歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

土方のスマホ外伝・時をかける土方・「燃えよ剣」公開記念

2021-10-16 | 新選組
あくまでジョークです。土方ファンの方は怒らないでください。あと私は司馬さんの大ファンです。どの作品も繰り返し読んでいます。「燃えよ剣」をおちょくるわけありせんので、誤解なきように。

土方にインタビュー

どうも土方です。そうですね。2017年です。現代にやってきたのは。蝦夷で戦ってましてね。馬に乗っていたら銃弾が飛んできて、「あーやられた」と思ったら現代ですよ。北海道総合病院で銃弾も取り出してもらって、、、ええ、今はとっても元気です。

最初の一年は無口だった?そりゃそうですよ。現代日本語分かりませんから。周囲が何言っているか理解できない。「時間」「文学」なんて言葉も明治以後ですからね。全然分からない。でも猛勉強しましたよ。今はジェンダー平等の意味だって分かりますよ。ええ、賛成ですよ。そもそも私、女性には優しいですから。DV、セクハラ、出世の遅れ、江戸時代じゃないんだから。

映画「燃えよ剣」ですか。いいんじゃないですか。でも近藤さんは怒るなー。なぜ土方が主役なんだとね。えっ、私はイケメンだから、、、。いや作者は司馬さんでしょ。司馬さんもイケメンだから選んだんですか。そりゃないでしょ。まあイケメンは認めますけどね。

「新選組もの」ドラマの史実と違う部分?そんなのいくらでもありますが、いちいちそんな野暮なことはいいませんや。「燃えよ剣」は予告見ましたが、服が黒かった。正確です。新選組は、ほぼ「黒ずくめ」の服です。

だからー。そんなに斬ってませんって。私を殺人好きのサイコパスみたいにいう人いるんですよね。斬った敵は、「新選組全体で30人」以下ですね。泣く泣く斬った仲間が40人ぐらいかな。私個人ではほんの数名ですよ。「随分と人を斬ったが」なんてセリフ、多くのドラマで言ってますが、斬ってません。そもそも新選組は警察です。それに相手の素性も分からずいきなり斬るわけないじゃないですか。例えば尾張徳川藩士だったらどうします。桑名藩士だったらどうします。薩摩でも大問題だ。「捕縛が基本」なんです。薩摩の桐野、「人斬り半次郎」だって、斬ったのは赤松一人ぐらいでしょ。彼は薩摩の外交とかやってましたね。武士といえどそんな簡単に人を斬ったりできないんですよ。

池田屋騒動で、志士を斬ったから明治維新が遅れた?いや、早くなってんですよ。斬ったのは近藤さんですけどね。あれで長州が怒り狂って、結局禁門の変になっちまった。そっから薩摩が台頭してきて、一気に幕末の「動乱」ですよ。池田屋騒動で維新は早くなっちまった。こりゃ、間違いないですね。私が早く駆けつけていたら「捕縛」しましたよ。それを近藤さん、後先考えずに斬っちまった。あの人、いい人なんですが、時勢への理解とか政治とか、全然ダメでしてね。まっ、そこがいいとこでもあるんですけどね。

新選組人気ですか。まあ嬉しいですよ。でも僕だけじゃなくて、近藤さんにも注目してほしい。香取さんがやった大河「新選組」。オンデマンド配信されてなかったけど、今はどうなんでしょう。斎藤一のやつがやたらと人気ですね。「るろうに剣心」でしたっけ。明治に生き残ったのは島田魁や永倉新八もいて、新選組への愛は彼らのほうがやや強いのですけどね。

