歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

大河「麒麟がくる」の明智十兵衛は何故本能寺の変を起こすのか。A案。

2020-06-23 | 麒麟がくる
大河はフィクションですから、史実の明智光秀と大河の明智十兵衛は「違う人物」です。だからここでは大河の光秀を「十兵衛」と表現します。

理由のヒントは明示されています。①武士の誇りのため ②麒麟を呼ぶため

このうち十兵衛が実際にこだわっているのは①に見えます。

そうなると「信長に頭を叩かれた」とか「四国の件で面目を失った」などという理由も十分に成立可能です。しかしドラマですから、よく描かれてきた「足蹴にされた」とかにはしないでしょう。「四国問題」も一般視聴者にはピンとこない理由です。

となると「武士の棟梁である将軍なくして武士は存在できない」という十兵衛がよく使う言葉が気になってきます。つまり「信長が幕府をつぶしたから」という理由です。

これはストレートに「将軍義昭の追放」を意味していません。
①追放しても戻すと十兵衛は思っていたが、信長にその気はなかった(これは採用されないと思います)。
②追放しても義昭の息子を将軍にすると思っていたが、信長はしなかった。(息子を将軍にしなかったことは史実です)
③追放しても信長が武家の棟梁になると思っていたが、信長は「武士階級をなくそう」とした。または幕府を開く気がなかった。

などが考えられます。②は「ありうる」かなと思っています。

③ですが、武家の棟梁は別に幕府を開く必要はないわけです。武家政権を「幕府」と呼ぶことも当時はありません。家康は「幕府を開くよ」なんて一度も言ってはいません。

ただ家康は「征夷大将軍」なのですね。関白秀吉は明らかに武家の棟梁ですが、十兵衛が「征夷大将軍以外は武家の棟梁とは認めない」という立場をとる可能性はあります。信長が「太政大臣として武家政権を作ろうとする」か「信長が朝廷の官職とはなんの関係もなく、武家政権を作ろうとする」したら、「征夷大将軍はいなくなる」わけです。それが理由になる可能性はあります。(義昭はまだ将軍ですが)。ただどうも弱い感じですね。

「武士階級をなくす」というトンデモ設定はあるのか。明治維新的です。信長は「いくさが嫌い」なわけですから、「武士階級をなくせば」、戦争は起きにくくなります。信長が「王」となって、「科挙」を採用し、文官が治める国にするという設定です。しかしあまりに「トンデモ」で、ありうるとは思いません。

「武家の棟梁」がキーワードだと思います。信長は武家の棟梁としてふさわしくない。義昭もふさわしくない。自分もふさわしくない。しかしそこから唐突に「家康ならふさわしい」とはならないし、史実としても、本能寺から江戸開府までは20年もあるのです。

「武家の棟梁」がキーワードだと思いますが、どういう風に物語を持っていくのか。どうにも分からないし、期待もしています。

織田信長の「天下布武」の本当の意味

2020-06-23 | 織田信長
織田信長が美濃を攻略後1568年頃から使った「天下布武」の意味については、「従来は」こんな説明がなされてきました。

①「天下」は五畿内のことで日本全土ではない。
②「武」はほこをおさめる。つまり平和という意味である。
③または「武」は室町将軍の武威を表している。

織田信長については「その業績をなるべく小さい感じで表現しよう」というのが、最近の信長論の潮流です。

天下統一など狙っていなかった。五畿内を守ろうとしたら、その「外」と戦いになってしまい、それが全国統一戦争のように見えるというわけです。

これが「従来の説」です。

ぼちぼちこういう信長論にも、批判の声が出てきています。ちらほらという感じなのですが。

④まず「天下」は「地方との関係において天下」なのだ。
⑤信長の時代においても「天下」の意味は流動的に変化した。それを五畿内と限定していいのか。
⑥そもそも「室町将軍が支配すべき五畿内」という考え方でいいのか。実際は信長の時代、将軍は京都すらまともに支配していなかったではないか。

こんなところでしょうか。④がとても興味深いのですね。13代将軍、足利義輝のころ、つまり信長が生きた時代。義輝の畿内支配は空洞化していました。京から逃げ出すこともしばしばでした。

それを補うように、義輝は奥州や九州には積極的に「仲介の働きかけ」をしています。また九州の大友氏をはじめ、義輝に巨額の献金を行っている地方大名もいます。

「足利義輝の意識に照らして」考えれば、将軍の支配すべき領域、つまり天下とは「五畿内限定」ではないのです。上記のように日本全国を義輝は将軍が担当すべき領域と考えていました。

