歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

「鎌倉殿誕生」の歴史的意義について・天下草創とは何か。

2023-09-05 | 鎌倉殿の13人
「鎌倉幕府」は日本全土を統治していたわけではありません。朝廷・寺社という古くからの勢力と、荘園の「権利」(職)を分け合うことで鎌倉幕府は成立しました。

朝廷を重く見る場合は、鎌倉幕府は国家の機能のうちの治安を担当しただけであり、「朝廷の侍大将に過ぎない」という言い方を好む方も、西の研究者にはいるようです。

ただちょっと考えただけでも「治安のみ担当したわけでない」ことは明確です。明らかに「政治」というものを行っているからです。御成敗式目という新しい法も導入しました。

鎌倉幕府は「律令制の衰退がもたらした地方の混乱」に一定の秩序をもたらすために誕生しました。そしてそのことが朝廷・寺社の意識を改革し、朝廷もまた「儀礼や祈りや文章創作とは違う、現実に根差した政治」を行うように「ちょっとだけ」なっていきます。「鎌倉殿誕生の歴史的意義」はそこにあると思います。

律令制国家は、天智天武の時代に、つまり700年前後に、白村江の戦いの敗北を受けて成立しました。「唐」が攻めてくるという緊張感が豪族連合としての「日本」を生み出すわけです。「日本」という国号もその時誕生します。

ところが唐との関係はあっという間に改善します。そして同時に日本国の統合も徐々に緩んでいきます。桓武天皇の時代、794年の平安遷都以降、桓武天皇は東北に敵を作ることで、新しい国家統合を模索しますが、そうした軍事的な動きも次代の嵯峨天皇の時代にはなくなっていきます。

10世紀になると、気候が変動したり、地方が無政府状態に陥ったりします。こうした中、朝廷は「日本をこうしよう」という高い政治意識を失っており、つまりは地方から税収が入ってくればいい。現地の支配者や親分に税の取り立てを任せ、その税収を確保できればいいという態度に終始します。「政治」と言えば主に「祈ること」を意味していたわけです。さらに文章経国と言って、芸術的文(漢詩、和歌)を作ることで「天を動かす」という政治?を本気でやっていました。桓武天皇の孫である仁明天皇などは文章経国に熱中し、国家財政を傾けました。文章経国は宴会(歌会)を通して行うので、べらぼうな「むだ金」が必要だったのです。文章経国は儒教政治の重要事項です。本気で儒教政治をやろうとすると、現実はほぼ見えなくなっていくようです。日本は中国にかつて存在したと言われる幻の儒教理想国家「周」を手本としたので、朝廷の政治は、やることなすこと現実からは乖離していました。

こうした中でも京都政権に一定の税収があったというのは不思議なことです。こういう政府にどうして人々は税金を納入したのか。ほとんど奇跡なのですが、それは今は考えません。

やがて律令制は形骸化し、律令制に代わって荘園公領制という形に移行していきます。12世紀のことと考えられています。公領と言っても実態は荘園で、要するに上皇天皇や中央貴族が地方の有力者や国司とタッグを組んで地方からの税収を確保しようとしたわけです。単に荘園制でもいいように思えます。公領は「公共の土地」ではないので、まぎらわしくなります。

この荘園において実際に荘園を経営したり、税収を確保していたのが「武士」らです。つまりそれまでの日本政府は長きにわたって地方政治を全部「丸投げ」して、京都で祈り、税金だけを収奪していたわけですが、ここに中央政治(主に鎌倉,そして鎌倉を通す形で京、または直接的に京)とつながった(タッグを組んだ)地方政治というべきものが発生します。それはライバルである朝廷の意識改革を促し(といっても少しですが)、地方に「金の源泉」以外の興味を持ったようです。いや金の源泉なんだが、どうやれば源泉であり続けてくれるのか、ということかも知れません。そして長い時間はかかるものの、江戸時代も後半になって武家政治の結晶として撫民政治と言われるものの発生してきます。ただし初期段階では、武士地頭は撫民など頭にもなく、むしろ朝廷よりひどい収奪者として登場します。泰時の撫民と言っても、そんなたいしたもんではありません。

源頼朝は朝廷に対しては遠慮がちであり、地頭の暴走を抑制する側に回ります。同時に朝廷改革を促します。要するに「ちゃんと政治をしようよ」と朝廷に働きかけるのです。この場合「政治」というのはそんな大したことではなく「祈ったり、和歌や漢詩を作って天を動かそうとか馬鹿なこと言ってないで、現実を見ようよ。少しは地方の秩序の構築、うまい税金の取り方を考えてみようよ。ほんの少しだけでいいから」ということです。そしてこれが「天下草創」の中身ではないか。何もしていなかった0の状態から1ぐらいはやろうということ。この点からも「朝廷が政治を担い」「武士はその治安活動を行った」という歴史観は、史実と矛盾していると思われます。「朝廷に権威があったから」などというのは観念論で、頼朝がそういう態度をとったのは「朝廷天皇が同じ荘園制というシステムに依存した共同経営者(収奪者)だったから」です。また「幕府とは何か」と同時に「王権とは何か」を考える必要も感じます。「王」という言葉は多義的でなかなか議論が成立しません。少なくとも「幕府は王権の守護者に過ぎない」の「過ぎない」の部分は間違っているでしょう。王権と幕府を上下関係で考えること自体、非科学的なのかも知れません。

「鎌倉殿の13人」における「後鳥羽上皇」の描き方について思うこと

2022-12-23 | 鎌倉殿の13人
全くの個人の感想なので、自分の感覚と違っても怒らないでくださいね。「怒る」傾向がある方はここでやめた方がいいと思います。

まず全体にどんなことを書くかというと、
・三谷さんに対する批判はしない。特に不満もないし、むしろ褒めたいぐらいだけど、あまり褒めもしない。
・上皇や天皇という存在に忖度は一切しない。といって故意に「おとしめる気」もない。でも忖度しない時点で、一般的感覚からすると不敬に見えるかも知れない。
・私は史実を学者の本で勉強しているが、学者じゃないので知識は足りない。間違った史実認識があるかも知れない。
・ドラマの批評というより日本史や史実の話である。

1,後鳥羽上皇の描き方はバランスがとれていた

とまあ、ここまで注意書きをしておけば、あとは何を書いてもいいでしょう。では本論。
全体としては後鳥羽の描き方は良かったと思うのですよ。バランスがとれていた。この世界には僕のように学者風に突き放して「後鳥羽」と書く人間もいれば、「後鳥羽上皇さま」と書く人間もいるわけでしょ。そういうどっちの人々にもさほど不満はでなかったと思います。「後鳥羽の顔を立ててやる」描写もちゃんと入ってました。最後だって自分は武を磨いてきたから先頭に立つと言ったわけでしょ。それを兼子さんに後白河の遺言を出されて止められる。藤原秀康は「兵は1万」と言ったけど、あとで「読み違え」と言ってますよね。実際は2000でしょう。これは上皇が流鏑馬の会と称して兵を募った時に集まった数です。その数が承久の乱でも実数となったでしょう。対して泰時の軍は「1万」とドラマで言っています。あと二部隊、朝時隊と武田隊がありますから総勢2万。それを吾妻鏡では約10倍にして19万。どっちにせよ朝廷軍の10倍です。後鳥羽が先頭に立っても逆転は望めません。上皇の「威」で寝返るぐらいならそもそも泰時軍に合流しないでしょう。天皇・上皇の「権威」は本地垂迹(地元の神と国家仏教が融合)の顕密仏教の「たまもの」なんですが、武士の心には「信じつつも逃れたい」という矛盾した心情があったと指摘されています。
圧倒的に不利だから、後鳥羽が先頭に立とうとした事実はないと思うけど、ドラマでは先頭に立とうとした。後鳥羽の顔も立ててやっているわけです。それに「立とうとしなかった」ということを証明することは難しいと思います。承久記では敗走した武士たちを門を閉ざして入れない後鳥羽の姿が描かれ「大臆病の君」と味方武士に罵倒されていますが、承久記はあくまで物語です。

