歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

「鎌倉殿の13人」・最初の方のあらすじ・完全に空想です。

2021-04-18 | 鎌倉殿の13人
「鎌倉殿の13人」・最初の方のあらすじ・完全に空想です。史実に「少しぐらいは」基づいています。

1176年頃、源氏挙兵の4年前、伊豆に「スケ殿」と呼ばれる流人がいました。源頼朝(大泉洋)です。最後の官職が右兵衛権佐だったので「佐殿=スケ殿」と呼ばれていたのです。伊豆に流されてもう16年が経っていました。すでに29歳です。16年前の平治の乱で父の義朝が討たれ、死刑になるところを平清盛の義母に助けれられ、伊豆に流されたのです。監視役は伊東祐親(辻萬長)という地元の有力武士です。しかし16年も経っていますから、監視といっても緩いものでした。お経を読むことが課されていたのですが、比較的自由に弓の稽古などもしていました。「巻狩り」などにも参加して、地元の若い武士と交流も持っていました。憎めない愛されキャラで女好き、地元では人気者で通っていました。

ここに、都に憧れる二人の女子がいます。北条政子(小池栄子)と伊東八重(新垣結衣)です。二人は地元の「荒くれた武士」たちが嫌いで、都の貴族と結婚したいと夢見ていました。貴族といえばスケ殿ぐらいしかいませんが、八重は積極的、政子は「スケ殿はどうも女にだらしがない」と思っています。結局、頼朝は八重と結ばれます。これに涙したのが八重に憧れていた北条義時(小栗旬)です。義時の母も伊東家の生まれで、八重は「おばさん」なのですが、八重と伊東祐親に血のつながりはなく「養女」なので、八重と義時も血のつながりはなく、義時は美しい八重に恋していました。

八重と頼朝の間には子が生まれますが、これを知った伊東祐親は激怒します。生まれた子は死んだことにして養子に出されます。八重も「身を投げて死んだ」ことにされ、北条に匿われました。やがて義時と八重は結ばれ、生まれた子供が後の「北条泰時」です。なおこの時、北条義時は北条家の人間ではなく、江間に養子に出ていました。ですから名前はまだ江間小四郎義時です。小四郎と呼ばれていました。

伊豆に知恵者がいました。義時の兄の宗時(片岡愛之助)です。「平家の世はいつか終わる。その次は源氏の世だ。いや俺たちの世だ」と考えていました。そこで頼朝と血縁を結んでおこうと思います。そのころ、頼朝は八重と別れ落ち込んでいました。そこへ嫌がる政子を世話係として派遣します。やがて頼朝と政子は結ばれました。

さて、都では平清盛(松平健)がこの世を謳歌していました。「平家でなければ人ではない」と言われます。そもそもこれほど清盛が出世したのは、武力の実力もさることながら、後白河法皇(西田敏行)の「推し」だったからです。後白河法皇は自由人で、そもそも天皇になる予定もなかった人です。好きになったら止まらないタイプで、当時のJPOP=今様が大好き。歌い過ぎて喉を傷めたり、歌詞集(梁塵秘抄)を作って喜んだりしていました。清盛とは持ちつもたれつ「おぬしもワルよのう」という関係でした。清盛の異常な出世は藤原氏などの反感を買います。すると後白河法皇は自分のひいじいさんである「白河法皇が清盛の父だ」とすればいいと思います。「さすがにそれはない」と清盛は思いましたが「まあいいか」と乗ることにします。

ところが1180年になると、清盛と後白河の関係は色々あって悪化していました。清盛が後白河を幽閉し、これに怒った後白河の息子、以仁王が「平家を討て」と「令旨」を発します。源行家(杉本哲太)は食えない男で、実は「おれが源氏を仕切る」と思っているのですが、なにせ庶流です。そこで「へたれのスケ殿」を担いで「かいらい」とし、平家を倒そうと思います。そして以仁王の命令書を持って伊豆にやってきました。

驚いたのはスケ殿です。「なんで持ってくるかなー」と思います。伊豆にきてもう20年も経っています。政子と結婚し、子供も生まれ、やれやれと思っていたら源行家(叔父)の訪問です。「命令書を読んでしまった」ので、もう平家に討たれる運命が見えています。「やられる前にやりかえす」と叫んだものの、自信は全くなく、家来と言えば足立盛長(野添義弘)ら数人です。ここは北条に頼るしかないのですが、宗時を見ると「無理だ」という顔です。政子の父の北条時政(坂東彌十郎)はやや芝居がかった男で、「こうなれば仕方なし」「しかし声をかければ500騎は集まる」と言っています。しかし実際に北条が集めたのはわずか50騎でした。「えー話違うじゃん」と頼朝は思いますが、もう後へは引けません。なんとか集まった300騎で、平家の代官ヤマキを襲い、これは成功します。しかし思ったように兵は集まりません。

梶原景時(中村獅童)という武将がいました。鎌倉武士には珍しく歌の教養などがあります。北条宗時は彼を味方に引き入れようとしていました。しかし梶原は大庭景親とは親戚だったため、平家軍に加わります。ヤマキを襲った後、頼朝は「石橋山の戦い」で、大庭景親、伊東祐親など平家軍にコテンパンにやられます。山中に潜んだ頼朝に追手が迫ります。ここで梶原景時は頼朝を発見しました。しかし北条宗時の言葉を思い出し、彼は頼朝を見逃します。梶原はやがて鎌倉幕府の重臣となっていきます。梶原は頼朝を知っていました。おかしな男だと思っていたものの「弓の技能」を見て「ひとかどの武士かも」と思ってもいたのです。

頼朝は千葉に逃げます。この間、北条では宗時が討たれてしまいます。しかし義時は江間小四郎のままでした。父の北条時政は、貴族の出の「牧の方」がいずれ男子を産めば、その子を北条の嫡男にしようとしていたのです。義時は優しいだけが取り柄のような男で、期待できないと思っていたのです。義時はその方が楽だとも考えます。

