源氏物語と共に

源氏物語関連

古典の中の植物誌 井口樹生

2009-06-26 10:55:03 | 関連本
☆「古典の中の植物誌」井口樹生 三省堂 という本を見つけました。


『古典の中に咲く花、古代人の心にそよぐ草木を、
古代学・民族学の方法をもって現代に再現する』
と書いてある通り、植物学でない視点が面白かったです♪


私は桜が好きなので桜のページに興味を持ちました。


桜の頃は疫病が流行り、稲も心配。


さくら=「さ」が「さみだれ」、「さつき」、「さおとめ」という言葉から、
稲・田の神を現し、
「くら」が「たかみくら」「いわみくら」などという言葉から、神のおり場所とするなら、
さくら=「田の神のおられる場所」という意味となるようです。


つまり桜は象徴的に稲の花のシンボル。


稲の花が熟すまでに早く散ってしまわないようにと、
桜の花が散るのを惜しむ歌が多いというのも、大変面白いと思いました。


他にも「ははきぎ」、「撫子=撫でし子」「若菜」など、
万葉集や伊勢物語の用例なども多く、源氏物語の用例も少しあります。


ちょうど今は五月雨(さみだれ)頃ですが、
宮中では忌みとされ、慎んで過ごしていたようです。


源氏物語ではその頃の有名な「雨の夜の品定め」で
光源氏は中流の女性の事を知り、その後の空蝉という女性や
夕顔という女性への展開になります。


これを書いた時点では、
まだ紫式部は彰子に仕えてなく、
あの道長邸の華やかな様子を知らなかったと思うのですが、どうでしょう?


雨の夜の品定めでは、光源氏の心にはあの方=藤壺 お一人のみと
描かれていたと思います。


☆渋谷栄一 「源氏物語の季節と物語」 新典社新書 によると、
冷泉帝が生まれたのは2月の半ば頃とあります。
そうすると、藤壺と逢ったのは前年4月半ば頃。


こういう風に色々と季節によって源氏物語を考えるのも面白いです♪


源氏物語は奥が深いです~汗;


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定子と彰子

2009-06-20 10:27:36 | その他
最近忙しくて、源氏物語から脱線しております。


やっと山本淳子先生のお話を聞くことができました。
とても感激しました♪


一条天皇の最後の辞世句、両方の解釈があるという事を
わかりやすく説明していただきました
「露の身の 草の宿りに 君をおきて
    塵(ちり)を出でぬる ことをこそ思へ 」
               (御堂関白記=みどうかんぱくき)道長

「露の身の 風の宿りに 君をおきて
   塵(ちり)を出でぬる 事ぞ悲しき 」 (権記=ごんき)藤原行成


(栄華物語)<定子辞世句>
「煙とも 雲ともならぬ 身なりとも
        草葉の露を それと眺めよ」  




一条天皇の辞世句については、本によって言葉が違っています。
栄華物語も新古今和歌集も微妙に違います。


最後は意識が朦朧としてしまい、
一時的に目を覚まされた時の歌であったから、
ハッキリと声も聞き取れなかったのでしょう。


中宮彰子もすぐ側にいて、この句を聞きました。


普通に考えると<君>とは<彰子>と思うはずです。


しかしここで行成は一条天皇の思い人・定子の辞世句が浮かび、
言葉が違っているのでしょうとのことです。
権記を書いた行成は枕草子にもよく出てくる人物です。
清少納言とも親しかったようです。


しかし、道長の肩を持つ人物だったとも。
実際に、元蔵人頭として、一条天皇が皇太子を迷った時に、
一条天皇の長男である定子の子供・敦康親王ではなく、
まだ幼い彰子の長男・敦成親王を皇太子にすることをすすめています。


権記には、「この歌のお志は皇后に寄せたものだ」(大意)と
しるしています


この<皇后>とは、定子なのかそれとも中宮である彰子をさすのか。
その後、権記の用例をすべて調べられたそうです。


結果は、やはり権記では、皇后は定子をさすのではないかということでした。
ずっと看病していた彰子が可愛そうですね~
しかしこれはあくまでも行成の考えです。


彰子は当然、<君>は自分、その意味の和歌だと思った事でしょう。
普通ならそう思いますし、実際にはこの歌の<君>の解釈はわかりません。


彰子はその後、一条天皇の死を悲しみながらも、
華美な宴会を中止させたりして立派に生きます。
子供達は天皇になり、それを見守り87歳の天寿をまっとうしました。


はじめは子供で入内した彰子も、
一条天皇の好きな漢文を紫式部から学び、
お好きな源氏物語をさしあげ、努力して8年後に子供を生み、
定子亡き後の一条天皇をささえます
(一条天皇は定子亡き後、定子の妹に手をつけるも、この人は早くに亡くなる)