2,「麒麟がくる」の正親町天皇の描き方は変だった

東大の金子拓さんは東大の「史料の専門家」なんですが、こう書いているのですね。「織田信長・天下人の実像」
「すでに戦国時代において、朝廷の政治判断能力は目に見えて低下しており、天皇や関白・公家衆など複数の判断主体が併存し、それぞれ自分の利益にかなった方向にみちびこうとして統制がとれていなかった。しかも彼らはこのあり方がおかしいものだとは感じていなかった」

つまり天皇や朝廷は「縁故・コネ・自己都合」によって数少ない寺社関係の裁判を「不公平に」裁くのですね。それが常態だったんです。ところが信長は戦国大名だから一応「公平」という感覚を知っている。あと前に出した判決と整合性がないといけないとも思っている。それで天皇に注意するわけです。そうすると正親町は最初分からないのだけど、分かって驚いてパニックになる。で、息子を先頭に立てて隠れちゃって、信長に謝るわけです。(絹衣相論、興福寺別当職相論)

そういうこと知っていると、「ドラマは史実を描かなくてもいいけど」、あそこまで「天皇を美化」するのはいかにもおかしい。天皇は今もいる存在ですから、あんな嘘をついちゃいけない、そう思って違和感だけが残るのです。史実を描けとは言わないが、天皇に関してだけはあそこまでの嘘を描いていけない。そう思うということです。

それに比べて「鎌倉殿」の後鳥羽の描き方というのは、コメディタッチでデフォルメされてはいるものの「史実の本質」みたいのはちゃんと抑えていると思います。バランスがいいですね。

3,後鳥羽上皇はなぜ承久の乱を起こしたのだろう

それにしても分からないのは、上皇の動機です。作品でも学説でも「義時追討で鎌倉の不和を誘発し、北条を排除して、後鳥羽が主導権を握る」となっているのですね。でも別に朝廷は幕府から疎外されていなかったわけです。それどころか朝廷を構成する公家の荘園には地頭がいて、この地頭は税を公家に納めることになっていたのです。「納めないで着服する地頭」もいて、後白河なんかは頼朝に文句言うのですが、頼朝はあまり積極的には動かないけど「それはすみません。よくよく注意します」と返答するわけです。あまり動かないのですけどね。
武士の存在というのは税の徴収にとっては必要だったわけです。ある程度ちゃんと朝廷にも税を納めていた。なんでそこで満足しなかったのか。この辺りは荘園の問題になるので、素人には難しいのですが、考えてみたい問題です。
「義時追討」で引き起こされるのは鎌倉の混乱だけで「京に攻めてくる可能性」なんてちっとも考えていなかったのかも知れません。とにかくリスクの多い勝負に出過ぎであって、上皇の動機というのは一からちゃんと考え直してみるべきかなと思います。

天皇や上皇の描き方というのは、現代の歴史認識にも直接つながる問題だから慎重にならんといけないと思うわけです。もっともこういう感覚も僕ら世代の感覚で、今の若い人はまた全く違った感覚を持っているのかも知れません。とにかくその点において「鎌倉殿」は上皇や法皇を美化することなく、といって「おとしめる」こともなく、バランスのいい描き方をしたなと感心しています。

即興歴史小説「義時の涙、泰時の誓い」、「義時死す」

2022-12-18 | 鎌倉殿の13人
少し前に書いた「義時の死」ですが、「少しかすっていた気が」します。もっともこの「駄文」の最後の部分はある歴史ドラマのパクリです。

悪人・北条義時に捧ぐ

承久の乱の後、北条太郎泰時と北条時房は「六波羅探題」の長官として京に「出張」ということになった。「京で修行してこい」、これが親父である義時の言葉である。

公家は噂が好きだ。嘘と分かってもその嘘を楽しんでいる。時には嘘と分かりつつ、日記に「さも本当のように」書くことも多い。正確な歴史を記述するという観念自体が存在していない。ただし儀礼に関しては違う。日記とは子孫に伝える儀礼の記録である。時事情報はあくまで「おまけ」であった。時事情報は正確でなくても、いいのである。

その公家の間では鎌倉に関するいくつも噂が飛び交っている。「鎌倉がこうなってしまえばいい」という悪意に満ちた願望であることも多い。

「義時の妻の伊賀の方が、実子の政村を執権にするため、義時に少しずつ毒を盛っているらしい」
「北条は怨霊によって、この後、だれが執権になっても短命で終わる」
「北条時房が次の執権を狙っている。泰時と時房は口もきかぬ仲らしい」

江戸期の「かわら版」のようなものも、すでに存在して「ないことないこと」を書いている。

泰時も時房も洒落は分かるので、目くじらはさほど立てない。だがこの噂は泰時にとってはちと頭が痛かった。「鎌倉犬追物の残虐さ」についてである。

犬追物とは、犬を放ちそれを「馬場」という空間で、馬から弓で射る競技である。一応神事と言っていたが、要するにスポーツである。単に射るだけではだめで、打つ時の姿勢、打ち方の珍しさ、美しさ、射た場所の位置などが審判によって点数化される。室町時代は「武家文化に染まった京都」でも行われたが、鎌倉期ではまだ「野蛮な東夷の行為」とされていた。現代の動物愛護協会にあたる

一切衆生悉有仏性の会・いっさいしゅじゅう・しつ・う・ぶっしょうのかい

というのがあって、そこの会員が匿名だが「許せない」と言っている、と噂文に書いてある。
泰時は鎌倉に下って、義時にそれを伝えようと思った。鎌倉の名誉に関わる事案である。

鎌倉に下った泰時は馬場に平然と足を踏み込んだ。騎射は止まったが、手負いの獰猛な犬が2匹残って駆け回っている。「危ない」と見物している御家人の誰もが思ったが、泰時は意に介さない。自分は死なないという絶対の自信があった。子供の頃から、危険な場面にはいくらでも遭遇したが、なぜか傷一つ負わない。

義時もそれが分かっているので、泰時を止めなかった。ただ神事の場の無礼だけは叱った。泰時は京の「動物愛護について」また「毒を盛られているという噂」を伝えた。

義時は宣言する。「犬追物は神事とは言え、京では評判が悪いようだ。今後、犬追物では先の丸い矢を使い、犬を殺さぬこととする。なお、今の泰時を見たであろう。天の加護があるのだ。次期執権は泰時である。」

