歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

麒麟がくる・第二十五回・「羽運ぶ蟻」・大雑把な感想

2020-09-30 | 麒麟がくる
大雑把な感想です。酔ってくだまいて書いているような文章ですが、まあ折角書いたので。

1、三淵登場

うん、義輝暗殺の時なにやっていたんだ?藤孝とは多少立場が違うはずだが。

2、石川さゆりさんの美濃帰還

どうせなら私が昔書いた「いんちき」ストーリーのように明智光安に「実は生きていて」欲しかった。これでお牧は「はりつけ」にはならないこと決定。良かった良かった。
伝五って何の史料もないみたいだ。

3、信長につかえない十兵衛・稲葉登場

えっ、義輝につかえるための「働きかけ」なんかやっていたか。時代考証の小和田さんが「永禄6年に足軽」と言ってくれてるのだから、仕えてもよかったし、機会はいくらでもあった。
相変わらず話の脈絡を合わせようとしないおもろい演出だ。

稲葉登場。稲葉は大河「信長」では、篠田三郎さんで好感度あったけど。

4、大きな国ってなんだ

まあ、天下を使わないのは「その方が新鮮」だからだろう。「学説がいろいろあるから」ではないような気がする。天下とは五畿内、、なんて単純な話ではないと思うけど、自信もないし、今日はこだわらない。

これほどの大きさか、ということで十兵衛と信長が笑いあっていたけど、どういう意味だろう。意気投合ぐらいの単純な意味なのか。深い意味があとで出てくるのか。

麒麟がくる、は「新しい学説で信長が幕府を再興する」って人がいるけど、ずっとそうだって。最初から幕府なんてどうでもいいと考えている信長が描かれるのは「功名が辻」ぐらいじゃないか。
大河「信長」なんてそりゃ義昭に対して神妙で、「幕府再興にかかわれるとは、織田家の名誉これなし」って感じ。
あれ、新しい学説をとりいれていたのだ。フロイス日本史が原案だから「トンデモ」と思ったら大間違い。実に細かく史実を再現している。再現フィルムみたいでつまらないほどだ。見て文句を言って欲しいなと思います。1992年、既に桶狭間も正面攻撃だった。大河の歴史を知らないと、新しく見えるのだろうが、麒麟がくるの新しさって、なんだろな。美しい映像、松永や義輝への焦点のあて方かな。信長は新しいわけではなく「なんか変な感じ」だと思うのだけれども。

うーん、光秀は相変わらずだし、信長も帰蝶がいなくてぱっとしないし、もうちょっと「痛快時代劇風」の要素を取り入れないと視聴率は厳しいかも。いまさらどうしようもないし、私は何があっても見るけれど。この回だって実はもう5回見ている。




NHK「大戦国史」・織田信長の「自己神格化」・日本側に史料がないのは当然のこと

2020-09-27 | 麒麟がくる
NHKの「大戦国史」、私はどんな史料からも、一次でも二次でも、戦国遺跡でも、フロイスの「日本史」でも、あらゆる史料から真実を掘り出すのが当然だと思っているので、大変面白く思いました。

「織田信長の自己神格化」については、日本側に史料がないこと、宣教師の叙述に「偏見」があること、天皇とのかねあいがややこしくなること、そもそもフロイスの日本史を原語で読める人など滅多にいないこと、などが理由でしょうか。否定的な見方をされてきたわけです。

それに対してNHKは「検討すべきだ」と訴えているように感じ、その態度自体は適当なものだと思います。私はクリスチャンじゃないですよ。

日本側に史料がないのは当然で、日本人にとって神となることなど「たいした問題ではない」からです。信長以前には菅原道真、崇徳天皇、平将門などまあ「そこそこ」いますし、徳川家康も豊臣秀吉も死後神になりました。光秀を「祀る」神社もあります。「まつる」という次元で考えれば、神になった人間などウヨウヨいます。

