歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

「鎌倉殿の13人」・第33回「修善寺」・感想と考察

2022-08-28 | 鎌倉殿の13人
義時が真に冷酷な悪人になったのは、実は先週と先々週だけで、それまでは「迷い」がありました。迷いなく殺したのは、比企一族と一幡だけで、それも史実から言えば時政がやったことです。(義時は江間家の当主で、北条時政の共犯、主犯ではないということ)。私はやや義時びいきですので、今回、また義時が多少の「迷い」を持ってくれたことは嬉しい限りです。悪漢ヒーローも良いけれど、この時代、あまりに残酷なのは「ただ嫌われるだけ」ですから「歴史的存在としての義時」にかわいそうです。史実を考えるなら、ほとんど時政がやったことで、義時自身が主体的に企画した悪事は限られています。

今回の頼家の死については「幕府のみんなで決めたこと」なのに、結局義時ひとりで刺客を放った感じになっていて、そこはまた悪人を引き受けることになって、かわいそうでした。しかし泰時を「頼家救出に向かわせ、頼家に最後の機会を与え、かつそれが無理なら泰時に冷酷な政治の力学を体験させる」ためには、必要な「設定」だったのでしょう。泰時はどこまでも善を引き受けるようです。

頼家に関しては善児にあっけなく殺されるのではなく、武士の棟梁として「見事に戦って散る」設定にしてくれて、良かったと思います。また頼家も最期まで北条討伐を考えていたという設定ですから、今回の死は「一方的なものではなく」、勝負の結果ということになっており、それも良かったと思います。頼家への何よりの「供養」でありましょう。主人を討つから不忠という考えを、鎌倉時代に当てはめる気が、私にはありません。そもそも「鎌倉を火の海にする」と三浦義村に伝えた時点で、頼家は「戦って死ぬ」ことを自ら選択した、そういう設定だと思います。

トウが善児を殺したのは、親の仇というより「介錯をした。苦しみを早く終わらせた」感じがしました。善児も「これでいい」とうなづいていました。トウは、泣いているように(雨ですが)も見えました。

泰時が「昔の義時であり、最後の希望」であることは、視聴者には分かっていましたが、設定としてもちゃんと言ってくれて明確になりました。同時に時房が「汚れ仕事をする」理由も説明されていました。この時房、歴史的にみればなかなかの「くせ者」で魅力的な人物です。

源仲章がこれからの最重要人物になることは、キャスティングから言って明らかでしたが、さらに明確になりました。それにしても実衣さんは「自分の子供を討った男」に意外なほど寛容です。源仲章に注目したことは一切なかったので、少し勉強しようと思いました。ありがたい契機を与えてくれたと思います。

「時政とりく」がこのまま「調子に乗って」くれると、悪は彼らが引き受けることになります。義時びいきの私としては、時政が悪を引き受けてくれないと困る(史実もそう。史実は物語と基本関係ないけど)ので、どんどん調子に乗ればいいと考えました。〇〇ファンの方にとっては、たまったものではありませんが。

あと思いつくまま

・源仲章が和歌について色々言っていましたが、要するに「文章経国思想」の変形なんだろうと思いました。「漢詩文や和歌を詠んでいれば、それが政治なんだ」という儒教系の「変な思想」は、日本史においては「漢詩を莫大な費用がかかる会を開いて作ってさえいれば、現実がどうあろうと、それが良い政治なのだ」という形で、弊害を多くもたらした気がします。人々が飢えて死んでいく中で、歌を詠んだり、漢詩を作ることに何の意味があるのか。「文章経国思想」が「歴史に及ぼした影響」について私は最近、多少の興味を持っています。

・頼家が後鳥羽院と通じていたという話は聞いたことがありませんし、史実ではないでしょうが、ここから後鳥羽院との戦いにもなっていくので、都の影響というか、陰謀は、ちょくちょく登場するのでしょう。

・物語としては「公武対立」の方が面白いですから、この物語も「やや公武対立的」にはなっています。しかし公武協調史観も巧みに取り入れていて、公武対立派にも公武協調派にもそれなりの納得を得られる作品になっていると思いました。私自身は、公武対立も公武協調も「どちらも合っているし、どちらも間違っている。原理主義的思考に陥ってはならない」と考えています。ある程度「テキトー」で柔軟な方が、原理主義よりは良いと思います。