千葉では千葉常胤や上総広常(佐藤浩市)が加わります。特に上総広常らの軍団は公称2万騎(実際は千騎ぐらい)と言われる大軍団でした。自然、上総広常が事実上の大将のような位置につきます。頼朝は血筋などを強調して威を張り、上総広常に対向しようとしますが、全く通じません。自分を見直すかと思って「帰れ!」というと「では帰ります」となってしまいます。頼朝は足にすがるようにして上総広常を引き留めます。とにかくその「圧」の前に頭が上がりません。北条などは50騎程度の伊豆の小者で、もちろん軽く見られていました。時政は悔しがりますが、義時は何も感じません。権力欲とは無縁の男でした。

義時は上総広常に興味を持ちます。広常は義時に言います。「お前の親父は政子殿を大将に嫁がせ、その子を大将にしようとしているのだろう。だが間違ってはいけないぜ。坂東は坂東武者のものだ。武家の棟梁なんていらねえのよ。坂東を治めるのはおれたちだ。おれたちの中で一番強いやつが大将になればいいのさ」。義時は「ふーん」と思って聞いていました。その言葉の意味が分かるのは、はるか先の話でした。「ところでお前の家はなんだい?平氏だったな」「いや、よく分からないんですよ。一応桓武平氏になってるみたいですが、系図もないし」「なんだい、偽平氏かい」と言って上総広常は笑いました。

さて源頼朝ですが、この後鎌倉に拠点を定めます。富士川の戦いで平氏の追討軍を破った頼朝は、このまま「都に攻め込む」と宣言します。しかし上総広常に「ふざけたこと言ってんじゃねえ。坂東の地固めが優先だろ」と一喝されてしぼみます。広常の言い分は正しいものでしたが、御家人たちの間には、その不遜な態度に不満が高まります。北条時政と梶原景時はその不満を背景に、上総広常の排除を考えるようになっていました。(以上)

「黄金の日日」「羅針盤」感想・「史実の宝石箱や」「信長とは何か」

2021-04-18 | 黄金の日日
次回以降のネタバレはありません。

今回は助左衛門が念願の水夫となりました。信長は京を離れてしまい、そのすきをついて三好三人衆(テロップで名前入り)の逆襲が始まります。「本圀寺の戦い」です。三好方は敗退します。堺は三好に協力した(史実です)ために、2万貫の戦費を徴収され、代官として松井有閑がやってきます。この頃は堺政所という名だったようですが、これも史実でしょう。さらに驚くべきは、尼崎焼き討ちが描かれたことです。全く知りませんでしたが、これも史実です。今井の美緒さんが公家の娘で、奴隷船で売られるところだったことも明らかにされます。灯台守のお仙ちゃんが出てきます。
織田信長とは何かが語られます。「合戦を経済戦争に転換させ、鉄砲を中心とした集団戦術を用いた男」です。

調べてみたいなということが山ほどあります。まさに「史実の宝石箱状態や」というところです。
・この時代の貿易、国内貿易の姿、船の水準
・三好三人衆の一人一人のこと。トリオ扱いではなく。
・奴隷貿易のこと。
・公家の本当の姿
・経済戦争への転換という視点

永原慶二 さんの「戦国時代」を読んでいた時、「信長は堺を抑えるのを主な目的として上洛したのではないか」という視点があって、「なるほどな」と思いました。京都を抑えてそれを足利義昭に任せたり、地元の有力者(松永久秀)などに統治を認めたりしています。でもそれでは信長の「分国」事態は増えません。全く増えないわけではなく、近江の一部と伊勢の一部は手に入りました。主に京都への道にある土地です。

しかし堺へ代官を置くことは成功します。これにより税収が増えたことも重要ですが、何より「弾丸のもとである鉛と玉薬」が手に入ります。これらは貿易以外の方法では入手が難しかったものです。鉄砲は国産化されますが、鉛と硝石は入手しにくかったようです。ただし硝石はその後古土法なる作り方で国産化されたとありました。「鉛」が例えば東南アジア製であることは、最近のNHKの「戦国」でも成分分析で実証されていました。

信長の狙いが「鉄砲と鉛と火薬」だっとすると、信長が京都という土地そのものへは冷淡だった、執着がなかったことがよく理解できます。

「信長の鉄砲戦術なんてたいしたことない」という意見が昔からあります。しかし「大量に鉄砲を使用できたこと自体」を否定できる論者はいません。せいぜい「三千丁三段撃ちじゃなかった」とか「長篠の戦いでは防御陣形を組んでいたら、勝手に武田が突進してきただけ」という類のものです。「大量鉄砲の使用」を可能にした、経済的背景に目を向けた永原さんに比べると、〇〇じゃなかったという論じ方の非生産性を感じざるを得ません。

今日の放送では、「本圀寺の戦い」は「信長の罠」とされました。三好を討つ罠というより、堺を討つための罠です。信長は足利義昭を残して京を去ります。堺は三好三人衆に味方し、結局信長の介入を招きます。この時、信長の本拠地である尾張や美濃が脅かされていたということはないと思います。すると何で京を去ったのか。京都という土地そのものへの執着はなかったとも考えられます。もし三好が足利義昭を殺したなら、それを大義に京都に攻め込めばいい。結果として堺が手に入ればいい。逆に言うとどうしても堺を抑えたい。こういう視点も可能だと思います。

鉄砲も撃つためには鍛錬を必要としたでしょうが、弓を射るための鍛錬と比べれば、習得は難しくない。弓というのは、非常に難しい武具です。

加藤隆「新約聖書の誕生」とヱヴァンゲリヲン

2021-04-17 | 新約聖書
アニメの話ではありません。そして宗教の話でもありません。聖書学の話です。ヱヴァンゲリヲンは「福音」です。「福音」とは「良い知らせ」です。良い知らせというのは「神が動いた」ということです。具体的には「イエスを地上に遣わした」ということになります。ちなみに私はキリスト教徒ではありません。

