歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

「麒麟がくる」・第三十八回・「丹波攻略命令」・感想

2020-12-27 | 麒麟がくる
4Kを見ての朝の感想です。ネタバレに注意してください。



1,三淵の切腹、ガラシャ、芦田愛菜の登場

助命を求めるという十兵衛の言葉を断って、三淵が切腹します。その前に、芦田愛菜、ガラシャと花を活けたりしています。ガラシャ、小さい。それに圧倒的に子供だ。

2,斎藤利三のこと

天正2年、秋のようです。河内での三好、一向一揆との戦いが数秒流れ、斎藤利三が稲葉から逃げてきます。馬で争ったとか、草履を顔に投げられたとか、私怨です。
十兵衛を頼った理由は「延暦寺で女子供を助けたから」、、、うーん、美化が過ぎるかと。

3,バテレンと信長と光秀

信長はバテレンと会っています。数秒のシーンです。
稲葉に斎藤利三を返せという信長、十兵衛は断ります。さほど怒っていません。
そして丹波攻略を命じます。何年かかってもかまわないと。十兵衛にコンペイトウをやったりします。

4,朝廷と誠仁親王、譲位を願う正親町天皇

誠仁親王が登場します。今日は登場ぐらいです。

譲位して上皇になることを願ったのは正親町天皇という設定です。信長は金を出す役割、ただ今ちょっと苦しいとも言います。基本的には譲位してほしいという感じです。

二条関白が譲位を利用して信長と近づいている、となっています。ちょっと理解ができないかな。

「関白と近づいては足利と同じだ」と天皇は言います。譲位したいのかしたくないのか、はっきりしません。二条関白にどんな得があるのか。はっきりしません。
とにかく、二条が悪者みたいです。でもどうして悪者となのかよく理解できません。

5.近衛前久は丹波にいる

近衛前久なら二条関白を抑えされると太夫は言います。だからどうして関白が悪者なのか。何を抑えるのか。
十兵衛は菊丸とともに丹波に向かいます。
近衛前久は本当は信長が好きだと言います。ということで本当に対立しているのは「近衛前久VS二条」ということになります。これはまあ史実です。

でもどうしてその対立に天皇や三条西が乗っかって、暗躍するのか、、、どうもわかりません。

加筆しますが、とりあえず以上です。

「麒麟がくる」・第三十七回・「信長公と蘭奢待(らんじゃたい)」・感想

2020-12-21 | 麒麟がくる

1、足利義昭あっけなく追放、秀吉は江戸時代の奉行様か

旧二条城に籠った三淵も、槙島城に籠った足利義昭も、あっけなく敗れます。足利義昭追放の担当は秀吉です。「引ったてい」と言います。江戸時代の奉行様か?

さすがに「引ったてい」をやった大河はありませんでした。「信長KING OF ZIPANGU」では「一同が深く礼」をするなか義昭退場です。「黄金の日日」でも「はかなげな演出」があります。「国盗り物語」では信長が「もはや将軍などは無用の特権と思し召し、余生を風雅の中にお暮しなされ」と言います。

いずれも「丁重」です。「引ったてい」は「すごいな、掟破りだ」と感じました。秀吉が少しかわいそうでした。どこまでも悪役です。

2、朝倉義景の最期・切腹

最期と言っても「わしは朝倉宗家なるぞ」と言って「おしまい」です。それなりに威厳を保ちましたが、これももうちょっと「丁重に」できなかったかと。裏切った朝倉景鏡、ベロ出してました。どういう演出意図だろ?

3、駒と義昭の会話

「あくまであきらめない義昭」を描いていました。史実でもあくまであきらめません。この将軍は金に汚いと信長に非難されました。その非難の「つじつま」を合わせるため無料診療所を作りたい設定にしたわけですが、その後無料診療所は全く発展しなかったと思います。

4、蘭奢待の切り取り

正親町帝を後白河法皇のような「大天狗」として描くのじゃないかと予想していました。「小天狗」ぐらいには描いていたようです。どっちも史実とはかけ離れますが。
信長は「蘭奢待を切り取って送れば天皇が喜ぶ」と考えますが、正親町帝は「関白に送って毛利にやってしまえ」と言います。史実としては九条稙通に「おすそわけ」しています。

史実としてはさほど怒ってはいなかった。ただ開封の手順を巡っては、関白二条さんに怒ったとされます。ちなみに毛利はこの時期織田家とは良好なので、敵に送ったことにはなりません。

ドラマの正親町帝はこのあたりから「あれ」と思うようです。信長と齟齬が生じる。信長は誠仁親王を帝位につけようとするのか。個人的には「蘭奢待」より「義昭追放時に京都を焼いた。内裏にも火が迫った。」ほうが正親町帝にとってはずっとショックというか、危機感を感じたと思います。信長はそれなりに朝廷を尊重していたのは史実ですが、この「上京焼き討ち」を重く見るなら、フロイスに言ったという「内裏、天皇より幕府より私の意見が最優先される」という言葉も、フロイスの嘘とまでは言えない気がします。信長はキリシタン追放の正親町帝の綸旨は無視しています。ドラマと史実は違います。当たり前の話ですが。蘭奢待についての詳しい内容は以下をご覧ください。蘭奢待(らんじゃたい)と信長と三条西実澄・信長と正親町天皇の関係は「対立」なのか「協調」なのか。