源頼朝「すでに朝の大将軍たるなり」が鎌倉幕府を滅亡させた説

2022-08-26 | 鎌倉殿の13人
私が上記のような「奇説」を書くのは「歴史は自分の頭で考えないと分からない」と考えているからです。つまり「人の書いたものを理解するだけではいけない、つまらない」と思っているから。取るに足らない「奇説」「珍説」ですが、一応まっとうな歴史学者さんの本を参考に書いています。しかし「だから正しいと」いう気などさらさらありません。

源頼朝は反乱軍として(平家が官軍)スタートし、朝廷とは関わりなく勝手に土地の「安堵」を行っていきます。ただそのうちにやや路線が変わって「朝廷ともうまくやっていこう」となります。挙兵には後白河法皇の院宣があったという方もいますが、その証拠は全くありません。愚管抄は否定しています。それどころか、後の奥州藤原氏戦争は、後白河法皇の強い反対を押し切って強行されます。法皇は「追認」という形で、形式を整えました。

そうして出来上がった東国を拠点とし、東北を「支配下」に置く政権は、実に貧弱な政治システムしか持っていませんでした。当時の「政権」の主な仕事は「土地裁判」です。これがある程度システム化されたのは(それでも貧弱ですが)北条泰時の時代とされます。それまでは源頼朝が決めており、その下に何人かのブレーンがいました。貧弱な役所も一応はありました。しかし膨大な数の案件を公平に処理できるような「システム」はなかったのです。これが二代目将軍源頼家の不幸でした。18歳の彼は、安定した「裁判システム」のもとで政治を行うことはできなかったのです。頼家が「適当に線を引いて土地の分配をした」という話が伝わっていて、学者さんの中には「嘘だ」という人もいます。ただ膨大な案件を「公平に」裁くことは、システムがなければ至難の業であり、「線を適当に引きたくもなる」というものです。

武士の政権ですから、武力は持っています。しかし政治力(裁判力・調停力)は未熟でした。地頭の「やり口」も洗練とはほど遠く、剥き出しの暴力で物事を解決することも多かったわけです。

さて「奥州藤原氏戦争」に勝利し、一応「政権」を構築した源頼朝は、やっと上洛して後白河法皇と会談します。朝廷との利権調整が行われました。ここで源頼朝は有名な一言を言います。法皇に直接言ったのではなく、九条さんにですが「すでに朝の大将軍たるなり」と言ったのです。

これはどういう意味でしょうか。「朝」とは「朝廷」か「日本」のことでしょう。「すでに」とはどういうことか。「朝廷が認めようと認めまいとそうなのだ」ということなのか。

しかし朝廷はこれを「朝廷のもとの大将軍」と捉えました。別に間違った解釈ではありません。現代の歴史家の一部が「鎌倉幕府とは国家の警察、軍事部門を担当した一権門に過ぎない」というのは、この朝廷の解釈をそのままなぞっているからですが、幕府がそう「宣言しちゃった」ことは史実です。朝廷、幕府の当事者意識はそうなのですが、実態としてそうであったかは別問題でしょう。頼朝の意識など所詮は当事者の主観であり、歴史学は客観を重視すべきものであるはず、です。なお「権門」というのは、支配層のことで、公家(王家)、寺社、武家(鎌倉幕府)が「権門」です。

朝廷は院政期、武家(平家)を治安維持と、荘園公領制の維持の為に使ってきました。荘園公領からの税は未納されがちでした。「武士が徴収してくれるなら」、むしろ朝廷にとってはありがたいことでした。もっとも地頭はそんなに「いい人」じゃありませんから、取っておいて貴族には送らないという事態も頻発します。

頼朝、というか「幕府」は「国家の警察、軍隊」であることを宣言したせいで、とんだ重荷を背負います。上記のような反抗的な地頭を取り締まらないといけない。そもそもの仕事である「土地の裁判をしなくてはいけない」。そして「大番役として荒れ果てた京都の治安を守らないといけない」(これは御家人だけの名誉とされました)、、、そしてついには「次の天皇を誰にするか決めなくてはいけなく」なります。