「聖書学」というのは「文献学」で、聖書にあるどの文書が、どの時代に、どんな人によって書かれたかを追求します。いたって「科学的」な作業です。私は加藤隆さんの「新約聖書の誕生」を読むまで、こういう学問の存在すら知らなかったと思います。

大学時代、課題で「新約聖書と日本文学」という文章を書かされました。で、まあ初めて新約聖書をちゃんと読んでみたわけです。四つの福音書だけですが。まあ「なんだかよく分かりません」でした。四つの文章が矛盾しているのです。同じような内容、イエスの伝道の様子が書かれていますが、マルコ、マタイ、ルカの内容はちょっとずつ違います。ヨハネは文体からして違います。「一つの福音」だけならなんとかまとめられます。しかし四つをまとめようとすると明らかに矛盾があって無理でした。

「みだらな目で人妻をみると姦淫だ」と書いてあります。マタイです。しかし別の福音書では「罪を犯してないものがいようか。みんな罪人だ。君たちに不倫した女性を裁く権利はない」とも書かれている。ヨハネ書ですね。どっちもイエスの言葉です。どっちなんだ?ということです。

今なら分かります。四つの福音書は「違った時代に、違う目的を持って書かれたもの」です。最初の福音書はマルコと考えられていますが、マタイ、ルカ、ヨハネはその「増補版」などではない、というのが加藤隆さんの主張です。マルコは「なんか違うな」と思った人がマタイやルカを書いた。だから互いに対立的というか対話的なわけです。論争的とも言っています。

地上のイエスの死は、だいたい紀元30年ごろと考えられています。それから40年ほどたってやっとマルコが成立します。マタイ、ルカ、ヨハネはその後です。1世紀中か2世紀初めです。諸説があるようです。

ただマタイとルカの筆者はマルコ書を読んでいました。またQ史料という「イエスの言語録」があったと想定されています。現存はしません。そういう事情で、マルコ、マタイ、ルカは似ています。似ているけれど、本質的に違った部分があります。マタイは道徳主義的傾向があり、ルカ文書ではローマ的な支配のあり方が評価されているそうです。

私にとってそういう詳細な違いは問題ではないのですが「四つが論争的で、一つの原理にまとめられない」という見方は、大学時代の私の疑問を見事に説明する理論でした。

イエスの伝記といった性格の文章は、イエスの死後30年以上書かれませんでした。迫害を受けつつも活動する教会の「弟子たち」によって口伝されていました。これは「弟子でないとイエスを語れない」ということです。「イエスの独占」という状態でした。従ってマルコが書かれたことは、教会にとって衝撃であったようです。それはギリシャ語で書かれました。新約聖書はギリシャ語で書かれています。しかしイエスはアラム語を話していました。ギリシャ語しか理解しない信徒も多くなり、徐々に弟子たちも死を迎え、「イエスの独占」が難しい状況になっていました。

そして新約聖書のような「文章集」が「異端の手」によって編集されます。教会はこれに対向して「聖書の聖典化」を進めます。異端の聖書を排除して、教会が認められる「福音書」を選んで、新約聖書の編集を進めます。しかし決定版はなかなかできず、結局325年のニケイア宗教会議までに、キリスト教がローマの国教になり、新約聖書の形も定まってきます。イエスの死後、300年がたっていました。

聖書選定の基準はさほど厳密なものではなかったようです。4つの福音書の「整合性」などが厳密に検討されたわけではないようです。従って私が日本語で読んでも分かるような、記述の矛盾が生じます。それ自体、さほど問題ではなかったようです。当時、福音書は「乱立」していましたが、乱立状態に終止符を打つことが優先されました。そして各教会で伝統的に使われ、ローマ支配とも大きな矛盾はなく、「問題がある」とされなかった文章が選ばれたようです。そして一度選ばれると、それらは正典となり、批判することが難しい書物になりました。しかしそれでも何が正典かを巡っては、地域によって論争は存在しました。

新約聖書が「違った時代に、違った目的を持って書かれた文章」によって成り立つと考えれば4つを統一的に理解しようという試みが成功しないのが分かります。加藤隆さんが考える「聖書像」はそのようなものです。

アニメ・ヱヴァンゲリヲンと死海文書について

ヱヴァンゲリヲンQという映画がありますが、これはQ資料からきたネーミングでしょうか。TV版はかつて見た記憶がありますが、「新劇場版」は真剣にみたことがありません。特にヱヴァンゲリヲンQは最初をちらっとみて、なんだかわけわからないなと思った記憶があります。

シン・ヱヴァンゲリヲンの「ネタバレ」を読みましたが、複雑すぎて難しく、よく理解できませんでした。

難しさというのは「神秘性」につながりますが、新約聖書が統一的に捉えられないのは、違う文章だからで、そこに「神秘性」はないと思います。TV版のヱヴァンゲリヲンには、よく「死海文書」が登場します。調べればすぐ分かりますが、あれは死海の傍のクムラン洞窟で見つかった「古い旧約聖書の写本」です。死海文書というと神秘的ですが「クムラン文書」です。つまり旧約聖書です。

見つかった時は「ユダヤ教、キリスト教に根本的な影響を与える記述があるのでは」と話題になりました。しかしそういう記述はないことが分かっています。そもそも新約聖書とは関係ありません。ユダヤ教の聖書です。ただ「旧約聖書が見つかった」というだけのことです。(旧約聖書はキリスト教にとっても聖書ですが、クムラン文書を残した集団はユダヤ教徒です)

死海文書というと何やら意味ありげですが、つまりはクムラン文書で、旧約聖書の断片とか、クムラン教団の規則や儀式書です。

難しさやわかりにくさに「必ず意味がある」ということはありません。ただしシン・ヱヴァンゲリヲンのことではありません。あくまで聖書の話です。

雑談・武士はいかにして発生したか。開発領主・職能・ハイブリッド。

2021-04-16 | 天皇制
武士がどうやって発生したかについての「定説」はありません。有力な説として「開発領主説」「京都職能説」「ハイブリッド説」があります。