だから信長が神になっても、しかもそれが生前でも、たいした問題ではない。「あっそう」ぐらいの事態です。特に書き残すべき事態でもなかったでしょう。と予想します。

後述しますが、神になったからと言って、日本では「人が支配できる」わけではない。神の代理人、司祭や使徒とは違うのです。実際、天皇はこの時代、神だったかも知れませんが、「人を支配」はしていません。「人を支配する神」かどうかが非常に大きな問題です。

西洋人にとって自ら神になることは、唯一神への挑戦です。驚天動地の出来事です。ところが日本人にとっては、たいした問題じゃありません。そもそも日本では死ねば仏になるのです。神仏習合なら、死ねば神になるということになります。

信長は無神論者ではない、なんて言い方もされますが、それも当然で、当時の西洋人にとって「無神論者」であることはキリストやヤハウェへの挑戦です。いや社会への挑戦と言ってもいい。

しかしキリスト教国でなく、多神教の国である、しかも「神も仏も同じ」(神仏習合)という国である日本には、「無神論者は存在できない」というか「無神論者かどうかなんて問い自体が成立しない」のです。

日本の代表的キリスト教神学者である加藤隆さんは「西洋、キリスト教国家権力、人間集団」の本質を「人による人の支配」だと考察します。キリスト教国家は「神による人の支配を目指したが、結果として出来上がったものは神の代理人である人が、人を支配する社会であった」と。

これは特殊な用語で、いわば主人と隷属者の社会を表します。「強い支配」という意味で使われます。一部の者が特権(例えば多額の金銭)を持ち、多くが特権者に奉仕するような形で存在する。日本社会にはかつては、ある一時期を除いては、なじまなかったものです。グローバル化以後、徐々に日本でも「人による人の支配」が強まっているように感じます。そのことへの漠然とした違和感が「上級国民・下級国民」という言葉を生み出したのかも知れません。

さて信長は、キリシタンにはなりませんでしたが、キリスト教へは強い興味を持ちました。当然、キリスト教国家の政体、支配形態について聞くこともあったでしょう。そして「人による人の支配」、「神の代理人による支配」について何か感じることもあったかも知れません。そして自己神格化へ興味を持った。全くありえないこととも思いません。そもそも宗教への関心が高い人です。安土宗論なんぞもやっている。宗教をいかに「政治に利用するか」について、かなりの関心を持っていた人間だと思います。

強引に「まとめる」と、

人々にとって信長が神になることは、ああそうぐらいの問題であった。「生き神様か、ありがたや」程度のこと。しかし信長は西洋的=キリスト教国家的な意味、つまり「人が人を支配する」原理としての神格化を考えていたのかなと。

後半は全て「かも知れません」と書いているのでお分かりでしょうが、この意見を人に押し付ける気はありません。まだ思考中の問題であり、私が考えてみたい。ただそれだけです。フロイスの「日本史」は極めて具体的な記述に満ちており、信長公記のそっけない記述とは比べるべくもありません。しかも後輩の為に、後輩の布教の「たし」になるよう書かれたものです。そこに故意に嘘を書くでしょうか。困るのは後輩です。もちろん変な記述はありますが、それなら信長や秀吉の手紙だって、武威を誇るために「ホラばかり」書いています。ということで、予約しておいた「完訳フロイス日本史」が図書館に届いているようなので、あとで取りにいこうと思います。図書館が林立する東京のわが区にしてからが、所蔵図書館が1つしかないという現状。フロイスさん、許してね。

永禄の変の目的・将軍足利義輝の死・加筆前提

2020-09-23 | 麒麟がくる
私が永禄の変、私の中では「義輝暗殺事件」ですが、それについて書くのは、1年ぐらい早い。今まで考えてこなかったのですから、1年ぐらいしないと書けません。でも私は「無鉄砲」なので、しかもこのブログの読者はあまりいないので、まあいいかと思って書いてみます。加筆前提です。松永さん、三好さん、近衛さんなどを調べて加筆します。

