歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

「どうする家康」・第28回「本能寺の変」・感想

2023-07-23 | どうする家康
家康が結局のところ信長を深くリスペクトしていた、というのは、話としては感動的です。瀬名のなにやら「おとぎ話」のような関東自立論に乗っかり、「武田勝頼と戦争しているふり」をして信長を騙そうとし、でも結局は武田勝頼に裏切られ、なんやかやで瀬名と嫡男信康が死ぬ。それをなぜか「自己のバカさ加減」を考えることなく、「信長のせい」と思い込み、韓国ドラマさながらに「復讐の鬼」と化す。そして3年、服従をしたふりをして信長を騙しぬき、本能寺で信長を殺そうとする。その前には「富士山観光」で信長をもてなし、「殺す機会など無数にあった」にもかかわらず殺さず、なぜか「それなりに要塞であったはずの本能寺」で殺そうとする。

話自体は「史実でない」とか言う以前に、「ストーリーとして不自然すぎて」、破綻しまくっているのですが、「本能寺の変」というのは、どんな下手な脚本家が描いてもそれなりに「絵になるもの」だなあと思います。最後の「家康ー」「信長ー」と呼び合うところなど、破綻など忘れて、一種「感動的」ですらありました。

信長も信長でどうやら「家康が俺を殺すなら仕方ない」と思って本能寺に入っている。一種の自殺願望というか「破滅願望」ですね。で、信長は当然息子の「信忠」が500ほどの兵しか持たずに二条新御所にいることも分かっているのですが、逃がさない。「嫡男を生かしておいては家康の天下が来ない」から「嫡男もろとも自殺」しようとしていることになります。どういう心理なんだろ?

信長と家康の国家観の違いもよく分かりません。「武力で抑える世から和をもって貴しとなす世」なのかなと思いますが、「天下をとって」家康は何をしようとしているのか。

基本的には個人的復讐なんですが、それを「天下をとる」と言うと、この家康が何かを考えているようにも見えてしまうわけです。

で、家康は天下をとるために急遽堺へ行く。堺?、、。そこで堺の会合衆と会う。「会合衆と会えば鉄砲だってわしらのもんじゃ」とか家来の誰かが言います。なんでだ?会うとそうなるのか?史実として堺にいたので、堺に行くしかないわけですが、「堺に数日滞在すると天下をとるための人脈が作れる」という話なわけです。無茶にもほどがあります。

無茶苦茶もいい加減にせいよ、、、と思っていたらそこへ「お市の方」が登場。「この世に兄の友は家康殿だけです」とか言う。で家康は心変わり。やっぱり「決断できない」と言います。
家来は喜んで「いつか天下をとればいい」とか適当なことを言い並べます。

で結局の明智が信長を討つことに。でも「待てよ」。物語の構成上では「明智と信長の仲を切り裂き、明智に乱を起こさせたのは家康」だということになります。まあ家康はただ明智が用意した「鯉が何か臭うから腐っているのでは」という行動をとっただけです。それが「本能寺の変の明智側の要因」ということになります。プラスさっき書いた「信長の破滅願望」「家康に殺されたい願望」です。

いろんな下らない陰謀論を見ましたが、ここまで無茶苦茶な説はみたことがない。鯉が腐っていたという話は本能寺の変の100年後に出された「武辺咄聞書」(ぶへんばなしききがき)という1680年ごろの文章集にあるようです。一応史料がないわけではない。ただそれを「家康の陰謀」というか「信長と明智の引き離し作戦」として描くわけです。よくよく考えたら「本能寺の変は、徳川家康の陰謀、明智失脚作戦の予期せぬ結果」となっているわけです。一応「本能寺陰謀論」ですね。大河が本能寺陰謀論を採用したのはおそらく史上初ですが、随分とせこい作戦、陰謀です。しかしそれもまた荒唐無稽なドラマとしては、一興なのかも知れません。

最後のシーンはいいと思うのですよ。結局自分を「たくましく」してくれたのは信長だと気が付いて「ありがとう」と言う。「友情もの」としては良いと思います。
でも見終わってしばらくすると何も残らない。壮大なる空虚話です。その時だけの友情話、、、何も残りません。よくここまで空虚な話を嘘ばかりついて作るものだなとは思います。

