歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

2023年大河ドラマ・「どうする家康」・キャスト予想・2021年2月版

2021-02-23 | どうする家康
松本潤さん以外は「すべて予想」です。

徳川家康・松本潤(決定)

松平広忠 ・徳川家康の父・吹越満 
於大→伝通院・徳川家康の母・常盤貴子
築山殿・家康の正室・中条あやみ
朝日姫・家康の正室・太閤秀吉の妹・芳根京子
お万・結城秀康の母・桜井日奈子
お愛→西郷局・徳川秀忠・松平忠吉の母・松岡茉優
阿茶局・家康の相談役・橋本愛

家康の息子ほか
松平信康・家康の長男・成田凌
結城秀康・家康の次男・岡田健史
徳川秀忠・家康の三男・将軍・窪田正孝
松平忠吉・家康の四男・高杉真宙
松平忠輝・家康の六男・工藤阿須加
千姫・豊臣秀頼の妻・秀忠の娘・浜辺美波
五徳・松平信康の妻・織田信長の娘・飯豊まりえ
お江・徳川秀忠の妻・浅井長政・お市の三女・森七菜

家康の家臣
水野信元・大倉孝二
鳥居元忠・要潤
本多忠勝・藤本隆宏
本多重次・市原隼人
石川数正・浅利陽介
酒井忠次・安田顕
大久保忠世・平岡祐太
榊原康政・満島真之介
井伊直政・柄本佑
平岩親吉・塚本高史
服部半蔵・六角精児
本多正信・滝藤賢一
本多正純・山崎育三郎
大久保長安・野間口徹

織田家
織田信長・松坂桃李
帰蝶・永野芽郁
織田信忠・横浜流星
織田信雄・野村周平
織田信孝・渡辺大知

織田家家臣
明智光秀・神木隆之介
柴田勝家・渡辺いっけい
滝川一益・児嶋一哉
丹羽長秀・矢本悠馬
佐久間信盛・間宮祥太朗
前田利家・磯村勇斗

豊臣家
羽柴秀吉・賀来賢人
北政所・ねね・黒島結菜
豊臣秀頼・林遣都

豊臣家臣
黒田官兵衛・遠藤憲一
黒田長政・永山絢斗

石田三成・向井理
島左近・高良健吾

今川家
今川義元・稲垣吾郎
今川氏真・小池徹平
太原雪斎・佐藤二朗
寿桂尼・仲間由紀恵

大名
武田信玄・吉田鋼太郎
武田勝頼・山田裕貴
上杉謙信・松田龍平
上杉景勝・上杉謙信の養子・おい・志尊淳
細川幽斎・勝村政信
細川忠興・岩田剛典
細川ガラシャ・芦田愛菜
池田輝政・小関裕太

秀頼豊臣家
茶々・淀殿・広瀬すず
片桐且元・谷原章介
真田信繁・真田昌幸次男・真田幸村・中川大志
大野修理・溝端淳平


北条氏政・津田寛治
足利義昭・足利最後の将軍・本郷奏多
真田昌幸・家康を困らす信濃の国衆・ムロツヨシ
真田信之・真田昌幸の長男・北村匠海

天海・松下洸平
金地院崇伝・光石研
西笑承兌・温水洋一
今井宗薫・鈴木浩介

青天を衝け・第2回・「栄一、踊る」・感想

2021-02-21 | 青天を衝け
「麒麟がくる」に比べると、「茶を飲んだから急に毒で人が死ぬ」こともなく、安心して見ていられます。

前半では「お代官様」の不合理が描かれます。不合理なのかな?渋沢栄一の一族は「コメを生産して」いません。基本的には年貢はなかった?のかな。蚕と藍玉でしこたま儲けて、富農階級です。

お代官様からは、100人の人足と、2000両の献金を求められます。2000両。一番安く見積もって8000万円。もしかすると2億円です。それだけの献金を「わかりました」と請け負っています。ただし人足は減らしてと頼んだ渋沢父はお代官様から激怒されます。

官尊民卑への抵抗。これが渋沢栄一のキーワードですが、さっそく登場しました。

一橋慶喜は吉幾三さん12代家慶にかわいがられています。12代がやがて亡くなって、面倒なことになっていきます。それは先の話なのかな。

渋沢さんは15歳ぐらいになります。吉沢亮さんです。「いい男」です。実際の渋沢栄一は若い時から小デブで小さく(150センチ)、お世辞にもいい男ではありません。

でも渋沢がこれだけいい男になれるなら、村田蔵六とか河井継之助とか、一種気合の入ったブ男も、いずれは「いい男になるのかな」と考えました。

いろいろあるものの、富農のお坊ちゃまの青春であって「牧歌的」です。こういうのも悪くないと思います。

渋沢の自伝である「雨夜譚」あまよがたり、を読み始めています。徳川宗家、将軍家分離論など語っています。ただし後年になって語ったものなので、どの程度当時の状況を反映しているのか。

以上。


青天を衝け・第1回・「栄一、目覚める」・感想・子役が女の子かと思ったことなど

2021-02-14 | 青天を衝け
積極的にネタバレさせるつもりはありませんが「これからの史実がネタバレする」ことはあります。

といっても渋沢栄一については「ウィキベテア程度の知識」しかありません。しかもあまりに多くのことをやっているために、「結局何やった人」という部分が少しあいまいになってしまいます。

さて第一回の感想です。
子役の男の子が「女の子」に見えます。声も女の子の声のように感じます。でもクレジットを調べると確かに男です。つまり「かわいい」ということです。うまい演技してました。

