歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

どうする家康・徳川家康を「いい人」にするための「嘘のつき方」について

2023-09-25 | どうする家康
徳川家康を描く場合、系統は「山岡荘八系」と「司馬遼太郎系」に分かれます。山岡系だと「聖人君子」「神君」「いい人」となり、司馬遼太郎系だと「たぬき親父」「空虚な凡人」「ちょいわる親父」「大坂の陣では、ほぼ犯罪者」となります。

山岡という人は、いわゆる日本凄いぞ系の人で、強いイデオロギーを持っていました。嘘に嘘を重ねて家康を聖人君子として描いたわけです。ただそれが1960年代に大ヒットし、1980年代には大河「徳川家康」が製作されています。かなり古い大河ですが「春の坂道」などでも「神君家康」は登場しました。日本は武士の国で、その武士の国を作ったのが徳川家康であるとするなら、「徳川家康は立派な聖人君子、神の子、神君じゃないといけない」と思っていました。そうした「思想」のもと、山岡は神君家康像を作りあげ、それが史実だとも主張しました。

司馬さんという人はイデオロギーが嫌いで、要するにバランスのいい人でした。司馬さんにとって山岡が描いた家康は「戦前の皇国史観の亡霊」のようなものでした。そこで司馬さんは山岡家康に対する批判として「司馬流家康像」を作りあげました。神君は人間となり、聖人はたぬき親父となりました。ただしそれが史実というわけでもなさそうです。
司馬さんには家康自身を主人公とした「覇王の家」という作品もあります。主人公なので「美化」するのですが、不思議な美化の仕方をします。それは「凡人のくせに自分を空、解脱した人間とみせかけることができる芸当を持っていた」というもの。ほめているのか、けなしているのか分かりません。

「どうする家康」はいうまでもなく「山岡荘八系」です。私は「徳川史観を打破するのか」「山岡史観を超えるのか」と期待していたのですが、結局は「山岡家康の現代バージョン」というべき作品です。一見すると「神の君」という言い方で、家康を馬鹿にしているようにも見えるのですが、最後は神の君となる。本質は「山岡家康と全く同じ」と言っていいでしょう。最初から聖人君子であるわけではない、というのが唯一の違いと思われます。

ただし、徳川家康を「いい人」にするには、いくつか乗り越えなくてはいけないハードルがあります。史実としての家康は正妻と嫡男を殺しています。これはかつて信長の命令とされてきましたが、今は嫡男とその家臣によるクーデーターに起因するという説も出ています。「妻殺し、子殺し」をいかにクリアして「いい人にみせかけるか」。これがまず第一番のハードルでしょう。

1,第一のハードル、築山殿殺し

山岡荘八の場合、築山殿を悪女とし、武田と通じさせ、浮気も行わせ「こういう悪い女だったから殺さざる得なかった。逃がさなかったのは信長の命令もあったからだ、嫡男は逃がそうとしたが、信康があえて死を選んだ」という「作戦」を取りました。

しかし「ど家」の場合、本当は離婚状態だった築山殿と「夫婦円満にしないといけないという現代のオキテ」があります。夫婦仲が悪く側室ばかり作ったのでは「現代のお茶の間的価値観」に合わないからです。「夫婦仲はよく、嫡男とも良好ないい家庭の主だったのに、家康がその二人を殺した」という「大きな矛盾」を乗り越えなくてはならないのです。そこで「あれこれ無理な嘘」を重ねることになります。
築山殿は聡明な女性で、浮気もせず、武田とも通じない。側室は築山殿が推薦(コントロール)する。武田と「通じたように見える」のは「築山殿には武田との共同による、関東独立連合平和国家という壮大なビジョンがあったからだ。そして家康は生涯を通じて愛する築山殿、瀬名のためにその平和ビジョンを実現していく」、、、このように山岡より「さらに、いりくんだ嘘」になったのは、築山殿を「悪女、浮気女」にできないという条件があったからです。しかしその結果。約半年をかけて「築山殿物語」を繰り広げるはめになりました。なお嫡男は山岡と同じで、自ら死を選びます。

2.第二のハードル・側室が多い

大河「葵徳川三代」では、60を超えて側室を何人も持ち「ウハウハ」の家康が描かれました。御三家の初代は3人とも関ヶ原後、アラ還暦にできた子ですから、実態はこれに近い。しかし今回はコンプライアンスの問題?なのか、不倫を極端に嫌う価値観の産物なのか、そういう家康はNGのようです。最初の側室のお万は家康を誘惑する妖女として描かれます。まだ二代目秀忠の母である西郷の方、於愛、広瀬アリスは、最初の夫に殉死しようとするような女性、古典的な良妻賢母、ただし近視でしばしば家康を他人と間違える愛すべき失敗をする女性として描かれます。於愛は家康を敬ってはいるが、慕ってはいないという設定です。「家康が生涯愛したのは瀬名だけ」という妙な「縛り」が、作品を変な感じで歪めています。今度も側室は幾人もできますが、おそらく登場すらしないでしょう。

3,第三のハードル・秀吉の妹、旭を不幸にしたらいけない

旭というのは、秀吉の妹で、無理やり離縁させられ、家康の正妻とされました。人質でもあります。大河「功名が辻」では松本明子さんが演じて「けっこう不幸な感じ」でした。でも「いい人家康」は、旭を不幸にしてはなりません。山岡大河「徳川家康」では、秀忠と「実の親子ではないが、大変深い愛情を結んだ」とされました。だから「不幸ではない」という設定です。「どうする家康」では、表面上明るいキャラとして設定されました。最初は嫌がった家康も優しく接し、正妻のまま京都の豊臣家に戻すという設定です。実際はこの頃、既に病で寝たきりに近い状態だったはずです。

ここまでは女性関係ですが、実はもっと大きな障害もあります。「あの織田信長の協力者」だったことです。史実はともかく、ドラマや小説では織田信長は戦好きです。「平和構築」とはほど遠い印象がある(実際は信長にも平和志向は存在します)。そういう魔王みたいな男の協力者であること。これをいかに乗り換えるか。

4、第四のハードル、織田信長の協力者だった

協力者どころか、武田問題では「信長よりずっと好戦的」だったのが家康です。家康は平和主義者などではありません。これはまずい。

織田信長への協力について山岡大河「徳川家康」はこんな感じでした。「自分は必ずしも信長のやり方を支持しない。しかし今乱世をおさめられる可能性があるのは信長殿しかいない。従って多少の問題には目をつむり、天下泰平という大目標の為、自分は信長に協力する。しかし言うべきことは言う」、、なにかというと家康はこう言っていました。

「どうする家康」はそれを踏襲しました。信長を変な感じで描いて、家康は必ずしも信長に好意を持っていなかったことにする。しかし信長が「愛ゆえに」家康を離さない。家康はいつも信長と喧嘩。築山事件をめぐって最後はとうとう「本能寺で信長を殺そう」とする。

つまり家康は信長に鍛えられたものの、基本的には敵対していたと描いたのです。これで「一向一揆虐殺の信長の協力者だった史実」をごまかせます。一向一揆の虐殺は作品に登場しないと思います。

あとは石川数正とか豊臣秀吉の朝鮮侵略の問題とか色々ありますが、とにかく家康をいい人にする為には、嘘が絶対に必要です。その典型が山岡荘八であり、一見山岡を継承していないように見える「どうする家康」は確実に継承しており、同じように嘘を重ねて重ねて、家康を造形しています。

「どうする家康」・第28回「本能寺の変」・感想

2023-07-23 | どうする家康
家康が結局のところ信長を深くリスペクトしていた、というのは、話としては感動的です。瀬名のなにやら「おとぎ話」のような関東自立論に乗っかり、「武田勝頼と戦争しているふり」をして信長を騙そうとし、でも結局は武田勝頼に裏切られ、なんやかやで瀬名と嫡男信康が死ぬ。それをなぜか「自己のバカさ加減」を考えることなく、「信長のせい」と思い込み、韓国ドラマさながらに「復讐の鬼」と化す。そして3年、服従をしたふりをして信長を騙しぬき、本能寺で信長を殺そうとする。その前には「富士山観光」で信長をもてなし、「殺す機会など無数にあった」にもかかわらず殺さず、なぜか「それなりに要塞であったはずの本能寺」で殺そうとする。

話自体は「史実でない」とか言う以前に、「ストーリーとして不自然すぎて」、破綻しまくっているのですが、「本能寺の変」というのは、どんな下手な脚本家が描いてもそれなりに「絵になるもの」だなあと思います。最後の「家康ー」「信長ー」と呼び合うところなど、破綻など忘れて、一種「感動的」ですらありました。

信長も信長でどうやら「家康が俺を殺すなら仕方ない」と思って本能寺に入っている。一種の自殺願望というか「破滅願望」ですね。で、信長は当然息子の「信忠」が500ほどの兵しか持たずに二条新御所にいることも分かっているのですが、逃がさない。「嫡男を生かしておいては家康の天下が来ない」から「嫡男もろとも自殺」しようとしていることになります。どういう心理なんだろ?