最後に真面目な話を書くと、「信長の死は本当にみんなが望んでいたこと」なのか。物語ではそうなっています。本人すら望んでいたとなっている。そこは史実から考えてみたいとは思いました。

織田信長と上杉謙信の蜜月とすれ違い、愛と哀しみのボレロ。

2023-07-19 | どうする家康

そういえば「どうする家康」には上杉謙信が登場しません。上杉謙信と徳川家康は対信玄で「同盟」して起請文まで交わしていたのに。

でもここは織田信長のお話。
織田信長と上杉謙信は直接会ったことも「直接戦ったことも」ありません(戦ったのは柴田勝家)が、共通の友人(足利義輝)を持ち、桶狭間の戦いの4年後にはすでに「交友関係」を持っています。交友関係どころか、実現はしないものの、信長の息子の一人を謙信の養子にするという話すらありました。信長上洛の4年も前の話です。

そして謙信の死のたった2年前まで、信長と謙信は「大の仲良し」だったのです。

謙信は「義の人」であり、「不義の人」である信長を嫌っていた。大河「天地人」などではそう描かれましたが、史実は違います。謙信は信長を親しいメル友(手紙友)と思っていたはずです。そもそも信長は自分から人を裏切ったことはほとんどなく、むしろ裏切られてばかりで、不義の人とはとても言えません。柴田勝家は若い頃信長の弟を担いで謀反を起こしましたが、許しています。前田利家は信長の近衆を殺して出奔しましたが、許しています。晩年の林や佐久間の追放にしても、殺してはいないのです。松永久秀が明確に裏切った時も、一回は許しています。息子の織田信雄が勝手に伊賀を攻めて、しかも負けた時も、許しています。信長が戦争において多くを殺したことは事実ですが、それなら他の大名も変わりません。どっから信長が「不義の人」という間違ったイメージが生まれたのか、実はそこには興味はあります。間違ったイメージが流布する理由です。まあ比叡山焼き討ちと一向一揆の根切りのせいでしょうが、それには「それぞれの理由」があるのです。特に一向一揆では信長は大切な親族を何人か殺されています。だから殺していいとは言いませんが、信長にとって「最大最強の敵」が一向一揆であることを考えれば、大名に対するより過酷な戦いとならざるえない理由は分かります。一向一揆との戦いは大名との戦いより一段上の「真剣勝負」だったのです。信長自身が手傷を負ったのも一向一揆との戦いの場面だけです。おそらく戦国最強は一向一揆であり、それとの戦いや殺人をもって不義とするのは、違うように私は思います。信長が「いいことをした」とはとても思いませんが、、、というか、私は信長に歴史的興味をもっていますが、別に好きなわけではない。英雄とも偉人とも思わない。むしろ残虐な殺人者というのが私にとっての信長です。

一向一揆との戦いに比べれば、謙信との関係など、まるでおとぎ話のように穏やかであり、手紙のやり取りは頻繁で、実に仲が良かったのです。謙信が49歳で亡くなったのは天正6年、1578年ですが、二人が「破局」に至ったのはその2年前、1576年、もしくは1577年のことです。その前の10年以上、二人は蜜月と言えるほど仲が良かったことは現存する手紙から明らかです。

理由は信玄という共通の敵がいたせい、ではありません。信玄と信長は同盟しており、信玄の死の直前まで、つまり信玄が信長を裏切って徳川を攻める直前まで、信長は幕府を代表して信玄と謙信の関係を「調停」していました。武田が「共通の敵」となったのは信玄の裏切りの後であり、裏切りとほぼ同時に信玄は死んでいるので、武田勝頼の時代です。

そのあたりから、武田討伐を優先する謙信と、武田、つまり関東ばかりに気を使ってはいられない信長との齟齬が少しづつ生じてきます。具体的には信長は武田討伐を何回か口約束しますが、信長には京都、義昭問題があったり、越前の統治がうまくいかない問題があったり、なにより本願寺問題があり、なかなか約束を守れません。その上、武田勝頼はかなり好戦的で「強き武将」であり、山を越えて東美濃に侵攻したり、徳川の高天神城を狙ったりと、勢いがありました。信長は武田に関しては相当な用意が必要と思っていたわけです。しかし謙信は「攻めよう」の一点張りです。動かない信長に謙信のイライラが募っていきました。

