源氏物語と共に

源氏物語関連

宿木 形代(かたしろ)

2013-03-16 13:21:12 | 登場人物
楽しみな源氏講座、今回は宿木の続き
 
イメージ 3

匂宮は、夕霧の六宮と結婚して、
なかなか二条院に引き取った宇治の中の君のところへ通えない。
 
それもそのはず、
匂宮は六条院の南、紫の上の祖母がいた邸宅に住み、
夕霧は同じ六条院の花散里がいた夏の御殿に住んでいる。
落ち葉君も養女となった六宮もそこにいる。
 
重々しい身分ゆえ、
夜に出かけるとなると、はたの目や、夕霧にもすぐわかってしまう。
 
中の君は匂宮の訪れがないのをさびしく思い、
色々と後悔する。
薫が八宮の法事をすませたと阿闍梨に聞き、
ありがたく思うから、一度お話を聞きたいと手紙で伝える。
 
みちのくのゴワゴワした分厚い紙に
要件のみを書く方法で、誰に見られても怪しまれないように。
 
中の君にとって匂宮に捨てられることが、1番恐ろしいことであるから、
薫もよくわかって、そっけないほど同じようにみちのくの紙に返事を書く。
たまたま匂宮が来ていたが、手紙の内容が要件のみだったので、
ホッとする中の君であった。
 
薫も匂宮が六の宮と結婚したことを知っているから、
中の君の心中も察し、いつもよりおしゃれして中の君の所へ行った。
 
丁子染めの扇子を持ち、
今ままでは外の縁側(すのこ縁)での対面だったが、
さすがに来てもらったからにはと、中に入れ、
几帳を隔てて対面する。
1度宇治に連れて行ってくれないかと。
やはり薫の財力の援助なしには宇治でさえ、行くことができない中の君であった。
 
*丁子というのはクローブの蕾で、とても高価なもの
拙ブログ記事を参照
http://blogs.yahoo.co.jp/hana0101/25590372.html 
最近では、
ハーブのポマンダー(オレンジに丁子を突き刺し、
オールスパイスで香りをまぶしたもの)に作られるが、やはり高価である。
イメージ 2
中国では丁子は、皇帝が口にふくんで口臭をとったとさえ言われるものである。
匂宮が着たという丁子染めの着物など染色に、どんなに量が必要だったことか!
香りがするのが素晴らしいのでしょうね^^
(このあたり、香道などでも、恐ろしいぐらいの価格の蘭奢待などがあります)
 
薫は亡き大君に声まで似通っておられると、つい懐かしく
油断をしたすきに、中の君はしっかり薫に手を捕らえられ、添い寝されてしまう。
妊娠した印までわかったという事は、かなり接近したのでしょうね
さすがにそれ以上のことはなく(以前も大君と間違った時に、2人で宇治で何もなく語らった)薫は帰っていった。
 
そんな中、匂宮が訪ねてくる。中の君は嬉しくていつもよりまとわりつくが、
慎重に下着さえも着替えた中の君であったが、
匂宮はすぐに薫の移り香に気づき、中の君を疑う。
匂宮
「また人になれける袖のうつりがを
       わが身にしめてうらみつるかな」
 
しかし、何もないから中の君は身の潔白を訴える代わりに歌を詠む
 
中の君
「みなれぬる中の衣とたのみしを
       かばかりにてやかけはなれなむ」
と、うち泣きたまへるけしきの、限りなくあはれなるを・・
 
しっかり否定しつつ、
何だか可愛らしくも、あわれですね~
 
そして薫が大君の形代(かたしろ)を作りたいと言ったことで、
中の君は、つい薫に、宇治八の宮に隠し子がいたという話をする。
身分の低い母に生まれた腹違いの妹がいるが、不思議に大君に似ていると。
八宮にとって恥であるから詳しいことは知らないと語られる娘、
これがのちの浮舟である
 
形代の話からこういう展開になるのだけれど、
源氏物語は形代の話といってもよく、
非常によく考えられた登場の仕方であると指摘された。
 
光源氏は亡き母の形代に藤壺を慕い、その形代に姪になる紫の上を略奪し、
そして女三宮に興味を持ち、結婚した。
桐壺院も桐壺更衣の形代に、似ているという藤壺を入内させた。
 
紫式部は母も、姉とする人も亡くし、やはり形代を求めたのかどうかわからないけれど、
夫も3年で亡くし、世のなかを憂しと思っていた事は確かである。
 
夕霧も早くに母を亡くしているし、宇治の姫君達も母を早くに亡くしている。
 
そういう意味でも母の無い人が多い源氏物語である。
 

 
 
イメージ 1

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紫式部と清少納言

2013-03-12 15:58:44 | 紫式部
 
http://t1.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcTVE_4r6NkrRdJSm2Wwg6jhx1W1K5baZA0z7kDMFTk9YP3Q0CqR
 
 
 