ですから天下は「将軍、室町幕府が担当すべき領域であった五畿内」という考え方は成立しないわけです。

天下の意味は秀吉時代になると日本全土を指すことが多くなっていきます。急にそうなったわけでなく、信長の行動に合わせて天下の意味は流動的に変化していったわけです。

なんだか「もっともらしい説明に見える」上記冒頭の①から③ですが、簡単に信じるのではなく、自分の頭で考えてみることが必要だと考えます。

足利義輝と朝廷・織田信長と朝廷・信長の画期的朝廷政策

2020-06-20 | 織田信長
最近は「戦国足利将軍はカイライではなかった」という学者さんの本が多くあります。別に「カイライであってほしい」とも思ってないし、足利義昭は傀儡じゃなかったから信長によって追放されるわけです。だからそれはいいというか、ここで反論する気はないのです。カイライか否か、それそのものは答えを出すほど重要な問題じゃないような気もします。

昨日、足利義輝さんに関する本を読んだのです。するとそこに義輝さんが、軍事的にも経済的にもそこそこ潤っていた。義輝の二条城なんてそりゃ立派なもんなんだという記述があったのです。

そこで「うん?」と思ったのですね。義輝さんがそういうご身分なら、どうして朝廷を援助しないのだろうと。そりゃ信長のように大金はたくのは無理としても、ちょっとは朝廷の権威回復に動いてもいい。

「嘘も多い」Wikipediaにこうあります。
諸大名の任官斡旋には力を尽くしたものの、義輝自身は将軍就任翌年に従四位下参議・左近衛権中将に任ぜられてから18年間にわたって昇進をせず、また内裏への参内も記録に残るのはわずか5回である。

これは事実なんでしょうか。こういうことになるとさっと訂正がはいるわけで、訂正されてないところを見ると、まんざら嘘でもないのでしょう。

信長は有名な「異見17条」の1条で「義輝は参内しなかったからあんな悲惨な最期を迎えたのだ。義昭さん、参内しなさい」と書いています。

☆義輝・義昭の二代に渡って、参内を怠っていたらしい。そこにどんな理由があるのだろう。信長が朝廷を尊重しても、肝心の義昭さんがそれをしなかったとすると、それは何故?という疑問が湧くわけです。

一方で織田信長は内裏の修理に「一万貫文」、約十億円を使ったと言われています。全部自腹ではないでしょうが。

信長以前には「最初の天下人とも言われることのある三好長慶」「その家臣である松永久秀」「そして将軍足利義輝」が京都にいたわけです。にもかかわらず、リフォームに十億もかかる状態になっても、内裏はいわば打ち捨てられた状態にあったことになる可能性があります。

信長の「中世的側面」を強調する場合「将軍家と天皇家を尊重した」とよく言われます。実際信長は尊重しています。しかし肝心の「中世的権威の親玉」である「将軍家」はさほど朝廷を尊重しているようには見えないわけです。義輝・義昭と。

これはどういうことなんだろう?信長は中世的だが、将軍家は中世を突き抜けていたということだろうか。

そして信長にしてからが、官位には興味がないようで上洛期の1568年から1574(または1575)年まで「ずっと弾正忠」のままです。その後右大臣になりますが、すぐ辞任で、本能寺段階では「さきの右大臣」のままです。

将軍家は朝廷に利用価値があるとは思っていなかったのかも知れません。しかし信長は朝廷には十分な利用価値があると考えた。そこでまず朝廷を復興した。しかし朝廷システムの中に入っていくことには非常に慎重であった。この朝廷の利用の仕方は、信長の画期的政策と言えるのかも知れません。


司馬遼太郎さんは織田信長を描きたくなかった。

2020-06-18 | 麒麟がくる
割と有名な話ですが、司馬遼太郎さんは「国盗り物語」を斎藤道三編だけで終える予定でした。でも編集者から信長も描いてくれと言われた。で、仕方なく描くわけです。その後も、織田信長をまともに描いた作品はありません。「新史太閤記」他、信長が出てくる作品はあります。しかし信長を主人公とした作品はありません。小説「功名が辻」には信長は登場しません。「国盗り物語」後編にしてからが、光秀とのW主人公です。