なぜ剣道を教えない?全国剣道選手権に出ない?
勘弁してくださいよ。もう38歳ですよ。動体視力がついていかない。それに天然リシン流って「総合格闘技」なんですよ。いわばなんでもあり。綺麗な戦い方はしないんです。実戦向きですから、勝てばいいんですよ。相手に砂をかけたりもする。実は道場の「竹刀剣法」となると、弱いんです。幕末も流行ったのは千葉道場とかの「竹刀剣法」でしてね。「総合格闘技」はちょっと邪道扱いされてましたね。「竹刀剣法」は「型の美」でしょ。面を決めても「綺麗に決まらないと」いけない。双方が同時に面を打っても、綺麗に決まってないと「まだまだ」とかね。どっちも死んでますよ。実戦なら。えっ、キレてませんよ。キレてない。私がキレたら大変ですよ。私をキレさせたらたいしたもんだ。でも現代にきてから、キレたことないですね。「講演」とかやってますが、「土方先生」なんて言われて。そりゃ丁寧に扱ってもらっています。

今の日本に言葉をかけるとしたら、、、えー、そんな偉くないですよ、私は。
まあそこそこいい社会だと思いますよ。私は裕福な家庭に生まれたけど、京都では「食いつめ浪人」でした。衣食住がそれなりに満ちていれば、いいんじゃないですか。もっとも最近の格差の広がりはちょっと心配ですけどね。
現代に伝える武士道ですか。だから武士じゃないですって。多摩の農民。薬売り。武士になろうとしたけど、夢のまた夢というところでさ。
まあ私が考えた武士というのは「信念を持って、その信念に基づいて行動し、信念に殉ずる」というものなんだけど、実際は違います。武士って忠義でしょ。つまり殿さまがいるわけですよ。殿さまの命令で行動するのが武士。自分の信念を貫くことはできないし、貫いたら、そりゃ武士じゃないですよ。
「青天を衝け」で、渋沢栄一さんが、自分の信念を貫いて生きてますよね。でもそうなると、やっぱり役人はやってられないわけです。幕末は動乱期で、慶喜公には堂々と意見を披瀝し、ある程度自分の信念で行動できたでしょう。しかし明治政府は違う。明治初期はいいのだが、だんだん制度が整ってくる。そうなると自分の信念だけではどうにもならんのです。だから「民」に飛び出していく。

「武士道というは死ぬことと見つけたり」。佐賀の「葉隠」ですか。あれは「そのぐらいの覚悟で」ということで、実際に死ぬなんて言ってないのですよ。殉死だって江戸の最初に既に「禁止」されているじゃないですか。死ねば人材が失われる。あくまで「死ぬ気で」ぐらいの意味。それでも佐賀のやつらは文句言ってましたよ。古いってね。本で読んだんですけどね、佐賀の大隈重信なんて「葉隠」が大嫌いだったわけでしょ。「奇異なる書」とまで言っている。それで自由闊達な早稲田大学を作った。

時代に逆らったとか私は言われてますけどね。私は新しいものが好きでね。蝦夷に行ってからは洋式軍隊を研究した。古いものにこだわって、時代に抵抗したなんてことはありません。最初の最初からして、尊王攘夷の志士でね、いわば時流に乗ったんです。大政奉還までは、時流に乗って実力以上の力を出せたと思います。でも時代は変わっていく。私に「武士とは」「男とは」とか復古的な精神を問われても、あまり答えはないのです。

ところで記者さんのそのスマホ。えっ、折りたたみ式スマホ。有機ELなんですか。それで5G。いいなー。ちょっと見せてくださいよ。いくらします。げっ、それは高いなー。でもギリ買える値段かな。そろそろ変えようと思ってたんですよ。防水性能はついてます?


松原みき「真夜中のドア~stay with me」までの若者向け音楽

2021-10-15 | 歌詞
松原みきさんの「真夜中のドア~stay with me」は40年前の曲です。2年ほど前からユーチューブで「世界から注目」されています。シティポップだそうです。私は40年間、この歌を聴き続けてきたので、嬉しい限りです。

日本の「若者向け音楽」は吉田拓郎さんあたりから本格化するのだと思います。その前にもフォークはあったけれど、メジャーではなかった。井上陽水さん、吉田拓郎さんで、一気にメジャーになったと思います。もっとも井上陽水さんは「フォーク」というにはあまりにシュールでした。でも一応フォーク。実は彼らのデビューは1970年ぐらいで、よく知りません。泉谷しげるさんもフォークの英雄でした。ちなみに60年代のグループサウンズは、大人が作った人工的な文化で、若者文化とは言い切れません。