1574年、天正2年はじめ、謙信は武田に出兵します。そして同盟している家康・信長に協力を求めます。信玄が死んだ時は、すぐにでも武田を攻めようと言っていたのは信長の方だったのですが、この時になると信長は口で協力を約束するだけで動きません。そして上洛して「蘭奢待」(ランジャタイ)を切りとらせたりしています。謙信は当然腹を立てます。そこで信長が贈ったのが有名な「洛中洛外図」でした。高価なモノを贈ればなんとかなるだろうと思っているあたり、信長は人の心理が本当に読めないのだなと思います。実際、謙信の心は信長から離れていくのです。

天正2年、信長の目標は長島の一向一揆でした。最大最強の敵です。武田はあと回しです。長島のせん滅が終わると、やっと武田に対して動きます。翌年、1575年、天正3年が「長篠の戦い」です。ここで武田勝頼を撃破した信長は謙信に共同での武田攻めを提案します。しかし謙信にしてみればいつまでも信長の自己都合に振り回される気持ちはなかった上に、義昭からも信長と手を切れという手紙もきています。ここで謙信は信長の「一応の支配下」(実際はうまく統治できていなかった)である越前の隣の越中に兵を向けるのです。

越前の朝倉を滅ぼした後、信長は直接統治を目指さず、あまり能力もない旧朝倉の家臣に統治を任せ、結局は失敗し、一時越前は一向一揆の国となります。このことが私は不思議だったのですが、越前を支配することによって「謙信と隣国関係になる」ことを忌避したのかも知れません。謙信が越中を支配するとそうなります。でも越前支配の失敗により、信長は天正3年、越前の一向一揆を皆殺しにし、統治を柴田勝家に任せます。同時に謙信は越中を支配下に置くのです。結局は「隣国になってしまった」(中間に加賀はあるものの)わけです。

そして謙信の最晩年である天正5年9月、柴田勝家と謙信の戦いが生じます。有名な「手取川の戦い」です。戦いと言っても柴田勝家は守ろうとした七尾城の陥落を知って兵を引き上げ、その柴田軍を謙信が追撃したというのが実態です。その途中に手取川があり、地の利のない柴田軍は川に足をとられ、多くの死者を出します。織田信長は陣中にいませんから、正確には上杉謙信と織田信長が直接戦ったことはありません。

これがたった一度の「織田対上杉」ですが、この戦いのインパクトが強すぎ、しかも現代になってからもこの場面ばかりが映像化されるので、まるで「信長と謙信はずっと敵対していた」かのような誤解を与えるのです。謙信の意図が信長を打倒するための上洛であったかは、直後に謙信が死んでしまったので分かりません。ウィキペディアを読んだら「完全に上洛前提」で書かれていますが、歴史学者の本ではあまりそんな意見を見たことはありません。ちなみに司馬さんの小説、たしか「新史太閤記」でも、秀吉は「上洛ではない」と考え、「上洛だ」とする信長に対し「これが上様の限界だ」と考えたりするシーンがでてきます。司馬さんは信長をあまり高く評価していませんでした。「国盗り物語信長編」は編集者に拝み倒されて書いたもので、司馬さん自身の自発的意思ではありません。

話戻して。
手取川の戦いのクローズアップによって、敵対関係が続いていたと誤解されている信長と謙信ですが、実際は謙信と信長はずっと同盟者であり、しかもその仲は良好で、いろいろな齟齬から戦うはめになりましたが、それは謙信の死のわずか2年前のことです。ほとんどの期間、10年以上の長い月日、信長と謙信は持ちつ持たれつでやってきたのです。