大河ドラマで信長ブームが起きたのは1965年「太閤記」の時です。私はむろん見てません。ビデオも本能寺の回しか残っていません。高橋幸治さん演じるクール極まりない織田信長に人気が集まり、助命嘆願が起きます。その結果「本能寺の変」は全52話の42話になるのです。10話だけが「太閤の時代」です。

作家は吉川英治さんなんですね。だから司馬さんが昭和の信長ブームの火付け役ではありません。

大河「国盗り物語」は遅れて1973年です。

もちろんこの作品で大河の信長の原型はできます。その後1983年の「徳川家康」ぐらいまではさほどの信長のデフォルメはありませんでした。大河「信長」は1992年の作品ですが、意外なほど「中世的な」信長なんですね。祈祷師とか雇ってます。

それが2002年の「利家とまつ」になると、なんか「典型化した信長」という感じで「デアルカ」ばかり口にします。2006年の功名が辻、司馬さんの原作なんですが、司馬作品には決してなかったセリフ「もはや朝廷もいらぬ。余は神じゃ」なんてこと言い出すわけです。私個人としては「まずいな、このデフォルメは」と思いました。「信長の自己神格化」は大河「信長」でも大河「秀吉」でも描かれています。

そっから後は司馬さんとは関係なくというか、「信長の野望」的になって、「魔王」になっていきます。2009年の「天地人」、2016年の「真田丸」などです。

魔王の最終形態は「おんな城主直虎」で、ほぼゲームの世界から飛び出してきたような信長でした。

司馬さんは天皇制を抽象的権威、透明な権威として認めていましたし、信長に南蛮胴を着せたりもしませんでした。「天才」または「天才と紙一重の人」とは描きました。室町将軍に関しては「よく分かっていなかった」と描きます。「義昭をかついで失敗した。こいつはうるさい。朝廷をかつげば良かった」なんて考えるのです。仏は「人が作ったもの」とは言います。合理主義者としては描きました。

「司馬が描いた信長を信じて」なんて人がいますが、司馬さんが描いた信長をちゃんと読んでいるのでしょうか。ちゃんと読めば「小説の中の人」だと気が付くはずです。

司馬さんは信長の晩年を描きたくなかったでしょう。虐殺の歴史です。秀吉の晩年も描いていません。「新史太閤記」は「家康の上洛」で終わりです。

描きたくもないのに書いて、それが「信長の原型」とされ、「原型が維持された」ならいいけど、とんでもないデフォルメをされ、そのデフォルメまで含めて「司馬のせいで」とかトンチンカンなことを言われる。国民作家はつらいものです。

大河「麒麟がくる」・「信長を暗殺せよ」・染谷織田信長が「左京大夫」にならなかったことの意味

2020-06-18 | 麒麟がくる
麒麟がくるはフィクションです。織田信長の第一回の上洛時に、足利義輝が信長に「左京大夫」や「幕府相伴衆」に勧めたなんて史料はありませんが、フィクションですからそこはどうでもいいのです。

ドラマの展開として「じゃあ信長は何をしに行ったのか」という問題は発生します。今川との仲介を頼みにいったわけですよね。それは承諾しているわけです。仲介の手紙は書いてくれるのでしょう。それに加えて今川義元よりも「高い官位」や「高い幕府内での地位」をくれるというのです。

「断る理由がない」わけです。しかし信長は冷めた目で見て、何も言いません。十兵衛には「効果がないだろ」と確かめます。松永久秀には「がっかりした」と言ったようです。

仲介の手紙も書いてくれて(たぶん)、地位もくれるという。目的達成です。なんで「がっかりする」のか。それ以上何を望むのか。どんなことを期待していたのか。まさか将軍出陣ではありますまい。官位を断った理由は推測はできます。効果がないのに金がかかる、からです。でもそれは描かれず「わしにはそれぐらいしかできない」と義輝は言います。将軍の権威低下を強く印象づける演出でした。「信長は将軍の器量を確かめに行った」とすれば「辻褄はあい」ますが、流れとしてそういう演出にはなっていませんでした。結果的には「将軍と幕府の力を確かめに行った感じ」にはなっています。それに実際、信長は官位に無関心な部分があります。義昭をかついで上洛後もずっと「弾正忠」のままでした。何年間も。

一部の方からは「不満の声」もありました。ツイッター上です。「これじゃあ古い権威を低く見る従来の信長像と同じ」ということでしょうか。麒麟がくるの「染谷信長」は従来説と新説の「混交物」で、だからどっちの「派」からも支持されます。従来説が全部間違っており、新説はみな合っている、なんてことはありません。だから「ちょうどいい」のでしょう。