泰時の弟、朝時、重時、政村たちは神妙な面持ちでそれを聞いている。伊賀の方も同様である。

泰時が京に戻って半年もたった頃、義時倒れるの一報が京に届いた。泰時は急ぎ関東に下った。泰時は伊豆で鎌倉の様子を探っていると京で噂されたが、実際はすぐに鎌倉に入っている。
しかし肝心の義時が床にいない。聞くと出家し、病躯をおして雨ごいをしているという。鎌倉は少雨による凶作が起こりかけている。天に祈り雨を降らせる、中世においてはそれが為政者の「徳」であった。義時はすでに死を覚悟している。

「雨ごいの場」には誰も出入りを許されなかったが、声だけは聞こえてくる。
義時は言う。

「天の神よ、雨を降らせたまへ。私は悪行を積んだが、それすなわち民のためである。それが分からぬ神なら、そんな神はいらない。悪行は全て私が地獄に背負って逝く。恨みも憎しみも全部私が引き受ける。私はここで死ぬが、鎌倉の悪行は全て消え、ただ息子泰時の徳だけが世に残る。悪行は全てこの義時が一身に背負う。雨を降らせたまへ。泰時を聖君になしたまへ。」

すると雨が降り出した。鎌倉の人々はこの奇跡を長く「義時の涙」と呼んで言い伝えた。

義時は死んだ。泰時が次の執権となる。泰時の時代、北条と他の一族の殺し合いは、起きなかった。義時は泰時の世を作ることで、悲願であった「撫民」を遂に成し遂げた。

鎌倉殿の13人・北条泰時はなぜ後鳥羽上皇の「敗戦の院宣」が読めなかったのか。承久の乱。

2022-12-05 | 鎌倉殿の13人
吾妻鏡にこうあります。概略です。

泰時は5千の兵を率いていた。そこへ後鳥羽上皇の敗戦の院宣がもたらされた。泰時は馬を降りて受け取った。そして「この中に誰か院宣を読めるものはいるか」と言った。
武蔵の国の藤田三郎が読むことができたので、彼が読んだ。
「この度のことは、全て院の意思ではなく、謀臣のしわざである」

以上のことから分かるのは、泰時は院宣を読めなかったこと、5千人の中でも読める人間はほぼおらず「もしかしたら藤田一人だったこと」です。それにしても藤田はなぜ読めたのか。そっちがびっくりです。

吾妻鏡が「とても信用できない、泰時顕彰のための曲筆ばかり」なら、ここは「読めたこと」にしてほしいものですが、ちゃんと「読めなかった」としています。

この院宣は承久記前田本にあって、国会のデジタルコレクションで見ることができます。該当箇所を見てみると、さして難しい漢文ではありません。私の読解力では細かいところまでは訳せませんが、内容を知っているせいもあり、言ってることの概要は分かります。

「泰時に読めないとは思えない」のです。彼は3代目の坊ちゃまですし、そこそこの教養はあったはずです。私より漢文が読めないとは想像できない。でも読めなかった。

「達筆過ぎて読めない」ことは予想はされます。上皇自身が書いたわけではないですが、実際の書き手が達筆過ぎて読めない。その可能性はありますが、別のことも考えてみたいと思います。

さて、すると本当の院宣はもっと「小難しかった」ことが予想されます。昭和天皇の「終戦の詔勅」のようなもの。あれをルビなしで読める人間は、多くはない。内容は事前に分かっているけど、細かい訳となると無理です。負けたというだけですが、一種の美文にしてそれをはぐらかしているし、国民もその方が良かったでしょう。あんまり負けた感じがしない文章です。

京都政権には「文章経国」という悪い癖があります。悪い、というのは「文」(主に漢文、後には和歌)を作るための宴会に多額の費用をかけ、それが「政治だ」と思ってしまっていたからです。
すでに桓武天皇の孫の仁明天皇の時代に「漢文パーティー開きすぎで国家財政が傾く」という現象が起きていたようです。
「文章経国」(もんじょうきょうこく)は古代中国の儒教の思想で、文によって「礼の価値」を高め、「礼によって国家秩序を維持する」という「思想」です。

それは「高度なテクニックを駆使した漢文で、中国の故事がふんだんにちりばめられていた」と言います。(桃崎有一郎氏の著作より)

おそらく後鳥羽院の院宣の本物は、このような美文だったのでしょう。だから泰時には読めなかった。私はそう推測しています。

蛇足
呉座さんが「院宣はなかった。吾妻鏡または承久記の贋作」ということを書いておられるようです。それに対するヤフーのコメントに「重箱の隅突っつき史学はうんざりします」というのがありました。呉座さんうんぬんではなく、「重箱の隅突っつき史学」という言葉は、グランドセオリーなきあとの日本史学の現状の「一端」を表しているように感じました。私は歴史学者ではなく、ど素人の歴史好きに過ぎませんが、80年代までの佐藤進一、黒田俊雄、石井進ら諸先生の「骨太の歴史議論」をもう一度検証することの方に知的興味を感じるのは、やはり今の歴史議論がかつてに比べ相対的に卑小化しているように感じているからのような気がします。なお、吾妻鏡が泰時が「読めなかった」としていることは、美文の院宣が存在したことの、傍証になるようにも感じます。

鎌倉殿の13人関連・「承久の乱」をどう考えたらいいのか。

2022-12-04 | 鎌倉殿の13人
「承久の乱」を「どう評価」すべきでしょうか。社会の混乱という意味では、さほどの戦いではありません。

後醍醐帝と足利尊氏が明確なビジョンもなく「鎌倉幕府を倒してしまって」から、60年の内乱の時代が訪れます。そういう意味では、この2人、とんでもない人たちです。フセインを倒したはいいが、さしたるビジョンもなかったため、イラクを今も混迷の中に沈めているアメリカ、と同じことをやっています。
皇国史観においては「後醍醐帝に逆らった足利尊氏」は「日本最大の悪人」と呼ばれましたが、「皇国史観大嫌い」の私ですら「もっとちゃんとやれよ」とは思います。むろん後醍醐天皇も同罪です。

この南北朝時代の戦いや、その一部でもある「観応の擾乱」(じょうらん、意味なく難しい言葉ので、この言葉は変えた方がいい)に比べれば、あっという間に決着がつきます。数か月、60年に比べれば超短いわけです。

承久の乱の後も、幕府は公家、武家の経済的基盤である荘園制に手をつけたわけではない。その意味では「革命」とは言いがたい。

「優等生の回答」ならこれで十分ですが、私はあまり興味はありません。もっとも「荘園制」には興味があります。「革命か否か」に意味はないということです。

別の優等生的回答もあります。「承久の乱によって朝廷や天皇・上皇は武力を捨て、今日の皇室の原型ができあがった。一方、幕府は国家の警察・防衛軍・外交を担う組織となった」

