがあるかもしれないが(「は行音」のひびきをたいせつにしたいのだろう)。動詞も「のぼり」「凝る」「来ぬ」と3つあって印象が散漫になる。なにを一番描きたいのか、自販機のひかりなのか、そのあたり、この歌の場合は構図がいまひとつ決まっていない気がする。つまり、この歌もよい素材でありながら、その歌い方がもったいないと思う。細やかな眼を持っているのに、とてもとても、もったいない。


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時間があれば、また続編をいつか書きたいと思う(<あくまでも予定)。


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明日はイラン戦。けがから復帰した小野が見られる(はず?)。
ひさしぶりだ。
テンションが上がりすぎて、名古屋の気温を上げてしまうかもしれない・・・。