信長だけでなく「あの真面目な、古い権威にも価値を置くはず」の十兵衛も「効果がない」と信長に示唆してます。ほほーと思いました。考えてみると十兵衛は「守護代道三にも守護土岐頼芸にも、そして弱気になった将軍義輝にも」、文句ばっかり言ってるわけです。「古い権威に価値を置く」と見せながら、実は本音ばかりを言っています。巧妙な設定だなと思います。

史実としての信長は、義昭追放後の2年後、1575年ぐらいまでは義昭と対抗する官位を求めるわけです。権大納言、右近衛大将になります。義昭に匹敵する官位です。その後あまり官位に関心を示しません。1578年には右大臣になりますが、すぐに辞任します。二位の位は残ります。が、それ以降、官職はない状態で死を迎えます。「さきの右大臣」のままです。

織田信長が幕府の中での地位に関心を持たなかったことは有名です。朝廷の官位となるとやや複雑で、義昭追放後は対抗上なのか興味を持ちます。しかし長篠の戦いで武田を破って、相当な実力をつけてからはまた無関心になっていきます。最後は朝廷の方から「こういう地位についてくれ」と要求されるような存在になっていきます。

信長は改革者、を認めない人はいます。さらに「革命児」となるともっと認めません。皇室をないがしろ、というイメージがあるせいなのでしょうか。私は革命は起こさなかったが、改革は行ったと思っていて、まあ「普通の意見」を支持しています。

信長は確かに朝廷を復興しましたが、朝廷のシステムの中に入っていくことはしません。巧妙に回避しています。私は朝廷に対しては「尊重しつつも距離を置く」という姿勢を、最終的には持っていたと思います。また本能寺、1582年の段階では朝廷の権威を利用する必要も薄くなっていたと感じています。敵には朝敵とか言ってますが、どれほどの意味を込めていのか。この「感じ」が正解なのかどうか、それは私が自分の頭で考えていく問題だと思っています。もちろん玄人さんである学者さんの意見を参考にしながら、です。

黒嶋敏 著「秀吉の武威、信長の武威」のおもしろさ① 「一次史料」の嘘

2020-06-17 | 織田信長
武威とは「武力を行使して人をつき従わせること、またその圧倒的な力」のことです。

黒嶋敏さんの「秀吉の武威、信長の武威」の副題は「天下人はいかに服属を迫るのか」という題です。

冒頭から秀吉や信長の「嘘ばっかりついて自分を大きく見せている手紙」が紹介されます。そういう種類の手紙等の分析を通して、「曖昧な惣無事令の再考」と「信長はどこまで達成したのか」を考えていくというのが筆者の狙いのようです。

内容自体も実に興味深いものです。

しかし私が感じたのは、ちょっと違うことです。あるいは「著者の狙い通りのこと」かも知れません。

ズラーと「嘘ばかりの文章」が並ぶのです。中には「嘘は少ない文章」も含まれます。ほとんどが「一次史料」です。

ここまで嘘ばかりの資料が並ぶと、自然に「当時の手紙は信じてはいけない」ということに気が付きます。と同時に「裏を読むことの大切さ」に気が付くのです。

筆者自身も「一次史料を裏読みをせず読むこと」や「一次史料のある部分をとりだして並べ、そこから史実なるものを作り出そうとする態度」について「その危うさ」を指摘しています。(あくまで私がそう感じたということです、これに近い叙述は存在します。筆者は一次史料のプロであり、史料から史実を再現することの大切さは強調しています。)

大変おもしろいと思いました。

うわさになりたい

2020-06-17 | 歌詞
こんな遊びは 久しぶりよ

それぞれが自慢のパートナーを連れて

すさんでた頃と仲間も彼も違うけど

わたしだけの助手席見つけた

誰かがあなたにそう告げ口するまで

昔の私を隠していたい

愛を守るために つくろう偽りは

嘘にはならないと言って

眠気覚ましに休みふりして

彼らの群れからはぐれては来たけど

二人は夕べ 抜け駆けしたと

この胸をくすぐるよな うわさになりたい

織田信長の目指したもの・天下布武と天下静謐

2020-06-16 | 織田信長
織田信長は美濃を攻略すると「天下布武」の印章を用いるようになります。これについてはよくこう解説されます。
・天下とは五畿内のことで、日本全土ではない
・武とは「七徳の武」のことで、平和にするという意味(他の大名にそんなこと分かったのかな?という疑問はありますが)
・「天下布武」とは「五畿内を平和にするという意味」、これは室町将軍の当時のあり方を反映している。(室町将軍の支配地域は五畿内で、そこの安定を目指していた)