ちなみに謙信の死の後、上杉は後継者をめぐって混乱し御館の乱が起きます。謙信の姉の子である上杉景勝が後継者となりますが、謙信時代の力は上杉にはもはやありません。武田は滅亡し、信長は上杉に兵を向けます。景勝は滅亡を覚悟し、遺書めいた手紙まで書いています。しかし幸運にも本能寺の変が起き、織田(柴田勝家)が引き上げたことで、上杉は九死に一生を得ます。豊臣政権に服属し、会津への転封(越後から引き離されての鉢植え大名化)を受け入れたことで120万石。関ケ原で減封され30万石。江戸初期に後継者がなく、お取り潰しのところを、徳川秀忠の隠し子である将軍後見の保科正之(会津松平の祖)に救ってもらって15万石。「忠臣蔵」(五代、徳川綱吉時代)では、上杉当主が吉良上野介の息子だったため、上杉米沢藩と赤穂浪士・大石内蔵助は「物語上」しばしば暗闘を繰り広げます、あの時の上杉は15万石の大名でした。江戸中期には財政危機。上杉鷹山がなんとかこれを乗り切ります。江戸末期には佐幕派となって石高も19万石まで回復。明治維新後は長岡藩とともに戦った北越戦争の敗北を経て、中立または官軍寄りの立場に転身しますが、幕府に協力した責任を問われ、15万石に逆戻り。そして版籍奉還です。

「どうする家康」の歴史学・史料からみる織田信長・徳川家康と武田信玄の本当の関係

2023-07-17 | どうする家康
「どうする家康」はドラマであって史実ではありません。それは当然のことでもあります。しかしこの番組を通じて「本当の歴史を学ぶ」ことは可能です。つまり「では史実はどうだったのか」ということです。史実ではないと批判しても意味はないでしょうが、「史実はどうだったか」を調べることには意味があると、私は考えます。

1.織田信長と武田信玄は強い「同盟関係」にあった。

「どうする家康」では、初めから信長と信玄が敵対関係にあるように描かれています。信玄は偉大な人物として描かれます。さらに信長は「京都に巣くう魔物」だと信玄は言います。これは信玄が信長の「手切れ」段階でのセリフですので、この段階1572年には信玄が「巣くう魔物」と考えていた可能性はなるほどあります。しかし問題なのは「裏切ったのは信玄のほう」だと言うことです。

信長の「上洛」1568年は、信玄の「了解」のもとに行われました。信長の領国である美濃と信玄の甲斐は隣国です。また謙信の越後も近い国です。信玄と謙信の「承諾なし」では、信長は上洛はできません。特に信玄との関係は同盟であり、強いものでした。武田勝頼、信玄の二代目ですが、この勝頼の妻は「信長の養女、信長の妹が遠山氏との間にもうけた女性)でした。つまり信長は勝頼の「義父」なのです。この婚姻が成ったのは上洛の3年前です。この女性は1571年(信玄の裏切りの前年)に死亡しますが、武田信勝(勝頼の嫡男)を生んでいます。また信長の嫡男信忠と信玄の娘との間にも縁組が一応は成立していました。ただしこの信玄の娘、松姫は1561年の生まれですから上洛時にはまだ6歳です。実際に嫁いだわけではありません。勝頼の妻の死を受けて、実際に嫁ぐ動きが起こりますが、信玄と信長の手切れによって破談状態となります。1572年、松姫が11歳の時です。松姫は後年、徳川家康の庇護下で生き抜き、保科正之(会津松平の祖)を異母姉と共に育てます。

このように「縁組」関係を見ただけでも、信玄と信長の関係が深い同盟であったことが分かります。信玄の西上行動はこの同盟を破棄することなく、突然行われました。信長が最後まで武田に対して憎悪を燃やしたのはその為です。「お人好しの信長が老獪で悪賢い信玄に裏切られた」とまで言っていいか分かりませんが、ざっくり言えばそういうことになります。