「窓の外にはリンゴ売り、きっと誰かがふざけてリンゴ売りの真似をしているだけなんだろう」、陽水さんの「氷の世界」です。どうすればこんな歌詞思いつくのか。いまだに新鮮です。

ちょっとあとに、ユーミンさんと中島みゆきさんが出てきます。ユーミンさんの本格的な活躍は80年代で、ニューミュージックと呼ばれました。

松原みきさん、「真夜中のドア~stay with me」は1979年です。これは鮮明に覚えています。中学生だったと思います。フォークではないので、ニューミュージックなのか。シティポップなんて言葉はなかったと思うのですが。「歌謡曲」に分類されていたかも知れません。

「恋と愛とは違うものだよと」という歌詞が出てきます。当時、家を行き来して一緒に勉強していた「男友達みたいな女友達」がいました。「どう思う」と聞かれて、「さあどうだろね」と答えました。そしたら顔を10センチぐらいに近づけて「恋と愛とは違うものなのよ」と言われました。男扱いしていたのに、なんだかドキドキしたことを覚えています。純情中学生です。

フォークというと、1978年ぐらいまでなのではないか。「かぐや姫」がいました。「さだまさし」がいました。一方「アリス」「甲斐バンド」なども活躍していました。

78年、79年ぐらいが「分かれ目」で、新しい勢力が出てきます。その代表はなんといってもサザンオールスターズ。そして小田和正さんのオフコースです。個人的にはサザンが画期的でした。あのフォークのもつ、いいところも、じめじめして悪いところも、見事に粉砕したのがサザンのような気がします。「かぐや姫」の「神田川」のヒットから、サザンの「勝手にシンドバッド」のヒットまで、実は数年しか時差はありません。4または5年ぐらいでしょうか。

竹内まりあさんは、どっちかというと流行歌の歌手でした。今話題になっている「プラステックラブ」は当時はほぼ誰も知らないと思います。私は山下達郎さんの歌として認識していました。
女性歌手だと久保田早紀さん、八神純子さん、彼女たちはシンガーソングライターです。そして庄野真代さん、渡辺真知子さん。彼女たちは自分では歌は作りません。基本的には。

八神純子さんの高音は圧倒的だったという記憶があります。あらゆる曲の途中で、なぜかホイッスルを吹いていました。渡辺真知子さんの歌のうまさも圧倒的でした。

最近、あまり音楽を聴きません。車にあまり乗らなくなったせいもあります。「音楽は車で聴く」のです。大きな音が出せるから。
コロナでカラオケに行かなくなったのも、音楽を聴かなくなった要因だと思います。

鎌倉殿の13人関連・鎌倉幕府の成立と北条氏のことを少々

2021-10-08 | 鎌倉殿の13人
東大の教授で鎌倉時代が専門の本郷和人さんが、鎌倉幕府というのは「武士の武士による武士のための政治」が行われた時代なんだよと書いています。

本郷氏はおそらく子供の頃、大河「草燃える」を見てこの認識に触れたのではないかと思います。「草燃える」では、晩年の北条義時・松平健さんがこういうのです。

「おれは、今になって、おれの兄貴がやろうとしたことが分かってきた。源氏の旗揚げ、あれは源氏の旗揚げではなかった。おれたち坂東武者の旗揚げだったのだ。あくまでも源氏は借り物」

「草燃える」は1979年ですから、私もまだ子供でしたが、よく覚えています。「なるほどな」と思ったのです。源氏が三代で滅んだのに、鎌倉幕府は続いていく。子供心に「おかしいな」と思っていたのですが、主体がそもそも北条氏など関東武士で、源氏は「みこし」に過ぎないとすれば、すとんと得心できます。