五畿内とは山城国・摂津国・河内国・大和国・和泉国のことです。ほぼ京都、大阪、奈良、兵庫の一部、、に相当します。

現代語の天下統一とは「日本全土の統一」でしょう。すると信長は天下統一なんて目指していなかったということになります。最後は目指したかも知れないが、少なくとも1568年段階では目指していなかった、これが最近の考え方です。信長の最期は1582年です。

では何を目指していたのか。それが「天下静謐」とされます。「せいしつ」と読む方がいるけど、おそらく「せいひつ」が正解でしょう。
天皇の代行者である将軍と信長が協力して五畿内の平和を守ること?なのかな。

谷口克広さんは「天下静謐意識」は徐々に変化して、1575年頃からは天下統一という意識を持ったと書いています。「信長の心中には明らかに全国統一のプランが芽生えていた」(織田信長の外交、211頁、2015年)

これは私なんかにはすんなりと納得できる意見なんですね。受け入れやすい意見です。ちなみに谷口さんは信長研究の大家です。

ところが「ずっと天下静謐だった」という方もいます。「あくまで五畿内の平和を目指していたが、結果的に周囲と抗争になってしまい、後から見るとそれが天下統一戦のように見える」という意見です。

金子拓さんなどが「史料をもとに」述べている意見で、それなりの根拠もあるのです。

ところが私なんかにはどうも納得できないのですね。私は素人なので学問的な問題ではなく、違和感という感じの意識です。「なんで天下静謐を目指しているのに、周囲と抗争が起きるのだ?」という根本的な部分がよく分からないのです。武田は好戦的ですから、向こうから攻撃してくるかも知れない。しかし毛利のように非好戦的な家は向こうから攻撃してこないし、実際、毛利輝元なんかは「戦になるかならないか、なったらどうすればいい」と考えたりしています。あと、五畿内ではない越前朝倉を真っ先に攻撃する信長をどう考えているのだろうとも思います。まあこれについては「天下静謐のために越前を攻撃した」と言われたりします。そういう風に、五畿内に属さない地域も、「積極的防衛によって攻撃する」なら、とても「天下静謐を目指していたとはいえない」ような気もするのです。つまりは違和感がどうにも大きいのです。金子拓さんの本では「信長が天下静謐のさまたげになるとみなした勢力を攻撃した」とかありますが、それなら「なんでもあり」ということになる。

信長が「天下静謐」という言葉を使っていたことは間違いありません。しかしどんな意味で使っていたのか。当事者の意識(表現)をそのまま用いて、それをあれこれと「過剰に深読み解釈」しすぎていないか。信長が使っていた言葉にしても、イデオロギー色が強い言葉をなんでわざわざ使うのか。そんな疑問が浮かぶのです。

これは素人の私の意見です。で、玄人はどう考えているのだろうと思うと、どうも「そうだそうだの大合唱状態」なんですね。体制翼賛会?谷口さんは除きます。学説は「批判があってこそ健全」だと思うのですが、それがなかった。金子さんの同僚である本郷和人さんは「本郷節」で疑問を呈しています(金子さん向けではなく)が、「本郷節」は面白いけど、苦言には意味があるけど、厳密な批判にはなっていません。

ところが、今日はじめて(素人の私がはじめてという意味)、「やや批判的」な本を見つけたのです。「やや」です。黒嶋敏さんの「秀吉の武威、信長の武威」という本です。金子さん、本郷さんと同じ東大の学者さんです。

批判ではないかな。ある意味信長を「買いかぶり過ぎだ」という意見のような気もします。「静謐」なんてそんな立派なこと考えてなかったというわけです。

引用226頁「静謐とは争いのない静かに落ち着いた状態だけではなく、そこから波及して守るべき秩序が遵守されることを意味する。けれど信長にとっては前者だけで「静謐」と表現した可能性が高く、平和な状態にしたあとの、社会の秩序や規範は現状維持とするだけで、その再建にはさほど興味をしめさなかったのではないだろうか。だとすると「天下静謐」もまた、彼にとっては戦争状態の対義語に過ぎず、自分の軍事的優位性を誇るだけのフレーズだったということになろう」引用終わり