前半は「渋沢栄一と徳川慶喜の二人主役」でしょう。明治になってからは渋沢一人だと思います。徳川慶喜の子役はイケメン風の子供です。慶喜の屈折を多少感じさせました。
屈折というのは「誰もかれも俺に期待しやがって。そんなに期待されても困る」という屈折です。12代将軍、家慶というより吉幾三さんも、大層気に入った様子です。
この子は今回は見事「飛ぶ鳥を射落とし」ます。「鳥を殺してはだめでしょ」と「超現代人的な感想」が心に浮かびました。

渋沢栄一はまだ子供です。歴史的人物としては高島秋帆が出てきます。玉木宏さんです。正直「名前を知っている程度」の人物です。調べてみると確かに、栄一たちの岡部藩に罪人として預けられたようです。罪は「ずざんな組合経営」みたいです。どうやら冤罪ぽいので、作中では冤罪とされるでしょう。砲術師範です。

武田耕雲斎が出てきたので「ああ、あれを描くのかな。でも暗いぞ」と思ったり「水戸斉昭はまあこんな感じかな。言葉が多いのだよ。悪く言うと言葉だけだ」と思ったりしています。
そもそも「幕末大河」を最近ほとんど見ていなかったので「幕末大河の見方がよくわからない」と思ったりしています。

徳川慶喜については、渋沢栄一の主君ということで、「よく描かれる」ことは間違いないでしょう。少なくとも「江戸のヒー様」とかいうことにはならないと思います。写実的だと、そう期待しています。会津にやったことはそりゃ酷い仕打ちで、悪い点も多くある人物ですが、いい点も沢山あります。「維新最大の功労者の一人」という評価すらあるのです。とにかく幕末から昭和を描くとなると「そんなに史実からはずれてしまっては」困ります。戦国ならいいけど、近代はだめだというのが個人的見解です。

ここからは作品から完全に離れます。

明治維新、幕末、、、しばらく考えたことなかったなと思います。最後にはまった大河が「翔ぶが如く」で、それ以降はみんな「うーん」という感じです。「龍馬伝」「八重の桜」「花燃ゆ」「西郷どん」、、、たぶん「八重の桜」は良い作品なんでしょう。でも「なんとなく見た」程度です。その他も「なんとなく」です。

司馬さんのファンなのに、坂本龍馬にそれほど魅力を感じない。新選組は血に染まりすぎている。体育会系の土方歳三も苦手。

じゃあ誰が好きかというと長州系で桂小五郎とか村田蔵六です。大河、小説「花神」の影響でしょうね。

明治維新は三段階からなると司馬さんは言っていました。まず「思想家」が現れる、吉田松陰です。それから「革命家」が現れる、高杉晋作、坂本龍馬、西郷隆盛です。そして「技術者」が現れて「仕上げ」を行う。村田蔵六です。もちろん独特の見方であって、歴史学者でこんなことをいう人はいないでしょう。

思想家→革命家→技術者、、、「坂本龍馬が維新の仕掛け人とするならば、仕上げ人は大村益次郎(村田蔵六)」ということになります。

すると「徳川慶喜」「渋沢栄一」はどうなるのか。徳川慶喜は「徳川側の維新の仕上げ人」でしょう。彼が将軍でなければ内戦はもっとずっと長く続いたはずです。そして渋沢栄一は「完成させた人」となるかと思います。明治維新は、徳川を倒す運動ではなく、近代国家を建設する運動でした。しかしそれを担った人はそう考えていなかった。考えていても一部の人であった。村田蔵六はその一部の人の一人です。徳川慶喜にもそれが見えていたと思います。西郷は、、、どうもよく分かりません。

「完成させた人」は多くいます。資本主義の発展(労働者の生成)という面からみると渋沢栄一らでしょう。軍隊となるとたとえば西郷従道(山縣有朋)、政治制度となると伊藤博文ら。そして近代日本語の完成となると夏目漱石らということになります。

でも自信はありません。どうもあまりに「幕末、明治を考えない時間」が長すぎました。

ドラマ「天国と地獄」・綾瀬はるか・高橋一生・少しだけ考察

2021-02-12 | 天国と地獄
ドラマ「天国と地獄」。少しだけ考察してみます。

☆二番目の殺人の犯人は絶対に綾瀬はるか=望月ではない。

これははっきりしていると思います。日曜劇場ですし、そこまで救いようのない物語は展開しないでしょう。綾瀬さんに「何か」があれば成り立ちますが、ただ真面目なだけの、真面目過ぎる警官です。
「いずれ体がもとに戻ったら殺人犯」なんて展開はないでしょう。

するとあの「殴っている動画」は何なのか。「死んでいる人間にやったこと」でしょう。ただそうなると「その時点で死んでいたことを立証できない」わけです。だから全部フェイクという可能性もあります。とにかく「二番目の殺人は望月=日高の犯行ではない」ことは動かしがたいと思います。

☆でも二話でナッツアレルギーを利用して高橋一生の「体」を殺そうとしたではないか。

そうです。説明がつきにくいのですが、まあ日高を犯人にして、自殺してもらうということか。つまり「真犯人をかばっている」ことになります。

☆となれば、今の時点では真犯人は「日高の妹」以外にはない。ことになります。

「麒麟がくる」外伝・本能寺の変からの二週間(年表風)・ふざけてますが史実です

2021-02-11 | 麒麟がくる
1582年  ふざけた書き方していますが史実です

6月2日 月曜日かな?
光秀「本能寺の変成功。安土城に向かう。げっ、瀬田橋が落ちていて通れない。仕方ないから坂本城に戻る。味方になってくれと手紙を書いた。」

6月3日
光秀「家臣を、近江平定のために派遣した。」

6月4日
光秀「近江を平定した。筒井順慶も味方してくれるそうだ。」

秀吉「げっ、本能寺で信長様が死んだ?帰らないと。帰らないと。」

家康「伊賀の山中を通って、岡崎城にやっとついた。死ぬかと思った。少し休んだら京を目指すぞ」(途中で光秀の死を知り、引き返す)