武士の発生は10世紀です。そのころ律令制が崩れて、というより、地方では最初から崩れていて、公地公民は有名無実となり、「私領を持つ領主」が存在しました。律令制度においても「墾田永年私財法」以降、公認で私領を持つことができました。

このような「開発領主」が武装して武士になったというのは「古い説」ですが、古いから否定されたわけではなく、十分有効性を持った説明のようです。ただ問題は「開発領主」とはどんな人たちなのかということです。主に「古くからの地方の豪族」「富豪百姓」という風に山川の教科書には書かれています。正確には「豪族と有力農民」と書かれています。「有力農民」の出自が気になりますが、それは書かれていません。

そういう「武士みたいな人たちがいた地方の土壌」に「京都から王臣家(天皇や藤原氏)の子孫がやってくる。また国司として役人がやってくる」、そういう「貴族階級」が地元の「開発領主」の娘と結婚して土着する。すると生まれた子供は「貴族の看板を持ち、開発領主の地盤を持つ」ことなります。これが武士だというのが「開発領主説」で、あり「ハイブリッド説」も同じです。

「そもそも武士みたいな人たちがいた」けれど、看板がなかったということです。武士だと朝廷が認めるのは少なくとも六位程度の人達で、「貴種」の看板がないと武士とは認定してもらえないそうです。ハイブリッド説はそこにこだわって、貴族の血がどうしても必要だったとします。

それに対して「京都職能説」は、「もともと武士みたいな貴族」は京都にいて「武芸を職としていた」。そういう武芸貴族が地方に下って、開発領主たちと結びつき、武士が生まれた。あんまり違いがないような気がしますが、おそらく「私のまとめ」が拙いせいでしょう。「開発領主説」「ハイブリッド説」では「地方に下る」のは「武士みたいな人」じゃなくてもいいとなるのだと思います。

職能説の場合、多少疑問が生じます。京都から「武士みたいな人」が下って、地元民を組織化して武士にした。つまり上からの武士化であったとなるようです。しかし「武士みたいな人」がいない状態から「武士を作り出す」ことが可能なのか。特に異常に鍛錬を必要とする「弓の技術」はどうやってつけるのか。もともと「武士みたいな人がいた土壌」を想定したほうが(開発領主説、ハイブリッド説)、分かりやすい気がします。

どっちにしろ「地方に下る」というワードは共通です。京都で武士が生まれて京都で育ったということはどっちの説も採用しません。当然です。藤原秀郷も平将門も「地方の人」であることは歴然としているからです。だったら「武士は地方で生まれた」としてもいいと思いますが、そう簡単にはいかないのが歴史学みたいです。ここまでの文章を読み直してみると「開発領主説」と「ハイブリッド説」の違いを私はちゃんと理解してないようです。

ハイブリッド説はさらに「武士の精神文化」はどうやって生まれたのだろうかにこだわります。平将門は「武士のほこり」みたいなことを口にします。江戸武士とは全く違ったものですが、「ほこり」があるわけです。そういう精神文化は、地方に下った「武官輩出氏族」がもたらしたとします。坂上田村麻呂などの子孫です。京で律令国家の「武官」を代々出してきた家です。

武士は地方で私領を持った農民から生まれた、とする場合、間違っているのは「農民」の部分のようです。「私領を持った地方有力者」から生まれ、彼らは「地方に下った貴族」と結びつき、武士団を形成した、ならさほど間違った説明にならないと思います。

武士の内実というか本体部分は地方で生まれたようです。彼らは領主階級で「弓と馬」を習う時間がありました。しかし武芸だけでは「単に武装した人々」になります。そこに貴族がやってきて婚姻を通じて結合し「血筋」と「精神文化」と「物質的武士文化=武具など」を加えた。そうして武士と認められる人々が誕生した。私の理解では「こんな感じ」になるのだと思います。最終的には朝廷が武士を制度の中にとりこんで、武士が完成します。「土地の寄進」の問題がありますが、どう考えても自分は理解していないので、触れませんでした。国衙発生説にも触れませんでした。

「鎌倉殿の13人」・ガッキー演じる八重姫は意外と活躍するのではないか?

2021-04-15 | 鎌倉殿の13人
鎌倉殿の13人の「史実のネタバレ」を含みます。ただ八重姫ってほぼ伝承的人物で、どこまで史実が確定してるかは分かりません。

たぶん伊東祐親の娘なんですよね。でもそうすると「おかしく」なるわけです。発表されているのは源頼朝の最初の妻で、北条義時の「初恋の人」。うん?となります。なぜなら「北条義時の母は伊東祐親の娘」のはずだからです。すると八重姫は「おばさん」になります。

もう一つおかしいことがあります。新垣結衣さんは「主役級女優」です。源頼朝の妻が「北条政子」であることはみんな知っています。ドラマの早々に妻となるでしょう。するとガッキーはドラマの「早々」で「退場」ということになります。そんなもったいない使い方をするだろうか?石原さとみ、上戸彩、長澤まさみ、さんなどは、大河に出た場合は、ほぼ最後までずっと出演して、重要人物でした。新垣結衣さんを登場させて、3話目で既に退場。そんなはずはない。客寄せパンダなのか?