1、三好は、義輝が邪魔であった。三好長慶らの死によってそれが顕在化した。

三好とは、普通は当主三好義継、松永久通、三好三人衆、そして松永久秀を指します。が、ドラマでも一部学説でも松永久秀の関与は少ないとされています、少ないであって「全くない」ではない。共犯、黙認、教唆、示唆、あるいは抑制。ここの結論はでていない、「出ている」という人もいるけど、出ていないと思います。

2、なぜ邪魔かというと義輝が「なまじ気概がある将軍であった」から。

剣術などという当時は将軍がやるべきではなかったスポーツが大好きなわけです。体育会系かなと想像できます。なまじ気概があります。
そして「遠国」と外交をするのです。畿内での権威は衰退していましが、遠国は田舎ですから、まだ通用するわけです。正規幕府官僚以外を使って外交したようです。近衛家がその代表各です。

3、結果として金が入った。将軍御所を軍事要塞化しようとしていた。

さて、私の話の元を素直に話しますと東大准教授の黒嶋敏氏「天下人と二人の将軍」だけと言ってもいい。そこで黒嶋氏は義輝御所が「相当スゴイぞ」と書いているわけです。鉄砲を備え馬を備え、城郭というべきものであった。それが完成間近でした。将軍権威とある程度の軍事力がある場合、どの程度の実力になるのかは分かりませんが、「三好」にとってはそれなりの脅威だったのでしょう。

4、そこで誰かが義輝を殺して、義栄(よしひで)を将軍にしようとした。

誰かとは上記の「三好」の誰かです。私は「わざと」松永久秀だと思っています。最近は久秀ではないという論が多いから、松永久秀だと考えることによって「論争的思考が可能」となり、まあ、そっちの方が面白いわけです。思考実験ですね。

今のところの論拠は、息子の久通の処遇です。久秀と久通の協力関係は「義輝殺害事件」のあとも続きます。

ウィキには将軍の系統に決着をつけようとしたという考えも書いてあります。これも宿題です。
これも宿題として後送りです。

今のところの結論は「義輝がなまじ気概をもって生まれてしまったから」です。のちのち加筆、訂正します。


麒麟がくる・隠されたメッセージ・屹立するエンタメ性

2020-09-21 | 麒麟がくる
「隠された」とかいう意味ありげな言葉は嫌いなのですが、他に適当な言葉が浮かびません。

大河ドラマは公共放送が放映しています。あまり明確なメッセージを出すと批判が起きます。「平和は大事」とか「家族は大事」とか「ほぼ批判がでない」メッセージならいいのです。しかし無理なものもあります。例えば「風と雲と虹と」には、当時の世相を反映して「おおやけ(公=政府)が何をしてくれる。腐っている。」とかいうセリフが多用されます。いろんな人が言うのです。かぶせてくる。あれを今やると、批判が出るような気がします。

「麒麟がくる」には「隠されたメッセージ」があるように思えてきました。その具体的内容はここではまだ自信がなくて書けないのですが(笑)

「麒麟がくる」はエンタメ作品です。そこに社会的メッセージを組み込む。それは簡単ではありません。

そこでウルトラセブンの話になるのです。「麒麟がくる」では、幾たびか題名が利用されています。怪獣ものというエンタメ作品でありながら、メッセージ性を持っている。しかもそのメッセージは、「隠れてはいない」ものの、小学校低学年では分からない。後になって「ああ、そういうことだったのか」と気が付く。

見ている時は明確に分からなくても、後になって分かる。いや後になって分からなくても、無意識に訴えかける。そういう構造を持った作品なんじゃないかという気がしてきました。

すると私の中では、あの主人公のあり方。多くの人が「どうしてこうなんだろう、もっと活躍させてあげればいいのに」と思うあの十兵衛のあり方が読み解けるような気がするのです。時代に対するメッセージがそこには「隠されている」かも知れないと「妄想?」するのです。