6月5日
光秀「瀬田橋が修理できたんで、やっと安土城に入れた」
斎藤利三「京極高次らが長浜城を落としたので、城に入った」
丹羽長秀・織田信孝「大坂にいる。津田信澄が光秀と内通しているかも知れない。だから殺した。でも兵が逃げちゃった。」
秀吉「中川清秀に信長様は生きていると手紙を送った。あいつ馬鹿じゃないから通じないかな」

6月6日
秀吉「姫路城に着いたどー」
光秀「秀吉も、勝家も、一益もまだまだ帰らないだろう。当面、大坂の丹羽長秀・織田信孝だな。淀城補強しようっと。」

6月7日
光秀「安土城に正親町帝の勅使が来たよ。友達の吉田兼見さんだ。うれしいな」

6月8日
光秀「坂本城に帰ってきたよ」
秀吉「丹後の細川藤孝に連絡をとった」

6月9日
光秀「上洛して金配った。正親町帝と誠仁親王に銀子500枚、五山の寺に100枚。大盤振る舞いじゃー」
光秀「吉田さんと夕食食った。下鳥羽に出陣し、細川藤孝さんに手紙書いた」
秀吉「未明に姫路を出発した。やったるぞー。高山右近が情勢を知らせてきた」
足利義昭「光秀が信長討ったから帰京する。小早川隆景にそう命じた」

6月10日
光秀「筒井順慶がこない。洞ケ峠で出陣を促す。順慶出てこいやー」
秀吉「中川清秀に手紙を書いた。明日には兵庫・西宮に着くよん」

6月11日
光秀「淀城を修復した。戦場はここだろう」
藤田伝五「筒井順慶を説得したが駄目だった。」
秀吉「尼崎に着いた。髪をそり上げた。弔い合戦だ」

6月12日
光秀「土橋重治に出陣をうながした」
秀吉「丹羽長秀や池田恒興と作戦会議だ」

6月13日
光秀「山崎の戦いが始まった。負けそうだ」
織田信孝「秀吉が会いにきた。遅いよ。信長三男だぜ、本当は次男だぜ」
光秀「負けたー。勝龍寺を出て坂本に向かう。ああ、小栗栖で竹やりで刺された」(光秀死す)
足利義昭「光秀が信長を討った。帰京するから協力せよ」

6月14日
秀吉「三井寺に着いたよん」

6月15日
織田信雄「安土城天主が焼けている。つけ火か。なんでだ」
明智左馬助「もはや最期、坂本城で討ち死にだ。ちなみに私は弥平次とか光春とか、秀満とかいろいろ名がある」

6月16日
秀吉「信孝殿と安土城に入る。げっ、天主焼けてるじゃん。そうだ長浜城に行こう。」
斎藤利三「生け捕られた。無念」

6月27日
清須会議が開かれる。

小説風「麒麟がくる」・スピンオフ・「明智十兵衛最後の戦い」・「第三回」「家康という男をどうする?」

2021-02-11 | 麒麟がくる
第一回はここにあります。クリックしてください。
第二回はここにあります。

これまでの話。明智十兵衛は長井十兵衛と名乗って徳川家康に庇護されている。秀吉はそれを知っているが、徳川との良好な関係を優先し、問題としない。そればかりか、光秀は確かに死んだという通達までだして、光秀生存の噂をかき消した。なお「光秀生存以外」は「なるべく史実に近づけよう」とはしていますが、フィクションです。

「家康という男」
天正14年末(1586)、徳川家康は豊臣秀吉に臣従した。徳川家中には反対論もあったが、家康自身はそれを後悔はしていないようである。

十兵衛の見るところ家康はいわゆる英雄とはよほど違っている。英雄になろうという気もないようであった。

「わたしは三河の土豪の出ですからな」と家康は言う。今は三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の一部を有する大大名である。しかし信長の時代、家康は三河の大名で、遠江をやっと死守しているという状態であった。武田の滅亡後、駿河を与えられた。信長が天下で活動した15年間、家康の版図は、信長に比べれてまことに小さい。東の武田の抑えであった。絶えず武田勝頼の攻勢に悩まされていた。それは「長篠の戦い」で、織田徳川軍が勝利した後も同じであった。武田勝頼は旺盛な領土拡張活動を行った。家康がやっと武田から解放されたのは、信長が死んだ天正10年(1582)のことである。
十兵衛が初めて家康と会った時、彼はまだ少年で、織田の人質であった。やがて今川の人質になって、17歳まで駿府で暮らした。桶狭間の戦い(1560)で、信長が今川義元をやぶるや、やっと岡崎の入城して「領主らしく」なった。それから26年がたっている。

「わたしは英雄ではない。その点、十兵衛殿に期待されても困ります。麒麟は呼びたいが、今の版図では太閤には勝てませぬ。そもそも数年前まで私は信長公の家臣同然で、天下人になろうとしたことなどなく、自分がなれると考えたこともない。その気持ちは今も変わりません」
こうした素直さがこの男の美点であると十兵衛は思っている。十兵衛とてそのような重荷を家康に負わそうとは思っていない。それが信長との長い愛憎の時代を経て、十兵衛が得た教訓であった。今始まったばかりの関白の政治に協力しながら、関白の行き過ぎを正していく。それだけでも十分意味はある。
「家康殿にも十分に英雄というべき美点がござります」
「ほう、十兵衛殿だからおべっかは言いますまい。どのような点でありましょう」
「いざとなれば、いつでも身を捨てようという気概がございます。上洛して太閤に会う前、家康殿はそのような気概を示されました」
「ふっ、あのことですか」と家康は言う。