といって色々あって源頼朝と離縁した後、北条義時と結婚した、って言うのも「史実の制約」があって難しいのです。北条義時の妻は比較的はっきりとしています。
八重姫は「江間の小四郎」と再婚したとなっていて、江間の小四郎は義時と「同じ名前」なんですが、別人とされています。ここを強引に「義時だ」とするのか。

私は「鎌倉殿の13人」にも「真田丸のきり=長澤まさみさん」のような女性が登場するのではないかと思っていました。「八重姫」はその候補として「ありえる」人物です。

従来は「かわいそうな人」でしたが、史実はほとんど分かりません。「身を投げた」とかいうのも伝承です。するともっと活動的で悲劇を跳ね返すキャラにすることも可能です。

「京都に行って女房となって情報を伝える」とか「商業団の女頭になって」とか「ああ、真田丸の真田信之の最初の妻と同じ設定もあるか」「江間の小四郎は義時だとするのか」とかいろいろ考えます。3話目までで退場ということはないでしょう。

北条義時の後継者は北条泰時、御成敗式目で教科書にも載っています。この方「最も優れた執権」なのですが、母のことが分からない。「京の女房である阿波局、あとは未詳」です。つまり誰だか全く分からない。義時が21ぐらいのときの子供です。NHKのキャスト表にも「泰時の母」はいません。とすれば「泰時の母候補はガッキー」しかいません。ただ血のつながった叔母なんですよね。そこを強引に設定変更すれば、泰時を産めます。それにそのそも「誰だかちっともわからない女性」が母ですから、「八重じゃない」という証明もできないのです。「叔母問題」のみクリアーできれば、泰時の母となるでしょう。そうなれば、、、です。最後の最後に大活躍します。北条泰時とは北条義時の後継者です。政子が彼を後継と指名するのです。いろいろ「すったもんだ」はあったのです。もし仮に、ガッキーがこの時まで生き残っていれば、彼女は政子と「組んで」、わが子を義時の後継者とすることで、「北条執権政治の基礎を築く」ことになるのです。新垣さんほどの女優を起用するなら、そのぐらいのことをしてもらわないと困るというか、物足りないように感じます。

安政の大獄・桂小五郎と村田蔵六・花神の話

2021-04-15 | 青天を衝け
大河「花神」は1977年です。しかし残っているのは「総集編のみ」です。全5回です。主人公は村田蔵六ですが、吉田松陰も高杉晋作も同列で主人公です。

桂小五郎は松下村塾の塾生ではなかったけれど、吉田松陰とは兄弟のような関係でした。ドラマ内では「先生」と松陰のことを呼んでいます。松陰が安政の大獄で死刑となった後、伊藤博文らとともに遺体を引き取りにいき、回向院に埋葬されます。

これは史実です。ここからはドラマの話です。「花神」においては、そこで桂小五郎は村田蔵六(大村益次郎)に出会います。小塚原処刑場で村田が何をしていたかというと「人体解剖」です。村田が人体解剖をしたのは史実と思われますが、「ここで」村田と桂が会った(初対面ではないが)ことが史実かどうかは、調べていないので分かりません。

ドラマでは、その時の桂小五郎はとても「感傷的な気分」でいたわけです。そして村田との出会いに「運命的なもの」を感じます。村田蔵六は長州の軍制を改革し、倒幕に力を発揮した人です。戊辰戦争の指揮を、西郷に代わって江戸でとりました。明治初年に暗殺されます。

さて、ドラマ。村田を見た桂は「吉田松陰が生まれ変わった」と感じます。松陰は1830年生まれで、村田蔵六は1824年生まれですから、村田の方が年上です。ここでいう生まれ変わりとは「吉田松陰の魂が村田に乗り移った」ということです。

「およそ同じ人類とは思えない村田蔵六と吉田松陰を運命的な絆として桂が結びつけた」とナレーションが入ります。同じ人類とは思えないとは、村田が技術者・科学者であり、松陰が思想家であるということでしょう。

桂は同じ藩の重役である周布に言います。

周布「生まれ変わり?あんたにしては珍しく浮ついたことを言うじゃないか」

桂「馬鹿なことを言っているのは自分でも分かっている。しかし村田が解剖刀を振るっている風景は、いかにも知力が充実し、ゆとりのある自然な胆力生まれていた。あの男の周りの空気の密度が高くなり、一種の神韻、精神の律動があった。」

それが松陰の風景と重なり合うと桂は考えます。そして当時、江戸で既に名高い蘭学者であった村田蔵六(長州の町医者出身)を長州で雇うように主張します。

安政の大獄は、一橋派の弾圧だけを目指したものではありません。問題は「戊午の密勅」でした。朝廷が幕府ではなく水戸藩に直接勅命を伝えたことが問題でした。「大政委任」の原則に背きますし、命令が幕府と朝廷から出たのでは混乱が生じます。それで尊王派が弾圧されました。吉田松陰も処刑されます。もっとも松陰は老中間部を暗殺しようとしていました(あくまで計画を立てただけ)から、全く「罪なしで」はありません。ただ計画段階で藩に知れて捕縛されていましたから、本当の意味で「紙の上の計画」で死刑となったわけです。もっとも具体的な行動として、老中を暗殺するから武器を貸してくれと藩に頼みました。政治家としてはあり得ない行動ですが、それによって自分の「真の心」を見せようとしたのでしょう。

司馬さんは彼独特の見解として(別に司馬史観というほどのものでなく)、明治維新は三段階だったと言っていました。「思想家→革命家→技術者」、思想家が吉田松陰ら、革命家が高杉晋作や坂本龍馬、そして技術者が村田蔵六です。私は子供の頃は科学少年で、科学者のような合理的精神に満ちた人間が好みでした。そのせいで、西郷とか龍馬より、村田が好きだったのだと思います。ただ調べてみると村田も結構熱い人です。

吉田松陰は草莽崛起を主張しました。身分を超えた志士の決起です。これを突き詰めると国民皆兵につながります。その国民皆兵を主張したのが村田らでした。

「鎌倉殿の13人」と「草燃える」・北条義時とは何者か。

2021-04-13 | 鎌倉殿の13人
「鎌倉殿の13人」の主人公は、鎌倉執権北条義時です。執権2代目となりますが、初代とも言えそうな人物です。父は時政です。教科書にも載っているのに、知名度はいま一つでしょう。大河において主人公格で扱われたのは、1979年の「草燃える」が最後です。そもそも源頼朝以後の「実朝時代の鎌倉」は「草燃える」でしか描かれません。「日本史上最大の事件」と思われる「承久の乱」を起こしたのに、いや起こしたからこそ不人気なのかも知れません。

