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ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

新潟県佐渡市、徳和「戦道騎馬武者の像」です!!

2022-07-15 07:29:37 | ドライブ
 昔々、戦国のころ、佐渡国は独立した国(佐渡国)で、守護の大佛氏の守護代として佐渡に入った本間氏が雑太城(さわたじょう)を本拠地として、雑太本間氏となった。
 以後本間家は島内各所に一族を置き勢力を固める。羽茂・河原田・沢根・久知・潟上・新穂の本間氏と呼ばれる郷地頭である。
 その後本間惣領家の雑太本間氏の力が弱まったことから、北の河原田と南の羽茂が台頭、内紛が激しくなっていた。
 そんな本間格家は、越後を治めていた上杉景勝に従おうとせずにいた。越後の平定が終わった上杉軍が佐渡に攻めて来ます。
 出雲崎より300艘余りの舟を仕立てて佐渡へ押し寄せた。軍奉行を務めた直江山城守兼続は戦いを避け降伏するよう各地の本間一族に通達した。その結果沢根城主本間左馬之助の協力が得られ、景勝自ら千余艘の舟を率いた佐渡へ、沢根に上陸して河原田城を攻めた。激戦が繰り広げられたが、城は落ち城主本間佐渡守高統は自刃した。
 次いで、抵抗を続ける羽茂城へ向かったて攻めた、羽茂城主本間高茂は、弟の赤泊城主高頼ら家臣とともに城を脱出し、船で逃亡を図ったが、越後で捕縛され、佐渡へ送られ国府川で処刑され、四百年に及ぶ佐渡での羽茂本間家は滅んだ。

では、
 徳和地区は、佐渡市役所の南約28kmのところ

 下羽茂から県道65号線を赤泊方面へ

 坂道を上りきると徳和地区です、 


駐車場に佐渡の地図です、左下の方山の中です


道路右手に大きな騎馬武者像があります


左の騎馬武者は、羽茂勢の本間三河守高頼です

右の騎馬武者は、越後勢の黒鉄安芸守尚信です



説明版です
  戦道騎馬武者の像
 今から四百年余り前の戦国時代末期、天正17年(1589)6月、越後守護春日山城主上杉景勝の軍が佐渡へ攻めてくるという大事件があった。
 それに先立つ数年前まで、上杉謙信は川中島で甲斐の武田信玄と戦をくり返していた。しかし急逝すると、その養子景勝と景虎の間で跡目相続の争い、つまり「御館の乱」が起きた。
 両軍の誘いに加勢せず、事のなりゆきを傍観していた佐渡は、結局勝ち残った景勝に成敗されることとなる。
 当時、河原田と羽茂は、佐渡の二大勢力だった。前者は領内に鶴子銀山を有し、後者は西三河砂金山を支配していたので裕福だった。
 沢根から上陸した上杉軍は、まず河原田城を落とし、羽茂に向かった。羽茂城主本間高貞の義弟で出城でもあった三川の腰細城主本間三河守高頼は、羽茂に援軍を送るべく出立した。しかし、これをいち早く予知した上杉勢は、黒鉄安芸守尚信の率いる一軍を川茂街道に回して、行く手を阻止した。そのためこの街道が戦場となり、後に戦道(たたかいどう)と呼ばれるようになった。
 多勢に無勢、百戦錬磨の越後勢を相手にして勝てる見込みはなかった。武士の義を尊ぶ三河守は妻子に離縁状を渡し、討ちてし止まんの決意で、槍を手挟んで鞍に跨った。
 その時、敵軍の中より進み出た一騎、刀を抜いた安芸守は、馬上より名乗りを上げた。これに応えて三河守が名乗ると、両軍は鐙を蹴って刃を合わせた。かくて合戦の火蓋は切って落とされた。時に6月15日巳の刻。空は日本晴れだったという。
 向かって右側、刀をかざしている方が黒鉄安芸守尚信。左側、槍を手挟んだ方が本間三河守高頼。
    平成8年3月  佐渡市


石田英雄顕彰碑です、佐渡郡町村会長を務め、一島一市の実現に尽力した人だそうです

では、次へ行きましょう
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新潟県佐渡市、下加茂「日本一大きな杉の切り株・太郎杉遺株」です!!

