まあまあ人生

70年の人生 まあまあですね

オニヤンマ

2006年08月10日 | Weblog
今朝の朝日新聞の「ひととき」欄に、岡山市の主婦が幼稚園児の息子さんの為に、雨上がりの朝、生まれたてのオニヤンマを小川のほとりで、脱皮したてばかりの見事な身体を休めていたのを、家に急いで網を取ってきて捕まえたことが載っていた。 オニヤンマは、今では街中では見ることが出来ない。山間部にいけば見ることが出来るがトンボの中で一番大きく、黒と黄色の身体で、尻尾の先が少し太くなったトンボで、私の子どもの頃は、街中でも時々飛んで来た。そんな時は、急いで家に網を取りに帰り慌ててオニヤンマを追っかけて行ったものである。 オニヤンマには一つの思い出がある。20年ほど前、能勢の歌垣に教会学校のキャンプに行った時、小学校の校庭の端のほこらに小さな水溜りあり、その前に木枠に網がはってあるもので、囲いがしてあった。何気なしに見ると、バタバタする音がしたので、よく見るとオニヤンマが飛んでいるのである。ヤゴの時に入り、羽化したものの網の囲いのため外に出ることが出来なくて、飛んでいた訳である。私は、その囲いを取ってやると、うれしそうに飛び去っていった。何か良いことをした様な気持ちを味わったことを想い出した。 . . . 本文を読む

生き生きとした木

2006年08月09日 | Weblog
台風7号は近畿をそれて、東海、関東地方に大雨を降らしたが、大阪には雨が暫く遠のき連日の猛暑で植木達は、青息吐息の様子である。勤務を終えて、帰路の途中、ふと、H警察署の前庭の植木を見ると、大きな木々はこの暑さでも元気であったが、アジサイはげんなりと萎れていて、見るからに元気がなかった。根が浅いのか、乾燥に弱いのだろう。我が家でも、植木鉢のアジサイは少し水が足らないと萎れるのを時々見た。その後、バス停の近くの交差点の傍の民家の前に、直径20センチほどの鉢に、鉢に不相応の大きな青木が目についた。普通であれば、根が鉢一杯でこの暑さでは、枯れて当然と思えるが、大きな根が鉢穴を抜けて、土中深く根を下ろしているものと思われる。雨が遠のいた昨日今日、土の浅いところは、乾燥していても深い所はまだまだ水分があるのである。だから、浅いところに根のあるアジサイはすぐに弱るが、あの小さな鉢に植わっていた青木は、深く根を下ろしているからびくともしない。 聖書「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。 時が来ると実がなり、 その葉は枯れない。 その人は、何をしても栄える。 詩篇1:3 . . . 本文を読む

平和の願い

2006年08月06日 | Weblog
今朝の新聞、テレビに広島の61回目、原爆の日を迎え、関連のニースが報じられた。体験者も少なくなり、記憶するものも少なくなった今、もう一度、深く思い、二度とあのような、悲惨なことが起こらないよう、平和の尊さ、平和の必要を固く思わされた。 教会学校の生徒に原爆の悲惨さ、平和の尊さを話したが、今の平和な時代に育った子ども達にどれ程届いただろうか。 礼拝も、牧師は平和のメッセージを語られた。主は平和の君として、この世に来られた。キリストの愛が、真実となって人々の心に平和を与えられる。最後に平和の祈りを唱和する。 主よ、わたしをあなたの平和の道具として用いてください。 憎しみのあるところに、愛を、 争いのあるところに、和解を、 分裂のあるところに、一致を、 疑いのあるところに、真実を、 絶望のあるところに、希望を、悲しみのあるところに、喜びを 暗闇のあるところに、光をもたらすことができますように、助け導いてください。 理解されるよりも、理解することを、愛されるよりも、愛することを望ませてください。 わたしたちは与えることによって与えられ、進んで赦すことによって、赦され 人のために死ぬことによって、永遠にいきることができるからです。アーメン                       聖フランシスコの祈り . . . 本文を読む