本来「次の天皇を決める」のは「警察や軍隊の役目ではない」はずです。しかし朝廷では天皇家の「跡目争い」が激化していました。保元の乱といった「殺し合い」も起きていました。鎌倉幕府は「ヤクザみたい」と言われますが、この時代の朝廷だって大差ありません。殺し合いで次の「治天」を決めていたのです。

天皇を朝廷内の二つの派閥で、戦争なく交代させるには、第三者である幕府の判断が必要だったのです。幕府は承久の乱後は天皇を指名しましたが、ずっと指名役をやることには「乗り気」ではありませんでしたが、やがてこれが「習慣」となって「深入り」します。もっとも後鳥羽系の天皇が生まれるとまた「やりたくもない戦争をしないといけないはめ」になる恐れがあったので、それを避けたいという意図が働き、乗り気でないと言っても、後鳥羽系だけは断固拒否でした。

幕府はなるほど「権門」でしたが、最初の方に書いた通り、その政治的実力は未熟でした。だんだんと成熟していきますが、武士の全てを統合しているわけでもなく、非御家人と言われる「幕府に属さない武士」も存在していました。正確には「本所一円地住人」と呼ぶそうです。

本来は「東国政権」に過ぎないのです。でも「権門体制の権門だ」「全国の警察、軍隊だ」と頼朝が宣言してしまいました。「すでに朝の大将軍たるなり」です。これが幕府滅亡への道につながります。東国政権に過ぎない存在が、「日本に責任を持つ」と宣言してしまったのです。執権政治下でもその考えは引き継がれました。でも西国は「朝廷がやるもの」と安心していたと思います。

しかし後鳥羽院が承久の乱を起こし、幕府が勝利し、幕府は本当に「全国チェーン」になってしまいます。西国まである程度の責任を負うことになるのです。

朝廷が西国を「きっちり」やってくれたら、幕府も楽だったでしょう。しかし朝廷は承久の乱の後、裁判力、政治力を減衰させていきます。というか院政期すら平家(武家)なしには相手を政治、裁判の決定に従わせることは難しかったのです。自然、全国政権の実力はない幕府に「おんぶにだっこ」という形に頼っていくようになります。朝廷は裁判も行っていたでしょうが、大きな「政治」としては、伊勢神宮の遷宮、大嘗会、内裏の修理新築、大仏殿の再興などがあります。これらの費用は「一国平均役」という税でまかなわれ、幕府もその徴収に進んで協力します。「建物の建設が政治、行事が政治、儀礼が政治」というのは、現代の感覚からするとおかしな話です。でも朝廷は本気で政治だと思っていました。朝廷の政治の根本には儒教の徳治思想があり、それは儀礼や行事を通じて実現されるとされていました。文章経国というこれまたおかしげな儒教思想もありました。大金を使って「漢詩の会」を催し、飲んで食って詩文を作って文学を盛んにすることが、社会を安定させる政治だという思想です。これが「政治なら」、なるほど朝廷は政治をしていたのでしょう。しかし現代の感覚からみても、現実な政治効果を考えても、それらを政治と呼んでいいのか。朝廷の「政治」の中身は、きちんと考えていくべきことだと思います。なおその「政治」に幕府も積極的に協力した事実も、考えてみるべきことの一つでしょう。朝廷が古く、幕府が新しいわけではありません。

さて、話は幕府に戻ります。既に時頼あたりの時代から、幕府は変質し、徐々に「王朝政権のように」なっていきます。「家格によって地位が決まる」ようになり、政治が硬化し、御家人の中に貴族階級(得宗、御内人、北条氏など)が生まれ、政治が儀礼化していきます。そのくせ、六波羅探題にすら「最終決定権」を与えず、鎌倉中央集権に妙にこだわったようです。

そして「次の天皇を決める」という幕府が「いやいや引き受けた仕事」が致命傷となりました。「自分の子をどうしても天皇にしたい」と考えた後醍醐帝が、「幕府を倒さないと自分の子供を天皇にはできない」と考え、不屈の闘志で3回も倒幕を企て、なんと成功してしまいます。高い家格を有しながら、御家人の貴族階級としては認められず、政治の中枢に参加できなかった足利尊氏が「北条幕府」を見限ったことが、成功の原因でした。

もちろん私は教科書的な「幕府滅亡のいくつかの要因」を知っています。悪党の跳梁、蒙古対策の費用、蒙古戦争での恩賞への不満、貨幣経済の進展、惣領制の動揺、得宗専制、高時の個性、足利尊氏、直義兄弟の意図、などです。しかしいずれも決定的な要因かというと、疑問もあり、しかしながら最後の決め手となったのは、後醍醐帝のわが子を天皇のしたいという意思であり、彼の強烈な個性である+足利尊氏と思っています。蛇足ですが、この「決め手」がなければ、室町幕府のように問題を抱えながらも続いたのか。足利尊氏は幕府を見限らなかったのか。それは面白い問題ですが、学者さんですら「まだ考え始めたところ」というのが実態のようです。

その後60年以上、社会は大混乱に陥ります。しかし大混乱の末、武家政権はやっと「非御家人」の問題を解決し、全国の武士(非御家人を含めて)の上に立つ政権となります。「土地裁判」に関しても、「幕府、中央だけで、できもしないのにやる」という姿勢を捨て、地方分権を選択します。室町幕府はどうやら「本当の全国武士の政権」のようで、後醍醐帝の功績は、公家の世を作ろうとして、「本当の武士の世を作った」ことにあるようです。(嘘つくな。バラバラじゃないか、と言われそうですが)。室町幕府は地方の親分化した大名の統制がうまくいかず、「あんな感じ」でしたが、やがて江戸幕府が「地方分権型中央集権」の「いい形」を作り、200年以上の「太平の世」が訪れます。江戸幕府は室町幕府の最終完成形態?なのかも知れません。(室町幕府の再評価はこの10年でしょうか。「あんな感じ」じゃなかった可能性もありますが、私はまだ不勉強で、いまだに「あんな感じ」です。)

現代でも地方分権が問題となります。地方のことは地方に任せた方がうまくいくのですが、「地方の親分が勝手気ままを始める」という問題が生じます(室町幕府の問題、ちなみに、分権なんだから勝手気ままでではないという考えもありうる)。現代の日本政府はよく地方に「丸投げ」しますが、地方分権型中央集権の「いい形」が構築できるなら、地方に任せること自体は、悪いことではないのかも知れません。日本史は、中央集権と地方分権の「いい形」を模索する歴史であり続けています。

鎌倉幕府の性格・公武協調か公武対立か。

2022-08-23 | 鎌倉殿の13人
鎌倉幕府が朝廷や公家と「基本的に協調していたのか」または「基本的に対立していたのか」。今は「基本的に協調していた」が学会の「常識」となっているとされている。

というか、学者さんもつらい立場で「協調史観」か「対立史観」かの「踏み絵」を踏まされているようなのである。もちろん数は多くないが「対立か協調か自体がくだらない話だ」と言い切る学者さんもいる。

そもそも石井進さんや佐藤進一さんが「公武対立史観の立場をとった」とされ、それが教科書的歴史観になったと「された」ことから、こういう面倒な問題が始まる。教科書は「単純化」されているから、なるほど「単純な対立的把握」をしている部分も存在する。その方が「教えやすい」からでもあろう。ただ石井さんや佐藤さんの「原著」を読めば、単純に「対立構造だ」と言っていないことは明らかである。吾妻鑑を読めば、頼朝が朝廷に対して「丁重な態度」をとっていることは明らかなのだから、なんでもかんでも「対立だ」などとするわけないのである。

さらに厄介なことは、この「対立史観なるもの」が「間違ったマルクス史観の、階級闘争史観の産物」とされたことである。ソビエト崩壊後のマルクス否定の流れの中で、マルクス史観の残滓である「公武対立史観」は間違ったもの、否定されるべきもの、とされた(ようである)。

そこで60年代に既に黒田俊雄さんが唱えていた「権門体制論」が注目され、2000年代に入ると、怒涛の「公武協調史観」の「強調」が始まる。

マルクスが何を言おうと言うまいと、この社会に「対立」は存在する。同時に「協調」も存在する。対立していたのに協調したり、協調していたのに対立したりすることもある。

しかし困ったことに、人間は「生物」だから「危険か危険じゃないか。敵か味方か」を判断するようにできている。「脳の仕組み」がそうなっていて、だから「生き残る」ことができる。単純な二項対立が人間の脳とは相性がいいようである。「協調・対立しながら複雑な関係を保っていた」というのが事実だとしても、「人間の脳にとってそれがわかりにくい考え方」であることも確かである。

偉そうにこう書いている私も「単純な生物」なので、二項対立で物事を把握することに慣れている。慣れているというか「複雑な把握」が苦手である。それには苦痛が伴う。

私は育ってきた環境(東京出身)の為か、受けてきた教育の為か分からないが「対立しながらも協調していた」と考える。つまり佐藤さんや石井さんの把握の方がすんなり理解できる。ところが最近はそれが「否定」されているから、元木さんや野口さんの「協調を基本としながら、対立もする」という文章が増えている。これは私にとっては実に読みにくい。いろいろ「オカシイ部分」が目についてしまい、内容がなかなか頭に入ってこない。自然、そういう京都大学系の学者さんの文章は読まなくなる。佐藤さん系列の学者さんの本を好んで読む。「趣味だからまあいいか」と割り切ってもいる。

私にとっての救いは「公武協調史観」の元祖、教祖である「権門体制論提唱者」の黒田俊雄さんが、実は「公武協調史観のその先」を見つめていたことである。黒田氏の主眼は「国家権力とは何か」ということであった。そして当時「武士の研究ばかりしていた。そして武士を階級闘争の勝利者だとしていた」学会の気風を「異端児として批判」した。当時はまさに「異端児」だったのである。今は異端が正統とされているわけである。

「全権力を総体として把握」するためには「公家、天皇家、寺社、武家、総権力の研究が不可欠」だと唱えたわけである。そして「公武協調史観のその先」を見つめていた。単純に「公武協調史観」を唱えたわけではない。そこが救いである。だから黒田氏の文章は私にとっては実に読みやすい。「著作集」がわが「区」の図書館にはないので、そこは苦労している。「買えばいいじゃないか」と思われるだろうが、とにかく「高い」のである。1冊6000円の本を買う勇気が私にはない。そこも「趣味だから仕方ないか」と割り切っている。

「公武協調史観」の「大合唱」もそろそろ終わりかけているようである。「完全勝利」を確信したからかも知れないが、そう簡単に「勝利」は勝ち取れない。とにかく学者という存在は「ああいえばこう言う」人たちだから、すでに「ゆりかえし」が起きているように思う。昨日読んだ本では若手の学者さんが「協調の強調はそろそろ終わりにして、対立にもちゃんと目を向けるべきだ」と書いていた。

いい傾向だと思う。

鎌倉幕府と承久の乱に関する一つの奇妙な仮説

2022-08-18 | 鎌倉殿の13人
歴史学の巨人である佐藤進一さんが「日本の中世国家」で「王朝国家」と「鎌倉政権」を「二つの国家」と書いたのは1983年です。既に黒田俊雄さんの「権門体制論」の賛同者は増えていましたが、佐藤さんはそれに対して一つの見解を述べたわけです。
今は文庫になっていますが、もう「感動的」というか「涙もの」です。知識が人間業じゃない上に、論理も明確すぎるぐらいです。この本が「正しいか否か」はとりえず置くとしても、「こんな美しい文章はめったにない」とまず私はそこに感動しました。「論理文に感動」というのはおかしいですが、時々そういう文章に出会います。

佐藤さんは中世を基本的に「分裂の時代」とみています。「権力の分散」とも言います。それに対して権門体制論は「統合」を主張します。「ゆるい統合」ですね。王朝国家、または朝廷?、天皇のもと、公家・武家・寺社という3つの支配勢力が「対立をしながらもゆるく統合し、相互補完なども行っていた」とするわけです。それにしても「ゆるい統合」って、それって「分散」なんじゃないでしょうか?まあ権門体制論自体はかなり観念的な理論ですので、あまり深く研究されたようには思えないのですが「ゆるい国家的統合」「相互補完」という「結論」というか「言葉」が、特に京都大学方面の学者さんには好まれます。私は「権門体制論」ではなく「相互補完論」だと思っています。「はじめに相互補完ありき」という感じがします。なんでもかんでも「相互補完」。相互補完原理主義だと思えて仕方ないのです。それで黒田俊雄さんの「原文」を読んだのですが、やはり「相互補完」は権門体制論の「主題」ではないと思います。

