歴史とドラマをめぐる冒険

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織田信長は何故「哀しき覇王」なのか。麒麟がくる。

2020-09-11 | 麒麟がくる


織田信長は、前は革命児でしたが、今は「保守的中世的側面もある」とか言われます。つまり「保守的中世的側面もある中世をかなり破壊した革命児的側面もある人物」というややこしいことになります。長い。

こういうのはブームであって、一歩引いた所で眺めてみたほうがいいかと。前も「天皇最大の敵」とか、その真逆の「勤皇家」とか色々言われてきた人です。人気者なんで、みんな自分の思想に合わせて好き勝手に信長像を作る。これは学者も同じというか、学者こそそれを「やってしまう」ことが多いと思います。頭で生きているから。一次資料を真面目に真摯に「解釈」しながら、、、。どうやっても解釈は入るのです。そこに「私の信長」を作ってしまう原因がある。これは回避できません。ちなみにかく言う私だってたぶん同じです。学者じゃないけど。史料、活字にしてくれないと読めないけど。

さて、これはドラマのお話。

歴史秘話ヒストリアでは「世にもマジメな魔王」と呼ばれたこともあります。NHKは「おんな城主直虎」あたりであれだけ「とんでもない魔王」にしときながら、急に「世にもマジメな」と言い出しました。つまり「保守的中世的側面もあった」というありきたりな説です。この「も」が重要です。決して「中世的保守的人物」とは言わず、「もあった」となるのです。麒麟がくる、はそうなるのだな、と思いましたが、さほどマジメな魔王でもなく、お母さんの愛を失って迷っている信長でした。この点、保守とか革新とかチマチマ言ってる「学説」を超越した「脚本家の天才」を感じます。

で、後編になって「哀しき覇王」になるようです。

覇王と魔王。魔王の方が「虐殺好き」な感じがします。覇王は「覇をもって世を制す」王で、徳をもってではない。武断政治家。文治主義ではない。王道と覇道の違い。王者と覇者の違いです。
北斗の拳だとラオウが覇者です。ただしケンシロウは王者ではない。「世紀末救世主」です。

ドラマの信長は承認欲求の塊です。ほめられたい人です。おそらく「天皇と将軍のもと、平和を実現し、ほめられよう」とするのでしょう。

ところがうまくいかない。どんどん「いくさ」になっていく。朝倉も浅井も、本願寺も、一向衆も、武田も、上杉も、毛利も、誰もほめてくれない。将軍さえ敵になっていく。家康も心からほめてはくれない。天皇と近衛前久だけが、なんとなくほめてくれるけど、、、というところかも知れません。そして荒木にも、松永にも裏切られる。最後は十兵衛にも、、、哀しき覇王です。「ただ人を喜ばせたかった。ほめられたかっただけなのじゃ」と言うかも知れません。

さらに帰蝶の身に何かあるのかも知れません(元ネタは全くありません)。帰蝶を失ったら、あの信長は崩壊するでしょう。暴走する魔王になる。魔王にならなず覇王なら、帰蝶は生きるのかも知れません。もしかして本能寺の後まで生きるかも知れません。歴史史料はほぼ0です。生きて欲しいと思います。江戸時代ぐらいまで生きて欲しい。

ただし、この作者。そう簡単に読める筋は作らないので、この「哀しき」にはさらに「何か」があるのかも知れません。

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