これも、私にとってはつまらない回答です。史実と違うと思うし。

武士は「荘園」を経済的基盤としていた。それは本所をはじめとする公家・寺家も同様である。従って武家は「荘園システム・治天の君システム」を破壊することはできなかった。しかし武家が大事にしたのは「国家体制システムであって個々の天皇・上皇」ではなかった。「体制を武力や天皇権威によって変更しようとする試み」をした天皇や上皇は、忖度なく幕府(鎌倉、室町、江戸)そしてなにより身内の公家・寺家によっても圧迫された。当時の言葉で言えば「帝ご謀反」。そのシステムは現在「権門体制」と呼ばれ、院政期から応仁の乱までは続いたとされている。
承久の乱は「帝ご謀反」の典型例で、その場合、武家は「体制に対する謀反者」として天皇・上皇も追放する。さらに公家内部からも批判される(乱後の後鳥羽上皇の評価は公家内部において低い)。
日本を支配しているのは権門が作る「相互補完体制」であって、上皇ではなく、「公家権門のみで支配しているわけでもなく」、武士が守っているのは朝廷や上皇個人ではなく「体制」である、そのことが「はっきり」したのが承久の乱。

いい線いってますが、まだまだ「つっこみどころ」は満載(上記は私の文章なので自分に突っ込んでいます)で、納得できるものではありません。それは本当に権門体制なのか。寺家は政治にどう関わったのか。公家権門の「長」を武家が決めているように見えるが、これは武家権門の優越性を表していないと言い切れるのか。各権門が相互補完をしていた、については東の研究者を中心に「ありえない」という声もあるが、東西の学者でよくよく考えた方が良くはないか。そもそも相互補完って曖昧過ぎはしないか。また、それは荘園システムなのか、治天システムなのか、天皇システムなのか。つっこみどころは山ほどあります。

権門体制の提唱者黒田俊雄さんは「二つの権門の対立、それは幕府の基盤の中核である在地領地制の発展を背景とした政治的対立の爆発」と書いています。1964年、「鎌倉幕府論覚書」

私見ですが、承久の乱に関する論点の多くは、1960年代、70年代の「黒田・石井進」という良きライバルの学説論争の中で出たものであり、「最新研究」を追うより、そこまで遡及して考える方が、たぶん有益であろう。そんな予見を持っています。

承久の乱には、日本史を考える上で大切な問題が山の如く詰まっていますから、簡単に回答を出しては「もったいない」気もします。

鎌倉殿の13人・スピンオフ小説「比奈の乱」・「承久の乱前夜」

2022-12-01 | 鎌倉殿の13人
後鳥羽上皇の願いを受けて、比奈は鎌倉に下向した。

義時とは直接文を交わしたことはないものの、比企の乱から18年、義時は京の比奈に、定期的に莫大な金銭を送ってきてくれていた。途中からは泰時の名で送られてきたが、義時の意向であることは間違いない。比奈はまずその礼を述べた。

「少しもお変わりになりませんね、小四郎殿」
「そうか、人には別人になったと言われるが」
「同じです。あなたはいつも鎌倉のことばかり考えて、そして疲れていらした」
「そうか」
「さて、今日は上皇様のお言葉を伝えに参りました」
京で比奈と後鳥羽上皇が懇意であることは、義時はよく知っている。
「文を託すまでの仲とはな。比奈、つらくはないのか」
比奈にとってはマツリゴトに関わることが苦痛であると義時は思っている。
「比企の一族のことは、すべて昔のことです」と言って比奈は笑った。そして一通の文を差し出した。
義時はそれを見た。「すべては比奈殿に聞いてほしい。尊成。」とのみある。
「随分と信頼が厚いようだな」
「私は鎌倉では天下無双の女房でございましたよ。さて上皇様のお言葉です。上皇様は窮しておられます。大内惟信殿と三浦胤義殿を首魁とする京都鎌倉党が、上皇に挙兵を迫っております」
義時は何も言わない。
「上皇様としては、北条義時追討の院宣は出したくない。鎌倉党は朝廷が西国地頭の任免権を持つことを望んでいる。ここはぜひ妥協してほしい、とのこと」
「比奈、知っておろう。地頭職は鎌倉の根本。それだけは叶わぬ」
「上皇様は、小四郎殿が思うようなお方ではありません。上皇様なりに民のことも考えておられる。戦は、民を疲弊させるだけだ。なんとしても避けたいと」
「お前に言われなくとも、上皇様がどんな方かは分かっておる。私も民のことは考えている。大内と胤義を斬れと伝えよ。それだけの覚悟がなくして、為政者といえようか」
「斬っても、西国守護の北条に対する不信感は消えません。大内様はかの平賀朝雅殿の叔父で、源氏の門葉、上皇様のもと、京にもう一つの幕府を建てようとしております」
「なるほどな、それでは上皇もなかなか扱いにくかろう。よし分かった。上皇様に伝えよ。大内ら謀反の輩はこの鎌倉が討つ。その上で、京の六波羅に探題を作り、上皇様と協力して西国を治める。鎌倉の武力の後ろ盾があれば、上皇様も思うように政治ができよう。ただし、地頭の件だけは絶対に譲らぬ。」
と言ったあとで
「とはいうものの、相談があればよくよく考えよう。」と笑った。
「分かりました。ありがとうございます。早速京に上って、上皇様にお伝えしましょう」
「もう帰るのか。つもる話もある。今宵だけでも泊まっていかんか」
「上皇様のお考えを聞いたら、すぐに鎌倉に下向しますゆえ、その時に。わたくしもつもる話はございます。では上皇様のもう一つ文をお渡しいたします」

小四郎殿、よくぞ妥協してくださった。これで民は救われる。これからは手を携えて日の本を治めていきましょう。院宣が出れば、あなたの命を奪うことになる。しかし鎌倉は混乱の極みに達し、やがてまた戦となるかも知れません。それは私の本意ではない。

「勝つ気でいるのか」義時は珍しく大声で笑った。「比奈、今の件は火急を要する。お前が京に戻るのを待ってはいられぬ。文をしたため、京に早馬を送る。長い旅だった。今夜だけでも泊まっていけ」
比奈はうなずき、にこりと笑った。

しかしその頃、京では、大内惟信、三浦胤義ら鎌倉党が、後鳥羽上皇に決断を強く迫っていた。後鳥羽上皇の煮え切らない態度を見た鎌倉党は、主戦派の順徳上皇とともに、北条義時追討の院宣を御家人たちに送ってしまう。
「なんということをしたのだ、守成」後鳥羽は順徳を殴りつけた。
「殴りましたね。生まれて初めてです。親にも殴られたことがないのに」
「しれ者が、われがお前の親ではないか」
後鳥羽は泣きくずれた。
「すまん、比奈。かくあいなった。もはや止められぬ。止められぬなら戦う。そしてわしは勝つ。鎌倉は焼け落ちるだろう。早く京に戻ってくるのだ」