最終回の予想はこちら。麒麟がくる」・第44回・最終回・あらすじ・予想・加筆前提
以上。

織田信長の上京焼き討ち。織田信長が足利義昭を追放するまで。

2020-12-20 | 織田信長

1572年・元亀3・12月22日  三方ヶ原の戦い
                  
1573年・元亀4、西暦8月から天正
1月     信玄、野田城を落とすも動きが鈍る→4月死去
       義昭、一回目の挙兵
       信長、義昭に和睦を申し出る・義昭拒否
2月24日  信長、足利義昭側の「砦」を攻撃
3月25日  信長岐阜から京へ出陣
3月29日  細川藤孝・荒木村重、信長側へ、吉田兼見に義昭の評判を聞く
4月3日   京都の郊外を焼く
4月4日   信長上洛して上京を焼く(義昭への脅し?)
       旧二条城を包囲 義昭和睦に応じず。 上京、内裏の近くまで火か。正親町帝調停に乗り出す。
4月7日   関白二条晴良が和睦の使者に。義昭和睦に応じる
4月8日   信長、六角勢を掃討しつつ岐阜に帰陣
       このころ武田信玄死去
5月15日  信長、佐和山に出向いて「大船造り」を命令 全長50m 岐阜から京に迅速に行くことが目的 7月5日に完成
7月3日   義昭二回目の挙兵 義昭は槙島城  三淵藤英は旧二条城
7月9日   信長京に入る
7月12日  三淵、旧二条城を明け渡す
7月18日  義昭、槙島城を開城 降伏の条件、義昭の子、義尋を差し出すこと 信長の兵力は5万から7万
       義昭追放 義昭は一旦、三好義継の若江城へ→義昭帰京の為、毛利、安国寺恵瓊と秀吉が交渉→義昭、信長へ人質を要求して決裂→毛利へ→鞆へ

1、織田信長は「それでも幕府を残そうとしていた」のか。

最終局面で、信長が義昭の子である義尋を手元においたことから、幕府再興説が存在します。義尋はのち僧となります。義尋を将軍にするという「動き」はなく、旧二条城は破却されます。

2、織田信長は何故上京を焼いたのか。

京の半分を焼き払うというのは、脅しにしては過剰です。義昭の威信を傷つけるためでしょうか。上京はもともと信長に反意があったとも言われます。下京は「焼かなかった」という理由で後、金をとられています。

帝の御所は焼きませんでしたが、帝のおひざ元である京を焼く。正親町帝にとってこれは「いつものこと」なのか「不快なこと」なのか。調べてみようと思っています。

来年の大河「青天を衝け」の前半の内容を少しだけ予想する。渋沢栄一・徳川慶喜。

2020-12-17 | 青天を衝け
来年の大河は2月14日のスタートです。「麒麟がくる」の最終回が2月7日ですから、一週も空けずに連続的に放送するということです。「麒麟がくる」の総集編の放送はどうなるのかなと思います。
主人公は渋沢栄一で、吉沢亮さんです。前半は渋沢の青春期と、徳川15代将軍、徳川慶喜の生涯が「パラレル」に描かれるらしいのです。このページにNHKのPRが載っています。

少しだけ内容を「予想」してみたいと思います。ハンドブックとかは全く読んでいません。

1、渋沢栄一は坂本龍馬と「青春」が似ている。

彼はやがて「日本資本主義の創始者」みたいになっていきます。職は山ほどありますが、基本的には銀行の頭取です。その前は明治政府の役人。その前が徳川慶喜の家臣。その前は尊皇攘夷にかぶれた剣術好きの若者。その前は名主の息子です。農民といっても「富農」です。名主と言います。庄屋さんみたいなものです。

名主から出て、剣術をやり、尊皇攘夷にかぶれる。ここまでは坂本龍馬と同じ青春を送ります。正確には龍馬は郷士なのでちょっと違いますが。
龍馬は勝海舟と出会って攘夷を捨てた(でいいのかな)わけですが、渋沢はフランスに行って攘夷を見直します。水戸徳川の跡継ぎに従ってパリの万国博覧会に行きました。

2、なぜか徳川慶喜の家臣となって、幕臣になる。新選組とも多少は関わる。

尊皇攘夷運動をしようと、京都に行ったようです。しかしそれは1863年(明治は1868年から)で、京都の尊王攘夷派はこの時圧迫されていました。どうしようかと思ったら、一橋慶喜の家臣、平岡円四郎に拾われます。一橋慶喜は後の徳川慶喜で、この時は「将軍後見職」でした。その前は、井伊直弼の圧迫を受けていて、活躍するのはこの時あたりからです。やがて14代の徳川家茂が京都にて脚気で亡くなり、結局は徳川慶喜が15代、最後の将軍になります。渋沢はどこかで正式な家来となっていたようで、自動的に「幕臣」となります。主に一橋家の「経済」を担当していたようです。明治維新後は、明治政府からも出仕を希望されます。

一橋慶喜(徳川慶喜)さんは水戸徳川家の生まれです。「尊皇攘夷思想」の「卸問屋」である水戸学の藩です。慶喜自身はどこかの時点で(これから調べます)「攘夷」は捨てたと思います。「捨てた」というより「現実的にはとても無理だ」となったと思われます。しかしそれを宣言なぞはしません。開国的な政策をとった井伊直弼に直接文句を言って安政の大獄で謹慎になります。政治を行うようになってからも、攘夷の姿勢は「戦略上」保っていました。だから渋沢にとって尊皇攘夷総本山の水戸の慶喜の家来になるのは、さほど矛盾したことではなかったと思います。

脚本は大森美香さんで朝ドラ「あさが来た」を書いた方のようです。キャストに「渋沢の家族がずらっと」並んでいますから、「家族劇」の要素が強いのでしょう。ただ名主階級は農民と言っても読書階級で、十分に政治参加できる階級です。政治的描写を含みつつ、基本は「家族劇」として進行するのかなと思っています。要するに「朝ドラ的」かなと。

歴史的事件においては、「徳川慶喜」が主役的な役割を果たすのでしょう。演じるのは草彅剛さんです。渋沢は1840年の生まれで、慶喜は3つ年上です。23歳ごろまで、二人は出会わないか、出会っても「渋沢がたまたま見る」程度じゃないかと思います。

でもそうすると、いわゆる大河的な「見せ場」がなくなる。なくなってもいいのかも知れません。渋沢家をじっくり描いて引き付けていく可能性もあります。朝ドラだって、主役を含め、そんなに有名人はいないし、有名な事件も起きたりしません。まあ23歳ですから、渋沢は早々に大人になって、京都に行くという可能性も考えられます。ただ、それにしては「血洗島村」の人間が多くキャスティングされています。

やや「不自然だけど」、勝海舟にあったり、坂本龍馬(同じ千葉道場系)にあったり、桂小五郎とか西郷(江戸にいるはず)に会ったりするのかも知れません。(会ってるか否か、史実は調べていません)

でもそれはいかにも不自然かな。渋沢の成長と、徳川慶喜の成長が「二本立て」で描かれると考えたほうが良さそうです。徳川慶喜を私は評価しているのですが、「篤姫」でも「龍馬伝」でも、「西郷どん」でも、あまり魅力的には描かれませんでした。維新最大の功労者の一人かな、、、と思うわけで、もうちょっと好感度が上がる描き方をしてほしいかな、、と思います。

鎌倉殿の13人の内容を少し予想する。大河「草燃える」の思い出。

2020-12-15 | 鎌倉殿の13人
大河「鎌倉殿の13人」は「麒麟がくる」と同じ「リメイク大河」です。「草燃える」のリメイクですね。こう書いても三谷幸喜さんは「怒らない」と思います。三谷さんは大河好きで、「草燃える」は名作中の名作だからです。なおこの文章は2020年の12月に書いています。

「鎌倉13人」の主人公は北条義時、小栗旬さんです。「真の武士の世を開いた人」と言われます。承久の乱で、後鳥羽上皇と戦って破り、鎌倉幕府を「確立」させた人です。初めて朝廷から政治の主導権を奪った。彼と彼の与党がやってのけたことは空前絶後のことですが、教科書上も世論上も、そういう評価は受けていません。その理由は何なのか。放送までに考えていきたいと思っています。今のところは皇国史観が描いた逆臣義時像の影響が、未だに残っているからと思ってますが、まだまだ理由はありそうな気がします。

「草燃える」では松平健さん(13人では平清盛役)が演じました。純粋な青年からスタートして、最後は親友(伊東十郎)の目をつぶすほどの悪人に変化していきます。この人が主人公だと私は思いますが、正式な主人公は源頼朝、北条政子です。滝田栄さん演じる伊東十郎は極悪人となったが、最後は琵琶法師になっていく。北条義時は好青年からスタートして、悪人になっていく。正確には「悪人でないといけない」と自分を追い詰めていく。この二人のクロスは子供心にも「深いなー」と思ったものです。

さて「鎌倉殿の13人」の内容です。時代考証も決まっていて、なかなかにNHKは考えたなと思います。うるさい人を取り込んだ形です。(その後呉座氏は炎上騒動で降板)

源頼朝は大泉洋さんで、最初は「へたれのスケドノ」でしょうね。でもすぐに「源頼朝」になる。まあなっても小池栄子さんの北条政子にはいろいろ支えてもらうのでしょう。

誰が鎌倉幕府を作るのだろうと考えました。大泉洋さんのブレーンですね。最初はたぶん北条宗時、片岡愛之助さん。次に三浦義村、山本耕史さん。俳優からみての話です。さらに当然大江広元、栗原英雄さん、阿野全成、新納慎也さんかと。

史実で言えば大江広元、三善康信がブレーンですが、俳優からみると最初の知恵者は北条宗時のような気がします。「草燃える」でもそうでした。大泉洋さんは最初は「へたれ」で、平清盛に殺されると言ってアタフタし、杉本哲太さんの源行家に励まされ、小池栄子に励まされ、そして北条宗時が立てた計画通りに「まつり上げ」られる。大泉洋「勝てるの?本当に勝てるのね。えっ、北条って50名ぐらいしか兵いないじゃん」「やっぱ一回戦、大負けじゃん。死ぬかと思った。おれ、逃げるから。奥州藤原に逃げるから」とか言いそうです。(その後、北条宗時は結構ポンコツキャラだと判明。)

頼朝は、徐々に「鎌倉殿としての凄さ」を発揮していくのだろうと予想します。

主人公の北条義時は最初は「きままな次男坊」の「江間小四郎義時」でしょう。父と兄に従ってなんとなく生きている。妹の阿波局とキャッキャとやっている。それが色々あって北条の嫡男になってしまって、和田とか三浦とか比企との「父親の喧嘩」に巻き込まれる。「メンドーだな、おやじたち、仲良くしようよ」となる。このあたりは、真田丸の真田昌幸と信繁の関係なのかなと思います。

もっとも「13人の抗争」が始まるまでは時間があります。挙兵から始めるようです。すると平家との戦い、そして義経ですね。義経は菅田将暉さんです。比企の佐藤二朗さんも見ものです。

そして最終局面では後鳥羽上皇が出てくる。後白河は源頼朝が対抗したけど、後鳥羽には自分が対抗しないといけない。承久の乱。その頃にどうなっているのかは分かりません。悪になっていく「草燃える路線」か。主人公が小栗旬さんですから、基本は青年時代と変わらない「信長協奏曲路線」か。私は後者のような気がしています。