山本淳子先生の講座を拝聴。
 
この題名にひかれて来た人もいて、結構満員だった。
 
紫式部が清少納言を痛烈に批判するいわゆる消息文体中心だったが、
お昼ご飯の後だったので、ついウトウトしてしまい、
自分でも驚いた失礼いたしました
 
内容はいつも通り面白い
先生は、何か舞台でもできそうなぐらい、こわ色をかえて
紫式部の清少納言批判を見事に演じきって文を読まれたのには、驚いた。
 
枕草子が悲劇の定子を、定子死後の回想の中で、
鮮やかに美しい思い出として枕草子を描き続けたため、
昔の定子のサロンは良かったと思う貴族も多数いた。
 
彰子のサロンは、お嬢様育ちの方ばかりで、
伝言もきちんと取り次げない人ばかり。
しかも、色ごとを彰子が好まないとあって
尚更男性に取り次ぐ人も少なかった。
当時は、女性が男性に顔を見せる事は恥ずかしい事であったため、
かなり下の身分の人達が下手に取り次ぐ事になってしまったから、
彰子のサロンはつまらないと、貴族の中には、そういう批判もあった。
 
また、20歳の一条天皇にとって、入内した彰子は12歳の子供。
23歳で死んだ思い人である定子の思い出は永遠である。
そんな中、枕草子が出回って、尚更思い出に涙したことであろう。
 
彰子側の人間としては、目障りな清少納言の枕草子だった。
 
しかし、紫式部と清少納言の2人が一緒に内裏にいたことはなく、
定子の死後に紫式部は彰子に仕えた。
 
道長のもくろみは彰子側に天皇をよび、無事男子出産を迎える事。
その手段としての、源氏物語で評判だった紫式部の起用は
結果的に成功だったといえる。
 
彰子は、次第に一条天皇のお好きな漢詩を紫式部から学ぶようになり、
紫式部も密かにそれをささえた。(定子は漢文の素養もあった)
 
入内してから9年、やっと彰子は、懐妊と、男子出生を得た
36時間お産で苦しみ続けた彰子は、
いつもより弱々しく寝ておられたと紫式部日記で
式部は描いている。母親のような気持ちではなかったかと。
 
清少納言は悲劇の定子の思い出を美しく描き、
紫式部は肩に、身分高い身分に生まれ、入内して男子出産という重圧を受けながらも、
それを隠し通した彰子の身
自分の悲しい身(の上)を同じ女性として共感し、同士として応援した。
 
清少納言も紫式部も自分のお仕えする主人に
心底熱い思いを持っていたといえる。
 
だからこそ、この2つの傑作女流文学が今も残ったのであろうかと。
 
4月中頃に、BSTBSで、瀬戸内寂聴氏が清少納言側、
山本淳子先生が紫式部側で擁護する番組あるそうなので、
それも楽しみにしたいと思う
 
イメージ 1
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひな祭り

2013-03-05 16:14:22 | 日記
今年のひな祭りは、姪の初節句と
実母の1周忌が重なった。

 
先日に、アメリカ在住の従姉妹も、ちょうど用事で日本に帰国した時に、
おまいりに来たので、母のお雛様を出しておいた。
これは、従姉妹のお母様が大切に保管してくれて、
再建した実家に、60年ぶりにやってきた昭和一桁のお雛様。
実家は阪神淡路震災で半壊だったため、私達のお雛様は取れなかった。

 
残念ながら、母のお雛様は、古いから傷みもあり、
五人囃子やぼんぼりなどもあきらめ、
段もないので、すべてを出すことはできなかったが、
それでも良かったと思う
 

イメージ 4



 
無事に法事も済み、
ちょっと疲れてしまったので、
娘の雛寿司はイカリの寿司セットを使って手を抜いた。
でも、まあまあ美味しかった
 
イタリアの桃のワインで乾杯!
ひな祭りケーキの代わりに芦屋のアマレーナ?のケーキを食べた。
たまたま、お誕生日の方がいて、素晴らしい美声でお店の方が
ハッピーバースデーと歌っていた。
皆さんで拍手。彼女は大感激イメージ 2
イメージ 1
千代紙の雛は
子供が小さい頃送ってくれたお菓子の箱。
 
待つ人の 居るは嬉しき 待つ人の 無きは寂しき 実家への道 
 
うまく詠めませんね~(笑) 
 
誰もいぬ 実家の庭に 花一輪 鮮やかに咲けり 昔を今に・・・
 
私達は幸せに育ったので、両親には感謝です
 
イメージ 3
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神戸北野でミニ同窓会

2013-03-02 22:46:57 | 日記
今年は喪中だったので、
学生時代の友人達が、急遽機会を設けて集まってくれた。
 
岡山、愛媛、京都、大阪他、皆さん忙しいのに
遠い所からかけつけてくれて、神戸でミニ同窓会。
 
卒業してからウン十年も会っていない友人もいて、
にぎやかに再会を楽しんだ
 
ちょうど2月は恩師・藤本一恵先生の亡くなられた月でもある。
1人は違う科だったけれど、
皆で、昔話をしつつ、そんな事もあった?と大笑いだった
 
私以外は、ウン十年経っても、
全く変わっていない所がしゃくにさわると言ったら
意地悪かしら(笑)紫式部的思考?(笑)
 
若さのひけつを教えてもらいたいもの。
それでも、やはり親の介護に色々頭を悩ます年代でもある。
北野のレシピさん、最後まで大騒ぎしたオバチャン軍団に
ご迷惑をおかけしました
お料理、とても美味しかったです☆
 
その後は、北野を散策して、教会あとのフロインドリーブでお茶
評判の美味しいクッキーを勧めて
皆はお土産として買っていた。
 
寒い中、皆さんどうもありがとう
また会いましょうね(^O^)
イメージ 1

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする