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「鎌倉殿誕生」の歴史的意義について・天下草創とは何か。

2023-09-05 | 鎌倉殿の13人
「鎌倉幕府」は日本全土を統治していたわけではありません。朝廷・寺社という古くからの勢力と、荘園の「権利」(職)を分け合うことで鎌倉幕府は成立しました。

朝廷を重く見る場合は、鎌倉幕府は国家の機能のうちの治安を担当しただけであり、「朝廷の侍大将に過ぎない」という言い方を好む方も、西の研究者にはいるようです。

ただちょっと考えただけでも「治安のみ担当したわけでない」ことは明確です。明らかに「政治」というものを行っているからです。御成敗式目という新しい法も導入しました。

鎌倉幕府は「律令制の衰退がもたらした地方の混乱」に一定の秩序をもたらすために誕生しました。そしてそのことが朝廷・寺社の意識を改革し、朝廷もまた「儀礼や祈りや文章創作とは違う、現実に根差した政治」を行うように「ちょっとだけ」なっていきます。「鎌倉殿誕生の歴史的意義」はそこにあると思います。

律令制国家は、天智天武の時代に、つまり700年前後に、白村江の戦いの敗北を受けて成立しました。「唐」が攻めてくるという緊張感が豪族連合としての「日本」を生み出すわけです。「日本」という国号もその時誕生します。

ところが唐との関係はあっという間に改善します。そして同時に日本国の統合も徐々に緩んでいきます。桓武天皇の時代、794年の平安遷都以降、桓武天皇は東北に敵を作ることで、新しい国家統合を模索しますが、そうした軍事的な動きも次代の嵯峨天皇の時代にはなくなっていきます。

10世紀になると、気候が変動したり、地方が無政府状態に陥ったりします。こうした中、朝廷は「日本をこうしよう」という高い政治意識を失っており、つまりは地方から税収が入ってくればいい。現地の支配者や親分に税の取り立てを任せ、その税収を確保できればいいという態度に終始します。「政治」と言えば主に「祈ること」を意味していたわけです。さらに文章経国と言って、芸術的文(漢詩、和歌)を作ることで「天を動かす」という政治?を本気でやっていました。桓武天皇の孫である仁明天皇などは文章経国に熱中し、国家財政を傾けました。文章経国は宴会(歌会)を通して行うので、べらぼうな「むだ金」が必要だったのです。文章経国は儒教政治の重要事項です。本気で儒教政治をやろうとすると、現実はほぼ見えなくなっていくようです。日本は中国にかつて存在したと言われる幻の儒教理想国家「周」を手本としたので、朝廷の政治は、やることなすこと現実からは乖離していました。

こうした中でも京都政権に一定の税収があったというのは不思議なことです。こういう政府にどうして人々は税金を納入したのか。ほとんど奇跡なのですが、それは今は考えません。

やがて律令制は形骸化し、律令制に代わって荘園公領制という形に移行していきます。12世紀のことと考えられています。公領と言っても実態は荘園で、要するに上皇天皇や中央貴族が地方の有力者や国司とタッグを組んで地方からの税収を確保しようとしたわけです。単に荘園制でもいいように思えます。公領は「公共の土地」ではないので、まぎらわしくなります。

この荘園において実際に荘園を経営したり、税収を確保していたのが「武士」らです。つまりそれまでの日本政府は長きにわたって地方政治を全部「丸投げ」して、京都で祈り、税金だけを収奪していたわけですが、ここに中央政治(主に鎌倉,そして鎌倉を通す形で京、または直接的に京)とつながった(タッグを組んだ)地方政治というべきものが発生します。それはライバルである朝廷の意識改革を促し(といっても少しですが)、地方に「金の源泉」以外の興味を持ったようです。いや金の源泉なんだが、どうやれば源泉であり続けてくれるのか、ということかも知れません。そして長い時間はかかるものの、江戸時代も後半になって武家政治の結晶として撫民政治と言われるものの発生してきます。ただし初期段階では、武士地頭は撫民など頭にもなく、むしろ朝廷よりひどい収奪者として登場します。泰時の撫民と言っても、そんなたいしたもんではありません。

源頼朝は朝廷に対しては遠慮がちであり、地頭の暴走を抑制する側に回ります。同時に朝廷改革を促します。要するに「ちゃんと政治をしようよ」と朝廷に働きかけるのです。この場合「政治」というのはそんな大したことではなく「祈ったり、和歌や漢詩を作って天を動かそうとか馬鹿なこと言ってないで、現実を見ようよ。少しは地方の秩序の構築、うまい税金の取り方を考えてみようよ。ほんの少しだけでいいから」ということです。そしてこれが「天下草創」の中身ではないか。何もしていなかった0の状態から1ぐらいはやろうということ。この点からも「朝廷が政治を担い」「武士はその治安活動を行った」という歴史観は、史実と矛盾していると思われます。「朝廷に権威があったから」などというのは観念論で、頼朝がそういう態度をとったのは「朝廷天皇が同じ荘園制というシステムに依存した共同経営者(収奪者)だったから」です。また「幕府とは何か」と同時に「王権とは何か」を考える必要も感じます。「王」という言葉は多義的でなかなか議論が成立しません。少なくとも「幕府は王権の守護者に過ぎない」の「過ぎない」の部分は間違っているでしょう。王権と幕府を上下関係で考えること自体、非科学的なのかも知れません。

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