見ている人の多くが「面白い」という。屹立しているのはエンタメ性です。美しい映像、美しいシーン。しかしその背後に脚本家のメッセージを感じます。

「戦は残酷だ」とか「家族は大事だ」とか「光秀は純粋な男だ」とか、そういうものとは違っています。

何やら意味ありげに書いて、それが何かを書かない。まことにひどい文章ですが、今日はここまでにします。

麒麟がくる・第二十四回「将軍の器」・感想

2020-09-21 | 戦争ドラマ
2回見ただけなので、武士の棟梁という一点のみをテーマにして短く。

予想通り「武士の棟梁」という言葉が重要ワードになってきました。「武士の誇りを忘れぬ男・明智光秀」、、この言葉を聞いた時、私は随分考えて、それでも理解不能でした。武士の誇りというのは江戸武士的(観念的)で、戦国時代の武将で「大河において」ですが、そういう観念にこだわった人物をあまり思いつきません。真田の誇りとか上杉の誇りなら分かります。明智の誇りでも分かる。でも武士の誇りを「戦国武将が口にする」というのは、長く大河を見ている私にとっては驚きです。実際例えばこの作品でも斎藤道三は武士の誇りなんて言葉は全く口にしていません。わが子高政は嘘つきだから醜いとは言っています。でもおそらく道三の方が嘘つきです(笑)

十兵衛だけが何故か(実はその理由はおぼろげに分かっていますが)、道三から「ほこり」のみを継承するのです。本来なら兵の駆け引きとか、政治のやり方とか、権謀術数を継承するのが普通でしょう。そういうのはまるで継承しない。そして道三を「誇りの人」にしてしまい、「誇り高く、誇り高く」と考える。番組のプロデューサーが「武士という桎梏にとらわれ」と言っています。桎梏は足かせです。十兵衛はまるで「武士の誇り主義者」として振る舞うしかなく、柔軟な発想も自然な発想も「できにくく」なっている。嘘すらつけない。いつも本当のことを言う。

この「武士の誇り」主義が、本能寺に繋がることは明確だと私は考えます。

まあ正直に書くと「なんか変な人になってきてしまったな」というのが感想です。誇りのために生き、誇りのために死す。「〇〇の誇り」発揚のプロパガンダ作品ならそれでもいいのですが、大河でそれをやってほしくはない、というところです。もっと柔軟で変幻自在で、活動的で、人間味があって、、例えば真田丸の真田昌幸(草刈正雄さん)なんかはそういう人物で、わたしにとってはああいう人が、大河の主人公としてはふさわしいように思います。「観念にとらわれすぎ」ということです。大河は時代を映します。これも時代の反映なのか?(どうにもこの設定はおかしい、そうなるとそのおかしい事自体に意味があるはずだ。そう考えた時、このブログの次に書いた「隠されたメッセージ」という考えが生じてきました)

といってこの作品を否定する気は全くありません。むしろ大好きです。同じ回を何度見直すかわからないほど見ています。十兵衛を愛するがゆえに、もっと十兵衛を気楽に自由に、というより痛快に活躍させてほしいのです。

本能寺は「武士の誇りをめぐっておきる」ことも明確になってきたと思います。「十兵衛の誇り」ではなく「武士の誇り」です。だから十兵衛が個人的に「頭を叩かれた」とかいうことではありません。信長がもっと根源的に武士の誇りを奪うような存在になっていく。単に将軍を追放するとかいうことだけでなく、もっと根源的に。具体的にどういう形をとるのか。それは上洛以後の信長の描き方を見ないと分かりません。皇帝のような存在になろうとするというのも考えられます。そして名誉ある武士が、単なる「皇帝の手先に過ぎなくなる」とか。まあこれはないかな。でも皇帝だと、天皇をしのぐことになりますから、これも問題となる。史実としては正親町とは協力関係ながら、金銭的には信長がパトロンです。だから金銭的には「既にしのいでいた」わけで、そこは問題じゃないのですが、ネット世界の今の思想傾向を見ると「問題にする人がいるだろう」ということです。もっとも十兵衛の朝廷・天皇に対する考えは、今の時点では分かりません。公家と対面したことないからです。