信長と家康の国家観の違いもよく分かりません。「武力で抑える世から和をもって貴しとなす世」なのかなと思いますが、「天下をとって」家康は何をしようとしているのか。

基本的には個人的復讐なんですが、それを「天下をとる」と言うと、この家康が何かを考えているようにも見えてしまうわけです。

で、家康は天下をとるために急遽堺へ行く。堺?、、。そこで堺の会合衆と会う。「会合衆と会えば鉄砲だってわしらのもんじゃ」とか家来の誰かが言います。なんでだ?会うとそうなるのか?史実として堺にいたので、堺に行くしかないわけですが、「堺に数日滞在すると天下をとるための人脈が作れる」という話なわけです。無茶にもほどがあります。

無茶苦茶もいい加減にせいよ、、、と思っていたらそこへ「お市の方」が登場。「この世に兄の友は家康殿だけです」とか言う。で家康は心変わり。やっぱり「決断できない」と言います。
家来は喜んで「いつか天下をとればいい」とか適当なことを言い並べます。

で結局の明智が信長を討つことに。でも「待てよ」。物語の構成上では「明智と信長の仲を切り裂き、明智に乱を起こさせたのは家康」だということになります。まあ家康はただ明智が用意した「鯉が何か臭うから腐っているのでは」という行動をとっただけです。それが「本能寺の変の明智側の要因」ということになります。プラスさっき書いた「信長の破滅願望」「家康に殺されたい願望」です。

いろんな下らない陰謀論を見ましたが、ここまで無茶苦茶な説はみたことがない。鯉が腐っていたという話は本能寺の変の100年後に出された「武辺咄聞書」(ぶへんばなしききがき)という1680年ごろの文章集にあるようです。一応史料がないわけではない。ただそれを「家康の陰謀」というか「信長と明智の引き離し作戦」として描くわけです。よくよく考えたら「本能寺の変は、徳川家康の陰謀、明智失脚作戦の予期せぬ結果」となっているわけです。一応「本能寺陰謀論」ですね。大河が本能寺陰謀論を採用したのはおそらく史上初ですが、随分とせこい作戦、陰謀です。しかしそれもまた荒唐無稽なドラマとしては、一興なのかも知れません。

最後のシーンはいいと思うのですよ。結局自分を「たくましく」してくれたのは信長だと気が付いて「ありがとう」と言う。「友情もの」としては良いと思います。
でも見終わってしばらくすると何も残らない。壮大なる空虚話です。その時だけの友情話、、、何も残りません。よくここまで空虚な話を嘘ばかりついて作るものだなとは思います。

最後に真面目な話を書くと、「信長の死は本当にみんなが望んでいたこと」なのか。物語ではそうなっています。本人すら望んでいたとなっている。そこは史実から考えてみたいとは思いました。

織田信長と上杉謙信の蜜月とすれ違い、愛と哀しみのボレロ。

2023-07-19 | どうする家康

そういえば「どうする家康」には上杉謙信が登場しません。上杉謙信と徳川家康は対信玄で「同盟」して起請文まで交わしていたのに。

でもここは織田信長のお話。
織田信長と上杉謙信は直接会ったことも「直接戦ったことも」ありません(戦ったのは柴田勝家)が、共通の友人(足利義輝)を持ち、桶狭間の戦いの4年後にはすでに「交友関係」を持っています。交友関係どころか、実現はしないものの、信長の息子の一人を謙信の養子にするという話すらありました。信長上洛の4年も前の話です。

そして謙信の死のたった2年前まで、信長と謙信は「大の仲良し」だったのです。

謙信は「義の人」であり、「不義の人」である信長を嫌っていた。大河「天地人」などではそう描かれましたが、史実は違います。謙信は信長を親しいメル友(手紙友)と思っていたはずです。そもそも信長は自分から人を裏切ったことはほとんどなく、むしろ裏切られてばかりで、不義の人とはとても言えません。柴田勝家は若い頃信長の弟を担いで謀反を起こしましたが、許しています。前田利家は信長の近衆を殺して出奔しましたが、許しています。晩年の林や佐久間の追放にしても、殺してはいないのです。松永久秀が明確に裏切った時も、一回は許しています。息子の織田信雄が勝手に伊賀を攻めて、しかも負けた時も、許しています。信長が戦争において多くを殺したことは事実ですが、それなら他の大名も変わりません。どっから信長が「不義の人」という間違ったイメージが生まれたのか、実はそこには興味はあります。間違ったイメージが流布する理由です。まあ比叡山焼き討ちと一向一揆の根切りのせいでしょうが、それには「それぞれの理由」があるのです。特に一向一揆では信長は大切な親族を何人か殺されています。だから殺していいとは言いませんが、信長にとって「最大最強の敵」が一向一揆であることを考えれば、大名に対するより過酷な戦いとならざるえない理由は分かります。一向一揆との戦いは大名との戦いより一段上の「真剣勝負」だったのです。信長自身が手傷を負ったのも一向一揆との戦いの場面だけです。おそらく戦国最強は一向一揆であり、それとの戦いや殺人をもって不義とするのは、違うように私は思います。信長が「いいことをした」とはとても思いませんが、、、というか、私は信長に歴史的興味をもっていますが、別に好きなわけではない。英雄とも偉人とも思わない。むしろ残虐な殺人者というのが私にとっての信長です。

一向一揆との戦いに比べれば、謙信との関係など、まるでおとぎ話のように穏やかであり、手紙のやり取りは頻繁で、実に仲が良かったのです。謙信が49歳で亡くなったのは天正6年、1578年ですが、二人が「破局」に至ったのはその2年前、1576年、もしくは1577年のことです。その前の10年以上、二人は蜜月と言えるほど仲が良かったことは現存する手紙から明らかです。

理由は信玄という共通の敵がいたせい、ではありません。信玄と信長は同盟しており、信玄の死の直前まで、つまり信玄が信長を裏切って徳川を攻める直前まで、信長は幕府を代表して信玄と謙信の関係を「調停」していました。武田が「共通の敵」となったのは信玄の裏切りの後であり、裏切りとほぼ同時に信玄は死んでいるので、武田勝頼の時代です。

そのあたりから、武田討伐を優先する謙信と、武田、つまり関東ばかりに気を使ってはいられない信長との齟齬が少しづつ生じてきます。具体的には信長は武田討伐を何回か口約束しますが、信長には京都、義昭問題があったり、越前の統治がうまくいかない問題があったり、なにより本願寺問題があり、なかなか約束を守れません。その上、武田勝頼はかなり好戦的で「強き武将」であり、山を越えて東美濃に侵攻したり、徳川の高天神城を狙ったりと、勢いがありました。信長は武田に関しては相当な用意が必要と思っていたわけです。しかし謙信は「攻めよう」の一点張りです。動かない信長に謙信のイライラが募っていきました。

1574年、天正2年はじめ、謙信は武田に出兵します。そして同盟している家康・信長に協力を求めます。信玄が死んだ時は、すぐにでも武田を攻めようと言っていたのは信長の方だったのですが、この時になると信長は口で協力を約束するだけで動きません。そして上洛して「蘭奢待」(ランジャタイ)を切りとらせたりしています。謙信は当然腹を立てます。そこで信長が贈ったのが有名な「洛中洛外図」でした。高価なモノを贈ればなんとかなるだろうと思っているあたり、信長は人の心理が本当に読めないのだなと思います。実際、謙信の心は信長から離れていくのです。

天正2年、信長の目標は長島の一向一揆でした。最大最強の敵です。武田はあと回しです。長島のせん滅が終わると、やっと武田に対して動きます。翌年、1575年、天正3年が「長篠の戦い」です。ここで武田勝頼を撃破した信長は謙信に共同での武田攻めを提案します。しかし謙信にしてみればいつまでも信長の自己都合に振り回される気持ちはなかった上に、義昭からも信長と手を切れという手紙もきています。ここで謙信は信長の「一応の支配下」(実際はうまく統治できていなかった)である越前の隣の越中に兵を向けるのです。

越前の朝倉を滅ぼした後、信長は直接統治を目指さず、あまり能力もない旧朝倉の家臣に統治を任せ、結局は失敗し、一時越前は一向一揆の国となります。このことが私は不思議だったのですが、越前を支配することによって「謙信と隣国関係になる」ことを忌避したのかも知れません。謙信が越中を支配するとそうなります。でも越前支配の失敗により、信長は天正3年、越前の一向一揆を皆殺しにし、統治を柴田勝家に任せます。同時に謙信は越中を支配下に置くのです。結局は「隣国になってしまった」(中間に加賀はあるものの)わけです。