比奈は京に上る途中で、後鳥羽の知らせを受け取った。急ぎ鎌倉に引き返し、太郎泰時邸に向かった。
「母上、母上の努力も、この太郎の努力もすべて灰燼に帰しました。もはや鎌倉は戦うしかない」
「太郎。私も心を決めました。こうなれば太郎が戦功を立て、時局を握る以外ありません。たった一人でも京に向かうのです。ためらっていては、御家人が動揺しましょう」
「分かりました。では私は評定では、強く箱根の関での迎撃を主張します」
「なるほど、そうなれば小四郎殿や大江殿は太郎に反発して、京出撃を主張するでしょう」
比奈は遠い京にいる上皇を思った。さぞ無念であることだろう。しかも上皇は負ける。なんとか命だけは救わなくてはならない。
「太郎、圧倒的な兵力を集結できるよう小四郎殿と図るのです。民を疲弊させてはなりません。ひと月で決着がつくよう、官軍を圧倒する兵力を持つのです」
「今、一人で京にいけと、、、しかし分かっております。鎌倉の大将が出撃すれば、諸国の御家人はそこに集結しましょう。迷っていることが一番まずい。」
比奈と太郎は、それから共に悲しげな顔で空を見つめた。泰時としてみれば、官軍に勝つ、そのことにほとんど高揚感はなかった。勝利のあとのマツリゴトをどうなすか。上皇をどう処遇するか。泰時の頭は、すでにそこに向かっている。
つづく。

「鎌倉殿の13人」スピンオフ小説・「比奈の乱」(仮)序章

2022-11-29 | 鎌倉殿の13人
比奈・・義時の正妻であった「姫の前」のこと。本名は不明だが、ここでは「鎌倉殿の13人」にリスペクトを込めて「比奈」とする。太郎泰時は実子ではない。実子に北条朝時、後の幕府連署、北条重時がいる。

「全く失礼な話だわ」と比奈は憤慨している。それにこの屋敷の様子はどうであろう。手はかけられているがどこか人間の生活感がない。
「それでも左近衛権中将様が会ってくれるのですから」と侍女の「お駒」は比奈を慰めた。
「あたり前です。勝手に人を死んだことにしたのですから、抗議しなくてはなりません」比奈の憤りは収まらない。
やがて一人の公家がしずしずと現れ着座した。どこか貧弱で体の線が細い。
男は黙って比奈を見ている。何も言わない。比奈も何も言わない。慌ててお駒が挨拶した。
「こちらは鎌倉の北条義時殿の前室であるお比奈さまでございます、この度は無理を申しまして」
「おひな様」という音を聞いて、男は少しうなづいた。比奈の顔をじっと見ている。
「少しお年は召しておられるが、なるほど雛のように可愛い方ですな」声にどこか落ち着きがない。気分の上り下がりが激しい人間のように比奈は感じた。
「そんなお世辞はいいのです。この文をご覧ください。わが子太郎泰時のものですが、私が死んだと貴方様が鎌倉のどなたかに文を書いたという内容です。日記にも記したとのこと。」
「ふむふむ」
「この通り、私は生きております。亡くなったのはお世話になっていた源具親様の正妻、波奈様です。お子を産んで亡くなりました。比奈と波奈は似ておりますから、あなた様の勘違いでございます」
「ふむふむ、しかるに、その侍女のお方、お名前は」
「えっ。駒でございます」
「駒、駒、駒、、、ところで近頃旅はなさいましたかな。どこかに美しい景色はございましたか」
「ええ、比奈様と共に、冬、大和のサノのあたりに参りました。でも雪が降って寒くて寒くて」
「ふむふむ」と言いながら男は泰時の手紙を手にした。
しばらく文を見るともなく眺めていたが、急に大声を出した。
「できた!」
わっと比奈も駒も驚いた。男は意にも介さない。
「駒とめてー 袖うちはらふ人もなしー 佐野のわたりの冬の夕暮れ、これはいいぞ。これはいい。」
「藤原定家様!あなた、人と話すことができますか」
「なるほど、冬はだめですな。冬の夕暮れではなく、雪の夕暮れ、これはますます良くなった」
完全に自分の世界に浸っている。およそ会話をする気はないらしい。比奈は「だめだこりゃ」と思った。
「もう結構です。とにかく私が死んだという日記は訂正しておいてくださいね」
比奈は泰時の文を定家からもぎ取って席を立った。それでも藤原定家は一人で話している。
「なるほど、人もなし、もだめだ。かげもなし、、、うん、、、これだ、、、できた、できた」

帰り道である。
「定家様は訂正してくださるでしょうか」
「訂正するわけないでしょ、変な人にもほどがあります。あーだめだ。あの方は有名人だから日記は歴史に残るでしょう。私は今年死んだことにされるのだわ」
「比奈様も対抗して日記を残したらいいじゃないですか」
「そんなもの、百年後に残るわけないでしょ。」
この年、承元元年(1207)である。比企の乱から既に4年が経っている。

比奈は屋敷に戻った。少し前まで源具親の世話になっていたが、死んだと不吉な噂が立ったので、方忌みの意味を込めて引っ越した。今は守貞親王という皇族のもとに身を寄せている。義時は、後鳥羽上皇の乳母である藤原兼子の元へ行けと言ったが、政治に巻き込まれたくはないと比奈は断った。すると義時は守貞親王を紹介してくれた。大金を払って依頼したのかと思ったが、守貞親王はどこか世離れした男で、義時の申し出を断ったらしい。
後鳥羽上皇の異母兄に当たる。回りに集まる公家たちは、守貞親王を天皇にとも思っているらしいが、守貞にその気はまるでない、と比奈は感じている。
「どうです。定家さんは、会ってくれましたか」親王の声は柔和である。およそ怒る顔を見たことがない。
「そりゃ、殿下の紹介ですから、会ってはいただけましたが」
「変なお方だったでしょ」
「お駒の名を聞いて、急に和歌を思いついたらしく、もうそればかりに熱中なさって」
お駒が和歌を暗唱する。「駒とめてー」
「なるほど、それはいいお歌ですな。で肝心のお話は」
「およそ人と会話のできない方です。諦めました。」
「まあいいではありませんか。私なぞ4つの時から、死んだような扱いを受けておりましたよ」
彼の幼少期は数奇である。四歳の時に平家に連れられて都落ちした。異母兄は安徳天皇である。壇ノ浦では女房に抱かれて海に沈んだが、幼いながら泳ぎができた為、すぐに義経の兵に助けられた。その時彼は皇太子であった。しかし京に戻ると、既に異母弟の後鳥羽天皇が即位していた。その後、帝位を目指したこともあったが、今は諦めて静かに暮らしている。少なくとも比奈にはそう見える。

つづく

鎌倉殿の13人、スピンオフ「北条泰時の野望・鶴岡八幡宮の雪」

2022-11-23 | 鎌倉殿の13人
石段に差し掛かると、源実朝は北条義時の目を見てこう言った。
「叔父上、腰を痛めていると聞きました。この寒さはこたえましょう。ここで結構です。もうお帰りください」
それを聞いていた源仲章は得意満面の笑みを浮かべた。
「執権殿、ご老体にはこたえましょう。ささ、その太刀は私が持ちますゆえに」
「おお仲章、気が利くな。叔父上に代わり、太刀持ちをお願いしよう」
それにしてもこの太刀は、と仲章は思った。ずしりと重い。どうやら本身の刀である。
「ここは武家の都、武家には武家の作法があります」と義時は笑った。
実朝は何も言わない。仲章は黙って太刀を受け取った。義時と実朝は目で合図を送りあった。