2022-07-14 18:26:26 | 遺跡・史跡
 下川茂地区は、佐渡市役所の南約13kmのところ

 真野から県道65号線を南へ、急な登り下りにカーブが多く走りにくい道路です道路です

 山を抜けて、一度下りきると県道81号佐渡縦貫線の交差点の丁字路になります

 県道65号線は赤泊港・県道81号線は羽茂本郷の標識が手前にあります

 県道81号線を右へ進むと約700mで左へ、羽茂川を渡って森の中へ入っていきます


 五社神社の手前を左へ入ります

 しばらく進むと「太郎杉公園」の案内表示が出てきます

道なりに進むと、「太郎杉公園」です、広い駐車場があります


広い道路を歩いて進みます

苔に覆われています、歩かれていないようです

建物が見えて来ました

まず一階へ行ってみました

ドアに鍵が掛かっていますが、窓から中を覗くことができ、大きな切り株が有ります


二階への石段を登って・・・

太郎杉の館です、二階のドアから中に入ることができました


一階に大きな切り株が有ります

かなり腐朽が進んでいます

かつての切り株の写真です

説明版です
  太郎杉切り株
 太郎杉は江戸時代末期に伐採されたと伝えられ、次のような民話が語り継がれている。
 「太郎山」に聳える太郎杉は子守をしていた地元の娘に恋をし、若者の姿となって娘と逢瀬を重ねていた。
 殿様の命令で切られることとなった前夜、太郎杉は「俺は切られてもその場を動かんが、お前が来れば動く。それで貰える褒美で暮らせ。お前は俺の子共を何万と宿している。山で用をたすと種が出て、杉の木が生えて杉山になる」と娘に言い別れた。
 太郎杉は切られたが、人々がどんなに頑張っても動かず、人々は娘に助けを求めた。太郎杉は娘の声にあわせて運ばれ、海を越えていった。その後川茂には太郎杉の子が広がり、杉の産地として栄えた。
 太郎杉は大き過ぎて佐渡の樵では手が出ず、能登から来た樵によって伐採された。並みの長鋸では短く、地元の鍛冶屋が継ぎ合わせて一本とした。幹に遮られて相手が見えず、間に合図をする者がいて調子を合わせた。伐採には半年の月日がかかった。切り株に莚八枚を敷き、樵13人が輪になり酒盛りをした等、大きな杉であったことが語り伝えられている。
 太郎杉株の大きさ
  長径 3間(5,4m)
  短径 2間(3.6m)
  幹周 8間(14.5m)
  推定樹齢2000年以上
  (1935年、川茂大杉山・太郎杉切株踏査書より)
 太郎杉は川茂杉と呼ばれる、萌芽力・生命力の強い品種で、麓の五社神社には現存する最大の川茂杉(幹周5.2m、樹高30m)が神木として残っている。
 この展望台により切り株を保存し、赤泊村が大杉の産地であったことを長く伝える。
     赤泊村

南側から

東側から

西側の森を見ました

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新潟県佐渡市、下川茂「五所神社の大杉」(市指定)です!!