そして謙信の最晩年である天正5年9月、柴田勝家と謙信の戦いが生じます。有名な「手取川の戦い」です。戦いと言っても柴田勝家は守ろうとした七尾城の陥落を知って兵を引き上げ、その柴田軍を謙信が追撃したというのが実態です。その途中に手取川があり、地の利のない柴田軍は川に足をとられ、多くの死者を出します。織田信長は陣中にいませんから、正確には上杉謙信と織田信長が直接戦ったことはありません。

これがたった一度の「織田対上杉」ですが、この戦いのインパクトが強すぎ、しかも現代になってからもこの場面ばかりが映像化されるので、まるで「信長と謙信はずっと敵対していた」かのような誤解を与えるのです。謙信の意図が信長を打倒するための上洛であったかは、直後に謙信が死んでしまったので分かりません。ウィキペディアを読んだら「完全に上洛前提」で書かれていますが、歴史学者の本ではあまりそんな意見を見たことはありません。ちなみに司馬さんの小説、たしか「新史太閤記」でも、秀吉は「上洛ではない」と考え、「上洛だ」とする信長に対し「これが上様の限界だ」と考えたりするシーンがでてきます。司馬さんは信長をあまり高く評価していませんでした。「国盗り物語信長編」は編集者に拝み倒されて書いたもので、司馬さん自身の自発的意思ではありません。

話戻して。
手取川の戦いのクローズアップによって、敵対関係が続いていたと誤解されている信長と謙信ですが、実際は謙信と信長はずっと同盟者であり、しかもその仲は良好で、いろいろな齟齬から戦うはめになりましたが、それは謙信の死のわずか2年前のことです。ほとんどの期間、10年以上の長い月日、信長と謙信は持ちつ持たれつでやってきたのです。

ちなみに謙信の死の後、上杉は後継者をめぐって混乱し御館の乱が起きます。謙信の姉の子である上杉景勝が後継者となりますが、謙信時代の力は上杉にはもはやありません。武田は滅亡し、信長は上杉に兵を向けます。景勝は滅亡を覚悟し、遺書めいた手紙まで書いています。しかし幸運にも本能寺の変が起き、織田(柴田勝家)が引き上げたことで、上杉は九死に一生を得ます。豊臣政権に服属し、会津への転封(越後から引き離されての鉢植え大名化)を受け入れたことで120万石。関ケ原で減封され30万石。江戸初期に後継者がなく、お取り潰しのところを、徳川秀忠の隠し子である将軍後見の保科正之(会津松平の祖)に救ってもらって15万石。「忠臣蔵」(五代、徳川綱吉時代)では、上杉当主が吉良上野介の息子だったため、上杉米沢藩と赤穂浪士・大石内蔵助は「物語上」しばしば暗闘を繰り広げます、あの時の上杉は15万石の大名でした。江戸中期には財政危機。上杉鷹山がなんとかこれを乗り切ります。江戸末期には佐幕派となって石高も19万石まで回復。明治維新後は長岡藩とともに戦った北越戦争の敗北を経て、中立または官軍寄りの立場に転身しますが、幕府に協力した責任を問われ、15万石に逆戻り。そして版籍奉還です。

「どうする家康」の歴史学・史料からみる織田信長・徳川家康と武田信玄の本当の関係

2023-07-17 | どうする家康
「どうする家康」はドラマであって史実ではありません。それは当然のことでもあります。しかしこの番組を通じて「本当の歴史を学ぶ」ことは可能です。つまり「では史実はどうだったのか」ということです。史実ではないと批判しても意味はないでしょうが、「史実はどうだったか」を調べることには意味があると、私は考えます。

1.織田信長と武田信玄は強い「同盟関係」にあった。

「どうする家康」では、初めから信長と信玄が敵対関係にあるように描かれています。信玄は偉大な人物として描かれます。さらに信長は「京都に巣くう魔物」だと信玄は言います。これは信玄が信長の「手切れ」段階でのセリフですので、この段階1572年には信玄が「巣くう魔物」と考えていた可能性はなるほどあります。しかし問題なのは「裏切ったのは信玄のほう」だと言うことです。

信長の「上洛」1568年は、信玄の「了解」のもとに行われました。信長の領国である美濃と信玄の甲斐は隣国です。また謙信の越後も近い国です。信玄と謙信の「承諾なし」では、信長は上洛はできません。特に信玄との関係は同盟であり、強いものでした。武田勝頼、信玄の二代目ですが、この勝頼の妻は「信長の養女、信長の妹が遠山氏との間にもうけた女性)でした。つまり信長は勝頼の「義父」なのです。この婚姻が成ったのは上洛の3年前です。この女性は1571年(信玄の裏切りの前年)に死亡しますが、武田信勝(勝頼の嫡男)を生んでいます。また信長の嫡男信忠と信玄の娘との間にも縁組が一応は成立していました。ただしこの信玄の娘、松姫は1561年の生まれですから上洛時にはまだ6歳です。実際に嫁いだわけではありません。勝頼の妻の死を受けて、実際に嫁ぐ動きが起こりますが、信玄と信長の手切れによって破談状態となります。1572年、松姫が11歳の時です。松姫は後年、徳川家康の庇護下で生き抜き、保科正之(会津松平の祖)を異母姉と共に育てます。

このように「縁組」関係を見ただけでも、信玄と信長の関係が深い同盟であったことが分かります。信玄の西上行動はこの同盟を破棄することなく、突然行われました。信長が最後まで武田に対して憎悪を燃やしたのはその為です。「お人好しの信長が老獪で悪賢い信玄に裏切られた」とまで言っていいか分かりませんが、ざっくり言えばそういうことになります。

2,信玄は信長と同盟を結んでおきながら、信長の同盟者である徳川家康を挑発し続けた。

さらに軍事的に見れば、、、武田信玄は信長の上洛を認める見返りに「今川侵略」を信長に認めさせます。結果、旧今川領は分割され、西が徳川家康のもの、東が武田信玄のものとなりました。なお、この今川攻めに際し、今川義元の娘を妻にしていた信玄嫡男の義信は異議を唱え、結局、信玄はこの嫡男を殺しています。信長は多くいる息子を一人も殺していませんが、信玄、家康は嫡男を殺しています。武田を継げるわけもなかった諏訪勝頼(武田勝頼)が武田家を継いだのはその為です。武田勝頼が「ほとんどの家臣の裏切り」にあって死ぬのも、正当性に大きな問題があったから、とも解釈できます。

さて「偉大なる」信玄ですが、信玄は家康との境界であった「遠江」(とおとうみ)に手を出します。同盟者が同盟している相手である家康に手を出したわけです。当時であっても禁じ手と言ってよいでしょう。今川分割時には「遠江に出兵してくれてありがとう」という手紙すら信玄は書いているにもかかわらず、です。(恵林寺所蔵文書)

もっとも実際に「手を出した」のは、信玄の国人(国衆ともいう)である秋山虎繁ら信濃下伊那衆です。信玄が積極的だったとまでは言えません。統制がとれていなかったという解釈も可能です。

しかし徳川家康は信濃下伊那衆の行動を「偉大な信玄の許可を得たもの」とみなしました。信玄が国人たちをコントロールできないとは考えなかったのです。

そこで徳川家康は信玄に対し協定違反であると抗議を行い、もちろんそのことを信長にチクり(報告)します。

3,焦った信玄はあちこちに弁明した・家康には起請文すら書いた

「どうする家康」は信玄賛美が過剰ですので「信玄を怒らすな」というサブタイトルすらつけていますが、史実としてはこの段階1569年に武田信玄が思っていたのは「織田信長を怒らすな」ということです。家康に弁明するとともに、信長に対してもわざわざ弁明の手紙を送っています。(古典籍展観大入札会目録文書)
さらに家康には起請文すら書いて家康の「誤解」を解こうとしています。(武徳編年集成)

信玄がこのように「へりくだる」のには理由がありました。信長上洛の4年後、信玄は信長との同盟を破棄する通達もせず、一方的に遠江を侵略しますが、「同盟一方的破棄」は信玄の習慣であって、この今川分割にあたっても実に「信義を欠いた行動」を信玄という男はとっているのです。それは今川、北条、武田の三国同盟の一方的破棄です。