とはいえ「統合か、それとも権力の分散か」は、中世や室町、戦国、江戸、そして現代を見る上で重要です。「権力の地方分散」「地方分権」は現代政治の問題でもあります。

日本史というのは律令国家ができた段階から、地方は国造に「まかせた」傾向が強く、その意味で、ずっと「権力が分散」している状態だったと考えられます。「室町幕府は中央集権がなっておらず、だらしない」と私はずっと考えてきました。でも「地方分権が常態」だったのですから、律令国家、王朝国家、鎌倉幕府、室町幕府における「権力の分散」は特にオカシイことでもないと思うようになっています。むしろ「天下統一」の方が異常であり、江戸幕府が「おかしい」のかも。まして近代・現代政府なんて「日本史の常態」からすると、異常過ぎる中央集権国家なのかも知れません。

律令国家は、大和政権が唐と戦って負けて、唐が攻めてくるという危機感のもと、各地の豪族が連合して作りました。近代国家ができたのは帝国主義の時代で、アヘン戦争を見た為政者たちが、このままでは日本は欧米の植民地になる、という危機感を持ち、その危機感を基礎として作られました。

しかし中世には、というか日本史には比較的「外圧」が少なく、結局「唐は攻めてこなかった」わけだし「欧米も日本を植民地にするうまみ」はあまり感じていなかったようです。でも「外国が攻めてくる」という危機感というか不安が、「国家的なもの」の建設の契機になるという法則はどうやら存在すると言っていいでしょう。しかし聖徳太子の時代から、鎌倉中期に至るまで、結局外圧らしい外圧は「ない」わけです。そして「モンゴル襲来」が起きます。それは「得宗専制」という中央集権の強化はもたらしましたが、そんなに大規模な戦闘を経ずに、形上は「勝って」しまいます。その後できた室町幕府などは「明」とせっせと勘合符貿易して仲良しです。結局、日本史には外圧らしい外圧がなかったわけで、そのせいで日本には「強い中央集権」が育ちませんでした。これは「幸福な歴史」だと思います。江戸幕府は秀吉の「唐入り」の後です。ただし、どこまで「外圧」(明が攻めてくる)意識があったかは、分かりません。

結論を書くと「日本史とは権力分散の歴史」が正しいと私は思います。しかしそれが「二つの国家」かというと、違います。「国家とは権力集中の総体」ですから、私の考えでは「二つの国家とも言えない、二つのゆるい権力体」があったのではないかと考えています。もちろん「奇説」であることは承知しています。

そこで「承久の乱」の問題となるのです。あれは「なんだった」のでしょうか。

京都の後鳥羽には「日本は一つ」「朝廷が正統国家」という天皇家家長としての自負はあったでしょう。しかし現実をちょっと見れば「ずっと地方は国司や在庁官人に丸投げ」の状態だったわけです。いまさら「強烈な中央集権国家」を作ろうと思うでしょうか。いや「作れる」と思うでしょうか。思うはずがない。もっとも「ゆるい中央集権国家」なら可能性はあるか。そこは今後考えます。

彼は非凡な才能を持っていたとされます。和歌や芸術に優れ、刀まで打てたという伝説があります。「おれはできる」と思ったでしょう。しかし「天下統一」的な夢想を抱くとは「優秀な人物なら」考えられないことです。優秀な人物なら、ちょっと現実分析すれば「不可能」とわかるはずです。そもそも権力の分散状態が「常態」だったわけですから。

とするなら「西国は朝廷を中心にゆるく連合し、東国は幕府を中心にゆるく統合していればいい」と考えたはずです。形式上は「幕府は、朝廷に従います」と言ってきているのだから、「面目」もすでに十分たっているわけです。「朝廷が日本の国家だ」と言っても嘘ではないのです。幕府が「私たちは朝廷の侍大将」と言っているのだから、実力が朝廷と匹敵していても、上回っていても、別にいいわけです。もちろん現実を完全に無視して「公家一統」のイデオロギーに完全に囚われた後醍醐のような人物なら話は違ってきます。でもあそこまで変わった人ではなかったように思われます。