蘭奢待(らんじゃたい)と信長と三条西実澄・信長と正親町天皇の関係は「対立」なのか「協調」なのか。

2020-12-15 | 麒麟がくる
蘭奢待(らんじゃたい)というのは、東大寺正倉院に伝わる香木です。正式には「黄熟香」です。植物名は沈香です。ジンチョウゲ科。156センチあるそうです。

1574年、天正2年3月28日、織田信長の要請によって「切り取られ」ます。信長の前に切り取ったのは8代将軍足利義政です。信長の切り取りは110年ぶりぐらいのことです。

切り取るには「手続き」がいります。東大寺の別当(長官)に天皇が勅命を出すのです。しかし、東大寺別当は空席でした。それやこれやで色々混乱が起きます。この時「聖武天皇の憤りが思われ、天道に照らして恐ろしきこと」という文章を正親町天皇が書いたとされ、信長と天皇に「対立があった」ことの「一つの例」とされてきました。聖武天皇は正倉院の御物を残した、大仏で有名な人です。

信長と天皇が対立していたという説は、一見すると信長の優位性を示すように受け取られるかも知れません。しかしこの説が力点を置くのは「対立していたが正親町帝が勝った」「正親町凄いぞ」ということ(が多いの)です。朝廷には信長と「対立可能な」十分な実力(権威や文化の力・天皇の力)があるというわけです。それに対して「協調していた」という説は、朝廷や天皇の力を過大評価しません。むろん「論者によって様々」で「この法則に当てはまらない方もいます」が、基本的には「協調していた」の方が「朝廷、天皇は弱かった」という説になっていく「場合が多い」のです。この文章の最後の部分にちょっと図式化して「注」を載せておきます。

しかし上記の文章は確かに存在するのです。それを正親町帝が「案」を書いたとすると、「少なくとも不快に思っていた」とは言えるわけです。しかし東大の金子拓さんは「これは正親町が案を書いた文章ではなく、三条西実澄が案を書いた文章だ」とし、その見解は支持を得ているようです。なお金子さんの説を引用する時は「織田信長天下人の実像」2014年を参照しています。三条西さんは、麒麟がくるの「おじいちゃん公家」です。

どうして誰が「案を」書いた分からないかというと、宛先がないからです。文章の性格としては「内奏状案」です。わかりにくい。ずっと正親町帝が案を書いたと思われてきたが、よくよく検討すると、三条西さんが案を書いたとしか思えないとなったわけです。

では正親町帝もしくは三条西さんは何と言っているのか。問題の文章の現代語訳を少し書きます。訳は金子さんの訳を私が「意訳」したものです。金子さんの「原文」ではありません。
長いので写すのが大変なんです。だから「あらすじ」を書きます。内奏状案の原文そのものも読みましたが、ひらがなばかりで、活字でも読みにくいこと限りありません。

1、蘭奢待の開封は、長者宣のはからいに属するものではありません。(藤原の長者、二条晴良の判断に任せていいものではない)
2,女房奉書も思いもしない文言である。(こんな文章では駄目だ)
3,信長の申し出は前例がないことであるが、もうちょっと勅許の出し方を考えたほうがいい。
4,(ご意思表明につき)ご談合もなかったから、どのようにも沙汰ありたいようになさったらどうか(相談なしなのだから、好きにすればいいけどね)
5,公家一統がはじまったのに、先が思いやられる(院政が実現しそうなのに、または朝廷がやっとまとまったのに、困ったもんだ)
6,あきれて言葉もでない。
7,勅命と勅使が必要なのに、藤原氏の氏寺である興福寺の扱いとしているでしょ
8,天皇家の寺に対してなさったことは、聖武天皇の憤りが思われ、天道恐ろしきことです。(聖武天皇の憤り、天道恐ろしきこと)

私の「意訳」です。私が間違っている可能性はありますが、故意に改変はしていません。カッコ内は完全に私の読み方です。

「なるほど」です。「天皇に対して言っている」ように見えます。金子さんの見解では、三条西さんが正親町帝に怒っているらしいのです。中頃の「好きにすればいい」とかかなり強烈です。このお二人、たしかばあちゃんが姉妹です。朝廷内の「手順の問題」ということになるのでしょうか。

ただ私がもう一人、よく参照させていただく、公武結合王権論の堀新さんは、「現代思想」2020年1月で「正親町天皇の怒りの対象は信長ではなく、関白二条晴良だった」と書いています。すると文章の主はあくまで正親町帝となるのか。「ああそうもとれるな」と思います。成立するようにも思います。ただ困るのはこれを金子さんの説として紹介していることです。金子氏が2015年の学者さん向けの書物で見解を変えたのかも知れませんが、また調べて加筆します。ということで、2015年の金子拓さんの「織田信長権力論」を見ましたが、論は変えていません。「筆跡」も三条西さんということです。

いずれにせよ信長への怒りではないということは変わりません。

こんな風に「筋を通せ」と言っている(可能性がある)三条西さんですが、堀新さんによると(信長徹底解読、2020年)、この後、勅命は東大寺別当に下すものだ、東大寺別当は今いない、だったら私の子供(小さい子みたいです)を東大寺別当にしろと言っていて、実際そうなります。「お手盛り人事」と指摘しています。

さて信長から離れました。信長はこの時、慎重に手順を踏んでいる、らしいのです。奈良で切り取ったのですが、3000人の兵を連れて、治安も守り、強制、強要のたぐいはないそうです。対立はないというのが、私がよく参照させていただく学者さんの見解です。