拝賀は終わった。しばし休息。実朝は雑色頭の重蔵を呼んだ。
「仲章様の様子はしかと見ました。束帯の下に着込みをしておりまする」
「これと同じか」と実朝は、自らの着込みを重蔵に見せた。
「弓を使うでしょう。十分にお気をつけを」と重蔵は言った。
「かねてからの打ち合わせ通りに。お前の配下も命を落とさぬよう、注意せよ」
「われわれの命など、御所の命の代わりとなるなら」
「それはいかん。生きとし生けるもの、みな同じぞ。それに私は今日、一人の男を斬る。殺生はそれだけよい」
「はっ」重蔵は闇に消えた。

実朝たちは石段を下りていく。仲章がふと気が付くと、松明を持つ雑色の数が異常に増えている。篝火もたかれ、鎌倉の漆黒の闇は消え、薄明りに満ちている。
雑色たちは自分たちの行列を二重に取り囲んでいる。実朝の前方は特に厳重で、屈強で背の高い男がまるで壁のように実朝の前を歩いている。
一行は公暁が潜む大銀杏に近づいた。
「気が付かれている」と仲章は悟った。「とすれば自分の命が危ない。逃げなければ」と仲章は思う。
「あっ、足が」と言って仲章が立ち止まった。逃げるつもりである。
「それはいかんな、重蔵、介助さしあげろ」
実朝の命で重蔵が仲章をいだいた。「いだく」というより、羽交い絞めである。
「い、息が」と仲章はうめいた。

同時に、大銀杏の向こうで「おう」とか「うっ」という声が上がった。重蔵の配下が公暁の仲間を襲ったらしい。やがて静まった。
「公暁、出てこい。命はとらん。陸奥がいいか。どこぞの島か」と遠流の場所を尋ねている。
やがて大銀杏の向こうから公暁が現れた。利き手の右腕から血が流れている。これでは弓は使えない。左手に太刀を持っている。片手で使うには重いであろう。
実朝は仲章が手放した剣を、重蔵の配下から受け取った。
「公暁、何がしたい。俺を殺しても鎌倉殿になれるわけがなかろう」
「うるさい、実朝。おれは父の仇が討てればそれでよい。しかしそれだけでないぞ。おれは武家の棟梁になる。こんな田舎の鎌倉ではない。京の都で棟梁となるのだ。」
「ほほう、仲章がそう約束してくれたか」
「仲章などではない。もっともっとずっと尊いお方だ」
「だれだそりゃ、不動明王か誰かか」、実朝は会話を楽しんでいる。
仲章を羽交い絞めしていた重蔵の手が緩んだ。都の公卿はとっくに逃げている。仲章の背後には雑色が満ちている。
仕方なく仲章は公暁のほうへ走り出した。
「仲章」と叫ぶと、実朝はその背を袈裟に斬った。
「親の仇はかく討つぞ」と実朝は大声で叫ぶ。逃げる公卿たちは、背にはっきりその声を聴いた。この言葉は公暁の言葉として、長く日本史に記録されることとなる。

「な、なにをする実朝。仲章は上皇様の近臣ぞ」
「ほほう、そうか、ならお前はその近臣を斬ったことになる」
「な、なにを言う。お前が斬ったのではないか」
「いや、お前が斬ったのだ。上皇様は怒るであろうな」
雑色たちが実朝に向って走ろうとする公暁の前を幾重にも遮った。
「公暁よ。私はお前がかわいいのだ。哀れでもある。この鎌倉は私たち源氏の物ではない。坂東武者の都だ。われわれは所詮、まろうど(客人)に過ぎぬのだ。」
「うるさい」と剣を振りかざしたその腕を、重蔵がしたたかに棒で打った。剣は石段に落ちる。
「仲章を斬ったお前はもはや京にも居場所がない。俺を殺したのだから、むろん鎌倉にも居場所はない。どこぞの島で20年我慢しろ。呼び返してやる。おれは鎌倉を去るが、それは約束しよう」
「鎌倉を去るのか」公暁の声だけがした。実朝は雑色たちを下がらせる。
「ここは源氏の都ではないからな。実際疲れるのよ。あっちこっちに気を配り、儀式儀式の毎日だ。鎌倉殿なんて、そりゃ疲れるだけで、何のいいこともないんだぞ」
実朝はにっこりと笑った。
公暁は背後に向って逃げ出した。その背に向って実朝は叫んだ。
「三浦には行くな。殺されるぞ」
「実朝、お前が許しても、お前の主人である義時は許すまい。お前は犬だ。所詮は義時の犬だ」叫びながら去っていく。
「止めますか」と重蔵が言う。
「いいさ。死なせてやろう。島で20年、あの男にとっては地獄であろう。それになるほど義時は許すまい。あの男は怖い男だ。」
重蔵の配下が軽口をきく。
「御所様にとって執権様が邪魔なら、執権様をやっちまえばいいの、、、」
と言葉が終わらぬうちに、重蔵は男の顔を張り飛ばした。男はごろごろと石段を落ちていく。
「重蔵、義時に絶対手を出すなと配下に伝えよ。おれが死んでも鎌倉は大丈夫だが、義時が死ねば鎌倉はつぶれる」
「さほどのお方で」
「ああ、あの非情さはまさに父上の継承者にふさわしい。おれは優しいからな。あそこまで非情にはなれん。今はまだ鎌倉は開府したばかり、非情さが必要だ。」
「それに義時が今死ねば」
「執権様が今お亡くなりになると?」
「太郎泰時の時代が来ない。おれは義時死後の太郎の時代を見据えている。しかし太郎にはまだそこまでの覚悟がない。あと数年、そう5年は義時に生きてもらわねば」
「太郎様は御所と同様、お優しい方と存じますが」
「なに、あれはあれで非情になれる男よ。しかも太郎の時代は鎌倉は成熟期に入っていく。非情さと優しさ、二つながら必要だ。」
「それにしても御所は本当に鎌倉を離れるので」
「ああ、京に行く。死んだからな。太郎の為に、京の大掃除をすることにした。それに田舎暮らしは飽き飽きだ。京が好きなのさ。和歌も詠みたい。あの寺にもこの場所にも行きたい。」
とおどけた後、真剣な表情となった。
「京で遊んで、それからあの男にも会う。あの男には会わねばならん。」
「その男に会ってどうなさるので」
「𠮟り飛ばしてやるのよ。下らんハカリゴトはいい加減にしろとな。刀が打てるからといって、武士の心が分かってたまるものか。」
「刀を打つ、刀匠なのですか」重蔵は誰とわかっているが、わざととぼけている。
実朝は笑った。
「いずれ話してやる。とにかく太郎泰時の時代を招きいれるのが、この実朝の大仕事よ。その為に京に行く」
重蔵はそれ以上はきかない。
「金はあるぞ。ついてくるか重蔵。京の酒はうまいらしいぞ。」
「むろんのこと、地獄の果てまで」
「地獄とは、いちいち暗いのだよ、お前は。それに俺は極楽に行くつもりだ。12歳の年から苦労してきた。お釈迦様は見てくれているさ。地獄では俺に会えないぞ」
「ではこの重蔵も極楽に参りまする」
「そうか。いけるさ。人は殺すが民のためだ。それにお前には悪人の、罪人の自覚がある。自分を善人だと思っているやつらさえ極楽に行けるのだ。いわんや悪人が行けないことがあろうか」
あとは自分に言い聞かせるような一人語りになった。
「親父の頼朝には悪人の自覚があったのだろうか。父上は地獄に行ったのか。極楽か。義時は自分の罪が分かっている。叔父上は極楽に行くだろう。そうでなくてはならん。」
重蔵は黙って実朝の傍に控え、口を挟まない。