鎌倉幕府の成立はいつか問題が存在します。もっとも当時は幕府なんて言葉使ってません。「鎌倉殿」が政権をも指します。頼朝も頼朝の政府も「鎌倉殿」だったようです。朝廷では「関東」と言ったのかな。室町時代になっても幕府なんて言いません。公儀です。幕府が一般用語となったは江戸も後期で、定着したのはたぶん明治時代です。幕府という言葉を使わないのに、幕府の成立というのは実は変な話で、だから「成立年」はよく分かりません。源頼朝が「幕府を開くよ」なんて言うわけないのです。幕府という言葉は存在しましたが、政権は指しません。徳川家康も「幕府を開くよ」と言ったことはありません。自らの政権を幕府と呼んだこともないはずです。

という事情もあって、成立年ははっきりしません。論理的には永遠にはっきりしないはずです。でもでもでも。それじゃあ「日本史を教えにくい」という先生もいるようです。だから昔は1192年になっていた。今は1185年と教科書に書いてあります。

鋭い子供がいたら「あれ、頼朝が征夷大将軍になったのは1192年なのに、なんで幕府の成立がその前なの」となると思います。「それを考えさせたら」面白いと思いますが、学校にそんな時間があるのかは分かりせん。「将軍がいなくても、幕府(武士政権)は成り立つ」というのはやや難しい問題です。ホント、学校では「将軍いなくても幕府は開ける説」をどう子供に教えているのかなと思います。説明が難しい。鎌倉期は将軍不在の時代があった。頼朝もどうやら将軍を辞任している。頼家もすぐには将軍になっていない。豊臣政権は武士政権だが、将軍に依存していない。武士政権にとって「将軍」は必須ではない。朝廷が将軍に任命しなくても、武士団が自分たちの長と認めればいいだけであり、政権政府を開くことが可能となってくる。子供はだいぶ混乱するような、、、いや子供は柔軟だから大丈夫なのかも知れません。

さて、鎌倉幕府または鎌倉殿の成立。1180年から1192年ごろのいつか。それでいいと私なんぞは考えます。朝廷の権威を重視して「〇〇に朝廷が任じた年」とすると1185年とか1192年という数字が出てきます。いや朝廷からはかなり独立性が強かったんだ。そうなると、頼朝が挙兵をして鎌倉に入った1180年をもって成立と言えるわけです。「歴史をどう考えるか」によって成立年は変化することになります。「こう考えると、こうなるというだけである」と歴史学者の近藤成一さんはTVでおっしゃっていました。氏自身は1180年説ですが、自説への過剰なこだわりはないようです。そういう寛容さを持つ歴史学者は「いい感じ」です。「正しさ」に過剰にこだわると、相手を否定することに無駄な力を使うことになってしまうからです。ちなみに1180説なのは鎌倉殿の独立性を高いものと考えるからでしょう。私も同じ考えですが、別に人にその考えを押し付ける気持ちはありません。

北条氏は何故将軍にならなかったのか、という問題設定なども鎌倉殿の独立性が考慮されないといけないでしょう。この問いの前提には「朝廷の権威を背負った将軍になったほうがいいのに」という考えが存在します。そういう歴史認識を前提に「無自覚に」問いを発してしまうと「ならないほうがいい」という考えが存在する「ゆとり」がなくなるのです。

ここからは私の「暴論」となりますが、「ならないほうがいい」からならなかった。暴論というか、権門体制論ではなく二つの王権論にどっちかというと論的整合性があるように感じます。

「鎌倉殿」は「鎌倉殿」でした。何が言いたいかというと、朝廷から「鎌倉殿」と認定されたわけではないということです。「朝廷の許可」などいらないのです。関東の武士が「実質的な幕府の長」と認めれば「実質的な幕府の長」です。

北条氏も後期になると「鎌倉殿みたいに」になっていきます。「鎌倉殿」とは呼ばれず「得宗」と呼ばれました。北条義時の時代は「得宗」という言葉はなかったと思いますが、義時の「実質的な鎌倉殿化」は進んでいたと思います。将軍(名目上の鎌倉殿)はたしか藤原頼経です。