彰子は一条天皇の言葉を守りました。


彰子の立派な教えを後の孫達に伝えている文献が残っています。


道長の孫の孫・藤原忠実・1230年ごろの「中外抄」によると


『天皇や摂関は慈悲の心をもって国を治めなくてはならない。
昔、祖父(道長の孫・藤原師実)は上東門院(彰子)に
「一条天皇は寒い夜にはわざと暖かい夜具を脱いでいらしゃった。
私がどうしてでしょうかとお尋ねすると、
日本国の人民が寒がっているだろうに、
私がこうして暖かく寝ているのは良心が痛むとそうおっしゃった』
ということが書かれています。


孫の孫にも伝わっている立派な考えですね。


源氏物語も枕草子も、紫式部日記も
1000年前の一条天皇の時代に生きた
定子と彰子という2人の女性の存在・生き様を
歴史に残しているとおっしゃっていました。


とても感激しました。どなたかに小説でも書いていただきたいものです。


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藤原氏

2009-06-08 08:35:35 | 関連本
☆藤原氏の系図
樋口茂子「三十六歌仙 京の歌枕」より。
(玉江さんご本の紹介をありがとうございました!)


前述の記事で藤原氏がたくさん出てきたので、この図を載せてみました。


伊勢がどこにでも出現しているのは、面白いですし、登子も色々な呼び名があります。
伊勢が仕えた温子は表記が穏子なのでしょうか?
(太字はたぶん三十六歌仙)


公任は藤原氏の本流なのに、画像が見にくくなっていますm(__)m




イメージ 1



イメージ 2


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和泉式部集 冒頭歌群

2009-06-06 09:17:39 | 関連本

いづれの宮にかおはしけむ。白河院にまろもろともにおはして
かく書きて家守(いへもり)に取らせておはしぬ。
「われが名は 花盗人と 立てば立て
        ただ一枝は 折りて帰らむ」

日ごろ見て、折りて、左衛門督の返し
「山里の 主(ぬし)に知られで 折る人は
        花をも名をも 惜しまざりけり」

とある文を付けたる花のいとおもしろきを、まるが口ずさびにうち言いし
「折る人の それなるからに あぢきなく
        見し山里の 花の香ぞする」

左衛門督の返事、また、宮せさせたまふ
「知られぬぞ かひなかりける 飽かざりし
        花に代へつる 身をば惜しまず」

又、左衛門督
「人知れぬ 心のうちを 知りぬれば
        花のあたりに 春は過ぐさむ」

一日、御文つけたりし花を見て、まるなむき言いしと人の語りければ、
かくのたまひし
「知るらめや その山里の 花の香は
        なべての袖に うつりやはする」

返し
「知られじと そこらの霞の 隔てしに
              尋ねて花の   色は見てしを」

又、左衛門督、陸奥守(みちのくかみ)の下りしころ、
それにうちそへたることとぞ見し
「今さらに 霞の閉づる 白河の
       関をしひては 尋ねべしやは」

まろ、返し
「行く春の とめまほしきに 白河の
       関も越ゆる  身ともなるかな 」 
(王朝女流歌人抄より。和歌表示に「」を私が勝手につけました)   




コメントで電池切れさんがご指摘された和泉式部集冒頭文歌群、
長いのですが、清水好子氏王朝女流歌人抄にも載っていて面白いので
載せておきます。


清水好子氏の解釈。以下抜粋。
白河院とは藤原公任(きんとう)の鴨河東岸白河の地にある別荘。
その辺りは一帯桜の名所だった。
(公任は紫式部に若紫はここにいらっしゃいますか?と尋ねた人ですね)
道長の下ながら家柄はこちらの方が上で藤氏の本流。
歴代后妃を出す名門。当代一の和漢の教養人として著名で、道長もこの人を味方につけるようにしていた。

師宮はその公任の別荘に和泉を伴った。実際は公任の留守に寄った。

「花盗人だといううわさが立つなら立ってもよい。
あまりにこの花が見事なのでせめて一枝だけでも折ってやろう」
しかし一枝は唐詩以来美女を意味、
このごろの和泉との世評に、立てば立てと、胸をはる意気込みが感じられる。