実朝は公暁が去った大銀杏を悲しげに眺めた。

すると「この泰時を少し買いかぶってはおらんか。それに親父は地獄行きだよ。その覚悟がなければ、鎌倉の執権などできぬ。」と雑色の一人が立ち上がった。
「おお太郎泰時か。俺が殺されるのを黙ってみていたのだな。冷たい男だ」
「俺が刀を抜くこともあるまい。公暁にはもう戦う力はなかった」
「公暁にはかわいそうなこととなった。事前に捕まえてやっても良かった。しかし俺は死ななくてはならなかった。それ以外、この鎌倉を離れる術はないからな」
「西国行きか。親父はだいぶ反対したようだな」
「ああ、西国に行くと言ったら義時は無責任だと怒り狂っていたよ。母上には頭をはたかれた。しかしこれでいい。鎌倉に源氏の棟梁はいらない」
「しかし、この太郎泰時。さほどの器であろうか。真面目なだけの男だ」
「子供の頃からマツリゴトの本ばかり読んでいた。民を本気で救いたいと思っている。俺にはそこまでの情熱はない。義時もいつの間にか初心を忘れたと言っていた」
「父上が」
「ああそうさ。叔父上も若い頃は民を救いたかったらしい。正しいことをしたかったらしい。それが気が付いたら修羅道を歩み、抜け出せなくなっていた、と言っていたよ」
泰時は黙った。
「俺に言わせれば、義時はよくやった。鎌倉には今でも秩序がない。今は覇道政治をなすしかない。王道政治はまだ無理だ。それに和田を討ってからは、評定も開いて御家人たちの意見にもよく耳を傾けている」
実朝の一人語りは続く。
「西はまかせろ。朝廷はおれたちが黙らせる。使ってもいない内裏を建てるために、民を餓死させるような真似はさせない。」
「朝廷は、おれたちと同じく田畑と民に支えられて生きている。本来は同じ船に乗っているのにな。争っている場合ではない。」と泰時がつぶやく。
「それを分からせてやるのさ。本当の意味で、朝廷と鎌倉は協力していく。それが民を救う道だ。そのためには、かのお方には退いていただくほかない。」
「撫民」
「そう、撫民。おれたち武士にとっても、それが良いことなのだと、地頭たちにも分からせねばならん。朝廷ばかりを悪党だと言うわけにもいかんだろう。鎌倉だって朝廷に劣らぬほどの悪党だ。次の執権、北条泰時、やることは山ほどあるぞ」
「千幡、お前が鎌倉に残ってそれをやったらどうだ」
「源氏の棟梁だから無理だ。坂東武者にとっては永久によそものだからな。まあ実際、できねえんだよ。人には得手不得手があるのだ。おれは趣味人だ。趣味が多い。お前は趣味もなんにもないつまらない男だ。だからマツリゴトに向いている。」
「千幡、てめー、結構人を傷つける男だな」
と実朝を見ると、実朝は泣いている。なぜ泣いているのか分からない。そして、
「太郎よ、聖君になってくれ」とつぶやいた。
泰時は無言でうなづいた。

つづく。

「それでも実朝の右大臣昇進は官打ちである」説

2022-11-23 | 鎌倉殿の13人
身にそぐわない出世をした人間が、その為に不幸になる「状態」を「官打ち」という。

と辞書にありました。「状態をいう」ということは「実朝が死んだという状態」が「官打ち」なわけです。後鳥羽院が「殺してやろう」と思っていなくても、実際死んでしまえば「官打ち」「位打ち」なのです。まずこれが「日本語の字義にこだわった場合」、そうなるということです。しかし「辞書の説明は絶対」なわけはないので、誰かが誰かを「陥れるために位を上げること」とするなら、話は変わってきます。

承久記は「実朝の死は後鳥羽院による官打ち」であるとしています。後鳥羽院が実朝の不幸の為に、官打ちをしたのか。これを肯定する学者はほぼいません。なぜならオカルトめいた迷信だからです。
しかしそれでもずっと「官打ちじゃないのかな、官打ちは合理的説明になるな」と日本人は思ってきました。

日常でも出世した人間が「仕事の重圧に耐え切れず」、過労死したりうつになったするのは「よくあること」です。社長に「官打ち」をしようという意図はないでしょうが、「重要な位置につかせて自覚をうながそう」ぐらいの社長はいると思います。「出世したくない」という人もいます。私自身、仕事で「役職について」、健康を害したことがあるので、気持ちは分かります。

つまり「官打ち」「位打ち」(出世して重圧を背負って不幸になる状態)は「よくあること」であり、「合理的説明も明瞭につき」、別にオカルトでも迷信でもないのです。「打ち」が人間の意図を感じさせるので違和感があるだけで、「出世不幸」とでもすれば、すんなり理解できる考え方です。

しかし「誰かが目的をもって行うのが官打ちである」という方の定義を採用した場合は、「後鳥羽と実朝の関係」が問題となります。

最近は官打ちではないが通説である、というような叙述の場合、これは簡単に言えば「多数決の結果はそう」ということです。「通説」とは「今支持が多い説」です。

佐藤進一さんという中世史の偉人がいて、官打ちは別に主張してないでしょうが(調べてません)、「公武の対立と協力」を主張しました。どっちかというと「対立」に重きを置きました。
親王将軍問題については、幕府が公武融和の名のもとで、実は東西の分裂を狙っていることを「後鳥羽は鋭く看破した」と書いています。つまり「対立基調でとらえる」のです。

公武対立という立場からすると「官打ち」は「迷信であるが、やっていてもおかしくない」となり、公武協調という立場をとれば「やっていない」となります。
多数決の問題に過ぎません。今多数派は「やっていない」派です。蛇足ですが、佐藤進一さんの岩波文庫「日本の中世国家」、これは「しびれ」ます。美しい日本語です。非常に論理的であるのに、まるで「文学のよう」に私の言語中枢を刺激します。「知性とはこういうものか」と思ったりします。といって書かれている内容が全て正確か、はまた別問題です。

佐藤進一さんは「マルクス主義者ではないが、戦後の知識人としてマルクスの階級闘争の理論に影響を受けていた。だからだめだ。ソビエトが崩壊したんだから、階級闘争なんてないのだ、マルクス史観なんて終わっているのだ」てな感じで、マルクス史観憎しの一点から、否定的に捉える人が多くいます。特に「佐藤さんは東大なので京都大学系」や「40代以下の若手」はそういう傾向があります。大先生なのになー、否定だけじゃもったいない。全くマルクス主義者じゃないし。