蛇足、私見
でもどうなんでしょう。そもそも「見たい、切りたい、かいでみたい」という要請が「当時の朝廷の意識では前例なきこと」なわけです。手順を踏めば何やってもいいということではないでしょう。
しかも当日でしょうか。3000人も兵を連れています。「治安維持名目の示威的軍隊出動」って、今でもよくあることで、いくらお行儀が良くても、示威行動と感じる人もいるでしょう。
そして正親町帝がそれを不満に思っても。その不満を外に示すことはできないでしょう。ただし、奈良ですから、松永久秀の本拠で、実際治安はよくなかったとは思われます。
この時期の信長は「将軍追放直後」で、将軍並の威光が必要でした。足利義政のやった蘭奢待開封をやることに意義を感じたのかも知れません。晩年にはない官位上昇志向もあったようです。官位上昇志向は、義昭を「ちょっと追い抜いた」時点で止まるようです。

私は「無理やり対立構造を作ろう」としているわけでもなく、まして「対立があって正親町帝が、または信長が勝った」と言いたいわけでもないのです。
ただ「対立はなかった。あっても本質的ではなかった」という考えが、すんなりと心に入ってこないのです。何十年も「そこそこ対立だろ」と思っていたのです。
堀新さんの公武結合王権論はとても魅力的だと思っています。読んでいて気持ちがいい。金子さんの篤実な実証も尊敬すべきものです。感嘆すべきと言ってもいい。ホント、死ぬほど大変な作業だと思います。私なんぞ「参考にしまくり」です。でもだからと言って「はい、そうですか」とはなりません。「考え中」です。素人なので「考え中」の方が楽しいのです。

注 単純に図式化すると
1,協調していた、朝廷の力は弱かった
2,協調していた、朝廷の力は強かった
3,対立していた、正親町、朝廷が最後は勝った
4,対立していた、信長が勝っていた、ただし信長は朝廷を尊重していた
5,対立していた、信長が勝っていた、信長は朝廷を軽んじ、朝廷は途絶える可能性があった

「麒麟がくる」・第三十六回・「訣別(けつべつ)」・感想

2020-12-13 | 麒麟がくる
今回は良かったと思います。文句書きません。

1、帝と十兵衛の対面

荘厳すぎて「疲れました」が、この程度の「抑制のきいた描き方」はいいと思います。ただ疲れるので、やっぱり関白ぐらいが天皇の意志を代弁してくれたほうが助かります。あっ、関白二条はコヤブさんか。関白は松重豊さんぐらいのベテラン俳優がよかったかと。

2、藤吉郎の気になる言葉

「柴田様、佐久間様は、信長の殿におもねりすぎ」、、、おもねる、、機嫌を取って追従を言うこと、、、藤吉郎が言うのか、、、秀吉黒幕説だけはやめてほしい。黒幕説は明智光秀への冒涜。「光秀ごときに単独行動ができるか」という考え。いやな予感がします。でもでもでも。
でもおそらく「信長と秀吉は違った存在」という最近の論を受けてのことだとは思います。「秀吉は信長の遺志を継いだわけでなく、オリジナル性の高い政治家である」ということでしょう。そっちだろうと思います。「かつての明るく陽気で人たらし」だった藤吉郎が、ドラマの上でどんどん不気味な男になっていく。

3、将軍様に剣の指南

長い尺です。回想シーンまで含みます。「なんだこの長い尺は」と思いつつ見ました。「義昭と十兵衛の絆が回復する」ととりました。訣別しても絆は消えないと解釈しました。あんなに身をかわさなくても、せめて剣を受けてやればいいのに。

4、煕子との坂本城でのシーン

ほのぼのシーンも必要です。十兵衛には「友達も一人もいない」、細川でてこない。側近も出てこない。相談相手がいない。煕子さんしかいないのです。コロナでみんないなくなってしまいました。

5、反省する信長

信長にも迷いがあったことは史実なので、「鳥」でそこを表現したかったのかも。最後まで迷ったのは確かなようです。追放後も帰京交渉とかあるのですが、義昭さんが条件だすから、藤吉郎がNOを突きつけます。それで本当の訣別。ここから織田側の窓口は藤吉郎でした。でも義昭さん、追放ぐらいで「めげる」人じゃありません(史実では)
考えてみるとすごいバイタリティー。「殺されはしないご身分」だから、何でもできる。鞆は描くのかな。

6、義昭との涙の別れ

義昭が後醍醐で、十兵衛が足利尊氏でしょうか。これでやっと物語が動いていく。長いよ元亀年間が!でも十兵衛、あまり泣いてばかりではダメだ。へたするとずっと涙を見せられることになります。頑張ろう、十兵衛!

今回はやや安心して見られました。この数回、私は文句ばっかり言ってきたけど、このまま「いい感じ」でテンポよく進めてほしいと思います。「蘭奢待」はどっちの説でいくのか。正親町プンプン説かなと予想しています。三条西さんも信長に怒るのでしょうね。史実では怒りの対象は違う(らしい)のですが。

「麒麟がくる」・第44回・最終回・あらすじ・予想

2020-12-12 | 麒麟がくる
「麒麟がくる」の最終回はどこにも載っていません。従って「完全に私の予想」ですが、史実を含めてネタバレがあるので、気を付けてください。徐々に加筆します。
最終版の予想はここにあります。麒麟がくる・最終回・第四十四話「本能寺の変」・あらすじ・予想・多少ネタバレ・最終版

間をおきます。予想は12月12日にしたものです。「義昭、迷いの中で」が放送された段階です。

当然ながら、史実ではありません。ただ一部は史実です。

天正10年=1582年6月2日が本能寺の変の日付です。

1582年 本能寺の年

光秀は55歳となって疲れています。というのも信長は京都の政治には興味がなく、全てを十兵衛に任せているからです。土地をめぐる訴訟で、十兵衛は多忙を極めています。(史実としては京都代官は村井さん)
織田家の京都における筆頭者は信長の息子の信忠です。