そもそも「幕府あっての朝廷」です。「朝廷の根幹である荘園公領制の守護神」こそ幕府だからです。幕府も武士もいなくなったら、税金が入ってきません。

そのために「源実朝に箔をつける」ことが、後鳥羽にとって重要だったわけです。彼は実朝を可愛がり、せっせと官位を上げました。最終的には「右大臣」にまで昇進します。鎌倉御家人にとって大事なのは「鎌倉殿」であり、「右大臣」は「箔」でしょうが、「鎌倉殿は官職ではない」から授与できません。右大臣ならできます。

ところがその肝心の源頼朝が暗殺される。さて困った。幕府がなくなってしまう。荘園公領制が崩れてしまう。そこで彼は「幕府討伐」または「北条義時討伐」の命令を出します。

これがいかにも分かりません。なんでそんな馬鹿なことをする必要があったのか。そしてこれが説明できないと、私の上記の「奇説」は根底からひっくり返ります。まあ「もともとひっくり返って」いるのでいいのですけれど、、、、。

実は、こういう仮説、珍説を考えることで私は自分の歴史理解を深めたいと考えているのです。私の奇妙な「仮説」「奇説」が成り立つか。そのこと自体は本当はどうでもいいのです。さて後鳥羽の意図が説明つくか。それは今後考えてみたいと思っています。

「鎌倉殿の13人」・北条時政とは一体何者なのか。

2022-08-18 | 鎌倉殿の13人
北条時政に関しては「開発領主である」「在庁官人であるらしい」ということがよく言われます。

開発領主
奈良時代の743年。聖武天皇が墾田永年私財法を出します。「私財」と言っても「完全な私財」ではなく、いろいろ制限条件が付きます。税金も取られます。で、地方では資金や権力を持つ「院宮王臣家」という貴族たちが中心となって、それに国司も加わって、とんでもなくエグい開発競争が始まります。バブルです。法律的には制限があるのですが、院宮王臣家は法律なんて「知ったこっちゃない」というわけで、とにかく際限なく欲望を開花させます。土地の領主(管理人)である武士が、ほぼ「院宮王臣家」(貴族)の子孫を名乗っているのはこのためです。
北条時政が生きた時代は1138年以降ですが、この時には「富豪農民」や「郡司層」などが土地の開発を行って「開発領主」と言われました。上皇などの権力者も大規模な荘園開発を行っていました。開発領主が地方の小さな企業とすると、上皇などの荘園は大企業。開発領主は、上皇など大企業の傘下になることで生き残っていました。
北条時政は父の名すらきちんと伝わっていません。比較的新興の開発領主で、もともとは、つまり二代ぐらい前は富豪農民(土地開発人・管理人です。一般農民とは違います。)だったのでは私は思っています。(まだ自信はありません)

在庁官人
国の役所を国衙というのですが、この頃になると長官である受領は現地にいません。代わりに「目代」を派遣していました。国衙の役人を総称して国司と言います。国の役所として機能していたかは疑問です。で、現地勢力が国衙に「たむろ」して、いわば「国衙を乗っ取って」運営していました。国衙というのは開発領主にとっては、「土地をとりあげるいやな奴ら」なのですが、自分が「国衙に入りこめば」、土地の管理権は安定します。そういう人たちを在庁官人と言います。(鎌倉武士は字が読めたのかという疑問がここで生じますが)。名目だけの存在でも良かったのでしょう。
北条時政は開発領主であって在庁官人。らしいのですが、「在庁官人」の方は諸説ありです。もともと後年の護良親王(14世紀前半)などが、倒幕にあたり、「北条なんて在庁官人の子孫じゃねえか」と悪口を言ったのが、証拠の一つなんですが、誤った情報の可能性もあります。「在庁官人」と「下げた」つもりなんですが、北条時政がもっと低い階層だったとすると、「上げてしまった」可能性も残ります。

北条時政はよく「伊豆の豪族」と言われます。ドラマでもそうです。「豪族」というのは便利な言葉なんですが、曖昧です。「開発領主で在庁官人で、かつ武士」とか言ってもわけがわからないので、結局「豪族」ということになるのでしょう。

しかも「小豪族」です。ドラマ上、三浦とは刎頸の友らしいのですが、三浦や畠山は大豪族です。源頼朝と結びつくことによって、小豪族が大豪族と肩を並べるようになったわけです。