怒ったのはむろん関東の雄、北条です。信玄の裏切りに対し、当然大きな不信感を抱きます。この北条の脅威があったため、信玄は家康・信長に対して「へりくだる」しかなかったのです。3年後、突然遠江を侵略した時(つまり三方ヶ原の戦い時)、信玄は「3年間のモヤモヤを散じた」と言っています。3年間とは、家康に「へりくだった時」からの日時です。

4,上杉謙信との関係で織田信長を頼り切っていた武田信玄

信玄と家康の関係はこの後もずっと「ぎくしゃく」です。「北条や今川氏真と仲良くしないように信長殿から家康に言ってくれ」とも信長に手紙を送っています。(神田孝平氏旧蔵文書)

しかし一方、「天下静謐」を掲げ、幕府とともに各大名の紛争の「調停」に乗り出した信長には大きな信頼と期待を寄せていました。「織田信長は上洛時点で既に侵略者ではなく調停者」ということも見逃されがちです。信長の越前侵略のイメージが強すぎるからでしょう。越前はなるほど侵略っぽいですが、形式上は「官軍、朝廷軍、幕府軍」として行動していました。上洛とともに「あっちこっちに喧嘩を売った」というのは間違いです。そもそも上洛してすぐに岐阜に引き上げてしまっているのですから、喧嘩の売りようもないのです。上洛時点では毛利とも武田とも上杉とも敵対していません。

信長は上杉謙信とも良好な関係を築いていましたから、武田と上杉の紛争を「真面目に」調停していました。1569年、つまり信長上洛、信玄・家康の今川侵略の翌年、北条には不信感を抱かれ、謙信とは対立し、家康にも「信じられないやつ」とされた武田信玄はその徳のなさから関東随一の嫌われ者となっていました。

この時、信玄は外交役であった家臣の市川十郎に対し「信玄のことは、ただいま信長をたのむの他、又味方なく候」と手紙を送っています。(武家事紀)

関東には全く味方がいないから、信長を頼るしかない。そのことを外交官であるお前は十分に理解して行動しろ、ということです。家臣に送った政治的な手紙ですから、嘘をつく理由がありません。

5,徳川家康と武田信玄は本当に仲が悪く、家康が信長を信玄との抗争に巻き込んだ

信玄は「信長に見限られたらおれは終わりだ」とまで外交官に命じているのですから、積極的に信長を裏切るわけがありません。しかし火種は存在します。それが家康です。家康・北条・謙信が善人で、信玄のみが悪人などということは全くありませんが、それにしても以上見てきたように信玄のやり口はいかにも「悪らつ」です。戦国時代にあっても「そりゃひどいだろ」というところです。むろん信玄の側に立つなら「山梨は塩がとれないからどうしても海が欲しい」とか「今川の国衆たちに今川に代わって武田が守ってくれと頼まれた」とか理由はあるでしょう。ただ私はドラマで描かれたような偉人ではないという前提で書いているため、信玄にはキツイ評価をあえて行っているのです。そういう文飾(オーバーな表現)があることを前提にしてお読みください。

信玄は信長に頼っていました。世に信長以外の味方がいないからです。上杉が挑発してきても「信長と幕府が反対している」という理由で上杉との戦闘を避けます。浅井長政が信長と敵対した時は、信長を心配する手紙を送り、姉川の戦いで信長が一定の勝利をつかんだ時は、祝電を送っています。(徳川美術館所蔵文書)

一方、家康は信玄を全く信用していませんでした。尊敬していたとしたら「よくあそこまで悪らつになれるものだ」と尊敬していたのかも知れません。家康が信玄の旧臣を多く採用したため、徳川史観では信玄を尊敬していたことになっていますが、私としては全く尊敬などなかったと考えます。ちなみに1988年の大河中井貴一主演の「武田信玄」では、この信玄の「悪らつぶり」はかなり正確に描かれています。それでもこの作品は大ヒットし、40パーセントという異常な視聴率を獲得し、大河屈指の名作とされました。北条義時の「悪らつぶり」を描いて大河屈指の名作となった「鎌倉殿の13人」を考えてみても、「悪らつ」であることを描くことが、大河にとってマイナスになることはないのです。むしろ悪らつであることを改ざんし、あたかも偉人であるかの如く描くことが、大河にとってはマイナスとなるようにも思えます。

話がそれましたが、信玄の悪らつさをよく理解していた家康は、信玄と断交して謙信と同盟します。1570年10月のことです。三方ヶ原のちょうど2年前です。つまり2年間、信玄は家康と断交していました。一方で、信玄は信長しか味方がいない、わけですから、信長とは断交していませんし、同盟を続けています。家康との断交の翌年である1571年には、信長にいろいろ調停してもらったお返しなのか、今度は石山本願寺と信長の関係を信玄が調停したりしています。三方ヶ原などは信長から見れば家康と信玄の強情さが招いた私戦です。あんなに止めたのに(これは想像で止めたという史料は存在しません)喧嘩ばかりしているからこうなった。信長は家康に対しそう感じたはずです。たった3000しか兵を送らなかったのも、家康が勝手に始めた戦争と考えていたとすれば理解は可能です。実際、信長は家康とも信玄とも同盟しているのに、この二人は真に憎みあっており、喧嘩ばかりしていたのです。

6,徳川家康と上杉謙信の起請文の過激な内容

1570年に上杉謙信と同盟するにあたり、家康はこのような協定を結んでいます。

1,信玄とは真に断交する
2,家康は謙信と信長の関係をとりもつ
3,家康は信玄と信長の縁組が破談となるよう信長に進言する。(縁談とは織田信忠と松姫の婚約のこと、上記)

「3」は過激です。このころ、つまり1570年、信玄は北条との同盟を復活させていました。そうなると敵は謙信と家康です。家康としては、信玄など全く信用していませんから、謙信と結ぶことによって自国を守ろうとします。家康は信長の助けも信じてはいなかったでしょう。「信長は人が良すぎる。信玄など信用して」と考えていたかも知れません。

7、突如、信長を裏切った信玄

信長が家康と信玄の関係を調停しようとした事実はあまりないようです。喧嘩はしても戦闘までには至らないだろうと思っていたのでしょう。信長が調停したのは「謙信と信玄の仲」でした。

それは信玄裏切り、1572年10月の直前まで続いていました。信玄が遠江に「西上」するとは信長は考えもしなかったのです。

・信長は信玄の上杉への戦闘行動の抑制について、それに感謝する手紙を1572年の10月に送っている。(酒井利孝氏所蔵文書)

つまり信玄が既に徳川に向けて出兵をした時点ですら、信長は気が付かず、「上杉と武田との調停に協力して、上杉との戦闘を我慢してくれてありがとう」という手紙を信玄に送っているのです。信長が武田を助けて調停してやっているにもかかわらず「我慢してくれてありがたい」とか「お目出たいこと」を書き送っているのです。信玄からすれば「なんという善良でバカなやつだろう」ということになります。

8,信玄の行動をあわれむ上杉謙信

信玄が「信長以外に味方はいない」と家臣に手紙を送ったのは1569年でした。その3年後以内に信玄は上杉との「調停」に腐心している信長を裏切り、西上の軍を進めます。理由は上杉との調停がそれなりにうまくいき、北条との関係は改善し、家康以外に敵がいなくなったからです。

なんのことはない、信長は自らが同盟する家康と自分自身に危機を招くため、信玄と謙信の仲を調停していたようなものです。信長ほどの「お人好しはいない」と、信玄も家康も思ったでしょう。

しかし謙信の反応は違っていました。「信玄の運はきわまった」「蜂の巣に手を入れたようなものだ」と信玄の行動を半ばあざ笑っています。散々非道を繰り返し、信を失い、信長によってやっと生き延びた信玄が、ここにきて「恩人」である信長すら「利」によって裏切るとすると、もはや信玄を信じる者などこの世から誰もいなくなります。

北条も「次は我が身」と思うでしょう。また「信長と敵対する武将」ですら信玄を信じません。実際、信長と死闘を繰り返していた朝倉義景は、この信玄の行動を無視して、越前に引き上げてしまいます。信玄は「絶好の好機なのになぜ帰る」と手紙を送りますが、朝倉義景にしてみれば「到底信玄を信じることなどできない。ともに行動はできない」ということでしょう。

上杉謙信が特に「義の人」だとは思えませんが、それでもここまで「義を踏みにじれ」ば、「もはや誰も信玄など信用しない」ということぐらいは当然の理として判断できるでしょう。謙信はこの信玄の行動に武田家の衰退を的確に感じ取りました。