1、十兵衛は信長に不満を持っていました。「義昭追放」「松永討伐」など、思い出すだに「自分が不甲斐ない」と思う日々です。

2、信長は正親町帝にも不遜な態度をとることが多くなっています。帝への挨拶など「信忠がやっていればそれでいい」という事です。関白の近衛などにも「大きな態度」で上から臨んでいます。

3、信長は天皇に「ほめらること」にも飽き、ただ「戦争をして勝つ、相手を滅ぼす」ことに夢中になっています。帰蝶もそれを止められません。

4、四国、長曾我部との「仲介」は光秀でした。しかし信長は約束を反故にして四国討伐を決めます。それもただ「息子の信孝に武功を上げさせたい」というだけの理由です。十兵衛は反対しましたが、頭ごなしに怒鳴られ、却下されます。(本能寺の原因1)

5、信長のこうした態度の後ろには藤吉郎の影が見え隠れします。藤吉郎の色眼鏡でみた情報を、信長に流しているようです。

6、「たま」とのひと時が光秀の心の支えでした。光秀はもう自分は引退し、たまの婿である細川忠興ら、若い者が国を担うべきかなとも考えます。

7、そんな中、信長は「暦の問題」にまで口を出すようになります。「暦」は「時の支配者」としての「天皇の大権」でした。「天皇の大権」にまで介入してきたことに十兵衛は衝撃を受けます。(本能寺の原因2)

8、この年、ついに武田勝頼を滅ぼします。十兵衛は信長に従軍して甲斐へ向かいます。そこで衝撃的な事件が起きました。信長が「武田勝頼の首」を面罵した上、足で蹴飛ばしたのです。武士の誇りを平気で傷つける信長を見て、十兵衛の中で打倒信長の決意が芽生えてきます。(本能寺の原因3)

9、十兵衛家臣の斎藤利三は稲葉のもとから出奔してきた男です。稲葉からは返せという要求が信長に伝わっています。一度は解決した問題でしたが、稲葉の要求で、信長はまた返せと十兵衛に命じます。返したら斎藤利三は殺されます。「6月中に返せ」というのが信長の命令です。いよいよ十兵衛は追い詰められます。(本能寺の原因4)

10、十兵衛はそれでも信長を見捨てられません。最後の願いとして「幕府を開く」ことを要望します。「武士は幕府なしでは生きられない」、しかし信長はそれを否定します。朝廷や征夷大将軍とは関わりのない、スペイン王のような「専制君主」を信長は目指していました。拠点は安土です。宣教師からその知識を得ていたのです。朝廷をつぶしたりはしない、帝は京でただ祈っていればいい、と信長は言います。そして今の帝に変えて、お気に入りの誠仁親王を帝にするつもりだと言います。(本能寺の原因5)

11、十兵衛の気持ちなど知らず、信長は「上洛した徳川家康の接待」を命じます。家康と深く話をした十兵衛は、家康もまた「武士の誇りを守るため幕府を開くべきだ」と考えていることを知ります。「幕府は武士のためにあると思っていたが、帝を守り、殺戮を避け、日本を平和に統治する仕組みなのだ」と十兵衛は気が付きます。自分の謀反が失敗した場合、後継者は家康だと十兵衛は思います。この接待の場では信長による光秀への暴力があったと書く二次史料があります。これも採用されるでしょう。

12、5月末、信長と信忠が京に逗留することを知った十兵衛は、謀反を決意します。気になるのは帰蝶です。しかし当日帰蝶は本能寺にいないことを確かめます。

13、十兵衛は「駒だけに」、この計画を漏らします。「十兵衛様がやりたいようにするのが正しい」と駒は言います。

14、6月2日、早朝、光秀は本能寺の変を起こします。ところがいないと思っていた帰蝶が本能寺にいることを知ります。燃え盛る炎の中、十兵衛は叫びます。「帰蝶さま、信長さま!」、本能寺には駒の姿もありました。帰蝶の死は光秀の心に気がついていた帰蝶なりの責任のとり方でした。(この展開はあまりに悲しいので、やめてほしいと思っています)

15、十兵衛は「自分が征夷大将軍になって朝廷と日本と武士と民を守る」つもりでした。朝廷も十兵衛の行為を認めます。またはある程度時間をおいてから信忠を推すつもりだったが、信忠が頑強に抵抗したため、心ならず討ち取ったという展開もありえます。

16、堺にいる家康は十兵衛から文を受け取ります。伊賀を越えよ。明智の兵は決して襲わないと書いてありました。家康は十兵衛を信じてみようと思います。

17、本能寺を知った秀吉が、中国方面から「大返し」をしてきます。決戦地は山崎でした。細川藤孝は信長の恩を理由に味方になることを拒みました。それも仕方なしと十兵衛は考えます。

18、十兵衛は破れ、坂本に向かいます。OPと同じ映像が流れます。やがて小栗栖の里で農民の竹やりによって致命傷を追います。最期をみとったのは菊丸でした。十兵衛は言います。「家康殿にあとは任せた。家康なら必ず麒麟がくる世を作れる」。菊丸は深くうなづきます。

19、時は移って、1615年。大阪の陣が終わります。駒と菊丸は十兵衛の思い出を語ります。「これでやっと十兵衛さまが描いた麒麟がくる世がやってくる」、二人は笑顔でした。

20,光秀は亡くなりました。帝も、公家も、細川も、家康も表立って光秀を支持することはできません。しかしあの秀吉ですら、「心の底では」、光秀が新しい時代を開いたことがよくわかっていました。ナレーションが入ります「十兵衛光秀は死なない。世の平穏を願った光秀は今も生きている。生き続けている」。