「三河物語」こうある。家康は上洛で秀吉の殺されることも覚悟していた。そうなれば秀吉の母も死ぬが、そういう非情さに秀吉は耐えうる男かも知れない。そうした予測のもと
「われ一人腹を切って、万民を助くべし」と言い放った。自分が死んで、関白との戦争が回避できるならば安いものだというのである。十兵衛はそれを知っていた。
しかし家康は言う。
「どこが英雄でありましょうかな。臆病者の言い草でしょう。それに家中をまとめるには、ああいうしかなかったわけで」
十兵衛はこういう素直な家康を好ましく思った。太閤の政治はまだ見えていない。あの男は信用できないが、天下人となれば、人が変わることもある。協力しながらしばし見守る。それが十兵衛の考えだし、徳川家康も家中のものもそう思っている。
さらに、十兵衛はこの「大人びた」男が、意外にも少年のように感情的だということも知っていた。褒められることではないが、好悪が激しいところがある。先年、石川数正が出奔して太閤のもとに走った。数正は家康にさほど好かれてはいなかった。この大人びた男が、ついつい顔にそれを出してしまうことがあった。わが子にすらそうであった。本来の嫡男は、結城秀康であったが、関白のもとに人質に出してから、いやその前から、家康は明らかにこの子を嫌っていた。そうした家康のマイナス面、好悪の激しさが、家康をして英雄に飛翔させる可能性がある。十兵衛はそう思っていた。大人びているだけでは、あの関白に対向することは無理である。が家康に言うことはない。まさか「好悪が強い」と言えるわけもなかった。
「しかしながら」と十兵衛は考える。あまり無理をしてこの男を英雄に育てる必要はあるまい。思えば、義昭公も、信長公も、自分の期待を実現させようとして、そして道をはずれていったのかも知れない。麒麟がくる世は、自分の理想である。人に実現してもらうことではない。自分は自分の領分で活動する。今は家康に助言をし、補佐するのみである。

「さて、十兵衛殿、わしは今、藤原を名乗っておるが、それを源氏に変えようと思う。関白は怒ると思いますか」
十兵衛は首をひねった。そして何か政治的な意図があるのかと家康に尋ねた。家康は何もない風に
「いや、特別な意図はございません。御存じでしょう。私は源頼朝公を尊敬している。英雄でない私としては、少しでも頼朝公にあやかりたい。それだけでござる。あっ、征夷大将軍への布石かとお尋ねか。いやいや違います。それに源氏でなければ征夷大将軍になれないということもありますまい。鎌倉には宮将軍もおられますからな」
家康は読書家である。十兵衛は言った。
「征夷大将軍への布石ではないのですな。いや布石であったとしても、関白は気にしますまい。征夷大将軍は、われら武士にとっては特別なものですが、関白にとってはいかほどのものでもないらしい。それに官位としてみれば、下から3番目か4番目の官であります。関白ははるか上の官位。気にもしますまい」
家康はうなずきながら笑った。この源氏改姓がなされたのは1年ほど後のことである。

続く。

小説風「麒麟がくる」・スピンオフ・「明智十兵衛最後の戦い」・「第二回」

2021-02-09 | 麒麟がくる
第一回はここにあります。クリックしてください。

第一回からの続き。
天正14年(1586)10月、徳川家康は上洛して一旦豊臣秀吉に臣従の姿勢を見せた。秀吉はこの年「明智と称するもの」が丹波の奥で潜んでいたとして処刑した。それと同時に、天下に対して次のような布告を行った。秀吉は瑞海と名乗り、明智十兵衛が生きていること、家康が匿っていることを知っている。知っていて世間に対して箝口令をひいた。

「この度、明智と称するものが丹波で逆意をあおっていたので処刑した。関白が直々に検分したが明智ではなかった。近頃、明智が生きていると風聞を流すものがいる。許せない所業である。中国大返しの速きをいぶかり、関白が明智と組んで信長公を殺したというものがいる。とんでもない話である。そのような風聞を流すものは誰であろうと、吟味の上、極刑に処す。さらに徳川が明智をかくまっていると噂するものがいる。徳川殿が死を覚悟して伊賀の山中を抜け、帰国したことを知らないのであろうか。朝廷や帝が明智と組んでいたという話に至ってはあきれてものも言えない。本日を持って、明智の「あ」の字も噂することを禁止する。また明智の旧臣や子女についても今後一切罪は問わない。明智が生きているがごとき風聞を流し、関白の偉業を卑しめるものは、きつく処断する。日記や文に書くことも、同罪である。誰であろうと、大臣であろうと、大名であろうと、きつく処分する。」

この後、明智生存の噂は消えた。そもそも十兵衛の顔を見知っている大名は多くはない。この年、秀吉はまだ全国を支配下には置いていないが、秀吉が北条征伐をした時点で考えるなら、上杉も伊達も、北条も、真田も、長曾我部も、毛利も、宇喜多も、島津など九州の大名も、十兵衛の顔は知らない。
むろんかつての織田家臣は十兵衛の顔を知っている。そのうちの大なる者は、細川藤孝、筒井順慶などがいる。しかし細川に十兵衛の名を蒸し返そうなどという気は毛頭ない。この時点、天正14年には順慶は既に死んでいる。柴田勝家も死に、滝川一益も丹羽長秀も病死した。前田利家ら信長近習だった者は豪の者を気取っているが、政治の機微を知っている。太閤に従うことで身を立てた者たちである。関白の意向にあえて逆らう必要がない。一番厄介なのは、織田信雄であったが、本心は分からぬものの、太閤の権威に逆らうことはなかった。やがて淀君となる茶々も、十兵衛と直接会ったことはない。素直に信じた。というより、謀反人の十兵衛が生きている理由を何も思いつかなかった。茶々の妹である「お江」はやがて徳川秀忠の正室となる。本能寺の変が起きた時、彼女はわずか9歳で、織田信長の顔もろくに見たことはなかった。まして十兵衛の顔なぞ知らなかった。本能寺で父や兄、弟が死んだ家族たちには十兵衛への遺恨があった。しかし彼らとても「徳川家の瑞海」に会う手立てはなく、十兵衛が明智だと断定するすべはなかった。それがあったとしても、関白に逆らうほどの力はない。関白としては、この段階において、家康をつなぎとめておくことが最大の政治課題であり、その為には、母親さえ人質に差し出した。十兵衛を「生かしておくこと」など、徳川つなぎとめという政治効果を考えた場合、何の苦にもならない。自分が「麒麟をよぶ」と伝えておく限り、あの律儀な十兵衛は、家康を説得してくれるであろう。秀吉はそう考えていた。自分の晩年、そして死後「明智十兵衛が最後の戦いを仕掛けてくる」ことなぞ、想像もできない。