2,信玄は信長と同盟を結んでおきながら、信長の同盟者である徳川家康を挑発し続けた。

さらに軍事的に見れば、、、武田信玄は信長の上洛を認める見返りに「今川侵略」を信長に認めさせます。結果、旧今川領は分割され、西が徳川家康のもの、東が武田信玄のものとなりました。なお、この今川攻めに際し、今川義元の娘を妻にしていた信玄嫡男の義信は異議を唱え、結局、信玄はこの嫡男を殺しています。信長は多くいる息子を一人も殺していませんが、信玄、家康は嫡男を殺しています。武田を継げるわけもなかった諏訪勝頼(武田勝頼)が武田家を継いだのはその為です。武田勝頼が「ほとんどの家臣の裏切り」にあって死ぬのも、正当性に大きな問題があったから、とも解釈できます。

さて「偉大なる」信玄ですが、信玄は家康との境界であった「遠江」(とおとうみ)に手を出します。同盟者が同盟している相手である家康に手を出したわけです。当時であっても禁じ手と言ってよいでしょう。今川分割時には「遠江に出兵してくれてありがとう」という手紙すら信玄は書いているにもかかわらず、です。(恵林寺所蔵文書)

もっとも実際に「手を出した」のは、信玄の国人(国衆ともいう)である秋山虎繁ら信濃下伊那衆です。信玄が積極的だったとまでは言えません。統制がとれていなかったという解釈も可能です。

しかし徳川家康は信濃下伊那衆の行動を「偉大な信玄の許可を得たもの」とみなしました。信玄が国人たちをコントロールできないとは考えなかったのです。

そこで徳川家康は信玄に対し協定違反であると抗議を行い、もちろんそのことを信長にチクり(報告)します。

3,焦った信玄はあちこちに弁明した・家康には起請文すら書いた

「どうする家康」は信玄賛美が過剰ですので「信玄を怒らすな」というサブタイトルすらつけていますが、史実としてはこの段階1569年に武田信玄が思っていたのは「織田信長を怒らすな」ということです。家康に弁明するとともに、信長に対してもわざわざ弁明の手紙を送っています。(古典籍展観大入札会目録文書)
さらに家康には起請文すら書いて家康の「誤解」を解こうとしています。(武徳編年集成)

信玄がこのように「へりくだる」のには理由がありました。信長上洛の4年後、信玄は信長との同盟を破棄する通達もせず、一方的に遠江を侵略しますが、「同盟一方的破棄」は信玄の習慣であって、この今川分割にあたっても実に「信義を欠いた行動」を信玄という男はとっているのです。それは今川、北条、武田の三国同盟の一方的破棄です。

怒ったのはむろん関東の雄、北条です。信玄の裏切りに対し、当然大きな不信感を抱きます。この北条の脅威があったため、信玄は家康・信長に対して「へりくだる」しかなかったのです。3年後、突然遠江を侵略した時(つまり三方ヶ原の戦い時)、信玄は「3年間のモヤモヤを散じた」と言っています。3年間とは、家康に「へりくだった時」からの日時です。

4,上杉謙信との関係で織田信長を頼り切っていた武田信玄

信玄と家康の関係はこの後もずっと「ぎくしゃく」です。「北条や今川氏真と仲良くしないように信長殿から家康に言ってくれ」とも信長に手紙を送っています。(神田孝平氏旧蔵文書)

しかし一方、「天下静謐」を掲げ、幕府とともに各大名の紛争の「調停」に乗り出した信長には大きな信頼と期待を寄せていました。「織田信長は上洛時点で既に侵略者ではなく調停者」ということも見逃されがちです。信長の越前侵略のイメージが強すぎるからでしょう。越前はなるほど侵略っぽいですが、形式上は「官軍、朝廷軍、幕府軍」として行動していました。上洛とともに「あっちこっちに喧嘩を売った」というのは間違いです。そもそも上洛してすぐに岐阜に引き上げてしまっているのですから、喧嘩の売りようもないのです。上洛時点では毛利とも武田とも上杉とも敵対していません。

信長は上杉謙信とも良好な関係を築いていましたから、武田と上杉の紛争を「真面目に」調停していました。1569年、つまり信長上洛、信玄・家康の今川侵略の翌年、北条には不信感を抱かれ、謙信とは対立し、家康にも「信じられないやつ」とされた武田信玄はその徳のなさから関東随一の嫌われ者となっていました。