イロハ大夫のいう「武士なんていなくなればいい」という言葉、信長が言った「戦が嫌いという言葉」が伏線として機能していくのかなと思います。そして、まあこれはあっと驚く裏技なんで使わないでしょうが、光秀そのものが「武士の時代を終わらせようとする。武士のほこりを守るために。」という飛躍的展開も、1%ぐらいあり得るかなと思っています。

大河ドラマ「麒麟がくる」第22話「京よりの使者」の感想

2020-09-12 | 麒麟がくる
大雑把な感想です。

1、細川藤孝、玉ちゃんをいだく

後の細川ガラシャですね。藤孝の息子の嫁。関ケ原でまあいろいろとあります。
この「藤孝がいだく」という描写は、小説「国盗り物語」にあります。
ただし6歳ぐらいの玉ちゃんだったかな。「抱くなら上物の布でくるんで抱いてくれやい」とか、子供の玉ちゃんが言います。
藤孝はそのプライドというか、高貴な感じに驚く、、だったかな。記憶だけで書いています。
人にいだかれるのを嫌う玉ちゃんが、藤孝にはなぜかなつく。これも司馬さんの「国盗り物語」の描写と同じです。

2、足利義輝、帝に文句、三好暗殺を考えたり、考えなかったり。

正親町天皇を「高貴で美しい帝」とし、その弟を小朝さんで、コンプレックスの強い延暦寺の長官・比叡山延暦寺住持にするようです。
高貴で美しい帝に、いきなり義輝は文句を言ってました。この辺り、脚本のバランス感覚ですね。人物を多層的に、さまざまな人の目を通して描く。相対化する。
ただし、実際に義輝は5回ぐらいしか帝に参内してないのかな。信長は後に「参内しないから、あんな最期だった」と義昭に書き送ります。義昭も参内しないんです。
信長は帝を重んじて中世的側面があるとか、最近飽き飽きするほど言われてますが、中世権威の親玉である室町将軍は参内しないんです。信長は中世的だが、将軍は非中世的?

たしか黒嶋さんだったか。実際の義輝の力はもっとすごかったと書いています。地方の大名と繋がっているんです。畿内では権威がないが、田舎大名は献金したりします。その結果、義輝の御所は壮大な城郭へと発展していきます。(旧二条城)。武器も蓄えていて、結構な権力者でした。地方に目を向けたわけです。地方の援助を受けていた。将軍が支配するのは五畿内とは、義輝は考えていませんでした。義輝にとって「天下」とは「日本全土」でした。畿内支配は空洞化していましたが、それを補完するために遠国へ働きかけたのです。それを担ったのは主に公家で、幕府官僚ではありません。義輝の特殊性はそこにも存在します。

ということで、実際は「あんな感じ」ではなく、本当に「参内しても意味ないだろ」「三好だって怖くねーぞ」という方向に行きつつあったようです。三好にとっては脅威です。

脚本家は知ってるでしょうね。するとわざと「はかなげ、自暴自棄」にしている。その演出意図は何なんだろう?今日は思いつきません。幕臣が離れたのは本当みたいです。幕臣にとって天下とは五畿内です。地方に手を伸ばす義輝は、いわば異端の将軍でした。「先例を破る将軍」だったわけです。

あれ、感想じゃなくて、義輝に関するただの私見になっている。しかもそんなに義輝に詳しくないから、物知りさんに怒られそうだ。

でもめげずに。

実際は三好を暗殺しようとして失敗してます。それもドラマでは「将軍がやることではない」と嘘が描かれました。嘘は悪くはない。ドラマですから。気になるのは嘘を描く演出意図です。
「ただ向井理をはかなげにして、十兵衛を忠臣にして、女性ファンの涙をさそいたいだけ」なんでしょうかね。男性の僕から見ると、義輝、何やってんだおめえ(エールの鉄男風)という感じもします。そんなことはないはずで、きっと僕の感想が間違っていて、脚本家には僕の想像が及ばない意図があるのだと思います。