「将軍は任命できるけど、北条義時みたいな実質権力者は任命できない」わけです。後鳥羽上皇は「将軍追討令」は出しませんでしたが、「北条義時追討令」を出します。自らの権威から独立した存在である「北条執権」など認めないということかなと思います。そして承久の乱が起きるのです。

その後も北条氏は「幕府の運営者」であり続けましたが、それは「朝廷の許可を得て任命された地位」ではありません。朝廷に就任を邪魔されることもありません。北条得宗は鎌倉の宰相ですが、その世襲に朝廷が口を出すことはできません。だから「将軍になどならないほうがいい」のです。織田信長もそうでした。二位という位は返還しませんでしたが、官の方は辞任して、無官の二位です。朝廷が官に就いてくれと言っても、丁寧に断りました。私の「夢想」では、彼は朝廷に左右されない「安土殿」という存在を目指していたように思います。「安土殿」は「鎌倉殿」「得宗」の信長バージョンです。

ド素人の「思いつき」だと思ってお許しください。こう考えると、私的にはスッキリするのです。合理的に説明がついているような気になるのです。

青天を衝け・伊藤博文のことを少々

2021-10-03 | 青天を衝け
伊藤博文は日本最初の総理大臣という名誉と、日韓併合の象徴という悪名を背負っています。ただし彼が日韓併合をしたわけではなく、むしろ彼は反対派でした。その彼が大韓帝国人の安重根(アンジュングン)にロシアで暗殺されてしまう。それが1909年です。その暗殺が直接の契機となって、日本は1910年に大韓帝国を併合します。併合に積極的だったのは、山縣有朋などでした。伊藤はむしろ山縣を抑えていた。その伊藤を殺してしまったので、日韓併合は一気に進みました。

韓国の「歴史館」に視察旅行(ただの観光の)で行った時、通訳の人に「山縣有朋って知ってますか」と聞いたことがあります。通訳の人は知りませんでした。「伊藤より山縣を恨んだ方がいい」と私は言いました。通訳の人はなんと応じたか。それは覚えていません。20年ほど前です。私は「視察旅行の観光客様」でしたから、そりゃ歓待を受けました。牛肉が美味しかった。韓国の人はみんな親切だった。そりゃ「お客様」だから当然です。1度だけ韓国のじいさんに「日本人はここに来るな」と言われたことがあります。私が笑って「なぜですか」と聞いたら、正確には「ホワイ」と聞いたら、通訳やガイドの人が割ってはいって、そのじいさんと「大喧嘩」してました。私は「本音が知りたい」と通訳の人に頼みましたが、じいさんの言葉を翻訳してはくれませんでした。

あっ、伊藤の話です。

長州のお百姓さんです。やがて父親が下級足軽となります。松下村塾に入って、いろいろ雑用をやっているうちに頭角を表しました。吉田松陰からは「調整の才能はあるかな」程度に言われていました。高杉の藩内クーデターに「最初に協力した数すくない人間の一人」であったことが、彼の出世を導きました。最初は高杉に同調するものは極めて少なかったのです。伊藤は「力士隊」を率いていました。

伊藤の直接の恩人は木戸孝允でしたが、木戸は陰気くさく、陽の伊藤は苦手でもあったようです。明治政府ではいち早く長州から精神的に独立し、あくまで明治政府の青年官僚としての道を歩みます。山縣有朋が「長州のドン」というイメージなのに、伊藤が長州の親玉という感じがしないのはそのためです。

顔は平面的でした。イケメンとはほど遠い。でも最近は山崎さんとか加藤剛さんとか、ハンサムな俳優が演じています。だいたいは好意的に描かれます。ただ「八重の桜」では権力づくのなんだかいやな人物として描かれました。「るろうに剣心」などにもでていたと思います。かつて「なべおさみ」さんが演じましたが、顔はなべさんが一番似ています。

この人、私が思っているより「大政治家」のような気がするのですが、どうも調べてみる情熱がわきません。でも青天を衝けを見て、機会があったら調べてみようと思いました。