歴史とドラマをめぐる冒険

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誠仁親王と信長・「麒麟がくる」の加藤清史郎くんは「可哀そうなかごの鳥」なのか。

2021-02-04 | 麒麟がくる
誠仁親王(さねひと) 1552-1586   麒麟がくる、では加藤清史郎くんが演じています。

信長時代の天皇である正親町帝のただ一人の男子です。織田信長、明智光秀が亡くなった時、ちょうど30歳です。そして34歳で亡くなってしまいます。譲位の直前でした。正親町帝は食事も摂らないほど悲しみます。そして誠仁親王の第一王子である後陽成帝に天皇位を譲ります。譲位準備(仙洞御所の造営)は本能寺のわずか1年半後には始まっています。信長が死んだのに、すぐ譲位です。ここからも信長が譲位を強要したというのは、なかなかに成り立ちにくいのですが、むろん「強要した」という学者さんもおられます。

強い根拠はないのですが、誠仁親王との方が「信長にとって誠仁親王のほうがやりやすかった」のは確かでしょう。信長は奉行の子で王子様育ちじゃありませんが、あまり人間に「ひれふす」習慣がないようです。本当かと思うのですが、信長は生涯にわたって一回も「正式な参内をしていない」ようです。正式な参内となると、圧倒的に帝に対して「ははー」とならないといけない。どうもそれを嫌ったのではないか。そういう学者さんもいます。ちなみに私は「朝廷と鋭く対立していた」という立場には否定的です。信長が朝廷を乗り越えようとしたということも、まあないかと。信長はそれほど朝廷に興味はないように「も」見えます。晩年になると、位は維持するものの、官は辞して左大臣も丁寧に断ります。(非常に難しい問題です)ただ学際的なレベルの話は置いておいて、ここで私が思っているのは「信長はあまり頭を下げる習慣がなかったのじゃないか」ぐらいの話です。誠仁親王なら20も年下です。「ひれふす」必要はなかったでしょう。そもそも「問題が起きた時」は、誠仁親王が対応していたようです。信長は時々朝廷に意見するのですが、そういうときの窓口は誠仁親王であったとのことです。「相論」に関する信長の意見はわりと「まとも」です。でも正親町帝にしても「怒られた」ことはあまりなく、怒られるのは苦手だったようで、誠仁親王に任せます。

安土城には、帝を迎えるための建物があったとされます。しかし正親町帝は行幸していません。これを正親町帝と信長の「戦い」ととらえる向きもありますが、この建物は、誠仁親王用なんでしょう。誠仁親王が天皇になったら迎えるつもりだったのでしょう。譲位には誠仁親王も含めて帝も誰も反対していません、、、と簡単に書くと怒られますが、、、たぶんそうです。ただある学者さんのように「安土遷都」まで考えていたとすると、遷都ですから抵抗はあったでしょう。果たしてそこまで考えられるのか、今の私の力では分かりません。

この誠仁さんを「かごの鳥」にして、二条新御所(二条御新造)に「閉じ込めた」「人質にした」「自由を束縛した」という考えが昔からあるようです。ところがある学者さんが調べたら、誠仁一家は「絶えず禁裏と二条御所を行き来」しているのです。誠仁一家レベルだと、天正8年、本能寺の二年前の10月でも月に10日、他の月もほぼ同じようです。誠仁さんだけでも平均3~4回ぐらいは行き来しています。かなり多いと言えます。これだと「かごの鳥」「自由の束縛」説はきつくなるかなと。

なにしろご一家が多いのです。15人ぐらい息子、娘がいます。34歳で亡くなったのに、15人ぐらい。

実はこれが二条新御所に移った理由ではないか。禁裏では「狭い」から。という指摘もあります。誠仁親王に聞いたら「あ、狭いからです。子だくさんなもんで」と答える可能性があるわけです。「深淵をのぞき見たい方」にとっては、こういう単純な答えはとうてい受け入れがたいだろうし、私にも「深淵」をのぞく趣味はありますから、もちょっと考えてみたいところです。なお、誠仁親王は本能寺の変の後は禁裏に戻ったようです。「ほらみろ」という意見もあるのでしょうが、二条新御所はまさに戦場となり、織田信忠が自決し、多数が亡くなった建物です。事故物件になってしまったわけですから、「けがれ」を嫌う皇族が、そこに住み続けることはできなかったとは思います。そもそも焼け落ちなかったのか。どうもそこがよく分かりません。

天正2年ごろと、9年ごろには譲位の話が進みます。しかし両方とも流れました。これも「信長と天皇対立説」が生じる原因です。

天正9年というと、本能寺の前年です。なんで「流れたか」というと、占いです。陰陽道ですね。この年は珍しく六方向にたたり神がいるのです。「金神」です。「かねがみ」じゃなくて「こんじん」のようです。誠仁親王が二条新御所から禁裏に移ろうとする。その方向に「金神」がいてふさいでいるわけです。強行すればたたりです。方違えという方法はあります。しかし譲位は費用の都合で長く行われおらず、方違えで回避できる保証はなかったのかも知れません。陰陽師さんが書いた漢文も読みましたが、方違えについては触れていないように思います。書き下しも訳もない漢文なので、読解にまったく自信はありません。そもそも陰陽道については理解が私には不足しています。

誠仁親王の行動というか、二条新御所に移ったことに、過剰な政治性を見ようという立場は、「もしかすると」否定されつつあるのかも知れません。

なお私は生涯に一度だけ「方違え」をしたことがあります。高校受験の時、陰陽道(新書)の本を読んだら、直接その高校に行くと方向が悪いのです。友達と二人で、わざわざ別の駅で乗り換えて、方違えをしました。二人とも合格して、さすが陰陽道の力、、、とは思いませんでした。合格したら、俺の力だと思いました。(笑)


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