鎌倉御家人というのは、幕府の成立から滅亡まで、ずっと抗争を繰り広げている「感じ」があります。特に頼朝死後はそうです。梶原事件、比企事件、畠山事件、和田合戦、承久の乱、泰時の時代はやや安定、そして宮騒動、宝治合戦、、、と安定期がほとんどありません。そういう荒々しい時代の「執権」ですから、北条義時もとてもお上品な武士とは言えません。お上品ではやっていけない時代です。

むしろ「悪党」の名がふさわしい人です。実際「草燃える」では、悪党として描かれました。もっとも最初はとても純粋な青年で、徐々にどんどん悪くなっていきます。松平健さんです。
彼が悪くなっていくのと反比例して、荒くれたワルだった伊東十郎(義時の友人)が、どんどん善人になって、最後は仏道に目覚め、琵琶法師になって平曲を語ります。この善と悪の「クロス」が非常に印象的でした。

今は総集編を見られます。全5回です。実は「全編が残っている」のですが、家庭用VTRの画像であるため画質が悪いのです。かつて時代劇専門チャンネルで放送されました。録画したのですが、BDRに移したら再生不能になってしまいました。ぜひもう一度放送するか、画質悪いままDVDにしてほしいものです。

さて北条義時。源頼朝死後、御家人同士の「パワーゲーム」、仁義なき戦いに生き残り、執権政治の基礎を築きます。承久の乱では後鳥羽上皇と戦い勝利。3人の上皇を配流。天皇を廃して、新天皇を即位させます。六波羅探題を京において、朝廷を監視するとともに、治安の維持を行います。治安の維持は難しかったようですが。

つまり「本当の意味で武士の世を開いた人」です。ただ上皇と戦っているため、「素晴らしい」とか「立派だ」とか「言いにくい人」なわけです。

三谷さんがどう描くか分かりませんが、「徹底したワル」ではないでしょう。義時の知恵袋は大江広元で、この人は元朝廷の下級役人です。源頼朝のブレーンでもあります。この人は京都出身で、京都が怖いとは思っていません。「上皇、かかってくるなら来い」と思っていたのはこの人で、実際そんな感じで義時を励ましたりします。

この大江広元を「ワル」にして北条義時は「意外と純粋」とできるかどうか。義時のやったことが、全て大江広元の指示ではないので、難しいかも知れません。でも上皇と戦うという局面では、大江広元の指示で、北条政子の熱意に動かされ、となるかも。しかし義時も相当年をとってますから、そんな「かいらい」みたいな感じにはできないかも知れません。

「草燃える」に話を戻します。見た時はまだ子供でした。でもとても印象に残っている義時の言葉があります。こんな感じです。

「今になって、兄貴が考えていたことが分かってきた。あれは源氏の旗揚げではなかった。おれたち坂東武者の旗揚げだった。源氏は借り物。おれたちが主体だったのだ。」

鎌倉、源氏の幕府と言っても、源氏はすぐ絶えてしまうことが、子供心に不思議だったのですが、「源平合戦ではない。平家もしくは京都対坂東武者の戦い」とすれば、すんなりと理解できます。

今は「古い史観」として異論があるのかも知れませんが、坂東武者が主体というのは否定しがたいと思います。「すんなりと理解できる」ことは重要で、あんまり小難しい論理を構築しても、「分かりにくくて、すんなりと理解できない解釈」は、歴史学者の「言葉遊び」とされても「仕方ないのでは」と思います。

桃崎有一郎さん「京都を壊した天皇、護った武士」の感想文

2021-04-13 | 天皇制
「京都学」の本です。もう少し書くと、京都学、歴史学、天皇制学の本です。京都とは何か。日本とは何か。天皇とは何か。天皇制とは何か。日本文化とは何か、の本です。筆者は高千穂大学の教授です。歴史探偵にも出演なさっていました。他の本を読むと分かりますが、もの凄い博識で、中世の礼制と法制の専門家です。

「非常に読みやすい文体で、言いたい放題、目次が細かく目次を見れば内容が予想できる読みやすさ優先の本」なので、筆者の「本当の意図」が見えてこない場合もあるかも知れません。でも私が一番気になったのは、筆者の「動機」です。それは前書きとあとがきにきちんと書かれています。

「封筒を開くと憂鬱になる健康診断書が、根っこでは健康長寿を願う愛情に基づいているように、私も京都愛をそのような形で表明することにした」

これを言い換えるとこうなります。私が考えた言い換えです。
「天皇の行為についての憂鬱な史実の報告が、根っこでは天皇制、日本、日本文化への愛情に基づくと考え、京都愛(日本愛、歴史への愛、日本文化への愛)をこのような形で表現することにした」

そう考えるなら、筆者の異常ともいうべき「後醍醐帝への毒舌」が、どうして語られたかを理解できます。なお「武士が護った」というのは「忘れてくれるな」という「限定的な意味」だが、誤解を恐れず「主張してみた」としています。「わざと主張した」という意味です。これが分からないと筆者の術中にはまります。

「屈折しているなー」が感想です。筆者が「屈折させて」と書いているので、これは批判にはならないと思います。「なるほどね」と思いました。「あの有名な後醍醐帝、後鳥羽上皇は、京都を破壊する行為をしていたんだよ。知ってる?知らないでしょ。知らないなら天皇制や京都や日本文化をもっとまじめに考えようよ。」ということです。