そもそも「三好を殺すために十兵衛を呼び寄せる」って、「なんでやねん」て話です。十兵衛は必殺仕事人なのか、剣客商売なのか。批判してるんじゃなくて、その「無理」が面白いと思っています。

十兵衛もいきなり「信長なら義輝様を補佐できます」と信長に相談なしに勝手に言い出します。

このドラマの面白さはこの「いい加減さ」です。「いい加減」が「良い加減」なんです。昔の植木等の映画や、若大将シリーズを見ているような、この自由奔放な演出がたまりません。

織田信長は何故「哀しき覇王」なのか。麒麟がくる。

2020-09-11 | 麒麟がくる


織田信長は、前は革命児でしたが、今は「保守的中世的側面もある」とか言われます。つまり「保守的中世的側面もある中世をかなり破壊した革命児的側面もある人物」というややこしいことになります。長い。

こういうのはブームであって、一歩引いた所で眺めてみたほうがいいかと。前も「天皇最大の敵」とか、その真逆の「勤皇家」とか色々言われてきた人です。人気者なんで、みんな自分の思想に合わせて好き勝手に信長像を作る。これは学者も同じというか、学者こそそれを「やってしまう」ことが多いと思います。頭で生きているから。一次資料を真面目に真摯に「解釈」しながら、、、。どうやっても解釈は入るのです。そこに「私の信長」を作ってしまう原因がある。これは回避できません。ちなみにかく言う私だってたぶん同じです。学者じゃないけど。史料、活字にしてくれないと読めないけど。

さて、これはドラマのお話。

歴史秘話ヒストリアでは「世にもマジメな魔王」と呼ばれたこともあります。NHKは「おんな城主直虎」あたりであれだけ「とんでもない魔王」にしときながら、急に「世にもマジメな」と言い出しました。つまり「保守的中世的側面もあった」というありきたりな説です。この「も」が重要です。決して「中世的保守的人物」とは言わず、「もあった」となるのです。麒麟がくる、はそうなるのだな、と思いましたが、さほどマジメな魔王でもなく、お母さんの愛を失って迷っている信長でした。この点、保守とか革新とかチマチマ言ってる「学説」を超越した「脚本家の天才」を感じます。

で、後編になって「哀しき覇王」になるようです。

覇王と魔王。魔王の方が「虐殺好き」な感じがします。覇王は「覇をもって世を制す」王で、徳をもってではない。武断政治家。文治主義ではない。王道と覇道の違い。王者と覇者の違いです。
北斗の拳だとラオウが覇者です。ただしケンシロウは王者ではない。「世紀末救世主」です。

ドラマの信長は承認欲求の塊です。ほめられたい人です。おそらく「天皇と将軍のもと、平和を実現し、ほめられよう」とするのでしょう。

ところがうまくいかない。どんどん「いくさ」になっていく。朝倉も浅井も、本願寺も、一向衆も、武田も、上杉も、毛利も、誰もほめてくれない。将軍さえ敵になっていく。家康も心からほめてはくれない。天皇と近衛前久だけが、なんとなくほめてくれるけど、、、というところかも知れません。そして荒木にも、松永にも裏切られる。最後は十兵衛にも、、、哀しき覇王です。「ただ人を喜ばせたかった。ほめられたかっただけなのじゃ」と言うかも知れません。

さらに帰蝶の身に何かあるのかも知れません(元ネタは全くありません)。帰蝶を失ったら、あの信長は崩壊するでしょう。暴走する魔王になる。魔王にならなず覇王なら、帰蝶は生きるのかも知れません。もしかして本能寺の後まで生きるかも知れません。歴史史料はほぼ0です。生きて欲しいと思います。江戸時代ぐらいまで生きて欲しい。

ただし、この作者。そう簡単に読める筋は作らないので、この「哀しき」にはさらに「何か」があるのかも知れません。