源氏物語と共に

源氏物語関連

北野天満宮の梅

2009-02-23 10:24:07 | 日記
先日、京都北野天満宮で梅を楽しんできました。


何と季節柄、本殿参拝は行列。


境内の梅と梅苑を見てきました。もう7分咲きです。


白梅よりも、紅梅が気になってしまいます。香りは何故か強く感じなかったのです?!


紅梅色の紅梅はピンク色なのか少し赤めの暗い色かなと思案してしまいましたが、
紫の上が愛した梅は何色?本当に綺麗です☆



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梅苑の入場券で、老松の御菓子とインスタント梅茶をいただけます。
天満宮前のとようけや山本で、
はじめて饅頭を買いました。お上品なお味でした。
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大丸栗原はるみさんの「ゆとりの空間」でランチ。
場所が大好きな食器売り場の前だったので
ルクルーゼのお鍋を見て楽しみました~☆
改装売りつくし中で、人も多かったです。


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時にあひて

2009-02-20 10:16:11 | 

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リーガロイヤルホテル大阪の吉岡幸雄氏の講演に参加してきました。


綺麗な色の反物やかさねの着物、染色の材料などが展示してありました。


印象的だったのは「時にあひて」という言葉でしょうか。


平安時代では微妙な四季の恩恵を受けて
その細やかな移ろい感覚をも大切にしたという事です。


それが衣装でも、「時にあひて」と良しとされます。


イギリスに講演に行かれた時にあちらの気候でしょうか、
紅葉が次の日にはあっという間に散ってしまい、すぐに冬になってしまった。
これでは、そういう感覚を理解しにくいと言われていました。


日本のように、紅葉がもう散るか、まだ散らない、やっと散った、
散った後の美しさ、その上に雪が降るという
そういう美しさを愛でる事は出来ないと。


四季に恵まれている日本では、そういう移ろいまで美しく感じる事が出来るが、
四季の少ない海外ではその細やかな感覚がわからないようとも。


たしかに菊でも移ろい菊を平安時代は愛でていましたね。


同じ紅葉のかさねでも様々なものがあるように、
最初は青色が混じり、だんだん赤くというかさね色もあります。


料理でも同じ事、日本は非常に四季を意識して
葉などのあしらいも季節にあったものが使用されますね。


そういう細やかな感覚が日本人の特権かもしれません。


春には春の色、春でも早春と中ごろでは色も違っているという事、
現代の日本人よりはるかに優れた感覚を持っていたと言われていました。
もっとも四季にあわせて衣装を着るのは、貴族の財力があっての事です。


今回、草木染めのDVDをを見せてもらい、
紅色や紫色の染めに大変労力を費やしておられる事にも驚きました。


紫草の根っこをたたいてしぼった汁は次の日には使えない。
濃い色を出すには何日もかけて朝から同じ工程で染めるそうです。


紅花も、この冷たい水の時期にすると1番美しい色が出るから、
毎日同じように水でもんで色を出し、日数をかけて濃い色に染める。
大変な労力と財源がなくては濃い色は染められません。


だから紫色や紅色は誰でも着られる色ではないのですね。
枕草子でも紫のものはすべてめでたしといっています。
源氏物語も紫ですね。


それゆえ、禁色・許し色などという色があった事にも納得しました。


それにしても、染めの材料も貴重であるという事、
紫草は武蔵野のあたりによくはえていて、それをよしとし、
税として取り立てて染色していたそうです。
刈安は、今も伊吹山からもらうそうです。


また和歌などの古典文学から、その染色の材料を探しあてるという事にも驚きました。


平安時代の衣装は実際には見られません。
正倉院や能の衣装なども参考にされるそうです。


画像は源氏物語の色より。玉鬘のいわゆる絹配りという所の衣装。
本物の反物で説明をされていました。
紫の上に源氏が選んだ紅梅の葡萄(えび)染めに今様色。
とても綺麗でした♪
桜のかさねや紅梅のかさねもありました。


1番好きな色の場面は野分だそうです。
夕霧が台風のお見舞いに秋好中宮を訪れる巻。
几帳も風で飛び、全体があらわになるなか
中宮の庭で童女達が乱れた花を手入れしている。
童女にでさえ、
時にあひて(その季節に合った)色を着せている秋好中宮の素晴らしさ。


教養というのでしょうね~


そしてこの時代は色が鮮やかであるという事もいわれていました。



ホテル内で
レクラの和の輝きという源氏物語をイメージにしたチョコレートを買って帰りました。
美味しいです^^



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紅梅

2009-02-18 17:08:23 | 
梅の開花が今年は早いように思います。


通り道で楽しみにしていた蝋梅の香りも終わり、
マンションの片隅に咲く小さな白梅がパッと目につくようになりました。
小ぶりな枝のせいか、なかなか清々しく感じます。



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そしてその近くの家の梅に似た鮮やかな赤いボケの花。
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さて、紅梅には赤とピンクがあります。