公任は何日かして宮のお手紙を見て
あらためて桜を一枝折りそれに返歌をつける。
「山里の主ー私に内緒で、花を折る方は、
美しい花をもご名誉をもものともされないのですね」

この桜の一枝があまりに見事だったので、
側の和泉式部が思わず心に浮かぶまま口づさんだ歌
「折る人が、ほのかならぬあの方ー公任さまですから、
もうむやみにこの間、宮さまと見た山里の花と同じ美しさですこと」
折る人が公任だから、この間と同じように美しいと公任を褒めたたえた歌。

公任への宮の返歌は
「あなたに私の気持ちがわかってもらえないのは残念だ。
しかし、いつまでも見飽きぬ美しい花のためには、わが身の名誉は惜しまないのです」
裏にはやはり和泉を手折ったことに寄せる気持ちがあると見たい。

公任もこれにこたえて
「誰にも分からぬ宮様のお心のうちはよく存知あげておりますから、
私もまたこの春は花のあたりで過ごしましょう」
と、下の句は桜を賞美する風雅の体で結んだ。

ところが先日の公任の返歌をつけた桜を見て、
和泉がこう詠みましたと聞かされた公任は次のようなお歌をお詠みになった。
「ご承知かな。あの私が差し上げた桜は、誰の袖にでも匂いを移したりしないのですよーあなたのように浮気ではないのですよ」

和泉はさりげなく
「知られまいといちめんに霞をこめて隔てていらした花だすけれど、
私は捜し求めて香りどころか美しい花の色も見て参りましたのよ」
宮さまとご一緒でしたからという気持ちがあろうか。

そこで公任が突っつく
「霞が立ちこめて、人の行き来を止めている白河の山荘、その名も白河の関と同じ。強いて立ち入ってもいいのでしょうか」
おりしも、前夫道貞が陸奥に下向する、その地の歌枕に掛けて、夫のことはどうだ"白河の関を尋ねる"などと言っては誤解されますよ、と触れてみる

返歌は
「行く春が惜しく、引きとめたい思いでつい白河のお邸に参ったのです」
一、二句、夫との別離を悲しむ心情が率直に歌われている。

この「いづれの宮にかおはしけむ・・・」の冒頭詞ではじまる歌群は
よほど有名だったらしく、
「公任集」にもほぼこの順序で載っている。最後の和泉の歌はなし。

(ちなみに、この歌の前に赤染衛門が大江一門として心配した歌も載せておきます)

道貞去りてのち、師宮に参りぬと聞きて、
「うつらはで しばし信田(しのだ)の 森を見よ
       かへりもぞする 葛の裏風」
返し
「秋風は すごく吹くとも 葛の葉の
       うらみ顔には 見えじとぞ思ふ」

赤染「心変わりして師宮のところへ行ったりしないで、
しばらくあの人の様子を見ていてごらんなさい。
ひょっとしたらご亭主はあなたのところへもどってくるかもしれないから」

「信田の森」は和泉の国の歌枕。和泉守である道貞を暗に指す。
葛の裏葉は、葛の葉」は風に吹かれるとひらひらと裏返り、白い葉裏が目立つので「かへりもぞする」と続け、「返り」に「帰る」が掛けられる