黒嶋さんの見解では、信長の「像」を確定することはほとんど無理という状態であり、信長の自己規定を追うことはできない。非常に自由というか「空虚=フリー」な存在であって、だから人々が同時代においても「わたしが考える信長」を自由に規定できた部分があるのだとなります。(このまとめが合っているのか、後で訂正するかも知れません)

先の引用部分は「天下静謐といっても信長の場合は、(特に何も言ってはいないので)その具体的構想を史料分析から探ることは難しく、つまりは武威を誇るだけの言葉だよ」という意見でしょうか。こういう「批判」があるのはいいことだと思います。「天下静謐」について玄人の学者さんが、健全な批判を行ってくれることを期待しています。ただしその後、金子拓さんの説を読み返して、私が読み間違いをしていることに気がつきました。批判は天下静謐を「天皇の平和」と言い換えるような、政治色に満ちた歴史学者に向けられるべきで、金子さんは立派な学者だと思うようになっています。

麒麟がくる・「信玄西上・三方ヶ原の戦い」・勝手なあらすじ

2020-06-15 | 麒麟がくる
以下は「デタラメな趣味の文章」です。勝手に題名つけて、勝手に書いています。麒麟がくる、のネタバレはないはずです。ただし史実を全く知らない方にとっては、一部史実がネタバレします。文章そのものは史実と関係ありません。史実をちょっと基にしたフィクションです。軽いノリのふざけた文章でもあります。家康のセリフは大河「国盗り物語」のパクリです。


さて目出度く足利義昭さんが将軍になれたのは、1568年の年末のこと。織田信長は1569年の正月には、殿中掟16条というルールを作ります。が、義昭さんはニコニコです。「信長殿は本当に足利家のことを心配してくれているんだ」と喜んでいます。善良な人なんです。

十兵衛は基本は幕臣として、そして織田家にも属すると言う「両属状態」で働いていました。義昭さんのことは信頼しています。奈良で托鉢増の姿になって、貧しい人々を救おうとしていた人間です。善良でいい人なんです。

しかし幕臣の多くは腐敗していました。十兵衛はそれを改革しようとします。信長は「オレは幕臣ではない。十兵衛がやれ」と言っています。それで段々、義昭さんとも口論になることも多くなっていきます。仲が良くても口答えはする。十兵衛と道三の関係と同じです。

光秀「も~辞めます。もー幕臣はやめますよ。いつまでたっても腐敗が改まらない。」
義昭「辞めるなら辞めろ。辞めてしまえ。実はわしが辞めたいわ!」
光秀「まさか私が土地を横領したとか、信じてないでしょうね」
義昭「信じてないわ!わしだって何とかしたいわけよ。でもどーにもこーにも。そりゃ老獪な奴が多い。三淵は諦め顔だし、細川は十兵衛より怒っている始末だ」
光秀「横領はするわ。公家と組んで土地はかすめとるわ、ひどいことになってますよ」
義昭「わかってるよ。でもここまでひどいと改革は無理じゃ。わかるか、この足利直系の将軍の辛さが。重さが。土岐源氏のはしくれには、分からぬ!」
光秀「えー分かりませんとも。罷免しましょう。罷免」
義昭「罷免はいいけど、だれが幕府を動かす?そういう官僚仕事、十兵衛できるのか。美濃の坊ちゃん育ちだろ。構造改革は難しいわけよ。科挙でもやるのか。」
光秀「しかし信長様ももう我慢ならないって感じですよ」
義昭「わしにどうしろというのだ。大名への仲介手紙なら書いてるよ。しかし内部の腐敗は奥が深い。公家ともつながっている。この前まで僧だったわしには荷が重い。むしろ三淵、細川、十兵衛の責任じゃないのか」
光秀「あ、そういうことを言うんだ。はい、責任転嫁、武家の棟梁失格」
義昭「失格なんてことはなった時から気が付いていたわ。お前たちが支えるからどうしても将軍になれなれとうるさかったんじゃないか。まあ、ホントの話、十兵衛は信長についた方がいいと思うよ。わしについていても先はない」
光秀「・・・・」
光秀「ところで、信玄が上洛するうわさがありますが、知ってますか」
義昭「またわしが包囲網を作ったとかいうんだろ。私じゃないって。冤罪だよ。顕如だよ、本願寺、あと顕如に乗せられたあのユースケ義景」
光秀「安心しました」
義昭「しかし十兵衛、信長は本当に麒麟をよべるのか。わしは怪しいと思っておる。それから、藤吉郎、あの者には気をつけよと信長に伝えよ」

