はなもくブログ

平成元年、仙台に重層的なヒューマンネットワークをと結成された、異業種交流会「仙台はなもく七三会」の活動を紹介します。

東北お遍路(こころのみち)プロジェクト その3

2012-12-17 21:30:22 | 会員の活動
 ○農漁業・観光業など地場産業の再生と創出。

 津波により農業・水産・観光業は大きな打撃を受けたが、世界3大漁場を控える地域の生業(なりわい)、長く変化に富んだ太平洋岸の天然観光資源は無くなりません。
 神社仏閣、道の駅、水産市場、郷土博物館、美術館など地元施設の支援、四国遍路のお接待文化は有名ですが、「巡礼のみち」を地域住民と巡礼者の交流の場としたい。
 語り部などによる被災地域と観光客との親睦、慰霊の為のツーリズム事業の応援もしたい。

 ○自治体の枠を超えた太平洋岸被災地域のネットワークをつくる。

 これから先の防災や福祉のあり方、経済活性化を考えるにあたり被災地域の広いネットワークをつくりの支援。「東北お遍路(こころのみち)プロジェクト」活動と「巡礼のみち」を象徴するシンボルマークを公募、「巡礼のみち」を広くPRしていきたいと思います。

 現在、一般社団法人「東北お遍路プロジェクト」の申請を法務省に対して行っております。

 当法人は、東日本大震被災者の慰霊と鎮魂のために「市民の力によって震災の経験を1000年先まで語り継ぐ活動を行い、それによって地域の活性化を促進し、地域文化を継承していく」を目的に活動を始めて1年、具体的に少しずつ前進してきたと思います。

 ホームページ「東北お遍路」には全国からメッセージが届くようになりました。プロジェクトの社員(会員)も増やしていきたいと思います。これからも応援をよろしくお願いいたします。

東北お遍路(こころのみち)プロジェクト その2

2012-12-17 21:26:09 | 会員の活動
 そして、平成23年9月、青森・岩手・宮城・福島4県の同じ思いの約20人が仙台に集まり意見交換を致しました。ここに「東北お遍路(こころのみち)プロジェクト」がスタート、以後10回以上集まり議論を重ねてまいりました。

 現状を述べてみますと、

 ○「巡礼のみち」を設定する。

 犠牲者鎮魂・慰霊のために太平洋岸津波被災地、福島県いわき市から青森県三沢市まで約450㌔、いつでもどこからでも参加できる直線型で、歩きは勿論交通手段も自由とする。現在、環境省による三陸復興国立公園構想(仮称)、国交省の地域に配慮した高速道路網計画も進んでおります。
 巡礼と云えば八十八か所めぐり循環型四国遍路は有名ですが、巡礼ポイントを設定し日本はもとより世界中からお遍路さんを呼び込みたい。
 平成24年4月には東北お遍路(こころのみち)ホームページを開設、巡礼ポイントの一般公募は継続しており、現在100か所ほどの巡礼ポイント内定いたしております。「巡礼のみち」マップ作製も目指します。

 ○津波の記憶を風化させることなく将来世代へ伝承していく。

 震災伝承研究会による「震災遺構」、阪神淡路大震災のモニュメント、日本ウオーキング協会編「美しい日本の歩きたくなるみち500選」などを参考にして、巡礼ポイントに共通の道標を設ける。震災津波情報の記録展示、語りつぐ地域活動等で震災津波の記憶を1000年先まで何らかの形で継承していくシステムを考えます。

東北お遍路(こころのみち)プロジェクト その1

2012-12-17 21:18:01 | 会員の活動
 当会が関わる「東北お遍路(こころのみち)プロジェクト」。当会幹事の会沢浩平さんが、河北新報11月16日の「持論時論」にこのプロジェクトについて投稿されました。ここで、その元原稿を3回に分けて紹介します。ぜひ賛同、応援をお願いします。

 ここ1年、東日本大震災地を巡る語り部付きバスツアー、マイカーによる観光・見学者が増えています。参加者の多くは旅行を通して被災地・被災者を応援しようとする一般人、大規模災害の想定される地域自治体の行政・防災担当者です。また被災地の多くは水産業・観光業がその地域経済を担っているが、1年半以上経ても震災前の状況には程遠く復興・復旧は予想以上に果たされていません。

 震災直後半年のマスメディアによる真迫の現地映像、全国から集まった各種ボランティア活動は少なくなり、現地状況は「風化」の名のもとに一般の人々の記憶から無くなっていくのもやむを得ないのかもしれません。

 しかし、地域の人たちの声は未だに途切れることはありません。「我々を忘れないでほしい、この地域を思い出してほしい――」「いったいどうなるのでしょうこれから、不安です――」「一部の人は別にして、避難した大勢の人は戻ってきません――」「ここは離れたくは無いが、働く場所はありません――」「物見遊山でもいい、多くの人に来てほしい――」「原発による風評被害は遠く離れたここまであり、産物は売れません――」

 一方、これらの地域の人たちに対して「私は何かしたい」「何か出来る事は無いか」大震災直後から思いつづけていました。一個人では非力でも多くの人が集まり、多様な知恵を出し合い力を合わせれば何かは出来ると考えていた一人です。