謙信を義の人だと思わないのは、「謙信の戦争は敵地のコメを奪うことが目的」という藤木久志さんの本を「読んでしまった」からですが、深く調べてはいないので、「義の人のはずない」とまで強くは言えません。謙信がどれほどの倫理心を持っていたのか分かりませんが、仮に多少なりとも「義の人」だとすると、その「義の人」は織田信長という武将を「不義の人」などとは思っていないことが、上記の「信玄運のきわみ」からも分かります。実は謙信と信長は10年以上親密な文通をしており、同盟関係は信玄が死んだ後も続きます。謙信が信長と決裂するのは互いの領土拡張によって越前・越中で領地が接してしまった時、つまり謙信の死(49歳)のわずか1年半前です。「義の人」であるかも知れない謙信は、信長とずっと同盟していました。信長は幕府を代表してせっせと紛争調停をやってましたから、誠実な人間とすら思ったでしょう。本願寺や浅井・朝倉、(もしかすると足利義昭)の「いわゆる信長包囲網」が成功するとも思っていなかったこと、それが正しいとも思っていなかったことは、「信玄運のきわみ」という言葉からも十分読み取れます。

9,戦国一の悪党「武田信玄」と戦国一のお人好し「織田信長」

上記の題名はかなりデフォルメしていますが、おおざっぱに言えばそんなイメージを私は持ちます。

信玄の「西上」と言えば「正義の行動」と思う向きもあるでしょうし、「どうする家康」でもそう描かれました。しかしそれは史実とはあまりに乖離しています。

それは信長の悪行(特に比叡山焼き討ち)がクローズアップされた結果です。幕府に関して言えば、義昭は不公平な政治を行い、腐敗していましたから「義昭を助ける」などというのは、形式上は正義でも、実際には正義でもなんでもありません。信長は理想主義的な側面が強く、幕府にも朝廷にも「公平」を迫りました。正親町天皇などもその都度その都度で縁故に合わせた適当な判断をするので、何度か信長に𠮟りつけられ、息子を通じて詫びを入れています。義昭がいつも信長に叱られていたことは周知の通りです。信長は天下を担う一人として公平を重視しました。むろん信長なりの公平であって、信長が無私で公平な人だなどという気はありません。信長は天下静謐や公平という綺麗ごとを武器にして、幕府や朝廷と対峙したという言い方のほうが正確かも知れません。(対峙です。対立でも対決でもありません。信長が朝廷と対立していなかったという説は、そこそこ知っています。ただし学説は多数決では決まらないので、私は少数意見も大事にします)

ところが信玄は違います。綺麗ごとが武器になるとは考えなかったようです。信玄は遠江を狙い、家康への怒りを散じようとしました。信玄が天下国家や「公平な政治のため」動いたという確実な証拠はありません。それがないから西上は上洛なのか遠江侵攻なのかが分からず、確定した説も存在しないのです。

家康を狙えば、いずれ信長と衝突する。しかし信長は、本願寺、浅井、朝倉との戦争で弱っている。大丈夫だろう。お人好しの信長の調停のおかげで、北条、上杉とはなんかとうまくやれそうだ、ならあの憎き家康を潰し、遠江を手に入れてやろう。理想主義的な信長に対し、信玄は現実的動機から動き、そのために「信と義と恩」を軽視しました。「信長包囲網」と言っても各自が各自の理由で動いていただけで、団結行動ではありませんが、とにかく各自であっても信長は義昭とはうまくいかず、本願寺、浅井、朝倉とは戦闘状態にあった。信長が弱っているとみた信玄は、勝ち馬に乗ろうとし、でも長い目でみれば「信と義と恩の軽視」によって結局は武田家を滅ぼしました。今川を裏切らなければ、嫡男義信を殺すこともなく、勝頼のような「よそ者」が当主となることもなく、武田は生き残ったかも知れません。信長を裏切らなければ、武田滅亡がなかった確率も高いでしょう。すべては信玄の不徳が招いた結果とも言えそうです。

信玄が信長に対して敵意を持つ理由が皆無とは言いません。信長は善人でなく、信玄にも信長に敵対する大義はあったのでしょう。しかし信玄の第一の狙いはあくまで家康です。信玄がもし死ななければ、岐阜まで疲れた兵を率いて行って、岐阜城の信長5万の兵と対峙し、でも兵站は持ちませんから、にらみ合いになって引き上げ、だったでしょう。川中島の戦いも、ほとんどは「にらみ合い」です。負ける戦いを信玄は積極的にはしなかったと考えられます。もし戦えば、かなりの確率で負けていた、疲れた3万弱の武田軍と5万で地の利を持つ織田軍では、勝負にすらならなかったと思われます。信長が大軍を岐阜に集結できると私(というより多くの歴史学者)が考えるのは、朝倉義景が信玄の西上に同調せず、信玄を信用することなく越前に引き上げたからで、これも信玄の不徳が招いた結果です。(勝負にすらならない、の部分は高名な信長研究家、谷口克広氏の意見を参照しました。)

信玄がドラマで過剰に偉大視されることを批判しても何の意味もありませんが、史実を調べてみると「ドラマと史実はやはり違う」とまあ「当然のこと」を感じます。ドラマはドラマと割り切って考えるべきなのでしょう。あまり史実にこだわると、ドラマが楽しめない、と日々自らの「こだわり」を反省しています。
参考・金子拓「裏切られ信長・不器用すぎた天下人」

即興小説「信長の涙」・金ケ崎ののちに

2023-04-25 | どうする家康
ある歴史ドラマにリスペクトを込めて。

金ケ崎から逃げ帰った信長は岐阜城に戻った。帰蝶は急いで信長の部屋を訪れた。いつもにもまして、信長は孤独に見えた。
帰蝶の顔を信長は見た。抑えていた感情がはじけたのだろう。信長は泣き崩れた。

「またおれの兵が死んだ。あの権助も死んだ。弥太郎も死んだ。子供のころから親しくしてきた友が死んだ」信長は顔を覆った。
「また、、、まただ、、、また殺してしまった」
帰蝶は涙を堪えた。ここで泣くわけにはいかない。
「信長様のせいではありません。信長様は天下静謐のため尽くしているのです」
信長の涙顔が怒りに変わった。
「帰蝶、よくそんなことを言えるな。おれの為に働いてくれた家臣が死んだのだ。朝倉は、すぐにも降伏すると思っていた。人の死は多くはないはずだった。浅井が裏切った。そして朝倉の兵も死んだ。浅井の兵も死んだのだ。おれは、長政を殺さなくてはならなくなった。また殺さなくてはならないのだ。」
「信長様のせいではございません」
「おれが殺したのだ。そしてこれからも殺さなくてはならぬ。何人殺せば、何人殺せば、この世に静謐が訪れるのだ。」
「信長様のせいではございません」
「己の手を汚したことのない、おのれごときが何を言うか。おれのせいなのだ。おれの兵が死ねば、それはおれのせいなのだ。いや今やおれは天下にいる。天下で起こることは、全ておれのせいだ。花が落ちるのも、子供らが死んでも、それはおれのせいだ。天下を担うとは、そういうことなのだ」
「信長様のせいではございません!」
「まだ言うか」信長は力なく帰蝶にもたれかかり、そして帰蝶の手を握った。その手は温かかった。
帰蝶の目から堪えていた涙がこぼれた。
「帰蝶泣くな。おれの為に泣くな。これは命令だ。おれの為に、、、一滴の涙も流してはならぬ。帰蝶が支えてくれなけばおれは倒れる。お前は揺らぐな。」
帰蝶は信長の手を握り締めた。そして体を抱きしめた。

了。

即興小説「金ケ崎の家康」(1分で読めます)

2023-04-19 | どうする家康
浅井が敵に回る。この一報が信長軍を震撼させた時、前線にいた家康は、朝倉総攻撃に備え、信長本陣での軍議に参加するため、戻ってきていた。

軍議は短かった。柴田勝家が静かな声で、「両面と戦うという選択もありますな」と信長に進言した。信長連合軍は3万、朝倉浅井軍は2万5千程度と勝家は言った。
「勝てぬ戦でもありますまい」

信長は彼の癖で小さく首をかしげ、それから「いや、やめておこう。俺は逃げる」と言った。言った時には既に立ち上がり、重い甲冑を長乗馬のために脱ごうとしていた。
「しんがりは、藤吉郎と十兵衛光秀」と信長は平然と言った。藤吉郎も光秀もちらと信長の顔を見ただけで何も言わない。

なんだ、織田家という家は、、、。

家康は腹が立ってならなかった。自分は浅井長政の従軍を主張した。しかし信長は奇襲だからという妙な理由でそれを退けた。
信長は、すでに立ち去ろうとしている。自分など眼中にもないようだ。

この態度だ、、、この態度が長政を怒らせたのだ。われらは国人領主から成りあがった小大名に過ぎぬ。信長はこの傲慢な態度で長政にも接していた。
人の心が読めぬ大将。これが信長の限界だ、、、そう家康は思った。