十兵衛は晴れて「死んだ」ことになった。そうなるともう瑞海と名乗り、僧形でいる必要もない。すぐに俗体に戻り、武士となった。名乗りは長井十兵衛光春とした。この稿では、十兵衛で通すことにする。顔も特に変えない。ただひげだけは少しばかり長く伸ばした。それだけでも面相はずいぶんと変わった。禄高は少ない。しかし家康の参謀であった。
瑞海の弟子たちも武士に戻った。明智左馬助は長井左馬助となった。藤田伝五は斎藤伝五である。斎藤利三は山崎の戦いで戦死した。彼の娘は、やがて徳川家光の乳母となり、「春日局」と呼ばれた。

十兵衛には思想家の体質がある。お駒のいう「麒麟のくる世は」、儒学的立場から書くなら「尭舜(ぎょうしゅん)の世」であった。徳川家内には「殿さんがやること」をいぶかる声もあった。しかしその度に、本多正信、また本多忠勝などの「四天王」が出向いては、説得を行った。「殿さん」は「尭舜(ぎょうしゅん)の世」を目指していると言った。多少本を読むことが好きな家臣は、それでなんとなく納得した。もっと「現実的」な家臣には「秀吉と戦うためには、十兵衛が必要」と説いた。家内の不満は次第に収まった。上記の秀吉の禁令がでてからは、徳川家内でも明智の名を出すものはなくなった。

十兵衛が直接出向いた大名がいる。美濃金山7万石の大名。森忠政である。この天正14年(1586)においては、まだ16歳の少年であった。彼の兄が、森蘭丸であり、そして坊丸、力丸であった。いずれも本能寺の変で戦死した。本能寺の変が起きたころ、森蘭丸は17歳であった。そして森忠政は12歳であった。忠政は後、美作18万石の藩祖となる。森家は100年、美作を統治したが、18世紀の初頭に改易された。十兵衛は家康の使者として森蘭丸の弟と対面した。むろん明智十兵衛とは名乗らない。が、家老から言われたのだろう。うすうす十兵衛の正体を知っている。憎しみを込めた目で十兵衛に接した。十兵衛は目撃者と言って、蘭丸らの最期を語った。十兵衛も直接見たわけでない。兵士に聞いた話である。森の末弟はうっすらと涙を浮かべた。十兵衛は去った。憎しみの目は最後まで変わらなかったが、十兵衛は森一族だけには筋を通しておきたかった。どうした心持であろう。

続く。

小説風「麒麟がくる」・スピンオフ・「明智十兵衛最後の戦い」・「第一回」

2021-02-09 | 麒麟がくる
本能寺の変(天正10年・1582)の後、山崎の戦いで明智十兵衛を破った羽柴藤吉郎は、翌天正11年(1583)4月には賤ケ岳の戦いに勝利して、織田家筆頭家老、柴田勝家を自害に追い込みんだ。が、その後、行動を共にしていた織田家次男、織田信雄は、秀吉の意図に気が付き、袂を分かつ。秀吉と信雄・徳川家康連合軍の間で天正12年(1584)「小牧長久手の戦い」が行われた。家康は戦術レベルの勝利をしたものの、決定的な決着はつかぬまま、講和という形でこの戦いは終了した。織田家の覇権は実質的に消滅し、信雄は秀吉のもと、一大名として織田家の家名を存続させた。北条攻めの後、織田信雄は秀吉によって改易されるが、その後家康に臣従する。結局「織田の血筋」は織田信雄と信長の弟である織田有楽が残すこととなる。

本能寺の変のあと、伊賀を超えて浜松に戻った家康は、兵を起こして尾張まで進出したが、そこで光秀が敗れたことを知り、兵を返した。その後、旧武田領をめぐる戦いに忙殺され、中央の政治を顧みる余裕はなかった。その状況は「小牧長久手の戦い」で、秀吉と講和した後も変わらない。家康が、関東の雄、北条氏政や信濃の国衆、真田昌幸、また上杉景勝などと「対峙」している間に、秀吉は織田家の旧領を瞬く間に支配下においた。そして家康に臣従を求めてきた。秀吉の母、大政所が人質として家康のもとに下ってきた。この状況にあって家康は秀吉に一旦臣従することを決意し、京に上った。

