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白峰旬氏「新関ケ原合戦論」・石田毛利連合政権論

2019-07-03 | 関ケ原の戦い
まとめると

・石田毛利公儀つまり連合政権というものがあった。
・内府ちがいの条条で家康は正統性を失った
・家康は追いつめれていた
・直江状はその原型を考えるなら家康への挑戦状ではなく、裁定を求めた普通の文章
・家康から正統性を奪い、公儀としての正統性を持った石田毛利連合政権に西国等の大名は参加した
・三成は戦略を十分に立てていた。その戦略において関ケ原は当初、戦場として想定されていなかった
・家康軍は九万程度・石田軍は五万程度だった。三成は小早川の裏切りを最初から疑っていた
・関ケ原を考える場合「私戦の復活」という視点が重要


となると思います。ご本人がまず「まとめ」を書いているので読みやすい。

私は「通説がひっくり返った」とか言って興奮するタイプではないので、冷静に読めたと思います。

で、思うことは「色々疑問がある」ということです。これは否定ではありません。比較的薄い書物なので疑問が残るのです。

私が注目したのは「毛利輝元」がそれだけの存在、公儀というべき存在だったなら、「なぜ毛利秀元(輝元代理)は関ケ原において動かなかったのか。一門の吉川、小早川はどうしていきなり家康側に回っているのか」「それだけの力を持っていた輝元に、大阪の陣までの間、目立った動きがないのは何故か」ということです。

特に「吉川の内応、小早川の裏切り、毛利秀元動かず」は「毛利政権を想定するなら」、いかにもおかしい動きです。

で、特に「毛利秀元」について注目して読んだのですが「家康迎撃軍ではなかった」「安国寺なども戦意が薄かった」としか読み取れないのです。読みが浅いのかも知れませんが、「一章立てて論じて欲しい」ものです。毛利政権なのに、その毛利一門が家康についたり、動かなかったり、説明がつかない。

白峰氏の戦陣図では、毛利秀元は家康の背後にいて、その間に障害となる大名は存在しません。ではなぜ動かない?

いろいろ疑問の多い新説でした。新著もあるようなので、確かめてみたいと思います。

なお高橋陽介・乃至政彦さんの「関ケ原なかった」論ではここはどうなっているのか。なぜ「戦う前に毛利は降伏した」なんて事態になっているのか。

いずれにせよ、毛利の動きを合理的に説明できなければ、新説なのか珍説なのかの判断がつきにくいと思います。


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