歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

架空小説「豊臣秀吉の遺言」

2023-08-29 | 戦争ドラマ
架空の世界の、架空のお話。

慶長3年、1598年7月、徳川家康は秀吉の病床を見舞った。
「おお、家康か」。普段は秀吉は家康を内府と呼ぶ。家康と呼ぶ時は、無礼講でいこうという合図だった。家康はその機微を敏感に察した。
「どうした筑前、醍醐の花見の時は、元気だったではないか。お前らしくもない。しっかりせえ。」
「あん時からもう体はガタガタだったのよ。これもみんな信長様のせいだで。若い時あんだけこき使われたら、年取ってガタもくるわ」
「そうじゃ、その調子じゃ。信長殿の悪口でもたんと言うがいい。それでこそ筑前じゃ。信長ってのはそりゃひどい主君だったわな。人の情というものがねえ」
「信長様を悪く言うな。恩人は恩人なんじゃ。ひでえやつだったが、恩は恩」
「ああ言えばこう言うの。それでこそ筑前じゃ。実際のところ、今お前が死んだら、わしでは豊臣を統率できねえ。うるせえ奴らがたんといる。秀頼がもうちっと大きくなるまで、這ってでも生きろや」
「秀頼か」と、秀吉はつぶやいた。そして続ける。
「あんな赤子に天下様がつとまるかよ。無理に無理をして明日関白にしても、誰もついてこねえわ」
「といってどうする。秀次もお前の考えに反して死んでしまった。お前は許す気でいたんだろ。なにも切腹するこたぁなかったよな。あれでお前の計画も狂ったわけだ」
「まあ天下なんてものは回り持ちよ。わしゃ、わがまま放題に生きた。でっけいこともやった。正直死んだ後のことはどうでもいい。新八幡様にでもしてくれ。それでいいわ」
「といって、天下様をお前に譲ると言われても、なかなか難しいぞ。もう秀頼には派閥がついとる。茶々もあの通り気位が高い。お前が何を遺言しようが、徳川の天下なんて許せねえ。そういうやつらがたんといる」
「おめえもわしも、人望がねえの。誰がお前になんぞ譲るか。おめえももうじじいではないか。譲るとしたら秀康じゃ」
「あのわしの息子に。オギイに。織田信雄と同じぐらいのぼんくらだぞ」
「秀康はぼんくらなんぞじゃねえ。そもそもおめえは息子に対して厳しすぎるのよ。人の情がねえのは信長様だけじゃあねえ。いや信長様は息子に甘かった」
「そうじゃったの。信長殿は家族には妙に優しかった」
「家康よ、わしゃほんにわがままでな。正直、死んだ後、わしの偉業が世に伝わればそれでいいのよ。わしが作った天下じゃ。わしの名が上がればそれでいい。それには天下を崩さんことよ。秀頼は生きて暮らせればそれでいい。それにしても朝鮮のことは余計じゃったな」
「今頃気が付いたか。あれは異国だと言っただろ。日本じゃねえ。」
「わしが死んだら、すぐ引き上げだ。家康、朝鮮にはお前から詫びを入れてくれ」
「損な役回りは全部わしじゃの。それは分かった。早速引き上げ計画を立てるわ。しかし天下をオギイにというのは、誰も納得しねえぜ」
「オギイはお前の息子じゃねえ。長い間ほったらかしにしやがって、おめえは父親じゃないわ。人でなしが。オギイは羽柴の子じゃ。わしを継いでも大義名分は立とうが」
「無理だとは思うがな。まあやってみる価値はあるか。いずれにせよわしが後見じゃ。そうなると宇喜多、石田、小西あたりが黙っていまい」
「いや毛利よ、毛利には小早川秀秋がいる。一応わしの縁者じゃ。毛利が黙っていまい」
「いろいろ難しいが、結局はなるようになるだけだ。わしも頑張ってみるわ。秀吉よ。わしのわがままが分かるか。」
「分からん」
「わしゃ、のちの世に立派な人だったと言われてえ。その為には秀頼を殺すわけにいかんし、死なすわけにはいかん。そこは何とか頑張ってみるわ。信長殿、筑前、それにわしの3人で築いた天下じゃ。乱世に戻してなるものかよ」
「まあ、頼むわ」秀吉は初めて微笑んだ。

