歴史とドラマをめぐる冒険

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麒麟がくる・第三十三回・「比叡山に棲む魔物」・感想

2020-11-22 | 麒麟がくる
比叡山の焼き討ち

織田信長は無神論者ではなかったという人がいます。無神論者などと言っているのは一部の人だけで、それを「否定しても」、あまり意味はありません。比叡山の焼き討ち、長島一向一揆の徹底的な殲滅、高野山との抗争。明らかに中世的な意識からは離れて見えます。これが「信長個人の資質に由来」するのか、「時代の価値意識の表れ」なのか、「戦という現実がもたらす必然なのか」、まあ私はそんなことを考えています。

覚恕さんが随分悪者にされ、また得意のブラザーコンプレックスの塊として描かれています。実際は何度も参内するなど正親町帝との関係は良好です。「室町・戦国天皇列伝」

描き方としてはいつも通りですね。浅井朝倉をかばったから、幕府と組んで信長を圧迫したから焼き討ちした。正親町帝が描かれたのは新鮮ですが、実際は「浅井朝倉の方から講和を申し出た」とする人が増えているような気がします。そういう説からみれば旧説になります。朝廷が仲介したのは確かですが、ドラマのように「実際に講和させる実態権力があった」とすると、御所の屋根が壊れているわけはありません。仲介をしようと思った。振り上げたこぶしを下ろしたい。そこで朝廷を両者が利用した、というのが実態に近いでしょう。

光秀が「積極的に参加した」というはもはや定説に近い。しかし「女子供は逃がす」という設定にしました。これは「主人公なので」そうなるのか。私としては「積極的に参加せざるえない光秀」を描いてほしかったので、工夫が足りないように感じました。摂津に対しては「信長の戦いは続くのだ」と随分傲慢に語っていましたが、「女子供を殺すとはこんなはずじゃなかった」となるなら、十兵衛は相変わらず「先が読めない男」ということになるでしょう。

十兵衛は比叡山に対し敵意をむき出しにしています。美濃に帰るという信長を止めるほどです。にもかかわらず「こんなはずじゃなかった」となるなら、「天然すぎる」ことになります。

信長にしてからが、どうして女子供まで虐殺するに至ったかの描写がありません。たとえば高邁な理想があるとも描かれない。そうなるとただの「虐殺者」になります。覚恕や正親町を描くことで満足して、信長の行動原理を描かない。だから十兵衛も信長も「その時々の感情で行動している」ように見えてしまうのです。

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