紫の上がよく着ていた紅梅はどちらの色なんでしょうか?
紅梅色は染色、織色、かさね色にみられます。


私は紅梅は染色材料では、藍の下染めと紅花をかけることから、
少し紫がかったピンク色と感じます。


紅梅のかさねは表紅裏蘇芳を使用する場合もありますので、
紅花系の明るい赤ではないように思いますが。


ちなみに紅は「くれ(呉)の藍(染色をさす)」が「くれない」となりました。


長崎盛輝氏は「日本の伝統色」で紅梅をローズピンクとされていました。
吉岡幸夫氏も「色辞典」ではピンク系です。
ピンク色の紅梅がすでにあったのでしょうか?
普通は赤色のように思いますが、
ほんのりと紫を感じさせる赤色だったのかもしれません。


これまでに色を調べてみてわかった事は、
平安時代の色彩はすべて自然界の季節・植物から取っているという事、
そしてその植物は最初は漢方の薬草として日本にやってきた事がわかりました。


万葉の古代ではいわゆる紅の赤と藍の青、原色が好まれたと、
伊原昭 平安朝の文学と色彩 中央新書 S57年
にもありましたが、
ぱっと目に入る赤色が好まれたようです。


もちろん、赤色は高貴な人しか着られないという事もあったでしょうし、
赤色であれ、紫色であれ、着ることを許されない人は
それよりも薄い色「許し色」を着た事もわかりました。
何度も色を重ねて赤や紫の濃い色を出すには労力も富も大変ですから。
一斤(いっこん)染めという色は、薄い紅花染めの色のようです。


平安時代には、素晴らしい細かな色彩感覚が生まれています。
折に合ったというのでしょうか、その季節に合った色彩感覚。
確かに、かさね一つをとっても、
見事にその植物の色を表しているように思います。


枕草子でも紅梅を3・4月に着るのはみっともないとあります。
しかし、桜に限っては
桜色に着物を染めて、花が散った後も桜を楽しむという事もありました。


「さくらいろに衣はふかくそめてきん 花のちりなん後のかたみに(古今集)」
「さけどちる花はかひなし桜色に ころもそめきて春はすぐさむ(和泉式部集)」


紫式部日記では、
彰子の皇子の五十日(いか)の祝いの席で
女房達の着物について様々な描写があります。
裳におめでたい小松原(賀の歌に詠まれる)や
白銀の州浜(すはま)に鶴などの趣向をこらしたものは素晴らしく、
そうでないものはみっともないというような表現がありました。


「・・・・少将のおもとの、これらには劣りなる白銀の箔を人々つきしろふ」


女房達がつつきあって劣っているのを笑いあったという事ですね。


袖口の色合いが良くなかった人が給仕係りになったという事も書いています。


非常に華美にも思いますし、色々と大変な世界だとも思います~


江戸時代にも着物が華美になって競い合うようになり、
禁止になったものもあると、吉屋信子「徳川の夫人たち」にあったと思います。
見えない裏地にひそかに凝った人達もあったようですが、
昔も今も女性というのは大変です。


さて、平安時代の色の感覚ですが、
先ほどの本に、手紙に添えて花の枝などを送る場合は、
同系色でまとめるのが常識だとありました。


紅梅の枝を添えるなら、同じく赤系の紙に文を書く。
これが常識だそうです。


源氏物語の近江の君は、青き色紙に撫子の枝をつけ、
反対色という事で笑われました。非常識という事ですね。


また、かさねで、「匂ひ」は同じ色系のグラディエーション。
だんだん薄く、だんだん濃くとなっていきます。


しかし、左・右に別れて何かを競う物合(ものあわせ)という遊びの場合には、
左方は赤、右方は青(緑)の反対色の衣装となります。


栄華物語では、春秋の歌合の時に、春側の女房は春の色彩の着物、
秋側は秋の色彩色、と豪華な様子が描かれているそうです。


春は紅梅・山吹・萌黄など。秋は紅葉・移ろい菊、朽葉など。
何だかちょっとクラクラしそうな豪華さです。


源氏物語の絵合の時も、左右に別れて色彩を決めていたと思います。


しかし、今と違って、いわゆる草木染めで色をあらわしているので、
意外にも実際には、すっきりした味わいなのかもしれません。どうでしょう?


