源氏物語と共に

源氏物語関連

和泉式部

2009-06-05 08:19:18 | 関連本
清水好子 王朝女流歌人抄
なかなか面白いので、まだ借りています。


和泉式部


紫式部日記で、彼女のことを批判しているのは、皆さんもご存知でしょう。
和泉式部といふ人こそ、おもしろう書き交しける。
されど、和泉はけしからぬかたこそあれ、うちとけて文走り書きたるに、
その方の才(ざえ)ある人、はかない言葉の、にほひもみえはべるめり。
歌はいとをかしきこと。もの覚え、歌のことわり、まことの歌詠みざまにこそはべらざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの目にとまる、詠み添へはべり。
それだに、人の詠みたらむ歌、難じことわりゐたらむは、いでや、さまで心は得じ。口にいと歌の詠まるるなめりとぞ、見栄たる筋にははべるかし。はづかしげの歌詠みやとは覚えはべらず     




紫式部は和泉式部と手紙のやりとりをしていました。
けしからぬ方は身持ちの悪いことでしょう。


しかし、歌の才能はほめています。
さりげない言葉遣いに風情がある。歌は本当に上手。
口にまかせて詠んだ歌には必ず一ふし目にとまる面白いことが添えてありますが、
人の歌を批判するのはどうなんでしょう。歌をまだわかっていると思えません。自然にすらすらと歌が詠みだされる才能の人でしょう。
敬礼しなければならないほどの歌詠みとは思いません(王朝女流歌人抄より) 
さすがに紫式部、なかなかするどい批評が上手ですね。


私は和歌のことはよくわかりませんが、
恋多き人なのに、何だかすごいと思った歌
「暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月(拾遺1342)」


「物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂(たま)かとぞみる(後拾遺1162)」
貴船神社へお参りにいった時の歌。
この「あくがれいづる魂」が六条御息所との共通点と
先生がおっしゃっていました。



さて、和泉式部集の冒頭文(百首歌のすぐあとに置かれている)



いづれの宮にかおはしけむ、
白川院にまろともにおはして、かく書き手守に取らせておはしぬ

われが名は 花盗人と 立たば立て
    ただ一枝は  折りて帰らむ ・・・  




清水氏はこの冒頭文を
伊勢集「いづれの御時にかありけむ」や、源氏物語「いづれの御時にか・・」など、平安朝時代に用例の多い冒頭形式とされ、
自分のことを言い出す時の歌集などに多いとされています。


そして伊勢集が「いづれの御時にかありけむ。・・・大和に親ありける人さぶらひにけり」と出自をはっきり言い出すのにくらべて、
こちらは親のこともなく、また詞書きに「まろ」という言葉も見えるから
ごく親しい人に向かって自分自身で書いたとされていました。


そして、紫式部日記を道長の命で紫式部が自分で書いたのと同様に、
彰子につかえた和泉式部は
道長にすすめられて「和泉式部日記」を自分で書いたのだろうとも指摘されています。


冒頭の和歌は
太宰師宮敦道(あつみち)親王と藤原公任(きんとう)の屋敷へ桜を見にいったおりの師宮の歌。
花盗人とは意味深です。一枝は和泉式部のことでしょうか。
とにかく師宮の前には宮の同母兄弾正宮為尊(ためたか)親王に愛されるも
病死され、また師宮にも先立たれる(1007年)和泉式部です。
その翌年に彰子につかえます。


道長は師宮に見方して、この騒がせた2人の事件後
すぐに前夫・橘道貞を陸奥守にして遠くへやります。
破格の扱いで機嫌をとって。
夫・橘道貞との間にあの有名な「大江山・・まだ文も見ず天の橋立」の
小式部内侍を生んでいます。師宮との間にも子供がいます。


また、大江家に嫁いだ赤染衛門は
和泉式部の父・大江雅至(まさむね)と同じ大江家の一門。
和泉の妹は赤染衛門の息子に嫁いでおり、親戚にあたります。


赤染衛門は、夫・道貞と仲違いした和泉式部が
世間を騒がせて師宮の所へ行くのを、同じ大江一門として心配します。
夫が式部の元へまたもどってくるかもしれないのにという歌のやりとりがあります。なかなか面白いですね。


その良妻という評判の赤染衛門も「赤染衛門集」では夫ではなく
以前の思い人大江為基(ためもと)との歌のやりとりを多く載せているのは、自選だからでしょうか。
赤染衛門集を作った老年期になってもなお、終世忘れがたく、
為基鎮魂だったのかもしれません。


王朝時代の女性歌人達の心情・生き方が私家集を通して垣間見えます。