それが天正14年(1586)年10月のことである。家康は秀吉の弟、豊臣秀長の屋敷で歓待を受けた。その夜、わずかな供回りとともに秀吉が家康のもとにやってきた。

「ふっ、秀吉らしい。いかにも秀吉がやりそうなことだ」と家康は思った。明日の対面で何か頼みがあってきたのだろう。が、秀吉は座につくなり、意外なことを言った。
秀吉は言う。
「家康殿、此度の上洛、まことに大儀です。ところでな、近習のうちに、瑞海なる僧がおると聞いた。なにやら徳の高い僧であると聞く。ぜひお会いしてみたいが、いかが」
家康の傍に控える菊丸は、驚いた。しかし表情は変えない。
「はあ、瑞海でござるか」と家康は言った。
「いや聞くところによると、その瑞海なる僧は、興福寺で修業を積んだ後、諸国に遊学。それがの、本能寺の変の1年後には、武蔵の国で亡くなったというのじゃ。その亡くなった僧が、どうやら今でも生きておる。しかもな、なにやら誰ぞに瓜二つという話も聞いた。わしにとっても懐かしい知り合いに似ていると。となれば、ぜひ会ってみたいものですな。」
家康はしばし考えてから口を開いた。
「私は、天下のためを思い、関白様を助けるべく上洛しました。かつて信長公に仕えていた頃の私は、まことに力ない存在であった。もし信長公に家臣を殺せと言われれば、従ったかも知れません。しかし今はいささか多くの領地も有し、北条とも縁組をしておりまする。昔の家康ではない。話は変わりますが、母上様は浜松にておくつろぎいただいております。お忘れなきように。」
「これはこれは、何の話でござろうか。私が家康殿に家臣の成敗を命じる。そんなことがあっては、天下の静謐はたちどころに崩れましょう。」
ここで秀吉はにこりと笑った。そして胡坐をかいた。柔和な口調になって言う。
「家康殿、十兵衛殿のことはよーく知っておるのじゃ。京には草の者が沢山おりましてな。あなたが十兵衛殿と組んで本能寺を起こしたわけでないことも分かっておる。いや、会ってみたいのよ。十兵衛殿に。聞いてみたいこともありますでな。」
家康は心を決した。瑞海、、、十兵衛が殺されることはあるまい。少なくとも今は。そして菊丸に目配せした。菊丸が部屋を出、やがて一人の背の高い男が現れた。
秀吉は、軽く会釈をしたその男を眺めた。眺めているうちに、目からぼうぼうと涙を流し始めた。これには家康、菊丸も驚いた。
「いやいや、十兵衛殿じゃ。明智様じゃ。本当に生きておられたのですね。いや懐かしい。懐かしい」
そう言って泣いている。十兵衛も多少面食らったようである。
「関白様、5年ぶりになりますかな。いや、山崎での采配、見事でござった。この明智十兵衛、大敗でござった」
「そうでござろう。私もよくやったと思うのですよ。中国大返しと名付けて、今でも毎日のように語っておりますわ。思えば、十兵衛殿とは長き付き合い。もっとも十兵衛殿の気持ちが分かっていたのは、帰蝶様と信長様と、そしてこの秀吉かも知れません。そうは思われませんか」
十兵衛はまだ少し戸惑っている。
「さて、関白様に私の心が分かりましょうや」
「分かっておりますとも。お駒殿と私は古い付き合いでしてな。そう、麒麟。十兵衛殿は麒麟を捜しておられるのでしょう」
十兵衛は秀吉ほど軽い口をきく習慣がない。勢い、ここは秀吉の一人語りとなった。
「いや、公方の足利義昭殿にも、細川や駒殿を通じて、帰京をお願いしておるのだが、秀吉には麒麟は呼べぬ。そちには大志がないの一点張りでしてな。わしと瑞海殿が和睦したと聞けば、義昭公の気持ちも少しは和らぎましょう」
「ほう、公方様の帰京を。それは正しい道ですな。しかし関白殿には、幕府を再興するお気持ちも、自らが将軍となるお気持ちもありますまい。いかにして麒麟を呼ぶのです」
「はあ、それですな。いやなかなか苦労が多いのでござるよ。徳川殿さえ協力してくれれば、たちどころに他の諸侯もなびきましょう。しかし家康殿はなかなかに難しい。妹を妻にやっても、母を人質に送っても、なかなかになびいてくださらぬ。聞けば瑞海殿、つまり十兵衛殿が傍に控えていると言う。それで納得したわけです。十兵衛殿がいるのなら分かる。わしは十兵衛殿に嫌われておりましたからな。まあいずれ昔語りでもして、心を開きあいましょうぞ。」
ここで秀吉は家康のほうを向いた。
「家康殿。これはついでの話なんじゃがな。明日の対面、わしは思い切り尊大にふるまいます。家康殿は適当に話を合わせてくだされ。いや天下のためでござる。私の下にいる大名たちは、もとは言えばほとんどが同僚。家康殿が頭を下げてくだされば、すこしはわしを見直すことでしょう。これで失礼いたします。くれぐれも、お願いいたします」
家康は苦笑してうなづいた。秀吉は笑いながら帰っていった。
「相変わらず食えぬお方でありますな」家康は言った。
「関白の言うこと。いささかの理はあります。果たして本心かどうか。本気で麒麟をよぶつもりはあるのか。家康様とともに、しばし関白の政を助け、また関白を叱りつけ、見守っていく必要がありますな」十兵衛はつぶやいた。油断はならぬが、自分を殺すつもりは今はないようだ。
秀吉は屋敷に帰り、「ことの顛末」をいつものように、妻のねねに言ってきかせた。「麒麟がくる世、お前様、それは本心でしょうかな」ねねは首をひねった。
「何、狂言よ。しかし嘘ではないぞ。狂言も本気になって演じれば、やがて真になるものよ」こういう詩心がこの男にはある。
「十兵衛殿は大逆人でありましょう。殺さなければ、お前様まで十兵衛殿と同心と思われるのでは」
「いや、あの頃、多かれ少なかれ、誰もが信長公の死を願っていた。かわいそうなお方じゃった。十兵衛が天下をグルリと回してくれたのよ。あの前田利家さえ、それは分かっておるだろう。十兵衛には使い道がある。あの男の大望は分かっておる。わしが麒麟を呼ぼうとする限り、十兵衛は家康を説得してくれるであろう。あの一本気な性格が変わってなければな。」
「きりん?そういえば麒麟とは何です」
「分からんで話しておったのか。徳のある王が仁政を行うとき、現れるとかいう聖獣じゃ」
「お前様が、徳、仁」ねねは声をあげて笑った。秀吉も笑った。笑いながら、
「何がおかしい。散々逆らった佐々成政も許した。織田家も存続しておる。わしの仁と徳は世に鳴り響いておるわい」と言った。
この年、秀吉は丹波の奥で明智光秀と「称する男」が人々を扇動し、逆意をあおったとして、その男を処刑した。男は人を殺めた罪人であった。秀吉はしばし十兵衛を生かしておこうと決めたらしい。