戦国本にも京都愛、天皇制愛に満ち溢れたものはあります。しかしあまりに愛しているために、叙述が詳細になり、ひたすら細かいだけの叙述になってしまうこともしばしばです。そういう本は「こんなに儀式をしていたのだよ」と主張します。しかし大方の歴史学者の反応は冷淡で「凄いよね。でも戦国だよ。量より実効性でしょ。お祈りをして何になるの?武力から京都を守れるの?」で終わりです。私自身、そういう本を読み進めることはできず、さっとななめ読みして終わり、あとは歴史学者の「書評」を見るというのがいつものやり方です。

そういう本と比較すると「屈折した愛情に基づくこの本」は、確かに読ませる本になっています。京都に多少の興味がわいてくることも確かです。ただ私の場合は東京育ちで、京都愛は希薄なため、筆者が語る京都の変遷部分は、どうしても「さっと読み」になってしまいました。そして後醍醐、後鳥羽への「毒舌部分」、三種の神器への「毒舌部分=偽物だ」、明治維新への「毒舌部分」だけが耳に残ります。「毒舌が正確な歴史の叙述、評価になっているか」は、確かめてみたいと思います。確かめるとは他の歴史本と照らし合わせるということです。

京都を考えよう、日本文化を考えようとこの本は言外に主張しています。「日本文化」は面白そうです。ただ京都については、東京なので勘弁というところだし、京都を「そこまで詳しく考えなくても」日本史を考えることは可能だと思います。とにかく筆者が京都愛に満ち溢れて、そのあまりに毒舌になっていることは理解しました。頭がいい人は過剰な部分をみんな持っているようです。上から目線で不快でしょうが、桃崎さんの本は、他の本も含め、この二日ずっと読み込んでいたのです。やっと意図が分かりました。それに免じて許してください。

「青天を衝け」・井伊直弼が結んだ条約は「なぜ違勅なんだろう」という素朴な疑問

2021-04-09 | 青天を衝け
井伊直弼が結んだ条約というのは1858年7月の「日米修好通商条約」です。
「青天を衝け」ではナレーションで「天皇や朝廷の意見に背いた明らかな罪、違勅でした」と表現されました。
そうかな?と思いました。勅許なし、であることは知っています。しかしそれが「違勅」でありしかも「罪」とはどういうことなんだろうと考えこんだわけです。

・そもそも「条約を結んではいけない」という勅命があるのか。あるとしたら1854年の「日米和親条約」はどうして結ばれたのか。
・「天皇や朝廷の意見」なのか。天皇と朝廷の意見は一致していたのか。
・外交における決定権は幕府にあったのか。天皇・朝廷にあったのか。

まず朝廷の様子なのですが、近世の朝廷は「合議制」だったそうです。天皇の意志がストレートに「勅」にはなりませんでした。むしろ関白・太閤の決定権の方が強く、天皇は合議の結果を決裁するという形で意思決定がなされました。ところが時の孝明天皇は26歳ぐらいで、その後の活動を見ても分かる通り、活動的でした。

幕府で、条約の推進に当たったのは老中堀田、それに岩瀬忠震、川路聖謨といった能吏です。堀田たちは朝廷にも説明し、関白九条、太閤鷹司とは承認の方向で話あっていました。この二人が承認の方向なら、朝廷の意見が「承認」となるのは間違いないと思っていたようです。しかし孝明天皇は反対しました。そして攘夷系の公家とも図って、この条約への勅許を拒絶しました。「神州のけがれ」とか「議論不足」いった考えが強かったようです。

条約に勅許が必要という「ルール」は明文法としては存在しません。しかしこの頃の幕府はいわば「挙国一致」を目指していました。条約を結んだ後に朝廷に反対されては具合が悪いわけです。そこで老中堀田は「朝廷の許しを得ておくべき」と考えました。ただし孝明天皇自身は早い段階で条約反対の姿勢を明らかにしていました。しかし九条関白は、それを堀田にきちんと伝えていなかった。もしくは天皇の反対があっても関白の自分が承認なら承認と考えていたようです。(ここはもう少し調べてみます)

「勅許を受けようとしたため」に、反対されて違勅となってしまったとも解釈できます。「勅許」は明治期以降の日本人が考えるものとは当時は違います。井伊直弼も勅許があった方がいいとは考えていましたが、「勅許がないことは重罪」という意識はなかったようです。井伊の考えでは外交のおける決定権はあくまで「大政委任された」幕府にあるというものであったと思われます。ちなみに法制の学者さんによれば、「平安期」の違勅罪は従(ず)肉体労役1年半から二年で、貴族なら「罰金刑」ぐらいのものだったそうです。

井伊直弼はこの時「勅許を待たざる重罪は、甘んじてわれ一人で受ける」と言ったという話が「公用方秘録」という書にあるそうです。しかし学者さんの意見では、これは明治になって井伊家が作った創作です。「公用方秘録」の原本にはないとのことです。(佐々木克、幕末史)

水戸斉昭らは、現実を知っていましたから、条約締結自体に反対ではありませんでしたが、政敵井伊直弼を排斥する意図もあって、ことさらに違勅を強調しました。しかし作戦ミスでした。騒いだことで、逆に「一橋派」の岩瀬や川路が処分されます。そして自分たちも処分されてしまいます。

天皇と攘夷系の公家は、これに怒り、幕政改革の勅書を水戸に送ります。戊午の密勅といいます。「ぼご」です。なんで密勅かというと九条関白を通していないからです。既に書いたように、この問題に関する九条関白と天皇の意志はかなり違ったものでした。しかしこれも水戸の力を過大評価した行動で、「大政委任」の原則に沿わないこの密勅は水戸で「返納」ということにされてしまい、関わった公家、活動家も処分されます。これが「安政の大獄」の原因でした。(勅書返納をめぐり、水戸藩は分裂します。激派と鎮派。激派といわれた集団の一部が水戸を脱出し、桜田門外の変を起こします。なお孝明天皇は亡くなるまで基本は大政委任派です。)