以上。わたしが書いた、光秀天海説に基づいて「みんなを生かしてしまう小説」もありますので、よかったらどうぞ。

麒麟がくる・スピンオフ・「天海光秀、信長と再会す」・「明日を捜せ!」

蛇足
1、駒と帰蝶の運命は全く分かりません。完全に私の創作です。光秀が炎の中で叫んでいるのは「帰蝶さまー」だろうと考えたわけです。
2、四国問題、「ただ信孝に武功をあげさせたい」なんて史料はありません。
3、暦問題、天皇大権を犯していないと、最近はよく言われます。時代考証の小和田さんは「それは多少疑問だ」としています。
4、信長が正親町帝に礼を欠いた、ということはなさそうです。そもそも「正式には」一回も信長は参内していません。嘘みたいだけど本当らしいのです。さらに官を辞してからは、任官は避けており、朝廷とは距離があったように私は感じています。蘭奢待で多少信長と天皇は齟齬を生じたという設定みたいです。でも「朝廷」がやるのはせいぜい本能寺の「教唆」でしょう。なぜなら「大河は黒幕論を採用したことが過去にほぼない」からです。「おんな城主直虎」ぐらいか。「利家とまつ」も「秀吉が知っていた感じ」にしてました。それぐらいでしょう。黒幕論と大河は相性が悪いのです。
5、斎藤利三を「6月中に稲葉に返せ」、、、そんな史料はありません。
6、関白近衛への無礼は甲陽軍鑑です。昔は俗書でしたが、今の扱いはちょっと違います。
7、勝頼の首を蹴飛ばした、史料は細川家の「綿考輯録」(めんこうしゅうろく)です。私のネタ元は小和田さんです。
8、スペイン王のような専制君主、、、ネタ元はありません。神になるという自己神格化そのものは描かず、それに近い皇帝願望を描くと想像しました。これはないでしょうね。
9、どうして十兵衛が幕府再興にそこまでこだわるのか。私にはよく分かりません。ただ小和田さんはそう書いています。これから考えます。
10、平氏の信長が将軍になることを阻止しようとした、小和田さんはそう書いていますが、採用されないと考えました。
11、誠仁親王を天皇にする。正親町帝に譲位をせまる。一般には「上皇になれるので、正親町帝は大歓迎」とされます。
13、細川藤孝の「理由」をどう設定するのか。面白いところだと思います。
14,言わずもがなですが、「伊賀を越えよ」なんて手紙あるわけありません。

壬辰戦争(朝鮮出兵)のこと。イベリアインパクトのこと。

2020-12-12 | 豊臣秀吉
文禄の役、1592-93、慶長の役1597-98

最近は「壬辰戦争」という名称でまとまりつつあるようです。とにかく呼び名が沢山あります。

壬辰戦争・文禄慶長の役・朝鮮出兵・朝鮮侵略・唐入り・壬辰倭乱などです。

理由も沢山あります。ウィキペディアによると

鶴松死亡説(鬱憤説)・功名心説(好戦説/征服欲説)・動乱外転説・領土拡張説・勘合貿易説(通商貿易説/海外貿易振興説)・国内集権化説(際限なき軍役説)・国内統一策の延長説・東アジア新秩序説・キリシタン諸侯排斥説・朝鮮属国説(秀吉弁護説)

教科書的にはさらっと「明を征服しようとして」となっていた気がします。よく覚えていません。

大河では「独裁者の暴走」と描かれることが昔は多かったと思います。史実じゃなくても「それでよい」気もします。「そうしておいたほうがいい」ということです。

そこで「日本の良心」として「なか」が登場します。秀吉の母、大政所です。「人様の国にいって、人を殺すなんて、それだけは絶対いかん」「秀吉は頭がおかしくなってしもうた。家康殿、利家殿、お願いじゃ、お願いじゃ、藤吉郎を止めてくだされ」、、、個人的には「この描き方でいい」し、この大政所の姿勢は「感動的」です。自分の母を見ているようで「ありがたい」とも感じます。「頭がおかしくなっていかなった」という「エビデンス」(笑)もありません。

ただ歴史学者でこの説をとっている人は多くはありません。昨日読んだ本(東大の黒嶋敏さん)は「日本国王としての冊封と貿易狙い」ということでした。ドラマでは「冊封なんか受けるか」と言いますが、あれは嘘みたいです。「日本国王」として冊封を受けていたという史料も、明から与えられた服などの「現物」も残っていて、動かしがたいようです。国内向けにはむろんそれは「不都合な真実」なので、「明が頭を下げてきた」と説明されました。

さらにイベリアインパクト(スペイン、ポルトガルの衝撃)の影響を指摘する説もあります。スペインの世界征服計画です。これも嘘みたいな話なんですが、計画そのものは事実です。実際「スペイン帝国」が成立しています。

ただ実際、アジアではフィリピンを奪った程度で、スペインは早くも衰退していきます。「紙の上の計画」では、「アジアキリスト教化計画=アジア征服計画」が存在しました。繰り返しますが「紙の上」の話です。

それを知った秀吉が「明がスペインにとられたら、次は明から日本が攻撃される。先手を打って明を奪う」となったという説もよく目にします。NHKの「戦国」も「それに近いこと」を言っていました。

なんだか「大東亜共栄圏みたい」です。大東亜戦争も、日本の意識としては「帝国列強からアジアを守り解放する」というものでした。もちろん「みたいだから駄目」なのではありません。言い方が難しいのですが、よくよく注意して考えるべき問題だなということです。

イベリアインパクトを重く考えようという説には共感を覚えます。単なる宣教師の来訪ではないようです。ただ歴史学者も指摘するように、それがバランスを欠くと、自らの政治信条の表明になってしまいます。壬辰戦争は強い政治性を含む問題だからです。イベリアインパクトは、大事だが、慎重に考えるべき問題だと思います。