続く。小説風「麒麟がくる」・スピンオフ・「明智十兵衛最後の戦い」・「第二回」

麒麟がくる・最終回・第四十四話「本能寺の変」・感想

2021-02-07 | 麒麟がくる

1,光秀はどうやって麒麟を呼ぶのか。

信長を殺すこと、で、です。これに尽きます。信長では太平の世は来なかったという考えに基づいています。本能寺の後は、作中ではほとんど描かれません。私はどうやって「光秀が麒麟を呼ぶことにするのだろう」とずっと考え続けていたのですが「信長を殺せば自然とそうなる」ということでしょうか。史実的にもそれなりの整合性はあります。今は信長と秀吉の「連続」より「違い」を見る学説が多いからです。信長では太平の世は来なかった、、、とにかく信長を殺すことが平和への第一歩、、、信長ファンとしては悔しいですが、まったくの荒唐無稽ではありません。

2,帰蝶はどうなるのか。

わかりません。登場しません。岐阜で自決などせず、生きて生きて生き延びてほしいと思います。史実的にはわかりませんが、生きたという傍証はあります。確定した説ではありません。

3,十兵衛は亡くなるのか。天海となるのか。

わかりません。亡くなりはしません。天海にもなったとも明確には分かりません。生きているとも、死んだとも解釈できます。視聴者がどう想像してもいい、という仕組みになっています。

4,信長はどうして本能寺で「嬉しそうに戦う」のか。

信長、生き生きとしていました。相手が十兵衛だからです。また「これでやっと長く眠れる」という思いもあるようです。信長らしい立派な最期でありました。肩に矢がささる、銃で撃たれて、最期を迎える。フロイスの叙述にそっくりです。あまり矢を使わず、基本やり、なぎなたで戦う点もフロイス「日本史」の叙述通りです。

それにしてもノッブ(信長、初めてノッブと書きました)、強い。寝巻なのに、重武装に兵士を滅多斬りです。まったく文句も言わず「わしを焼き尽くせ」。
信長が抱えていた苦悩、自己破壊への憧憬が分かり、信長ファンとしては思わず涙です。実に素晴らしい「本能寺」でした。「国盗り物語」と並びました。
日本ドラマで表現された「すべての本能寺」を見ていると思いますが(実際は少しは抜けている)、高橋英樹版「国盗り物語」と並んで史上もっとも素晴らしい本能寺です。

5,史実との整合性はどうなったか。

それなりに保たれています。でもそういうドラマではないのです。「人間と人間の感情を描く」ドラマであって、史実を描くドラマではないのです。私もその点で間違っていて、「史実じゃない」と文句を沢山書いてきました。

6,黒幕は誰か

いません。が、一番そそのかしたのは「帝」です。でも最後は自信満々に「見守るだけぞ」と宣言します。「さすがバランスのとれた帝、武士なんて手のひらで思うがまま」と捉えるか「ちょっと待ってよ。あんだけ唆したのに」ととるか、それも視聴者次第です。私は後者です。「見守るだけなら、けしかけてはいけない」でしょう。まあでも最後は納得できる正親町帝でした。

7,秀吉に本能寺の変を知らせたのは誰か。

細川藤孝が「予想段階」で知らせています。光秀につかないどころか、秀吉に「準備しろ」と伝えます。秀吉は喜びます。「明智殿やればいい」とも言います。
秀吉も藤孝も、帝も、、、みんな「ずるい大人」なのです。その中で、信長と光秀のみが「大人にならない純粋な永遠のこども」です。
細川藤孝は十兵衛の遺志を継ぐため、生き残った説、見事にはずれました。

8,この作品の評価はどうなるのか。

真っ二つに分かれると思います。すでに「みんなの感想」では「史実を改変しすぎ、ファンタジー大河説」も出ています。私は「よくやった。この終わり方しかなかった」と思っています。「いいところも悪いところもあるが、いいところのほうがずっと多かった」と思います。けなす人がいても「それは自由」です。自分にとってどういう作品か、だけが大切だと思っています。私だって史実との違いはずっと文句を言ってきました。でも終わりよければすべてよしです。史実よりハッピーエンドが今の時代には必要です。幕末近代は歴史の改変は許せませんが、すべては400年前の出来事です。

勝海舟
「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。我にあずからず、我に関せずと存じそうろう。各人へお示しござ候うとも、毛頭、異存これ無くそうろう」。ほめるけなす、は他人のことです。

9、光秀はどうなるのか。

馬に乗って走りっていきます。これは大河「風と雲と虹と」へのオマージュです。「小次郎将門は死なない」とされました。「十兵衛光秀は死なない」がこのドラマの結末です。「風と雲と虹と」では最後に民衆が将門の「駒音、馬の音」だけを聞きます。そして言います。「やっぱり将門様は生きていた」。「麒麟がくる」の場合、最後に光秀の影を見るのは「お駒」です。
どうしてお駒はお駒なのか。「最後に光秀の駒音を見るもの」だからだと思います。私の二日前の予想は、このブログの一つ前にありますが、それだけは「当たり」ました。