「織田殿、待ってもらおう」家康がそう発すると、信長は体を半分ほど家康に向けた。

「織田殿、謝ってもらいたい。こんな遠地までわれらを呼び寄せて、その態度はなんだ。その傲慢な態度が長政を怒らせたのだ。」

信長は不思議な表情で家康の言葉を聞いていた。それからふっと笑った。

「竹千代、長政はそちほど心が細くはないわ。やつはやつなりに損得を考えたのだ。あいつは俺に似ている。俺を倒して、俺にとって代わろうとしているのよ。あいつはそういう大きな男だ」

「信長、貴様」、小さな男と言われた家康は激高した。信長は赤子をあやすような声で、「竹千代、今は謝っている暇もない。さあ、逃げよう。死ぬなよ、竹千代」と言った。

家康一人が激高している。さすがに恥ずかしくなった。信長はそのまま速足で去った。

織田家の諸将も去り、秀吉、光秀、家康だけが残った。家康には確かめたいことがあった。なぜ秀吉と光秀は平然としているのだ。それが知りたい。
そんな家康とは関わりなく、二人はもういかに退くかを早口で話しあっている。秀吉が家康に気が付き「何をしておられる。家康殿もはよう逃げられよ」と言った。

家康は早口で、死命を受けても平然としている秀吉と光秀が理解できないからだと言った。

「まあもともとですから」と秀吉は答える。光秀はそれにうなづいている。信長に拾われなければ、とっくにどこかでのたれ死にしていた。死んでも「もともと」なのだ。そういうことを秀吉は特に気負い込むでもなく、平然と言った。

忠義とは違った心持ちだろう。無常観とも少し違う。自分はいつ死んでも当然な人間。家康は見たこともない人間に出会った気がした。

「私も十兵衛もそういう地獄のような若き時を生きてきたのだ。さっ、分かったならもう逃げろ」

家康は思わず震えた。この二人の静かに湧き出てくる凄みはどうであろう。その「地獄」とやらを家康は知らない。今は聞く時でもない。しかし家康が想像する以上に悲惨な日々だったに違いない。

自分は人質だった。しかし今川では大事に育てられた。食べるものに困ったこともない。

この時家康は、この小男と切れ者顔の男には一生勝てないような気がした。そしてこの男たちを家来にしている信長とは何者かと考えた。途方もない怪物ではあるまいか。おれは、この男たちを越えていかねばならないのか。おれに、それができようか。この凄みが自分の身につく時がくるだろうか。

いや違う、人には持って生まれた性質がある。おれは彼らとは違う。おれにも生きるための武器があるはずだ。

おれは人を裏切らない、いや氏真を裏切ったのか。いやあれは氏真が松平に助力をしなかったせいだ。助力しない大大名など国人領主に必要ない。

おれは律義者だ。そうだそれしかない。この律儀な性格で諸将の信頼を買うしかないのだ。信長には信長の、光秀には光秀の、秀吉には秀吉の道がある。

おれはおれの道を行くほかない。

それからふいに「藤吉郎殿、光秀殿、わしもしんがりに加えてくれ」と言った。言ったあとですぐ後悔した。でもこれでいい。命をかけても、人々の信頼をかうのだ。家康はそう思った。
 了。

「どうする家康」の歴史学・国衆史観の相対化

2023-01-19 | どうする家康
純粋に歴史学の話である。ドラマの話はほぼない。

「どうする家康」の脚本家についてはほぼ何も知らない。しかし時代考証陣を見るかぎり「国衆史観」をとる学者が多いように見える。

時代考証陣の著作は数冊しか読んだことがない。従ってこれは時代考証陣への批判などではない。純粋に「国衆史観は成立するか」というだけの話である。

国衆とは戦国期にあって、「ある程度の領域を一円的に治めた」存在とされる。「支配」という言葉を使わず「治めた」というべき存在とされる。「国人領主」との違いは、「領域支配」が成立していることである。「国衆」は自立的存在とされる。国衆が治めた領域は「国」とされる。それは基本的には戦国大名と違わない。領域が大きいと大名となるだけである。また大名はいくつかの国衆と連合してその「盟主」というべき立場にあった。

国衆史観によれば、戦国の最小社会単位は「村」であり、人々は「村」に所属することで生存可能であった。「村」も自立的傾向が強い集団である。武装もしていた。決して弱い民などではない。いくつかの村の集合体が「領域」である。国衆と「村」の関係は、互恵的関係とされる。「村」は国衆に税を納める。その代わり国衆は村を守る。村の平和を守る権力こそ「国衆権力」とされる。「村」の敵は「村」である。この村の間の紛争を収めることが国衆の主な義務であった。

国衆は自立的存在だが、近隣に他の戦国大名の「連合体」があった場合、武力的には相対的に弱い立場となる。そこで国衆は他の戦国大名と連合することで「別の連合体」を形成する。それは契約に近い関係で、ここでも互恵的関係が成立していたとされる。つまり国衆は戦国大名の軍事的動員に応じる。その代わり戦国大名は国衆および国衆が治める村の「平和」を守る義務を負った。この義務が果たせない場合、契約は無効となり、国衆が「他の大名連合」に属するのを阻止することはできなかった。

徳川家康は岡崎に入城した時はまだ三河を平定しておらず、国衆だったとされる。彼は国衆として「今川連合」に属して、「織田連合」と戦っていた。今川と織田の境界に位置していたからである。このような境界では「今川連合の村」と「織田連合の村」の紛争が絶えなかった。その背後には飢餓があった。村の紛争を収めるのは国衆の役割であり、松平は織田と戦って「村の平和を守る」義務を負っていた。織田側も「織田連合の村」を守る義務を負っていた。しかし織田という大名との闘いは松平にとっては不利であった。国衆だからである。従ってそれは今川と織田との戦争に直結する「はず」であった。しかし今川は多方面で戦っており、松平に割く余力がなかった。ここで今川と松平の「契約」は無効になる。そして松平は「織田連合」に属することで、領域、「村」の「平和」を守った。

さて、この考えは合理的だろうか。私にはいろいろ疑問がある。まずイメージだけで書くなら「あまりにも調和的」である。「権力とは平和を守るもの」とされる。警官がいれば秩序は守られるから、権力に平和をもたらす側面はあるだろう。しかしそれだけが権力の特性だろうか。「国衆」は「いい権力」であり、「村」との合意に基づいて平和を守っているのだろうか。

唯物史観的歴史学は権力を基本的には「良くないもの」とする「傾向」があった。そして「民」を善とする傾向もあった。しかしそれはあくまで「傾向」であり、権力=悪という単純な二分法をとっていない。唯物史観に対抗して、唯物史観を無効化することに努めた国衆史観は、権力を「基本的に良いもの」と考えている。戦争は「村=民」が起こすとも考えているようである。それは正しいのであろうか。

A・戦国大名が戦を起こして民が巻き込まれた。
B・村と村が紛争を起こして、民が紛争を起こして、国衆や戦国大名が巻き込まれた。

Bが国衆史観の歴史観なのであろうか。だとするとただ民の位置を「入れ替えただけ」の図式的思考に思えて仕方ないのである。

私に答えはない。ただ「権門体制論」(黒田俊雄のオリジナル理論ではなく、現代の亜流権門体制論)と同じ、予定調和的歴史観に見えて仕方ないのである。「鎌倉殿の13人」は武士の本質、権力の本質を「暴力」と考えていた。一般には暴力の対極に「法治国家」があるとされる。しかしそれは正しいであろうか。種を明かせばこれは私の考えではない。村井良介さんが「戦国大名論」で投げかけている「法と暴力は対極にあるのか」「合意の背景に暴力的優位性の差は存在しないのか」「暴力が露わでなくとも。潜在的に暴力(強制力)がない法に実効性はあるのか」という問いをパクっているだけである。しかもちゃんとパクれているかも分からない、しかしパクるとは一種の同意であって、私もまたそう思うのである。

繰り返すが私にまだ回答はない。ただ国衆史観(私の上記のまとめに間違いは多いだろうが、私は上記のように理解した)をそのまま受け入れることは、私個人に関して言えば、保留せざるを得ないのである。

「どうする家康」第1回の歴史学的考察・国衆史観について

2023-01-12 | どうする家康
ドラマの内容というより歴史学の話です。ドラマ批判はしません。それから松潤批判もしません。

1,遊んでいる松潤には学説的裏付けがある?