この時、信玄は外交役であった家臣の市川十郎に対し「信玄のことは、ただいま信長をたのむの他、又味方なく候」と手紙を送っています。(武家事紀)

関東には全く味方がいないから、信長を頼るしかない。そのことを外交官であるお前は十分に理解して行動しろ、ということです。家臣に送った政治的な手紙ですから、嘘をつく理由がありません。

5,徳川家康と武田信玄は本当に仲が悪く、家康が信長を信玄との抗争に巻き込んだ

信玄は「信長に見限られたらおれは終わりだ」とまで外交官に命じているのですから、積極的に信長を裏切るわけがありません。しかし火種は存在します。それが家康です。家康・北条・謙信が善人で、信玄のみが悪人などということは全くありませんが、それにしても以上見てきたように信玄のやり口はいかにも「悪らつ」です。戦国時代にあっても「そりゃひどいだろ」というところです。むろん信玄の側に立つなら「山梨は塩がとれないからどうしても海が欲しい」とか「今川の国衆たちに今川に代わって武田が守ってくれと頼まれた」とか理由はあるでしょう。ただ私はドラマで描かれたような偉人ではないという前提で書いているため、信玄にはキツイ評価をあえて行っているのです。そういう文飾(オーバーな表現)があることを前提にしてお読みください。

信玄は信長に頼っていました。世に信長以外の味方がいないからです。上杉が挑発してきても「信長と幕府が反対している」という理由で上杉との戦闘を避けます。浅井長政が信長と敵対した時は、信長を心配する手紙を送り、姉川の戦いで信長が一定の勝利をつかんだ時は、祝電を送っています。(徳川美術館所蔵文書)

一方、家康は信玄を全く信用していませんでした。尊敬していたとしたら「よくあそこまで悪らつになれるものだ」と尊敬していたのかも知れません。家康が信玄の旧臣を多く採用したため、徳川史観では信玄を尊敬していたことになっていますが、私としては全く尊敬などなかったと考えます。ちなみに1988年の大河中井貴一主演の「武田信玄」では、この信玄の「悪らつぶり」はかなり正確に描かれています。それでもこの作品は大ヒットし、40パーセントという異常な視聴率を獲得し、大河屈指の名作とされました。北条義時の「悪らつぶり」を描いて大河屈指の名作となった「鎌倉殿の13人」を考えてみても、「悪らつ」であることを描くことが、大河にとってマイナスになることはないのです。むしろ悪らつであることを改ざんし、あたかも偉人であるかの如く描くことが、大河にとってはマイナスとなるようにも思えます。

話がそれましたが、信玄の悪らつさをよく理解していた家康は、信玄と断交して謙信と同盟します。1570年10月のことです。三方ヶ原のちょうど2年前です。つまり2年間、信玄は家康と断交していました。一方で、信玄は信長しか味方がいない、わけですから、信長とは断交していませんし、同盟を続けています。家康との断交の翌年である1571年には、信長にいろいろ調停してもらったお返しなのか、今度は石山本願寺と信長の関係を信玄が調停したりしています。三方ヶ原などは信長から見れば家康と信玄の強情さが招いた私戦です。あんなに止めたのに(これは想像で止めたという史料は存在しません)喧嘩ばかりしているからこうなった。信長は家康に対しそう感じたはずです。たった3000しか兵を送らなかったのも、家康が勝手に始めた戦争と考えていたとすれば理解は可能です。実際、信長は家康とも信玄とも同盟しているのに、この二人は真に憎みあっており、喧嘩ばかりしていたのです。

6,徳川家康と上杉謙信の起請文の過激な内容

1570年に上杉謙信と同盟するにあたり、家康はこのような協定を結んでいます。

1,信玄とは真に断交する
2,家康は謙信と信長の関係をとりもつ
3,家康は信玄と信長の縁組が破談となるよう信長に進言する。(縁談とは織田信忠と松姫の婚約のこと、上記)

「3」は過激です。このころ、つまり1570年、信玄は北条との同盟を復活させていました。そうなると敵は謙信と家康です。家康としては、信玄など全く信用していませんから、謙信と結ぶことによって自国を守ろうとします。家康は信長の助けも信じてはいなかったでしょう。「信長は人が良すぎる。信玄など信用して」と考えていたかも知れません。

