ヨシュア記24章 神との再契約
1.イスラエルになされた神のみ業
ヨシュアは、イスラエルの全部族をシェケムに集めました。そこで再び神の民に向かって語ります。
初めにヨシュアは、イスラエルの歴史においてなされてきた神のみ業の数々を振り返っています。族長たちの召し(2節)、出エジプト(5-7節)、ヨルダン川東岸の勝利(8-10節)、ヨルダン川渡渉(11節)、そして約束の地の征服(11-13節)です。メッセージの中で繰り返し強調されるのは、これらイスラエルの勝利と成功が、一つとしてイスラエルの力によるものではないことです。「あなたがたの前にスズメバチを送ったので、スズメバチがアモリ人の二人の王をあなたがたの前から追い払った。あなたがたの剣にもよらず、またあなたがたの弓にもよらなかった。わたしは、あなたが労したのではない地と、あなたが建てたのではない町々をあなたがたに与えた。あなたがたはそこに住み、自分で植えたのではない、ぶどう畑とオリーブ畑から食べている」(13節)
スズメバチとは何でしょう。文字通りスズメバチととるべきか、一種の比ゆ的な表現と見るべきか。どうやら後者が通説のようです。つまり、イスラエルが侵入する前に、神が敵に与えた恐怖のことを語っています。また、出エジプトの早期年代説をとる場合には、これを先んじてカナン攻略を試みたエジプトのパロのことと取る説もあります。つまり、BC1411年、アメンホテプ3世はカナンに侵略し、壊滅的な打撃を与えました。そのようにカナンの地が弱められていたときに、ヨシュアとイスラエル人がエリコに侵入したと言うわけです。イスラエルのカナンの地の所有は、イスラエル人たちの力によるのではなく、神のご計画による後ろ盾があってこそ、成し遂げられた、というわけです。となればこそ、イスラエルは、まことの神のみを礼拝するように、「誠実と真実をもって主に仕えなさい」と勧められるのです(14節)。
2.神との再契約
15節からは、ヨシュアと民の対話の形式をとりながら、神と民との契約を明らかにしています。つまり、ヨシュアは、民に神への絶対的献身を促し(14-15節)、これに対して民は、これまでの神の恵みと救いを告白して、主に仕える決意を明らかにしています(16-18節)。そこでヨシュアはさらに、主の厳しさを語り、警告をし(19-21節)、これに対して民は、「いいえ。私たちは主に仕えます」と、忠誠の誓いを立て、契約を結ぶのです。
主に仕えると口で語るのは易しいものでしょう。しかし、人間の心には、罪があります。神を認めようとせず、神に背を向け、神抜きで物事を進めて行く内なる性質があります。もし、人が主に仕えると口で語るとおりの忠誠を持っていたら、こんなことは起こりえないであろうに、という現実があるものです。私たちの礼拝にも、教会生活にも、それは、明確に現わされています。信仰はことばによらず、行為、振る舞いによって明らかなものですが、私たちの現実は、自分に都合よく、自己流に主に仕え、まことに神に仕えているわけではない、と思わされることがしばしばでしょう。けれども、そうであってはならないのです。主に仕えようというのなら、私たちの日々の生活は、神の栄光を現すものとして献げられなくてはなりません。主にあって信仰の生涯を貫きとおしたことが、誰の目にも明らかなような生き方をしていく必要があります。
イスラエルは、ヨシュアの生きている間、また長老たちの生きている間主に仕えたと言います(31節)。残念なことに、イスラエルの信仰は自立的なものではなかったのです。誰かに支えられなければ続かない、そのような信仰では、主に伝えたということはできません。私たちの信仰の熱心さは、主ご自身に直接結び付き、主に動機づけられたものであることが大切なのです。では今日もよき一日となるように祈ります。
<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。神が、ヨシュア記で実現したと言っている神の約束は、どこに書かれているものでしょうか?申命記11:22、23。神がモーセを通してイスラエルの民に約束したものでした。では、今日の聖書クイズを一つ、イスラエルがエジプトから携え上ったヨセフの遺骸は、約束の地カナンのどこに葬られたでしょうか?今日もよき一日となるように祈ります。
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