織田信長の軍事作戦を「天下静謐」の為の戦いと言っていいのか。

2020-12-10 | 織田信長
織田信長はたしかに自分の戦いを「天下静謐のため」(てんかせいひつ)と書いています。でもそれを真に受ける必要はないでしょう。アメリカ軍が「世界平和のためのイラク戦争だ」と言うのを「そのままそっくり信じてはいけない」のと同じです。なお天下は畿内、京、日本、世界を指す言葉です。信長は自らの支配領域を天下としており、天下の意味は「柔軟に」捉えるべきものと考えています。

具体的に考えてみましょう。「越前の運命」です。

1570年ぐらい、つまり信長の上洛までは、越前朝倉氏は一向一揆と戦ってはいたものの、それなりに平和でした。「静謐」なわけです。なお「謐」とは「静」です。「静静」です。

さて越前。それなり静謐で「小京都」と言われる賑わいを見せた越前一乗谷の運命は、信長の出現によって変貌します。まず信長がいきなり侵攻してきます。別に悪いことしてないのに「京都に来なかった」と攻め込まれます。信長は若狭攻めの勅命や将軍上意をもっています。越前攻めの大義名分があったかは微妙です。ここは浅井氏の協力で乗り切りました。いわゆる「金ヶ崎の戦い」です。

こっからは信長との消耗戦となります。金ヶ崎の戦いの後には、浅井と組んで姉川の戦いを行います。善戦したが、負け、かなりの死者がでます。

そして志賀の陣、これは叡山にこもって持久戦です。ここまでは対等ぐらいに戦ってはいますが、消耗はひどかったでしょう。さらに越前朝倉滅亡直前に小谷城への援助出兵。このころになると朝倉内部は統一がとれず、ひどい状態で、前波義継などが信長側に寝返ったりします。越前本土は戦乱に巻き込まれませんでしたが、たえず出兵をしているわけです。一向一揆がおさまったわけでもない。そして一気に一乗谷に攻め込まれて朝倉は壊滅します。一乗谷は野原となって、やがて水田となり、二度と復興しませんでした。

「天下静謐を乱している」のは、幕府、信長、朝廷です。

さらに越前の運命は悲惨です。越前を「難治の国」とみた信長は、先の前波吉継を「守護代」にします。「誰だよ」という人物です。滅ぼしてはみたものの、経営は深く考えていなかったようで、越前人の前波に「あとは任せた」となるわけです。朝倉の人間にとっても「あいつかよ」という人物だったようです。
予測に反してうまく治めた、ならいいのですが、案の定、越前を経営できず、前波は一向一揆と越前内部の抗争で殺されます。そして「一揆が持ちたる国」になります。

で、一時平和かというとそうでもない。今度は本願寺から派遣されたエリート僧、地元の僧、地元の民衆の間で「抗争」が始まるのです。

それを見た信長は(忙しくてしばらく放っておいた後)「殲滅作戦」を計画し、自ら出向いて一向一揆を「殲滅」します。先鋒は秀吉と光秀だったようです。1万以上の人間が死にます。2万という説もあります。それが1575年です。たった5年で越前は修羅の地となったわけです。そして柴田勝家による支配がはじまります。すると賤ケ岳の戦いとなってまた修羅場です。ただこの時点では信長は死んでいます。

これを「天下静謐ための戦い」などと名付けいいのかなと思います。呼び方の問題です。一般に使うのも変だと思いますが、特に学術用語として「適当」と言えるでしょうか。信長が「そう言っているだけ」のことです。戦国時代であり、日本統一の大義があったから、侵略戦争とまでは言わないものの、侵略的な平定戦であることは確かです。しかも信長の統治政策の失敗によって、最後は殲滅戦になります。

「天下布武」を使えとはいいません。同時に「天下静謐」も全く現実と合いません。ごく普通に「信長の軍事作戦」「信長の全国平定戦」「信長の越前平定戦」というべきで、「天下静謐」などという美称または政治的思想的な用語は使うべきではないと思われてなりません。

むろん私のこの考えに反対する方もいると思います。「結局天下布武が好きなんだろ」「旧権威の力を重く見る静謐論が嫌いなんだろ」などが考えられます。そうかも知れません。否定する気はありません。

織田信長は濃厚に室町人的性質を残しており、武力によってのみ活動したわけではない。そういう信長の古い中世的性質を考えた時、室町幕府と朝廷の伝統である「静謐の論理によって行動した」ことを表現するため「天下静謐」という用語を使うべきだ、、、とでもなるでしょうか。

信長の中世的な面は認めますが、それでは今度は「中世からはみ出した部分」、この越前攻めなどを十全に表現することができなくなります。

いやいや違う。信長はあくまで「幕府軍」として、義昭の委託を受けて行動していたのであり、やはり室町幕府の論理である「天下静謐」を使うべきだ。という反論もあるでしょう。

形式論としてはそうなのですが、そもそもその幕府の天下静謐行動そのものが、信長義昭期においては「主に直接の軍事行動」に「変質」していたのだから、幕府の「使用した用語」をそのまま踏襲することは間違いである。と私の見方ではそうなります。「軍事行動をしている集団の、自己正当化の論理、美辞麗句」を「そのまま」使っていいのか、ということです。

これは「天下静謐の信長」の言い出し人である学者さんへの疑義ではありません。そんな学問論争は私にはできないし、その方の本は素晴らしい。言い方が難しいのですが、純粋に用語の問題です。

ど素人の私の意見などどうでもいい。と当然私には分かっています。でも最近は「天下静謐」を使う人が増えていますから、私の意見など「蟷螂之斧」であっても、反対を表明する意味はあるな、ぐらいに思って書きました。