7、突如、信長を裏切った信玄

信長が家康と信玄の関係を調停しようとした事実はあまりないようです。喧嘩はしても戦闘までには至らないだろうと思っていたのでしょう。信長が調停したのは「謙信と信玄の仲」でした。

それは信玄裏切り、1572年10月の直前まで続いていました。信玄が遠江に「西上」するとは信長は考えもしなかったのです。

・信長は信玄の上杉への戦闘行動の抑制について、それに感謝する手紙を1572年の10月に送っている。(酒井利孝氏所蔵文書)

つまり信玄が既に徳川に向けて出兵をした時点ですら、信長は気が付かず、「上杉と武田との調停に協力して、上杉との戦闘を我慢してくれてありがとう」という手紙を信玄に送っているのです。信長が武田を助けて調停してやっているにもかかわらず「我慢してくれてありがたい」とか「お目出たいこと」を書き送っているのです。信玄からすれば「なんという善良でバカなやつだろう」ということになります。

8,信玄の行動をあわれむ上杉謙信

信玄が「信長以外に味方はいない」と家臣に手紙を送ったのは1569年でした。その3年後以内に信玄は上杉との「調停」に腐心している信長を裏切り、西上の軍を進めます。理由は上杉との調停がそれなりにうまくいき、北条との関係は改善し、家康以外に敵がいなくなったからです。

なんのことはない、信長は自らが同盟する家康と自分自身に危機を招くため、信玄と謙信の仲を調停していたようなものです。信長ほどの「お人好しはいない」と、信玄も家康も思ったでしょう。

しかし謙信の反応は違っていました。「信玄の運はきわまった」「蜂の巣に手を入れたようなものだ」と信玄の行動を半ばあざ笑っています。散々非道を繰り返し、信を失い、信長によってやっと生き延びた信玄が、ここにきて「恩人」である信長すら「利」によって裏切るとすると、もはや信玄を信じる者などこの世から誰もいなくなります。

北条も「次は我が身」と思うでしょう。また「信長と敵対する武将」ですら信玄を信じません。実際、信長と死闘を繰り返していた朝倉義景は、この信玄の行動を無視して、越前に引き上げてしまいます。信玄は「絶好の好機なのになぜ帰る」と手紙を送りますが、朝倉義景にしてみれば「到底信玄を信じることなどできない。ともに行動はできない」ということでしょう。

上杉謙信が特に「義の人」だとは思えませんが、それでもここまで「義を踏みにじれ」ば、「もはや誰も信玄など信用しない」ということぐらいは当然の理として判断できるでしょう。謙信はこの信玄の行動に武田家の衰退を的確に感じ取りました。

謙信を義の人だと思わないのは、「謙信の戦争は敵地のコメを奪うことが目的」という藤木久志さんの本を「読んでしまった」からですが、深く調べてはいないので、「義の人のはずない」とまで強くは言えません。謙信がどれほどの倫理心を持っていたのか分かりませんが、仮に多少なりとも「義の人」だとすると、その「義の人」は織田信長という武将を「不義の人」などとは思っていないことが、上記の「信玄運のきわみ」からも分かります。実は謙信と信長は10年以上親密な文通をしており、同盟関係は信玄が死んだ後も続きます。謙信が信長と決裂するのは互いの領土拡張によって越前・越中で領地が接してしまった時、つまり謙信の死(49歳)のわずか1年半前です。「義の人」であるかも知れない謙信は、信長とずっと同盟していました。信長は幕府を代表してせっせと紛争調停をやってましたから、誠実な人間とすら思ったでしょう。本願寺や浅井・朝倉、(もしかすると足利義昭)の「いわゆる信長包囲網」が成功するとも思っていなかったこと、それが正しいとも思っていなかったことは、「信玄運のきわみ」という言葉からも十分読み取れます。

