歴史とドラマをめぐる冒険

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麒麟がくる・第三十二回・「反撃の二百挺」・感想

2020-11-16 | 麒麟がくる
ドラマ上の「現在」は、姉川の戦いですから、元亀1年・1570年です。

重要な登場人物である筒井順慶はまだ旺盛に松永久秀と戦っている時です。順慶が信長につくのは、翌年の1971年です。まあその前年から「信長に通じていた」としても「完全な嘘」ではないでしょうが、どうも信用できない設定です。

でも違和感を一番感じるのは「そこ」ではありません。今井宗久の動きです。

そもそも信長はなぜ無理して上洛したのか。一番の実利としては「堺をおさえる=鉄砲の確保」のためだと思われます。姉川の年には松井夕閑を奉行にして直轄化を進めています。ドラマ上は「堺で商人でもしたい」とか言っていましたが、やはり鉄砲でしょう。鉄砲そのものの調達もありますが、なにより「なまり」が外国産で国内では調達できなかったのです。

信長がここまで無理をした上洛した、どの大名も上洛なんて考えもしなかったのに上洛した、その理由として一番合点がいくのが堺の制圧です。別に御所の壁を直したかったわけでもないし、まして幕府を再興したかったわけでもないでしょう。

今までの大河は「そこ」に着目して描かれてきました。特に「黄金の日々」では、はっきりと「それが信長の狙いだった」と描かれます。

そういうリアルな視点から見ると「麒麟がくる」の今井宗久の動きは実に変ですし、ファンタジー感を大きく感じます。「麒麟がくる」、前半は斎藤道三を主人公にすえて、原作であろう「国盗り物語」に「比較的忠実に」描いていました。しかし後半は意識的に「国盗り物語」から離れています。その途端にファンタジー感が増大し、多くの視聴者から「現実離れしすぎた」という批判を浴びています。司馬さんの本を原作にしながら、「新しさを出そう」として原作から大きく離れる。とたんに変な作品になっていく。よくある事態です。映画「関ヶ原」なども、原作を修正して変な設定にしたりするから大失敗に終わっています。「麒麟がくる」の場合、中途半端に「新信長像」を描こうとしたり、「旧権威に敬意を払う作品にしようと」したりするから、わけがわからなくなるのです。

信長は「自信満々に石仏を背負って僧兵を追い払う」、しかし十兵衛に対して「比叡山はなぜ戦いに参加するのだ」と弱音を吐く。人に二面性を描いているわけでもなさそうです。比叡山が戦う意図を分からないなら、なぜ自信満々に僧兵を追うのか、つじつまが合いません。

一体信長をどう描きたいのか。新説と従来の安定した説の「奇妙な混合物」になってしまっていると思います。「大河新時代」がいけなかったような気がします。「今まで違うように描こう」という意図が先行し、大切な「どう描くか」が「なおざり」になっていると思います。

1年前、私は「新説の信長を描いてもエンタメ作品とはならない、つまらなくなるだけだ」と書いた覚えがあるのですが、今のところその予言とおりになってしまっているように感じます。





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