孝明天皇は大老井伊直弼から「説得」を受けます。そして「心中氷解」と述べ、攘夷が実際には難しいことも理解します。しかし攘夷という姿勢はあくまで崩さず「条約破棄の猶予」という形で応じます。「基本的には攘夷だが、やみくもに外国を打ち払うという攘夷は望まない」。孝明天皇は亡くなるまでこの姿勢だったと思われます。

堀田も井伊も、「大政委任」である以上、勅許は必須とは考えておらず、不文律としてもそのようなルールは存在しないと考えていたようです。しかしいわゆる「尊皇攘夷派」は、そのような考えを許しませんでした。流れをみると、老中堀田は朝廷に対してきちんと順序を踏んでいます。岩瀬が締結を急いだのは、アロー号事件に見られるイギリスの脅威への対応からでした。現場の外交官としては現実的な対応だったわけですが、そうした現実を知るものは多くはなかった。もう少し時間があれば、天皇の意志を「攘夷開国」、つまり開国による富国強兵、それをもとにした外交による攘夷に変えられたのではないかと思います。天皇の「心中氷解」という言葉は天皇がこの条約を「やむなし」と考えたことを意味すると思いますが、それは天皇の意志が多少軟化した、現実的になったというだけのことであり、攘夷系の公家やいわゆる尊王攘夷派の工作もあり、実際にこの条約に勅許が下ったのは7年後の1865年11月です。ただし書いてきたように、朝廷の意志は「承諾である」と堀田が感じたのは正しい感覚でしょう。関白や太閤の出した意見が、天皇や攘夷系の一部の公家の意志によって覆るという事態は、当時の朝廷の「あり方、伝統」からみて想定し得なかったと思います。この孝明天皇の活動力、そして一橋慶喜の才気、岩倉具視の智謀、薩摩の実力、長州の熱気、会津の軍事力が幕末動乱期を実に複雑なものにしていきます。

一橋慶喜と桜田門外の変・会沢正志斎と水戸学の分裂

2021-04-06 | 青天を衝け
「青天を衝け」のネタバレを積極的にする気はないのですが、「史実のネタバレ」がありますからご注意ください。もっとも史実と言っても、比較的有名な事柄ばかりで、たいしたもんではありません。少し歴史を知っている方は、読んでも大丈夫だと思います。「天狗党」についても触れます。

「青天を衝け」では今週「茶歌ポン」井伊直弼が大老となって、来週にはもう「桜田門外の変」です。この間、1858年4月から1860年3月。2年です。一橋慶喜が登城禁止になったは、1858年7月です。慶喜が謹慎を解かれるのは1860年の9月です。

水戸学というのは「幕末の思想」です。後期水戸学とも言われます。戦前まで大きな影響力を持っていました。さらにこの後期水戸学は「藤田東湖の水戸学」と「会沢正志斎の水戸学」に分かれます。どっちも戦後「天皇制ファシズムの思想的基盤、危険思想」として否定されましたから、研究はしばらく停滞していたようです。

水戸学というのは「身分制を前提にした秩序安定のための思想」です。天皇がいて、政治を委託された将軍がいる。その下に藩主がいて、それぞれの家臣がいる。その下に町人とか農民がいる。そういう「身分制秩序を守ることで、日本全体が安定する」。身分に応じた道があって、それぞれがそれを守ることで社会全体が安定する。基本的には「幕藩体制の強化」を目的としたものでした。倒幕を目指したものではありません。

しかし藤田東湖は踏み込んだ主張をしました。低い身分の者であっても「天下国家(天皇を主とする日本)に関心を持つべきだ」としたのです。これは明らかに幕藩体制への批判です。渋沢栄一ら「豊かな農民」は「読書階級」であっても「低い身分」です。どんなに修養を積んでも天下国家に参加することはできない。そういう「教養ある農民層や下級武士層」が「藤田東湖の水戸学」に「心酔」したのは、そこに「身分制社会を否定するかの如き」考えがあったからです。

今「身分制社会を否定するが如き」と書きました。水戸学はあくまで「江戸期の身分制社会が生み出した思想」で、そこに純然たる平等思想がないことは当然です。あくまで幕藩体制を守るための思想なのです。だから「如き」となります。「秩序思想」ですから「身分制を根こそぎ否定する」ことはありません。身分制とは、例えば男と女。殿と家臣。武士と農民、下級武士と上級武士というものです。

徳川慶喜は藤田東湖の思想(水戸学)を学んだとされますが、彼は貴族中の貴族ですから、身分制度の堅持は自明の考えでした。実際、彼は天狗党の乱を起こした藤田東湖の息子らを「討伐」し、藤田小四郎は斬首の後さらし首となります。藤田東湖の「身分制社会を否定するが如き」考えには共感することはなかったと思われます。

水戸では「水戸学派の分裂」が起きました。安政の大獄に伴った動きです。藤田東湖の流れは「激派」と言われ、会沢正志斎派は「鎮派」と呼ばれます。過激派と穏健派です。

井伊直弼の水戸斉昭処分等に対し、朝廷は「幕政改革」に関する「勅書」(天皇の意向)を水戸藩に伝えます。孝明天皇自身が主導したようです。しかしこれを受けるか否かで、水戸藩は二つに割れます。朝廷に「送り返す」、返納すべきだというのが「鎮派」の考えです。「激派」は受け取るべきだと主張しました。

この時、水戸の徳川斉昭は会沢正志斎に強く説得され「返納」に同意します。「激派」は鎮圧されることになり、その一部は江戸に脱出します。この「脱出した激派」が起こしたのが「桜田門外の変」です。彼らは本当の意味の脱藩浪人だったのです。水戸では鎮圧される側の人間たちでした。

その後、この「激派」は藤田東湖の息子、藤田小四郎らを中心にして活動します。しかし「いろいろあって」、結局は勅許を仰いだ上で、一橋慶喜によって討伐されました。

水戸学といっても、藤田東湖の流れと、会沢正志斎の流れでは歴然とした差異が存在するようです。