9,戦国一の悪党「武田信玄」と戦国一のお人好し「織田信長」

上記の題名はかなりデフォルメしていますが、おおざっぱに言えばそんなイメージを私は持ちます。

信玄の「西上」と言えば「正義の行動」と思う向きもあるでしょうし、「どうする家康」でもそう描かれました。しかしそれは史実とはあまりに乖離しています。

それは信長の悪行(特に比叡山焼き討ち)がクローズアップされた結果です。幕府に関して言えば、義昭は不公平な政治を行い、腐敗していましたから「義昭を助ける」などというのは、形式上は正義でも、実際には正義でもなんでもありません。信長は理想主義的な側面が強く、幕府にも朝廷にも「公平」を迫りました。正親町天皇などもその都度その都度で縁故に合わせた適当な判断をするので、何度か信長に𠮟りつけられ、息子を通じて詫びを入れています。義昭がいつも信長に叱られていたことは周知の通りです。信長は天下を担う一人として公平を重視しました。むろん信長なりの公平であって、信長が無私で公平な人だなどという気はありません。信長は天下静謐や公平という綺麗ごとを武器にして、幕府や朝廷と対峙したという言い方のほうが正確かも知れません。(対峙です。対立でも対決でもありません。信長が朝廷と対立していなかったという説は、そこそこ知っています。ただし学説は多数決では決まらないので、私は少数意見も大事にします)

ところが信玄は違います。綺麗ごとが武器になるとは考えなかったようです。信玄は遠江を狙い、家康への怒りを散じようとしました。信玄が天下国家や「公平な政治のため」動いたという確実な証拠はありません。それがないから西上は上洛なのか遠江侵攻なのかが分からず、確定した説も存在しないのです。

家康を狙えば、いずれ信長と衝突する。しかし信長は、本願寺、浅井、朝倉との戦争で弱っている。大丈夫だろう。お人好しの信長の調停のおかげで、北条、上杉とはなんかとうまくやれそうだ、ならあの憎き家康を潰し、遠江を手に入れてやろう。理想主義的な信長に対し、信玄は現実的動機から動き、そのために「信と義と恩」を軽視しました。「信長包囲網」と言っても各自が各自の理由で動いていただけで、団結行動ではありませんが、とにかく各自であっても信長は義昭とはうまくいかず、本願寺、浅井、朝倉とは戦闘状態にあった。信長が弱っているとみた信玄は、勝ち馬に乗ろうとし、でも長い目でみれば「信と義と恩の軽視」によって結局は武田家を滅ぼしました。今川を裏切らなければ、嫡男義信を殺すこともなく、勝頼のような「よそ者」が当主となることもなく、武田は生き残ったかも知れません。信長を裏切らなければ、武田滅亡がなかった確率も高いでしょう。すべては信玄の不徳が招いた結果とも言えそうです。

信玄が信長に対して敵意を持つ理由が皆無とは言いません。信長は善人でなく、信玄にも信長に敵対する大義はあったのでしょう。しかし信玄の第一の狙いはあくまで家康です。信玄がもし死ななければ、岐阜まで疲れた兵を率いて行って、岐阜城の信長5万の兵と対峙し、でも兵站は持ちませんから、にらみ合いになって引き上げ、だったでしょう。川中島の戦いも、ほとんどは「にらみ合い」です。負ける戦いを信玄は積極的にはしなかったと考えられます。もし戦えば、かなりの確率で負けていた、疲れた3万弱の武田軍と5万で地の利を持つ織田軍では、勝負にすらならなかったと思われます。信長が大軍を岐阜に集結できると私(というより多くの歴史学者)が考えるのは、朝倉義景が信玄の西上に同調せず、信玄を信用することなく越前に引き上げたからで、これも信玄の不徳が招いた結果です。(勝負にすらならない、の部分は高名な信長研究家、谷口克広氏の意見を参照しました。)

信玄がドラマで過剰に偉大視されることを批判しても何の意味もありませんが、史実を調べてみると「ドラマと史実はやはり違う」とまあ「当然のこと」を感じます。ドラマはドラマと割り切って考えるべきなのでしょう。あまり史実にこだわると、ドラマが楽しめない、と日々自らの「こだわり」を反省しています。
参考・金子拓「裏切られ信長・不器用すぎた天下人」