1572年の末、武田信玄が西上の軍をあげます。同盟を結んでいると思っていた信長は怒り狂います。さらに藤吉郎が「全部、将軍義昭の策謀」と報告を入れてきます。幕府を大切にしてきた信長の心が揺らぎます。信玄の目標は美濃であると読んだ信長は、家康に「戦わないくてもいい。美濃で決戦する」と書状を送り、防衛兵として「わずか三千」の兵を送ります。

一方奈良では信玄西上を受け、松永久秀が信長に反旗を翻します。光秀は驚き、久秀のもとに急行します。
久秀「おお、十兵衛、よく来た」
光秀「よく来たじゃないでしょ。何考えてるんですか。」
久秀「わしの主君は三好義継様じゃ、いくら言っても叛意を変えない。立つという。わしは三好家の家臣じゃ。仕方なかろう。将軍家の御内書もあるという」
光秀「その御教書は偽造ではありませんか」
久秀「偽造かも知れぬ。見たわけではない。しかし、そのような偽造がなされるなら、室町殿ももう終わりということであろう。」
光秀「そう思うなら何故」
久秀「三好家家臣だからじゃ。信玄は勝てないぞ。朝倉の腰は引けておる。信玄が長躯遠征しても、美濃で織田に勝てるわけもあるまい。せいぜい徳川を潰すのがやっとであろう」
光秀「だからそう思うなら何故」
久秀「わしは義輝公と幕府を改革しようとしたができなかった。もはや足利や三好の世は終わった。終わったものは滅んでいくしかない。わしも足利も、古いものは滅んだほうが良いのじゃ。しかしどうせ滅びるならわしは信長と一度戦ってみたいのだ」
光秀「滅べば美しいと思ったら、大間違いですぞ」
久秀「わかっておる。よく分かっておる。しかし言っておく。信長はいずれ滅びるぞ。10年のうちに。もう帰れ、十兵衛」
十兵衛は泣く泣く多聞山城を後にします。なお、この戦いの後、三好義継は戦死。松永久秀は信長によって許されます。

さて、信長から「戦わなくていい」と言われた、浜松城の家康。浜松城に籠っていると、武田軍は家康を無視して進軍していきます。やはり狙いは美濃でした。

家康「織田殿は戦わなくてよいという」
菊丸「それはようございました。家中には武田に寝返るべきという方もおられるようです」
忠勝「殿、ここは我慢のしどころですな」
家康「忠勝、よく申した。そう、我慢じゃ。やせ我慢じゃ。ここは打って出る。」

籠城と思っていた織田の援軍は驚きます。家康は三方ヶ原に打って出ますが、鎧袖一触、武田にやられ、城に逃げ込みます。

忠勝「鎧袖一触とはこのことですな。武田は強い」
家康「しかしわしが打って出なければ、わしから離れた国人は、もはや戻ってこないであろう」
忠勝「そのために出陣でしたか、しかしよう負けましたな」
家康「いや、戦では負けたが、わしは生きておる。徳川家康を臆病者とは、もはや世間は見ぬ。忠勝わかるか。いかに知略があろうとも、臆病と言われれば、人は軽蔑し、知略をほどこすこともできぬ。三方ヶ原で今日、わしがこの手に握ったのは、天下という場所で仕事をするには、命より大切な信頼よ。」
菊丸「殿!」

この話を菊丸から聞いた光秀は思います。「徳川家康か、不思議な男だ。裏切ったところで機敏さを誉められこそすれ、誰ひとり後ろ指さす者もあるまいに、、、いや、この戦国に稀有の律儀さ。存外生き延びれば、諸大名の信頼を買うかも知れぬ。」

やがて信玄は西上の途上で死没します。武田軍は甲斐に去っていきました。その前に、信玄が同盟していたユースケ義景は雪を理由に越前に引き上げてしまい、信玄は茫然としたということです。朝倉が引き上げた以上、信玄が死ななくても、武田にはこれ以上の西上は無理だったのです。