個人的には本当に楽しませてもらったし、本能寺の信長は見事だったし、もう文句はありません。あとは時間をかけて、また考察を進めたいと思います。十兵衛光秀は死なないし、「どうする家康」はあるし、麒麟がくるも「さらに深く見ないといけないし」、信長光秀問題は永遠に終わりません。

私は織田信長を許さない・「織田信長論」の「面白さ」と「つまらなさ」

2021-02-07 | 織田信長

現在「軍事も内政も、なんでもできるスーパースター信長」といった「信長論」を展開する人はほとんどいません。それに代わり「室町幕府を尊重し、朝廷を尊重し、天下静謐の大義のもと、戦争状態の終結を目指す、そこそこ常識的な信長」が語られることが多くなっています。

「極端から極端へ」(堀新さん)と言われる現象です。こうした「極端な信長論」は、いずれ10年のうちに、少なくなっていくと思っています。革命児や保守的といった「レッテル貼り」は極めて非生産的です。こうしたレッテル貼りを乗り越えようという意図を宣伝した新著はありますが、いまだ乗り越えているとは思えません。

「天下静謐の信長」が大きく語られるようになったは2014年ごろからです。これは信長研究の泰斗である谷口克広さんの認識です。信長本があまりに多数出てきたことに「驚いた」と書いています。そのもとは2012年の池上裕子さんの「伝記」だと思います。その前から天下静謐を語る学者さんはいましたが、2014年の「現象」のみに限定するなら、この池上さんの信長論の影響が大きいといえるでしょう。

その「伝記」は「私は織田信長を許さない」という「今も信長を許さない人々の存在」から語られます。冒頭でそのような人々の意見に接し「安堵した」と書きます。この池上さんの「伝記」は、「信長の限界」に「強く」注目しながら、その「異端性」(絶対服従を求める。果てしなく分国拡大をしようとする)をも語っており「極端」なのものではありません。しかしこの本のあと、せきを切ったように「革命児信長への不満」が爆発し、極端な信長論が語れるようになりました。それは今も継続中です。昨日読んだある学者さんの新著もそのようなもので、まるで金太郎飴のように「同じ」です。繰り返しますが、池上さんの論述は違います。「信忠が生きていても信長の代わりはできない」「信長の戦争は天下静謐と分国拡大に分けられるが、信長の中ではやがて一つのものになっていく」「結局関所の撤廃をしたほか、内治面ではなにをしたんだ」などスリリングな論点に満ちています。

私は当初、東大の金子拓さんの「信長論」(織田信長天下人の実像、織田信長権力論)を「金太郎飴の一つ」だと思っていました。しかし金子さんは脇田さんの論考を参考にしながら「天」を「朝廷をも含め、天皇も従わねばならないと信長が認識していたもの」と考えており、決して「金太郎飴」ではありません。上記の新著の作者も金子さんを「引用」していますが、その点への言及がないため「劣化コピー」となってしまっています。

信長の「古さ」と「新しさ」をきちんと分ける必要があります。信長は多くの分国を持ちます。その原動力となった「信長の古さ」は何なのか。「信長の新しさ」は何なのかを考えることでしょう。「古さ」もまた勢力拡大には重要です。「古さ」は理解を得やすい。その古さを利用して勢力を拡大した局面もあります。なにより人々の理解を得やすいのが「古さ」です。

他の大名も「古さ」を持っていたし「新しさ」も持っていた。にもかかわらず、信長の分国のみがあれだけ急拡大したのはなぜか。毛利の急拡大をも考えにいれながら.
というのが私の今の関心の中心事項です。

信長論の論点は「例えば」以下のようなものでしょう。

・信長は検地をどう考えていたか。光秀らの検地は信長の意向とは全く違ったものだったのか。そのような「遅れた大名」が多くの分国を得たのはなぜか。
・信長は楽市楽座を「分国全体の政策としては」行わなかった。では楽市楽座とは何か。都市の直轄化など、信長のマネー戦略はどのようなものか。いくら収入があったのか。
・兵農分離とは何か。本当に兵農分離で「強く」なるのか。
・信長の技術改革として語られてきた「長槍」「鉄砲」等をどう再評価するか。特に鉄砲の場合、マネー戦術と濃厚に関わる。堺の直轄化などとも関わる。そこを「公正に評価する」必要がある。
・信長には分国法のようなものがないようにも見える。明智軍法は後世の偽作なのか。偽作ではないとして、どれだけ信長の意向と結びつけることができるのか。分国法すらない「遅れた大名」である織田権力に、なぜ多くの大名は勝てなかったのか。
・幕府や朝廷との関係、ただ「当時の考え方の範囲内で、幕府と朝廷を尊重し」という記述だけでいいのか。
・信長のその後の国家運営につき、中国皇帝を意識したという論者は少なからずいる。そうした論者と対話的に論争しないでいいのか。天下静謐と武威という言葉から「中国皇帝」が飛び出してくるように見えるのはなぜか。

池上裕子さんの「伝記」は実に面白い。また谷口克広さんの深い見識と洞察力も大事だと思います。谷口さんと対話しながらそれでも「違う説になってしまった」というまさに学者の鑑のような金子拓さんの信長論。そして堀新さんの公武結合王権論。加えて朝廷の「強い」主体性を訴える学者さん。

当面は「朝廷、天皇すら天のもとにあると信長が認識していた」という立場から語られる金子拓さんの「天下静謐の信長論」をいかに「創造的に乗り越えるか」だと私は思っています。「私が乗り越えられる」わけはありません。そこはプロの歴史学者に乗り越えてほしいと思っていますし、金子さん自身も「批判を望んいる」という認識を書いておられます。