誰でも気が付くように、語りは「従来説(安定説)」で「人質で苦労」と言いながら、松潤自体は「新説」に基づいて楽しそうに遊んで恋愛までしています。
これは時代考証のおひとりである柴裕之氏の「新説=仮説」を「デフォルメした」ものと考えていいと思います。柴氏には「徳川家康・境界の領主から天下人へ (中世から近世へ)」「織田信長・戦国時代の正義を貫く」「青年家康 松平元康の実像 (角川選書 662)」などの著作があり、一応私は全部読んでいます。

・今川時代の徳川家康は「人質」ではない。なぜなら今川にとって大切な国衆だから。国衆こそ戦国を動かした勢力。今川は大切な国衆の跡継ぎを保護していた。
・今川では一門衆同等の扱いを受けていた。いわば御曹司であった。だから瀬名とも結婚できた。
・戦国期の紛争は基本的には境目紛争であり、戦国大名が目指したのは領域内の「平和」であった。

という説です。うまくまとまっていないかも知れないので、あとは原著で確かめてください。
さらに加えて「徳川(神君)史観の克服」を主張されています。家康が散々苦労したり、太原雪斎から色々ありがたい教えを受けたりするのは「基本的には嘘」という立場だと思います。
今川と後に戦争をしますし、築山殿もああですから、それを合理化するためには、「裏切り」としないためには「今川でいじめられた伝説」が必要だったということになるのでしょう。
徳川史観を克服すると「どうなるのだろう」と思って読んだのですが、おそらく「歴史の真実が分かる」ということだと思います。もしくは徳川家康が「きわめて特別な存在」ではなく、他の戦国大名とさして変わらぬ(戦国大名は優れていたという前提)大名だということが分かるということでしょう。

「青年家康」はちょっと前に読んだのですが、後の二冊は一年前なのでよく覚えていないのです。「織田信長、戦国の正義」では後書きで「革命児信長という像」が「嫌い」または「そりが合わない」と書かれていたように記憶しています。「なるほど、その立場か」と心に残ったのです。もちろん好き嫌いだけで論じておられるわけではありません。

2,信長は普通の戦国武将である

柴さん世代の学者さんがよくこれを言います。黒田基樹さんなんかもそうですね。黒田さんの名前を出したのは昨日読んだばかりだからです。
この場合「普通」というのは、そんなに「けなしているわけでも」なさそうです。戦国大名というのは、自力で領域を支配し、他に頼らず、同質の領主である国衆と契約関係を結び、国力の源泉である百姓にも気を配り、、、とそりゃ大変で能力が高くないとできないお仕事だという前提があります。戦国大名はみんなすごい。だから信長も「普通で凄い」という解釈も可能です。
信長は他の戦国大名に比べて「基盤となるべき村、郷に対する政治」について特に「先進性がない」どころか、劣っているようです。革新性がない。となると、なぜ「勝ったのか」という疑問は当然湧いてきます。劣っている側が勝っている側に勝つ。そのカラクリを探求するのは、とっても楽しそうな感じがしてきます。

2年前の歴史を趣味で勉強しはじめる前の私なら「信長は劣っている」を承諾しなかったと思います。でも今は、信長・秀吉・家康の凄さは突出してなどいない、というのは、一理あると思うのです。理解はできる。でも「納得」はできていません。劣っている側が勝っている側に勝つ「カラクリ」がまだ理解できないからです。

また「ある基準を設定して、その基準からみて同質だ、または劣っている」というような思考は、権門体制論と同じように「平板」になる恐れがあります。所詮は基準次第であり、基準の恣意性を完全に払拭することは原理的に不可能だと思うからです。

これは今のテーマとは直接には関係ありませんが、永原慶二さんは「ともに荘園領主なのだから」という「基準」を設定して「武家・公家・寺家は同質」とする黒田敏雄氏の「権門体制論」(現在、多数派を形成する歴史観)を批判してこう書いています。
「公武の権門が一体として国家権力を掌握し、人民支配を実現しているとするような中世国家像が、究極の関係としては不当でないとしても、基盤をなす中世の社会の特有の構造への配慮を欠く、平面的な理解であることは明らかであろう」(日本中世の社会と国家、1982年)

ある基準(それなりに重要な)を設定して「同質だ」とするのはある意味簡単なのですが、それによって「個別特有の現実」が捨象されてしまうことへ、十分な「配慮」をするべきでしょう。戦国大名はみな「本質的には同質」なのかという疑問が私にはあるのです。疑問がある、とは勉強不足で分からないということ。どんな権威ある先生が言ったとしても、権威信仰のない私は、自分で考えて納得しないうちは「得心」はできない哀しいタイプなのです。

3,とにかく国衆と「村」に着目せよ

黒田基樹さんの「国衆」「戦国大名、政策、統治、戦争」「百姓からみた戦国大名」の三冊を昨日並行して読んでました。まだ熟読してません。だから内容をまとめることはできません。黒田さんは「どうする家康」の時代考証ではありませんが、私の目からは柴さんなどとは同じような方向性を持っているように思います。ただし権門体制論に対する姿勢にはどうやら本質的な違いがあるようにも思えます。ともあれ、信長が普通の大名ということは、徳川家康も「普通の大名」ということになるのだと思います。豊臣秀吉も同じ。検地なんてどの戦国大名も普通にやっている。別に秀吉の特許ではない。どうする家康の歴史学的背景にはそうした新説(仮説)の潮流があると思います。

ただ黒田基樹さんはちと面白いのです。「民衆」や「村」や「百姓」の視点から戦国大名を見ている。これも感想に過ぎないのですが、「下の構造」に注目する点においては、私が好んで読んでいる永原慶二氏の中世社会論に「似ているように」見えます。私は基本新説(仮説)派が苦手なのですが、黒田さんは永原さんと共通性があるので、読みやすいのです。ご本人は藤本久志氏(豊臣平和令、雑兵たちの戦場、のお方)の影響を受けたと書いておられます。黒田基樹さんの戦国大名論は、戦国大名や国衆を徹底して自力による独立的存在と論証している点が特徴で、ある意味痛快です。室町幕府や朝廷との関係など「本質的でない」としているからです。軽々と権門体制論を乗り越えているわけで、権門体制論(黒田俊雄史観)を面白いと思い、高い著作集を買いながらも「これは間違っている」と感じている私としては実に興味深い論考です。黒田基樹さんは、織豊研究は70年代までは「下の構造」に着目したが、80年代以降は停滞して上級権力者を追いかける政治史ばかりだ、と書いていますから、どう考えても永原さんたちを意識しているわけで、だから私にとっては読みやすいのです。ただし実際は黒田さんは永原さんをとことん否定しています。だから権力観においては私と立場が違いますが、そのお仕事の緻密さには敬意を払わざるえません。といって同意はしません。

ちなみに私が永原さんを読んだのは1年ぐらい前ですから、昔勉強したわけではありません。史学科でもなんでもないのです。2年前から趣味で学者さんの本を読んで「あーだこーだ」言ってるだけです。ただ戦国史を考えることも、鎌倉史を考えることも、私にとっては現代史や現代政治を考えることとほぼ同じで、だからこそ興味深いのだと思います。

4,なんで信長はああだったのか。

新説ばかりかというと、信長はあいも変わらぬ感じで、マントをつけて?首まで投げてました。(私は個人的にあの信長が好きですが)。時代考証家はあくまで助言者であって、作品を支配しているわけではないので、あれは脚本家の創作でしょう。「創作」というのなら柴さんの新説をデフォルメして「優雅な今川時代の家康」を描いたのも脚本家です。「みんな大泉のせい」ならぬ「みんな脚本家のせい」なのです。時代考証担当が作品を作っているわけではありません。

戦国時代研究家からは「普通の大名」とめでたく認定された信長ですが、「織豊期研究家」はまだ認めていないみたいです。と黒田さんが解説しています。織豊期研究家とは「どうする家康」の時代考証担当の中では小和田さんということになります。なるほど小和田さんは革新的信長の像を捨てていないし、捨てる必要もないし、「異論があってこその学問」ですから、頑張ってほしいと思います。「新説によって否定されている」という言葉は好ましいとは思えません。そのためにはどうやら織豊研究の若手が「信長の顔ばかり見ずに」「下の構造。村や年貢や公事の実態」を解明しないといけないようです。信長の「家計」はほぼ何も明らかになっていないとのことです。

私は必ずしも「革新的信長像を望んではいません」。しかし「異論」がないと「学問的全体主義」のようになってしまって不健全です。大いに論議をすべきです。80年代半ばまでの学者間の互いをリスペクトしながらの「真剣勝負」にはしびれるものを感じます。

さて、視聴率を要求される娯楽ドラマ(大河ドラマ)では「普通の大名」として描いたのではつまらないし、といって「革命児」にすると新説派から文句がでるし、信長像は大変だろうなと思います。迷走状態。結果、サイコパスというか一種の異常者として描く方向に今の段階ではなっています。「麒麟がくる」がそうでした。また「どうする家康」では家康から「ケダモノ」と言われています。