戦争抑止のため、今こそ「戦争責任論」が必要だ。

2023-08-16 | 歴史と政治
国家間の戦争というものに「個人の責任」が存在するのか。

私は「存在するとすべきだ」と考えます。無責任に戦争を起こされてはたまりません。個人の責任が問われるという前提で政治家には軍事行為を決めてもらいたいからです。つまり論理的に「存在するか否か」を議論したいわけでなく「戦争抑止のために、個人責任が問われる」というルールが必要だと思っているのです。

例えばイラク戦争・アフガン戦争、イラク国民もアフガン国民も今なお苦しんでいます。この責任は「ブッシュにある」と「すべきだ」と考えているということです。イラク占領の失敗の責任は特に大きい。「日本占領と同じことをやる」とブッシュは言いました。「歴史」に対する理解が全くない。イラクと日本がいかに違う国か。日本占領の奇跡的成功が他の国でなせるわけがない。そういう「無知無能」もまた責任を問われるべき問題です。勝つに決まっていた以上、勝った後を考えるのは政治家として最も大切なことです。100年後を考えて政治家は行動すべきなのです。

個人責任が問われるという国際同意を形成する、それをもって戦争の抑止をはかる、、、私はそう言っているわけです。

日本において「昭和天皇の戦争責任」が問題となっていたのは、1945年から1980年代の半ばまででしょうか。昭和天皇が亡くなられてからは、ほとんど議論は起きなくなったと思います。あの戦争ではメディアも国民もこぞって戦争に向かいました。日露戦争の勝利後からのナショナリズムの高揚と世界恐慌が招いた深刻な社会矛盾が背景にありました。したがって「天皇一人の責任を問うことはできない」という理屈は成り立つとは思います。しかしもし「国民全員に責任がある」なら、「最高指導者としての天皇」、、「にも」、、当然責任があることになります。天皇自身は「私に責任がある」ともマッカーサーに言いました。

また日本にのみ責任があるわけはない、という理屈も十分に理解しています。だから「日本にも責任がある」と私個人としては考えます。当然「米国」「ドイツ」「イタリア」「フランス」「イギリス」「ソ連=ロシア」等にも責任があります。「日本にのみ責任があるわけではない」ということは「日本にも責任がある」ということを意味しています。もっと広げるなら「中国」「朝鮮」の責任だって考えていいと思うのです。ただこれはいかにも誤解を生む言い方です。中国・朝鮮・東南アジアに責任があると私は言いたいわけではなく、この国々が「どういう動きをしたのか」を深く知るべきだという意味で言っています。実際は私だって東南アジアの動きなどはよく知りません。

「昭和天皇に戦争責任はあるのか」、、、昭和天皇を責めるためでなく、どうすれば戦争を起こさないで済むかを考えるため、これは考え続ける必要のある問題です。例えばそれを高校生が考え、ある者は「ない」と考え、ある者は「ある」と考える。その思考過程そのものが「戦争を深く考えること」につながると思うのです。

例えば今、プーチンに戦争責任があることははっきりしています。では、ゼレンスキーはどうか。彼は自国民の「親ロシア独立派」にドローン攻撃をしかけていました。ヨーロッパもロシアも「戦争になるからやめろ」と警告したのにやめませんでした。だからゼレンスキーにも責任があることは私の中でははっきりしています。ゼレンスキーがプーチンを強く刺激したのです。このことは次のことを意味します。台湾が現状を維持し、極端な独立行動をとらない限り、習近平は戦争を起こすことない。または起こすことはできない。要は「きっかけ」を与えない、作らないことです。独立行動が過激化しない限り、台湾有事は永遠に起きません。起こせば中国だって深い傷を負うからです。ウクライナ問題と台湾問題は違う問題なのです。

しかしこれには異論もあるでしょう。ひたすらプーチンが悪いのだ。彼がかぎりなく悪で、ゼレンスキーはかぎりなく善なのだ、、こう考える人もいるでしょう。習近平は何もなくても戦争起こすのだという人もいるはずです。そういう人に私個人の(さして国際情勢に詳しいわけでもない私ごとき人間の)意見を押し付ける気はありません。

