アールグレイ日和

春畑 茜(短歌人+里俳句会)のつれづれ。
降っても晴れても、そこにサッカーはある。

魚類図鑑

2006年12月20日 12時45分06秒 | 短歌あれこれ
昨日、我が家に『中部の河川魚類図鑑』というA4サイズ厚さ1.6cmほどの本がやってきた。
あまりにレアな本なので、図書館などに配布されているかどうかはわからないが、
たとえば「ホトケドジョウ」が、中部の河川の菊川、鈴鹿川、矢作川で
生息が確認された(<河川水辺の国勢調査による)ことや、
「ホトケドジョウ」といっても中部の地方によっては呼び名が異なり、
カンナメ、ミナクチドジョウ、アカツバラ(静岡県)、
ダルマドジョウ、カンスケドショウ、ホットケドジョウ(岐阜県)、
オカメドジョウ(長野県)、といった別の呼び名もあることなどが掲載されていて、
なんとなく眺めているだけでも時間を忘れてしまうような本である。


・をさなごのひらく『日本の魚図鑑』何処にも行けぬ眼の数多見ゆ (春畑 茜『きつね日和』)




*
今年もサッカー「トヨタ杯」はつつがなく日程を終了した。
準決勝ではあんなにも生き生きとたのしいサッカーを展開していたバルサ(FCバルセロナ)が、
決勝戦では、いくつかの見せ場がありながらも、
後半半ばすぎ、ほんの一瞬のカウンターにあえなく撃沈してしまった。
何も言うまい。サッカーとはそういうものだ。




イタリア代表DFカンナバロが、今年の「欧州年間最優秀選手(バロンドール)」および
「FIFA年間最優秀選手」に選ばれた。
すばらしい守備の選手にまっとうな評価が与えられたことが何よりもうれしい。



*
「短歌ヴァーサス 第10号」に作品「みなづき」15首が掲載されている。
この号の特集は「井辻朱美の宇宙」。
小池光さんの作品「津軽」30首も掲載されている。
そろそろ書店に並ぶ頃だと思う。




*
(けふの即詠/十二月二十日)

・五歳児のレゴ・ブロックの家の窓花眺めゐる〈母さん〉がゐる  (春畑 茜)





*
(画像は「写真KAN公式サイト」さんよりお借りしました)





十二月十五日

2006年12月15日 12時41分48秒 | 短歌あれこれ
気がつくともう十二月半ばになっていた。
上顎ガンの疑いで入院した義父は、検査の結果「悪性リンパ腫」とのことで、
私の実家の母と同じ病気であった。
現在は入院しながら抗がん剤の治療を受けている。
実家の母の方は自宅で療養しながら、週に数回「血液外来」に通院し、ひきつづき治療を受けている。
ふたりとも順調に治療がすすんで、新年が迎えられることを祈るしかない。

私自身は抑うつ状態がよくならないままに夏秋がすぎ、
先日から少し異なる種類の薬を処方されている。
それで劇的によくなるということでもないが。
とにかくストレスを少なくすることと休養が必要なわけだが、
幼児との生活でそれを望むのはそもそも無理なことだろう。

そんなあれこれがあって、家族とも相談の上、
3年ほど参加していた「中部短歌会」を今月退会した。
(中部短歌会の皆様にはほんとうにお世話になりました)

これからも短歌を続けてゆきたいという思いはつよく私の中にあって、
ひきつづき「短歌人」で続けてゆけたらと思っている。



*
今週はちび鯱が風邪で数日発熱していたので、
ほとんど家にこもったままだった。
今日は晴れたり曇ったりしているが、抑うつ状態の者にとって
この季節はあまりよくないのだと医師が言っていた。



クリスマスのイルミネーションなど、街はあちこちで
一時的に華やいだ雰囲気になる。
そんな中にいるとより一層孤独のようなものを感じることがある。
はじまりがあれば必ず終りがあって、終りはことさらさびしさを纏う。
生まれるときも死ぬときも
たましいというものは、結局はひとりぼっちなのである。



*
(けふの即詠/十二月十五日)

・二百年のちもしづかに雲はあれ自由が丘に平和が丘に  (春畑 茜)





*
(画像は「写真KAN公式サイト」さんよりお借りしました)

『眼鏡屋は夕ぐれのため』(佐藤弓生歌集)を読む

2006年12月08日 16時05分24秒 | 歌集・句集を読む
『眼鏡屋は夕ぐれのため』は佐藤弓生さん(かばん)の第二歌集。
平成十八年十月二十五日、角川書店発行(21世紀歌人シリーズ)。
定価1905円(税別)。

あたたかみのある綺麗な装丁の本で、
このような色合いを眺めていると
まだ自分が少女だった頃の、何かなつかしい時間へ戻ってゆくような気がしてしまう。



*

・眼鏡屋は夕ぐれのため千枚のレンズをみがく(わたしはここだ)

・水に降る雪のごとくにこなぐすりこころに受けてやがて忘れぬ

・通過・通過・通過電車が連れてくる春はるかなるみどりの火種

・雨はなぜしずくのかたちはらはらと春のあなたをうつくしくする

・ひどい雨 おおひどい雨 ましろなる瞑目をいま街はよろこぶ

・ふうらりと焼きたてパンの列につく明日という日もあるものとして

・ヘンゼルとグレーテルだね 段ボールだらけの春の闇にねむれば

・アッシジの聖者というは第三の性の声もつ者か小鳥よ

・敷石のあいだあいだのハルジョオンなにかがもっとよくなるように

・むらさきの雲が窓まで下りてきておそろし春の祭典おそろし

・ふれられぬはだれゆきふる城はありワインボトルのラベルの奥に

・窓を開け放てば冬がなだれきてわたしの耳は大空の耳



佐藤弓生さんの歌は、時に予言のようでもあり、また祈りのようでもある。
何かそのようなものを感じさせる作品に多く惹かれた。
歌集中に出てくる「わたし」はごくふつうの日常を生きるどこにでもありそうなヒトでしかないのだけれど、
つねに広い世界へ、宇宙へ、そしてそれを超える大きなものへ
つながっているように思える。
その広がりが佐藤弓生作品の魅力のひとつでもある。


・舌の上を詩篇ひとひら泳ぎだす未知の都のあかりの方へ

・真夜中の豆電球のこんこんとこの世の泉この世にひとり

・うつせみがきょうもたくさんハンガーにわたしを脱いだわたしを掛ける

・どんなにかさびしい白い指先で置きたまいしか地球に富士を

・吊革にあたまつければものすごい速さで離れゆくものばかり

・ゆっくりとミシンを漕げばゆっくりと銀のお告げが滴りおちる

・袖口であつあつの鍋つかみざまいのちのはてへはこぶ湯豆腐



*

この本が多くのよき読者に恵まれますように。


街路樹

2006年12月04日 21時36分18秒 | つれづれ
今日はときどき時雨の降る寒い一日だった。

地下鉄の駅から地上に出て歩き始めると、
寒風のさきに立つ街路樹の枝ぶりが妙に寒いことに気づく。
その数十メートル先に
今まさに街路樹剪定作業中の車と作業員の方々がおられた。

交通量の多い道路につづく唐楓(トウカエデ)の並木は
葉が色づくゆとりもないままに
そのゆたかな枝葉を
つぎつぎに失っていった。

歩道にはその唐楓の3浅烈の葉がまだ緑のまま
ところどころに散らばっていて、
日没間近のその道を帰りながら
なにか泣きたいような気持ちになってしまった。


抗がん剤によって髪などをすべて失ってしまった母の現在も
そして、
病むまではとても美しかった母であったことも
わたしには
この街路樹の運命とどこか重なるように思われたのだった。





*
(けふの即詠/十二月四日)

・日の暮れに立つ街路樹よ枝も葉も伐らるるままに失ひゆけり  (春畑 茜)






*
(画像は「写真KAN公式サイト」さんよりお借りしました)