悪循環

2006年08月04日 | Weblog
今日昼前、急用が出来て、バスに乗る。予定の時間を遅れて到着する。途中で乗車料金を入れる機械が調子が悪かったようで、そのために,遅れて来たのかは分からないが、到着した時、遅れていたため、バス待ちの人が私を含めて6人待っていた。到着するや待ちわびていた客が一人、続いて一人また一人と乗ろうとした時、突然ドアーが閉まった。二人目と三人目の人はドアーに挟まれた。高齢者の女性達で、座席に座るなりぼやくこと、痛かったとか、びっくりしたと大きな声で言っていた。運転手は乗客全員に、料金箱の機械の調子が悪いことと時間が遅れたことを詫びておられた。事務所に連絡を取ったりしたので、15分位遅れて出発した。出発してから相当時間、くだんの女性二人は、ドアーに挟まれたことを繰り返しぶつぶつ言っていた。二人が下車した時、運転手も下車して、相当時間、此方には内容は分からないかが、お詫びと、今後ひどくなった時の連絡などを言っておられたのではないかと想像する。後から乗車した乗客は、理由がわからないので、遅れた上に、また、長々と話をしているので、ぶつぶつ言う人があった。その後は、日中で渋滞のなかであったが、何も無かったように走っていた。私は、下車する時、大変ですねとねぎらいの言葉をかけて降りる。一番の原因は、遅れたことか、機械の故障かわからないが、一つ躓くと続いて躓くことは、時々経験することである。 何事も、余裕をもって事に当たらなければいけないことを示された。 . . . 本文を読む

バスの中

2006年08月03日 | Weblog
昨日は一日気分が良かった。通勤は最近バスを多く利用している。運転手の顔はあまり分かりませんが、声や言葉使いが様々でその人なりが分かって面白い。昨日の運転手の言葉使いといい、配慮が大変行き届いていて、気持ちが良かった。それはおもねるでもなく,へつらいでもなく、ごく自然に発せられて良かった。下車する人に対してはお礼、乗車する人には、お礼と、行き先の説明が丁寧に案内されていた。私の短い経験であるが、大体応対は良好であるが、中には、一寸と思われる運転手が居られる。 帰路、私は何時もの経路のバスでなく、違った経路のバスに乗車する。そのバスは立っている人が6~7人おえられ、高齢者と思われる人は、私ともう一人居られた。私は、見るともなしに、離れた優先座席を見ると、二十才位の女性が二人座っていて、一人は携帯をもっていた。入り口近くに、私が立っていた。発車して次の停留所の手前で、横に座っていた25才の女性が、私に、「もう直ぐ降りますのでどうぞ」と席を譲ってくれました。2~3年前から時々席を譲られるが、初めは辞退していたが、70才になってからは、遠慮なくご好意に甘えることにした。この時は、疲れた顔をしていたのか、言葉をかけて下さった。 「もう直ぐおりますので」と言われたので、次の停留所で下車されるのかと思ったが、次も、その次も結局大分過ぎてから下車された。私は、かの女性の思いやりのある言葉、気持ちを嬉しく思った。下車した後、目があったら頭を深々と下げるつもりでいたが、何事も無かったように去っていかれた。その後姿にお礼を言った。 聖書「それで、何事でも、自分にしてもらいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」マタイ7:12 . . . 本文を読む

福音放送

2006年08月02日 | Weblog
今朝も4時30分に目が覚める。早速ラジオを聴く、「希望の声」は、栄義之師が証を交えて語られた。栄師は、先月10日間、ケニヤにある孤児院を訪問された。17年間続いていて、今回は、特に、ナイロビの奥地のカロコナ村をトラックに一杯の食料品を積んで訪問された。この村は、ケニヤでも一番飢餓がひどい地域で、飢餓のためか盲目の人が多いそうである。 栄師のお証しを聞き、何故、こうまでの力が有るのだろうか、そのバィタリティには、言葉がない。 「善を行うことと、持ち物を人に分けることを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。」ヘブル13:16を実践されているのだ。 その後の、「世の光」は羽鳥明師がリスナーの質問に答える形式で、ヨブ記から話された。今、デボーションも、祈祷会でもヨブ記を学んでいるのでよく理解できる。 . . . 本文を読む

夏本番

2006年08月01日 | Weblog
早朝、不整脈が出て一日中気分が悪かった。事務所では、ほとんど毎朝銀行に行く。その途中、大念佛寺の横の道を通ると、楠の大木の枝が道に被さるようになっている。昨日今日と蝉がことのほか大合唱をしていた。彼らは、「夏だ、夏だ、嬉しいな」と言っている様である。今日から8月、一年で一番暑い日が続く時である。この暑さは、人間には、辛いシーズンであるが、自然界の生き物には必要なものである。 夕食後、家内がメールに初挑戦。なかなか上手くいかない様子に、自分の初めの頃を思い出し、苦笑いである。何事も、辛抱、慣れであり、努力が必要である。バングラデシュに遣わされている、長男との連絡で必要なため、パソコンはしないと言っていたが、必要に迫られての挑戦でありエールを送る。 . . . 本文を読む