ただ「いかにすれば戦争を抑止できるか」ということを考える、いわば一つの教材として「ウクライナ戦争」を考えていく必要を感じているのです。今こそ「戦争責任論」が必要だと思います。
最後にぶっちゃけると、私自身は「昭和天皇の戦争責任を考える」というテーマのもとに大学時代、戦争についていろいろ本を読みました。平成になって就職してからは、ほぼ考えてきませんでした。
私はただ自分の体験を普遍化しているだけなのかも知れないな、とも思います。

黒田俊雄氏はなぜ「権門体制論」を提唱したのか。

2023-08-15 | 権門体制論
関西方面で人気がある「権門体制論」は極めて単純な理論です。

中世において日本の支配階級は、荘園を基盤とする公家・武家・寺家だった。天皇はこの勢力に「みかけの正当性」を付与した。権門は喧嘩したり仲良くしたりしながら(相互補完)自分たちの利権を守った。

これだけです。一般には「天皇を中心として権門は結合」と説明されますが、間違いです。少なくとも黒田俊雄氏はそう考えていません。天皇は「正当性」を付与するように見えますが、それは「みかけ」である。提唱者の黒田俊雄氏はそう考え、それを「天皇制の詐術」と呼びました。ここには「公とは何か」という深い問いが存在します。権門はそれが上皇家であろうと「私的勢力」です。私的勢力のままでは支配の正当性が得られません。そこで「天皇という公認機関=王」を「権門が作る」のです。権門は「自らを公的存在にする機関」を自分で育て上げ、天皇を「公として飾り立て」、「天皇は公だから自分たちは公認された」と主張するわけです。天皇が公だから正当性を得るわけでなく「天皇を公にみせかけている」のが実は権門なのです。これが「みかけの公」であり、「天皇制の詐術」「天皇制のマジック」です。現代でも政府は何かというと第三者機関を作り、自らの政策に正当性を付与します。この第三者機関にあたるのが、天皇であり天皇システムです。

戦前に学問を始めた黒田俊雄氏は、徹底した「反皇国史観」論者でした。戦後は徹底して「象徴天皇制」を批判しました。特に「天皇は歴史的に不執政であった。そもそも象徴であった」と言う考えを亡くなるまで痛烈に非難し続けました。だからこそ「天皇は王である」と言ったのです。「天皇は不執政ではない。王だ。王として(日中・太平洋戦争の)責任をとるべきだ」。これが黒田俊雄氏の思いでした。第三者機関として東條ら軍主導の政策を「公認」しながら、自分は弱き第三者機関だから責任はないとする、この態度は間違っていると黒田俊雄氏は主張したのです。(ちなみに黒田俊雄氏の恩師は皇国史観の代表的論者である平泉澄で、権門体制論と平泉の史観の共通性を指摘する論者もいます。たしかに私のいう「みかけの正当性」を考慮せず単純に「天皇が権門の中心」としてしまうと、権門体制論は皇国史観そのものにも見えてくるのです。その意味では危険な理論です。実際、嬉々として平泉史学の復権を主張する方もいます)

天皇制への漠然とした精神的呪縛がある限り、歴史学がまた「非科学的・神話的」なものに歪められる恐れがある。天皇制の真実を解明し、その神秘性をはく奪しないといけない。その思いが「権門体制論」の提唱につながるのです。

黒田俊雄氏はマルクス主義者でした。マルクス主義者がなぜ一見すると、皇国史観と似た構造をもつ「権門体制論」を唱えたのか。

私の疑問はそこであり、そこから権門体制論を読んでいきました。そしてなんとか「黒田俊雄氏の真意」に近づくことができたと考えています。日本史学は政治論であることを免れない。「公平で中立」ということは日本史学ではありえない。だから論者は自分の政治性を絶えず点検し、「なるべく公正に論じよう」とするしかない。黒田俊雄氏の鋭い政治性を前に、私はそんなことを考えます。黒田俊雄氏の文章が心地よいのは、黒田氏が自らのあふれるばかりの政治性を意識しながら、それでも「できる限り公正に叙述しよう」と苦闘している様が読み取れるからです。
以上。