季節柄、紅梅色が、とても気になります。
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もうすぐ北野天満宮の梅花祭でしょうか。
雪をかぶった紅梅になるかもしれません。
画像は「日本の伝統色」と「色辞典」より。


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昭和初期のお雛さま(追記あり)

2009-02-16 18:16:22 | 日記
源氏に関係ないのですが、季節柄ということで、
昭和初期の実家の母のお雛様です。


全部出すのはしんどいというので、お内裏様のみ出しました。


道具類がすごく細やかに作られているのですが、
今回は籠を出してきました。


箱書きに神戸の人形やさんが書いてありました。今はあるのでしょうか?


顔の様子から普通の雛人形と思います。


道具類は妹が欲しいといっていたので、お内裏様だけは私にくれるというのですが、
箱を置くスペースも考えると、ちょっと思案しています~


左・右大臣や三人官女も見てみたいのですが、
かなり虫にやられて痛んでいるかもしれません(笑)
しかし、雛祭りは、いくつになってもわくわくと楽しいですね♪


これから雛人形展もあるので、チャンスがあれば見たいと思います。




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細かい模様がついています。やりのようなものを立てる所が取れていました







イメージ 4 この人形店は今はどうなったのでしょう?
















(追記)


先日道具類や他の人形も出してみました。
もうひとつの金屏風と緋毛氈は出しませんでした。
昭和8年3月23日の新聞が、中にくるんでありました@@
たんす、長持ち、鏡台、お針箱もあります。
また遊び人形の箱の中に、舌きりすずめのおじいさんとおばあさん、
すずめの顔をした人形、子守人形などがあったのも時代を感じさせました~



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横川の僧都 源信

2009-02-16 10:56:47 | 登場人物
月1回の千年紀記念講座も最終回となりました。


今回は、
宇治十帖に出てくる横川の僧都のモデルとされる
源信(げんしん)についても学びました。


いわゆる尊いとされる往生要集を書いた源信の評判よりも、
横川の僧都ははるかに人間くさくておっちょこちょいな所があるといわれたので
ちょっと面白いからご紹介します。


源信は紫式部と同時代に生きた人で、
その住んでいた場所も源氏物語の横川の僧都と同じ設定になっています。


横川の僧都は、宇治十帖で意識のなかった浮舟を助けています。


弟子達に、尊い僧が倒れている女性を助けるなどみっともないというなか、
祈祷をして物の怪を追い払い、
正気になった浮舟を妹尼の所につれて行き、お世話をさせます。
妹尼は亡くなった娘の身代わりと思い、心を尽くします。


本当の源信は当時、比叡山の偉い僧都だったようです
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E4%BF%A1_(%E5%83%A7%E4%BE%B6)


僧都の年齢が60あまりと、宇治十帖にも書いてあり、
そこから源氏物語の書かれた時代を推測できるそうです。


一般論では、源信は非常に尊い僧。
幼い頃から賢く、
15歳にして天皇に法華を講じた素晴らしい僧だそうですが、
源氏物語の横川の僧都は、その印象とかなり違って、
滑稽なほど非常に人間くささを感じさせます。


横川の僧都は、倒れていた美しい浮舟を助け、
その後、浮舟の願い通り出家までさせます。


そして明石中宮の姫の病気を治した時に、
不思議な人を助けたと、浮舟のことを中宮に話し、
そのことから薫が浮舟が生きていた事を知る展開となります。


薫が横川の僧都に会うと、急に薫にひれ伏し、
美しい浮舟を還俗させようという気になる
僧としてはちょっと?な人になっています。


美しい人が好きなのか、浮舟を助けて出家もさせたのに、
薫の言葉にすぐに還俗もすすめるという
かなりおっちょこちょいな人にみえます。


しかし、誰も治せないからと宮中に呼ばれ
女一の宮の病気をなおしたのですから、やはり立派な僧。


同時代に生きていたのなら、式部は本人を知っていたのでしょうか?


こんな風に滑稽に横川僧都を描く事で、
紫式部はおそらく当時の浄土宗の比叡山派ではなく、
東大寺の奈良仏教を尊敬していたのではないかとも言われていました。
当時の比叡山の仏法観に冷めていたと。


残念ながら、私は仏教の事はよくわかりません~(^^ゞ


さて、源信のお母さんも立派な人という伝説ですが、
こちらの横川僧都の年老いたお母さんは、
すざましい描写で滑稽さも感じさせます。


いびきがすごいとか、
夜中にいたちのような格好で突然起きて、
側の浮舟が食われるかと恐ろしく思ったとか、
こういうすざましい描写は、
式部は生き生きとして結構上手なように思います~


横川の僧都一家の様子も、そう思えばなかなか面白いですし、
そういう説の発見を教えてもらうのも、源氏物語の楽しみかもしれません♪




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