中国では古くから牡丹を愛でており、
日本でも後世に盛んにみられる牡丹の花と色。
鮮やかな印象の色です。
しかし、源氏物語にはかさねにしろ、花にしろ、
同系色の蘇芳や葡萄色、紅梅などの色は出てくるのに、
牡丹(ぼたん)という言葉が出てこないように思いました。
とても不思議に思っていたので、
「古典植物誌知っ得」や「日本の色辞典」他で調べてみました。
紫式部の時代に、牡丹ははたして渡来していたのでしょうか。
中国では牡丹は古く隋代から栽培されていたようです。
根皮を漢方として使われていたのが後に花を鑑賞するようになったのは、
日本と同じです。
中国では、国花が牡丹だった時期がありました(今は梅です)
則天武皇が愛した事で、有名になり、富貴草、二十日草(花が20日で散る)
深見草などとも呼ばれます。
花期は夏。春にも咲く二期咲きの寒牡丹もあります。
白居易(701~762)の
白氏文集にも、牡丹を詠んだ詩「牡丹芳」があるそうです。
「花開花落二十日 一城之人皆若狂」
(花開き花落つ二十日、一城の人皆狂ふが若し)
牡丹は奈良時代に、日本に渡来したといわれますが、
「万葉集」には牡丹の歌はありません。
平安時代の「和漢朗詠集」(1018年)には、
美女を牡丹の花にたたえた歌があるそうですが、出典未詳。
また「菅家文草」(900年)4巻、法花寺白牡丹には
白牡丹の清浄な美しさを詠み、5巻 牡丹では俗世の庭でなく、
仙人のいる庭がふさわしいとあります。
中国では、紅色や紫色の牡丹を好み、白色は人気がなかったということです。
李白も牡丹を詠み、長恨歌でも楊貴妃を牡丹や梨・柳にたとえています。
時代から考えて、
少なくとも漢詩を読む紫式部は牡丹の言葉を知っていることになります。
驚いたことに蜻蛉日記や枕草子にも牡丹が出てくるそうです。
「蜻蛉日記」中巻 天禄2年(971年)6月
『何とも知らぬ草どもしげき中に、
牡丹草どもいと情けなげにて、花散りはてるを見るにも』
「枕草子」143段
『台の前に植ゑられたりける牡丹などのをかしきこと』
これは、「白氏文集」
秋ニ牡丹ノ叢ニ題スより
晩叢白露ノ夕、哀葉涼風ノ朝、紅艶久シク巳ニ歇(やみ)碧芳今亦銷(きゆ)をふまえ、両者とも花の終わった牡丹の姿を書きとめています。
百花の王というあでやかな花を愛でたというよりは、この漢詩の知識ですね。
牡丹は当時は花の色を愛でるほど豪華な花でなく、数も少なかったのかもしれません。
「詞花和歌集」(1151年)関白前太政大臣
『咲きしより 散り果つるまで見しほどの 花のもとにて 二十日へにけり』
源氏物語より後の詞花和歌集で
20日たったという事柄で歌が出てくるのは先ほどと同様ですが、
『紅の色ふかみ草さきぬればをしむ心もあさからぬかな』詞歌和歌集(藤原教長)と、
やっと紅の色としての牡丹が出てきます。
後世には鎧などにその色が使われ、中世には豪華な牡丹の花が盛んに描かれていますが、
紫式部の時代はまだ花を鑑賞するにはいたらないようです。
後の牡丹のかさね色は、平安末期の「満佐須計(まさすけ)装束抄」で出てきます。
今と同じ、『ぼたんは表うすき蘇芳、裏みな白し』とあり、
かさねも牡丹の種類にあわせて、あでやかな紅色になっているようです。
しかし、本当の今の色に流行するのは、
舶来の染色が取り入れられる明治以降だそうです。
実は、源氏物語では「くたに」という意味不明の植物があります。
この「くたに」を古注釈・細流抄などでは牡丹として注をつけています。
『昔覚ゆる花橘、撫子、そうび(薔薇)くたになどやうの花のくさぐさを植えて』(少女)
ここでは、夏の季節の花を並べていますが、くさぐさというからには
特に牡丹を立派な花のようにはとらえていないようです。
牡丹に似ている芍薬は草で、牡丹は木と現代では区別するのですが、
やはり当時の牡丹は今のように大きなあでやかな花の木でなかったのかもしれません。
また「くたに」これを草書のくずし字間違いで、「くたん」あるいは「ほたん」と考えるのも面白いかと思います。←原文は知りません
深見草(ふかみぐさ)
20日咲き、二期咲きの花もあるので、季節が春か夏かどちらかということで、
深いという懸け詞も使って江戸時代に
「十日づつ春と夏に咲きわけし花やどちらが色ふかみ草」などとも詠まれています。
<立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花>と後世でも
美しい女性にたとえられる牡丹ですが、
バラと同様にこの時代に日本に伝来しているのに、
その花を愛でることはなかったようです。
蘇芳や葡萄染め、紅梅、紫色、紅色が愛でられる源氏物語の時代です。