和泉「たとえ秋風が淋しく吹いても、あの人に飽きられても、
私は恨めしいそぶりはすまいと心に決めているのです」 




和泉式部と師宮との仲に、世間がかなり騒いでいる様子が伺えます。


もっとも、紫式部は身持ちがいけないと批評していましたが、
すらすらと口から詠んでいく才能という歌の感じも
当たっているように思います。


ところで、これからの梅雨の季節頃を描いた源氏物語「ははきぎ」の巻では、
いわゆる「雨の夜の品定め」という場面があります。
浮気な女という話。


平安時代は通い婚です。
理想の妻にはなりませんが、
女も相手が来なかったら、結構自由のように思ったりもします。


しかし、蜻蛉日記のように、
夫が来なくなったのを嘆く日記もあるので、不思議です。


身分の高い人との結婚は
女性の方がひたすらに待つ時代だったのでしょうか。


時代は和泉式部より前ですが「伊勢」もすごい人だったです。


紫式部が書いた「朧月夜」と「紫の上」の違いなども考えてしまいますが、
今も昔も女性の個人差だったのかもしれませんね。


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和泉式部

2009-06-05 08:19:18 | 関連本
清水好子 王朝女流歌人抄
なかなか面白いので、まだ借りています。


和泉式部


紫式部日記で、彼女のことを批判しているのは、皆さんもご存知でしょう。
和泉式部といふ人こそ、おもしろう書き交しける。
されど、和泉はけしからぬかたこそあれ、うちとけて文走り書きたるに、
その方の才(ざえ)ある人、はかない言葉の、にほひもみえはべるめり。
歌はいとをかしきこと。もの覚え、歌のことわり、まことの歌詠みざまにこそはべらざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの目にとまる、詠み添へはべり。
それだに、人の詠みたらむ歌、難じことわりゐたらむは、いでや、さまで心は得じ。口にいと歌の詠まるるなめりとぞ、見栄たる筋にははべるかし。はづかしげの歌詠みやとは覚えはべらず     




紫式部は和泉式部と手紙のやりとりをしていました。
けしからぬ方は身持ちの悪いことでしょう。


しかし、歌の才能はほめています。
さりげない言葉遣いに風情がある。歌は本当に上手。
口にまかせて詠んだ歌には必ず一ふし目にとまる面白いことが添えてありますが、
人の歌を批判するのはどうなんでしょう。歌をまだわかっていると思えません。自然にすらすらと歌が詠みだされる才能の人でしょう。
敬礼しなければならないほどの歌詠みとは思いません(王朝女流歌人抄より) 
さすがに紫式部、なかなかするどい批評が上手ですね。


私は和歌のことはよくわかりませんが、
恋多き人なのに、何だかすごいと思った歌
「暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月(拾遺1342)」


「物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂(たま)かとぞみる(後拾遺1162)」
貴船神社へお参りにいった時の歌。
この「あくがれいづる魂」が六条御息所との共通点と
先生がおっしゃっていました。



さて、和泉式部集の冒頭文(百首歌のすぐあとに置かれている)



いづれの宮にかおはしけむ、
白川院にまろともにおはして、かく書き手守に取らせておはしぬ

われが名は 花盗人と 立たば立て
    ただ一枝は  折りて帰らむ ・・・  




清水氏はこの冒頭文を
伊勢集「いづれの御時にかありけむ」や、源氏物語「いづれの御時にか・・」など、平安朝時代に用例の多い冒頭形式とされ、
自分のことを言い出す時の歌集などに多いとされています。


そして伊勢集が「いづれの御時にかありけむ。・・・大和に親ありける人さぶらひにけり」と出自をはっきり言い出すのにくらべて、
こちらは親のこともなく、また詞書きに「まろ」という言葉も見えるから
ごく親しい人に向かって自分自身で書いたとされていました。


そして、紫式部日記を道長の命で紫式部が自分で書いたのと同様に、
彰子につかえた和泉式部は
道長にすすめられて「和泉式部日記」を自分で書いたのだろうとも指摘されています。


冒頭の和歌は
太宰師宮敦道(あつみち)親王と藤原公任(きんとう)の屋敷へ桜を見にいったおりの師宮の歌。
花盗人とは意味深です。一枝は和泉式部のことでしょうか。
とにかく師宮の前には宮の同母兄弾正宮為尊(ためたか)親王に愛されるも
病死され、また師宮にも先立たれる(1007年)和泉式部です。
その翌年に彰子につかえます。


道長は師宮に見方して、この騒がせた2人の事件後
すぐに前夫・橘道貞を陸奥守にして遠くへやります。
破格の扱いで機嫌をとって。
夫・橘道貞との間にあの有名な「大江山・・まだ文も見ず天の橋立」の
小式部内侍を生んでいます。師宮との間にも子供がいます。


また、大江家に嫁いだ赤染衛門は
和泉式部の父・大江雅至(まさむね)と同じ大江家の一門。
和泉の妹は赤染衛門の息子に嫁いでおり、親戚にあたります。


赤染衛門は、夫・道貞と仲違いした和泉式部が
世間を騒がせて師宮の所へ行くのを、同じ大江一門として心配します。
夫が式部の元へまたもどってくるかもしれないのにという歌のやりとりがあります。なかなか面白いですね。


その良妻という評判の赤染衛門も「赤染衛門集」では夫ではなく
以前の思い人大江為基(ためもと)との歌のやりとりを多く載せているのは、自選だからでしょうか。
赤染衛門集を作った老年期になってもなお、終世忘れがたく、
為基鎮魂だったのかもしれません。


王朝時代の女性歌人達の心情・生き方が私家集を通して垣間見えます。


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