しばらく信長を考えてなかったので、何とも言えないのですが、サイコパスはサイコパスでまた「違うな」と私は思っています。よくわからない不思議な人です。信長は。そういえば「秀吉の武威、信長の武威」の黒嶋敏さんも「像が結べない」「時期によって全く違う像になる」と書いておられたなと、今思い出しました。同質に昇華されない、個別特有な側面が信長にはある「可能性」は残ります。楽市楽座も関所の廃止も、流通への着目も、なにもかも信長の独自政策とは言えないようで、となるとなんなのでしょうか。あるいは「先進的政策のパクリの天才」だったのかも知れません(笑)。もしくは「境目」を超えて戦争をしかける戦う機械、異常なる侵略者にして武器信奉者、、、、もちろんこれは半ば冗談です。信長の一見異常な行動の基礎に、どんな「下の構造」があったのか。私の関心は信長自体より、信長をそう突き動かした「時代の要請」に移っています。

さて新説の中でも、2014年の東大の金子拓さん「織田信長、天下人の実像」は「死の直前まで天下など狙っていなかった」という部分に私は同意できないにせよ、論証の仕方や資料に基づく論理展開は実に見事なもので、かなりの説得力を持っています。NHKはヒストリアで前にこれを特集していて、その題名が「世にもマジメな覇王」です。この説は「麒麟がくる」の信長に多大な影響を与えたと思います(伝統的秩序を意外なほど大事にするところなど)が、そうは言っても、「麒麟がくる」自体の描き方は、母親の愛情を受けずに育った情緒不安定なサイコパスでした。

ところが「世にもマジメな覇王」、金子さんが描く信長はサイコパスとはほど遠い「割とまともな人間」で、ただ一点「天下静謐原理主義者」である点においてのみ強烈なキャラです。静謐とは一応平和という意味ですが、平和というより「ただ戦争してないだけという状態」を指します。信長の場合特にそうで「平和な民政」への志向が薄いようです。「天下静謐の信長」は「暴走する正義」と言おうか、「天下静謐」のためなら、一向衆を虐殺もするし、京都も焼き尽くすし、延暦寺も焼き、現実の天皇(正親町)でも天下静謐に反していると思えば「容赦なく𠮟りつける、許しはしない」存在として描かれています。もちろん史料の裏付けがあります。というか金子さんは東大准教授で「史料のプロ、プロ中のプロ」です。史料分析が半端なく、論証の仕方が見事なので、私などグーの根もでないのですが、検討するとしたらこの本はとても検討しがいがあると思います。黒田基樹さんの本もお勧めです。「戦国大名」には特に驚かされます。検討(批判)しがいのある書物です。

どうする家康?・大河の中の徳川家康

2022-07-14 | どうする家康
大河ドラマにおいて徳川家康が「単独で主人公」になったのは1983年の「徳川家康」のみです。「葵徳川三代」も「主人公」と言ってもいいでしょう。しかし「秀忠」も同じぐらい重要な主人公でした。「家光」はたいして描かれてはいません。

大河「徳川家康」は山岡荘八原作で「非の打ちどころがない家康」「聖人君子」です。これは無理な設定で、家康の「わが子殺し」や「妻殺し」を、「聖人君子と矛盾なく」描くのに苦労していました。「悩んで悩んで、逃がそうと思ったが、逃げてくれなくて、泣く泣く斬る」という感じです。その他矛盾だらけなのですが、その矛盾を楽しめば「偉人伝」としては、つまりウソを楽しむフィクションとしては成功していました。ちなみに山岡さん原作だと大河「春の坂道」にも山岡家康は登場します。この時は権力闘争の時代で、俳優も政治性があり、「こんな家康ウソだ」とストライキをしたことで有名です。

司馬遼太郎さんの「家康」(小説)は、おそらく山岡荘八への「反論」として描かれたもので、「我執が強いくせに、その我執がないように、虚を演じることができた」という点を評価しています。簡単に言えば「俗物のくせに芝居がうまかった」ということです。「城塞」では「ほとんど犯罪者」とまで書いています。司馬さんには「関ケ原」「城塞」「覇王の家」などの作品があります。

皇国史観では、源頼朝、足利尊氏に比して「悪人」とされていません。皇国史観のパンフレット「国体の本義」に書かれています。この本は江戸時代に水戸学が起こった、と江戸時代を評価しているのですね。山岡さんはこの皇国史観の考えを、バージョンアップして「聖人君子」にまでしたわけでしょう。山岡さんの家康は不自然なぐらいの「勤王家」です。

まあそういういささか政治的な人物評価対立も、最近では「ソフト」になり、今は「等身大の家康」を描くことが主流です。「真田丸」などがそうだと思います。

研究でいうと、柴裕之さんの「徳川家康、境界の領主から天下人へ 」などは去年書かれたのかな。これまた「等身大」です。いささか矮小化されている感じすらする。あまり知的好奇心は喚起されませんでした。まあ人によって評価は違うと思います。

大河「どうする家康」は、一国衆から身を起こして、ちまちまと「境界での争い」をしながら、信長の配下となって働く。やがて本能寺の変が起きて、たなぼたでそれなりの大名となる。が秀吉に圧迫される。その後も「天下なんて狙っていないのに、いろいろ偶然が重なって、気が付いた天下人になって、自分でも驚く」という感じになると思います。「忠義の三河武士の否定」も描かれるでしょう。

これは予想で、なんの資料も持ってはいません。「どうなる家康」というところです。

2023年大河ドラマ・「どうする家康」・キャスト予想・2021年2月版

2021-02-23 | どうする家康
松本潤さん以外は「すべて予想」です。

徳川家康・松本潤(決定)

松平広忠 ・徳川家康の父・吹越満 
於大→伝通院・徳川家康の母・常盤貴子
築山殿・家康の正室・中条あやみ
朝日姫・家康の正室・太閤秀吉の妹・芳根京子
お万・結城秀康の母・桜井日奈子
お愛→西郷局・徳川秀忠・松平忠吉の母・松岡茉優
阿茶局・家康の相談役・橋本愛

家康の息子ほか
松平信康・家康の長男・成田凌
結城秀康・家康の次男・岡田健史
徳川秀忠・家康の三男・将軍・窪田正孝
松平忠吉・家康の四男・高杉真宙
松平忠輝・家康の六男・工藤阿須加
千姫・豊臣秀頼の妻・秀忠の娘・浜辺美波
五徳・松平信康の妻・織田信長の娘・飯豊まりえ
お江・徳川秀忠の妻・浅井長政・お市の三女・森七菜

家康の家臣
水野信元・大倉孝二
鳥居元忠・要潤
本多忠勝・藤本隆宏
本多重次・市原隼人
石川数正・浅利陽介
酒井忠次・安田顕
大久保忠世・平岡祐太
榊原康政・満島真之介
井伊直政・柄本佑
平岩親吉・塚本高史
服部半蔵・六角精児
本多正信・滝藤賢一
本多正純・山崎育三郎
大久保長安・野間口徹

織田家
織田信長・松坂桃李
帰蝶・永野芽郁
織田信忠・横浜流星
織田信雄・野村周平
織田信孝・渡辺大知

織田家家臣
明智光秀・神木隆之介
柴田勝家・渡辺いっけい
滝川一益・児嶋一哉
丹羽長秀・矢本悠馬
佐久間信盛・間宮祥太朗
前田利家・磯村勇斗

豊臣家
羽柴秀吉・賀来賢人
北政所・ねね・黒島結菜
豊臣秀頼・林遣都

豊臣家臣
黒田官兵衛・遠藤憲一
黒田長政・永山絢斗

石田三成・向井理
島左近・高良健吾

今川家
今川義元・稲垣吾郎
今川氏真・小池徹平
太原雪斎・佐藤二朗
寿桂尼・仲間由紀恵

大名
武田信玄・吉田鋼太郎
武田勝頼・山田裕貴
上杉謙信・松田龍平
上杉景勝・上杉謙信の養子・おい・志尊淳
細川幽斎・勝村政信
細川忠興・岩田剛典
細川ガラシャ・芦田愛菜
池田輝政・小関裕太

秀頼豊臣家
茶々・淀殿・広瀬すず
片桐且元・谷原章介
真田信繁・真田昌幸次男・真田幸村・中川大志
大野修理・溝端淳平


北条氏政・津田寛治
足利義昭・足利最後の将軍・本郷奏多
真田昌幸・家康を困らす信濃の国衆・ムロツヨシ
真田信之・真田昌幸の長男・北村匠海

天海・松下洸平
金地院崇伝・光石研
西笑承兌・温水洋一
今井宗薫・鈴木浩介