佐藤さんの「孫弟子」である本郷和人さんは、それは違うという意図からなのか「京都大学系の古い先生ってマルクス主義者が多いのですよね」とか、チクリと皮肉を書いています。
「権門体制論の教祖である黒田俊雄さんは京大出身で大阪大学名誉教授の、バリバリのマルクス主義者じゃないか」とは言いません。さすがに露骨な学閥闘争をする気はない、のだと思います。黒田さんは象徴天皇制にすら牙をむくほどの「戦士」です。1973年の文章ですが、当時の世相も分かって、実に興味深い。権門体制論提唱の「意図」も明白に分かります。

さて私、本郷さんは少数派なので、結構好きです。本の内容はだいたい同じです。この間は「俺の先生の石井進が、中世には国家はなかったでしょの一言否定で権門体制論を放置したから、いけないのだ」とか書いてました。なんとか本郷さんに頑張ってほしい。権門体制論をこの半年ずっと読んでいる私としては、権門体制論の「あら」がよく見えてきましたので、そう願うばかりです。実際は本郷さんにそんな気はないから、東の40代の学者ですね。桃崎さんなども否定派ですから頑張ってほしい。ただ黒田俊雄さんの著作は読み物としては実に面白い。あれは歴史書というより思想書です。これまた私の言語中枢を刺激します。知識もあふれんばかりで、やっぱり大先生、巨匠でしょう。

とにかくアメリカのレッド・パージじゃあるまいし、マルクスに近いか遠いかでものを論じるとは、「児戯に等しい」と私は怒りを覚えます。そんなの学問ではない。いい加減にしろ、ってとこです。
私自身は「マルクス的進歩的知識人」に影響は受けたものの、マルクスなんて共産党宣言ぐらいしか読んだことがない。しかも日本語です。

「マルクス史観」は一度冷静に考えるべき問題ですね。「闘争」や「対立」が現実にあって、それが歴史を動かすのは歴然としています。ただし「階級闘争」でない場合が多い。武士も公家も「支配者という意味では同じ階級」です。でも階級闘争も全くないわけじゃない。。そして同じ経済的階層間の闘争もある。「資本家と労働者の区別」は今ははっきりしない。でも「貧乏人と富裕層、格差」は歴然としてあります。「闘争と協調」「対立と調和」が歴史を動かす以上、「マルクス史観だからダメ」という非論理的態度は捨て、何がダメなのか、どこを継承するべきか。「政治的立場にとらわれず」とかいう「ごたく」を言っている暇があったら、どうやっても政治性を帯びるのが言語の宿命なのだから、政治的中立という自分の立場に疑義を向け、真剣に考えるべきだと思います。ただしマルクスの名でものを語るのは個人的にはやめてほしい。「マルクスはこう書いている」とか。あれ、はもううんざりです。ちなみに黒田さんは一切そういう「マルクス引用」はしません。

今は「政治性がない感じにソフトに改変した権門体制論」が主流なので、「官打ちはない」とされていますが、それこそ歴史学は弁証法的に展開して「あーいえばこういう」ですから、「ない」が主流となれば「若手はあったとやがて主張する」ことになるはずです。20年後はどうなっているか分かりません。

20年後じゃなくても「あまりに公武協調を主張しすぎることは偏見」「権門体制論史観にとらわれてはならない、原理的思考に陥る」という態度も、すでに若い研究者の「研究の最前線」とかいう本を読むと出てきています。人間が二人よれば対立だって生じるわけで、「対立は基本的にない」なんて「調和した世界」が中世に(現代にも)存在するわけないのです。黒田さんのオリジナル権門体制論は、対立がないなどと全く言っていません。「あまりに対立がクローズアップされている。それはおかしい。公家と武家は一つの「機構」を通じて人民を支配したではないか。つまり対立しながらも相互に補完することも多かったのである。全支配階級の支配機構の総体を考えないといけない」と主張します。支配階級という点では公家も武家も同じということか。ちょっと何言ってるか分からない、のは、私の引用の仕方が粗雑だからです。読めば分かります。いや、私はまだちょっとわかっていない点もあります。でも世の中私より優れた読解力を持った方は多いでしょうし、難しい文章ですが、読めば(たぶん)分かります。「中世の国家と天皇」という比較的短い文章です。この文章が所収されている原著「日本中世の国家と宗教」は入手しにくいですが、岩波講座のどれかに転載されているので、そっちは図書館にあります。たぶん。

「実朝の右大臣昇進は官打ちじゃないかも知れないが(どっちでもいいが)、後鳥羽と実朝、後鳥羽と幕府に対立がない、なんてありえない。組織と組織の間には対立があって当然というか自然,
相互補完とは対立も包括する概念で、協調のことではない。また対立を競合と言い換えるのは姑息である」が私の立場です。

北条義時ファンの私は非暴力主義者

2022-11-23 | 鎌倉殿の13人
「主義」とか「イデオロギー」というのは怖いものなので、なるべく持たないようにしていますが、非暴力だけはどうも「私の主義」のようです。

そもそも子供のころから、暴力が嫌いでしたし、人に振るった記憶がありません。「ブス」とかは言いました。自分が不細工であることに気づきもせず、女子に言いました。そういう言葉の暴力は、あると思いますが、人を殴ったことは人生で一度もありません。

兄貴は私より多少暴力的です。兄貴は私をよくいじめましたので、私の母は優しい人でしたが、小学校入学以前は「兄貴の頭をはたく」ぐらいはしたようです。つくづく教育に暴力は必要ないと思います。暴力で教育すると、だいたい子供も暴力的になってしまう。虐待と同じで、連鎖するのです。まあ兄の暴力も私が中学生になる頃にはだいぶ収まりました。殴りはしません。押さえつけて「参ったと言え」というのが兄の暴力の定番でした。

高校教師を10年ほどしたことがありますが、体罰をしたことは一度もありません。それが周りの先生方に「威圧」を与えていたようです。暴力的な教師は私を避けるか、疎ましく扱うことが多かったと思います。後輩の教師から「この学校の男性教師で体罰をしないのは貴方だけだ」と言われたこともあります。それが平成10年頃です。今、状況は多少改善したでしょうか。もう教育に関わっていないので、分かりません。

「体罰を振るわない」ためには、実は修行が必要です。私の場合、大学時代にガンジーを多少研究したり、体罰問題を考えたりしていたので、「体罰はだめだ」という「絶対の確信」がありました。しかし他の先生は、そういう修行をしないまま、ただ教員免許だけとって教師になるということが多かったようです。

「体罰はダメだ」を一番言っていたのは、体育科教育学の教師です。体育教師も捨てたもんじゃないと思いました。「競争スポーツは一部のエリートのものであり、そのエリートすら過度なトレーニングにより身体に障害を負うことが多い。体育の基本は楽しく健康、レクリエーションだ」とも教授は言いました。こりゃ立派な人だ、と感心しました。

ということで「北条義時ファン」であっても「人に暴力を振るうことはありませんし、まして殺人なんか一ミリも肯定しません」。大河は物語です。「物語と日常の現実」、「物語と史実」は違います。