織田信長と武田信玄が直接対決していたら。三方ヶ原の戦いのことなど。

2020-06-15 | 織田信長
昨日、織田信長の大家である谷口克広さんの「信長と家康の軍事同盟」という本を読んでいたのです。当然、三方ヶ原の戦いが出てきます。良質な資料というのは皆無らしいですね。

「武田信玄が生きていたら、織田信長などつぶされていた」と言われることがあります。谷口さんの見解だと「そんなことはない」そうです。

三方ヶ原の戦いは新暦だと1573年の1月です。この時信長の敵というと

・浅井朝倉、しかし信長軍は小谷城を囲む勢いで優勢
・本願寺、一向一揆、長島など
・松永久秀など

そこに武田信玄が2万以上の兵力で西上してくるわけです。西上って日本語、あるのでしょうか。とにかく西上です。

で、まず三方ヶ原の戦いで徳川軍+少しの織田軍がぶつかります。ここで徳川織田軍がコテンパンにやられるので、その後、信玄が生きていたら、ずっとコテンパンだったという推測が成立することになります。

「そんなことはない」と谷口さんは書いています。正直、そんなに詳しく分析はしていないのですが「当時織田には5万の動員力」があった。とした上で。

・上洛しようとすれば武田の兵站は伸び切って破綻してしまう。上洛は翌年という史料もあり、ここでは美濃岐阜において信長と対決しようとしたのだろうと推論します。

・しかし、頼りにしていた朝倉軍が冬を口実にというか、まあ冬になったので帰ってしまった。信玄は怒りの書状を朝倉義景に送ります。

さっき私が書いた「5万」という数字が、他の敵への備えを「差し引いた数字」なのかは、谷口さんの著書では分かりません。でも当然「差し引いた数字」なのでしょう。

その後、槙島城の戦いで織田は7万を動員しています。朝倉が引いた以上、浅井には抑えの軍勢だけでいい。本願寺に1万、松永等に1万。そう考えると、4万ほどを武田信玄との決戦に回せることになります。ちなみに三方ヶ原の戦いの戦いにおける織田軍の「あまりに少ない3千」については「監視」のための人数だろうと、谷口さんは書いています。

私が谷口さんの考えをちゃんとまとめているかは分かりません。私の能力の限界があるからです。だから「引用」の形で、そのままを書きます。

「織田軍は当時五万余の動員が可能である。数か月の遠征を経てきた二万余の武田軍では勝負になるまい。信玄もそれを承知していたから、朝倉・浅井軍に近江で牽制させようとした。また美濃の国衆安藤・遠藤にも働きかけた」123頁

とのことです。

なるほどな、信玄は「とても勝てない」という考えも成立するのだな、となんというか「面白いな」と思いました。過去の大河ドラマ等においても「信玄がそのまま西上したら織田はつぶれる」は常識になっていました。私自身は恥ずかしながらあまり深く考えたこともなく、「そうなんだろうな」と思っていました。「信玄はとても勝てない」と思ったことは一度もありませんでした。

織田信長は大きなデフォルメを持って描かれてきました。それは「神君家康」も同じです。また「神君家康がコテンパンにされたのだから武田信玄はものすごい武将だ」というデフォルメは、江戸時代から始まっています。それをよく知っている私でも三方ヶ原の戦いの様子を知れば「その後信長も苦戦しただろう」と考えるわけです。でも専門家である谷口さんの意見は「信玄は勝負にならない形で負け」ということです。生きていたとしても、朝倉が引いた時点で、甲斐へ引き上げを考えた、ということになるのでしょう。

むろん違う専門家は違う意見を出しているのでしょう。「兵力をどう計算するか」「裏切りを考慮するか」が問題となるでしょうね。ただし朝倉が引き上げた以上、鎧袖一触で「織田が敗ける」なんてことにはなりそうもありません。美濃なら信長は何年も戦えますが、遠征軍である武田はそうは行きません。そもそも谷口さんの考えでは、勝負にならない、織田の勝ち、ということです。

ここで「武田信玄がもし生きていたら」で検索をしてみたのです。なんと「別に変らない」「織田が勝つ」「信長が岐阜城に籠城して信玄は引き上げ」がかなり多数派という状況でした。

私がずっと間違っていたようです。「思い込み」というのは怖いもんだなと思います。私にとって日本史は趣味なので、間違っていてもそんなに恥ずかしくはありません。むしろ間違っていたことに気が付いて「おもしろいな」と感じています。趣味でやっていない本物の学者さんとか研究者さんは「きつい作業をしているな」と感じます。