2022-07-14 06:31:06 | 巨樹・大木
 小佐渡山地は、大佐渡産地と大きさ(東西南北)はほぼ同じですが、標高が平均300m低い

 北から大隈山(604m)、国見山(630m)、大地山(646m)、東境山(601m)などが北半分に並びます

 山地内を県道が6本縦横に走っています北から県道310号専、県道181号線が高い山地を横断しています

 また県道81号線は、山地南部を国中平野から羽茂へ佐渡縦貫線です

 さらに南には県道65号線が小佐渡山地を横断していて、県道432号線と県道287号線は国道350号線と県道65号線をつないでいます。

 では、
 
 下川茂地区は、佐渡市役所の南約13kmのところ

 真野から県道65号線を南へ、急な登り下りにカーブが多く走りにくい道路です道路です

 山を抜けて、一度下りきると県道81号佐渡縦貫線の交差点の丁字路になります

 県道65号線は赤泊港・県道81号線は羽茂本郷の標識が手前にあります

 県道81号線を右へ進むと約700mで左手に五所神社が北北西向き参道で鎮座します

 参道入口の県道脇に車を止めさせていただきました


参道入口です


 五所神社です

 文化財・天然記念物評柱です

説明版です
  五所神社
由緒
 天平9(西暦737)年加賀国金沢の住人神鏡5面を奉じて此の地に来て宮山に祠宇を建立し五社大権現と崇め祀る。
 文治(1185~90年)の洪水で社殿大破し現地に奉還し五社大明神と改稱する。
 天正4(1567)年社殿炎上し古記録悉く烏有に帰す、幸いにも火炎を免れた神鏡裏面の彫刻等により僅かに其の一端を知る。
祭神
 天照皇大神・天忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・鵜萱葺不合尊
合祀
 越敷神社   明治5年
 熊野神社   明治40年
 諏訪神社   同
 新屋皇大神宮 同
祭日
 例祭   4月3日
 祈年祭  2月6日
  午後3時御田植神事式
   県無形文化財指定 昭和45年
   文化庁選択指定  昭和51年
 新嘗祭 11月16日
 元旦祭  1月 1日
境内神社 菅原神社 祭神菅原道真公
御神木 大杉    市指定文化財



特殊神事の説明版です
   県指定文化財(無形民俗文化財)
  五社神社の御田植神事 (昭和45年4月17日指定)
 神前で田植の所作を演じ、五穀豊穣などを祈願する神事です。
 毎年2月6日に五所神社社殿で執り行われ、当日境内は女人禁制のしきたりがありました。
 この神事は、苗取式・朝飯式・田打式・昼飯式・大足式・田植式・夕飯式の7つの儀式に分かれ、代々世襲の宮方7人によって執行されます。成立時期は不明ですが、延宝2年(1674)の棟札に「宮方七人」と記されており、この頃すでに行われていたと考えられています。
    平成25年3月
    佐渡市教育委員会


 赤い橋で羽茂川を渡る参道になっています、橋の上から目的の大杉を見ました

 *文治年間に洪水になったのはこの羽茂川です、現在は上流に外山ダムなどが出来て、洪水の危険を減らしています。


佐渡百選です

説明版です
  市指定文化財(天然記念物)
   五所神社の大杉(平成16年3月1日指定)
 五所神社の御神木として親しまれている天然杉で、樹高約30m、目通り幹周5.21mに及び、樹齢800年以上と推定されています。
 下川茂地区は、両津の羽黒に並ぶ杉の名産地で、材質の良さに定評のある自生の杉は「川茂杉」と呼ばれています。
 江戸時代には用材の供給地として杉御林が管理され、禁裏(皇居)造営用材にも伐り出されていましたが、明治以降、大部分が成長の早い島外産の杉に植え替えられました。
 自生の川茂杉が少なくなった現在、当地の杉はそのレリック(遺存種)として貴重です。
    平成25年3月
    佐渡市教育委員会

手水舎です、子安石が水盤にもなています、女性を表していることが分かりますね


男石です、確かに男根の雰囲気です



狛犬です、佐渡独特の雰囲気です


後ろ姿が可愛いですね

東側から

南側から

西側から

北西側から見上げました


川沿いに鳥居の礎石です

鳥居です

参道石段を登ります

参道石段を振り返るました、大杉は参道の木々に隠れています

拝殿です

本殿覆い屋です

境内の様子です

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新潟県佐渡市、吉岡「佐渡二ノ宮・大目神社のスダジイ」です!!

2022-07-13 18:34:49 | 巨樹・大木
 平安時代に編纂された「延喜式神名帳」には佐渡国で9社が記載されています

 各国に派遣された国司は、一ノ宮・二ノ宮・三ノ宮と参拝します

 佐渡国一ノ宮は、羽茂飯岡にある度津神社(わたつじんじゃ)

 二ノ宮は、吉岡の大目神社(おおめじんじゃ)

 三ノ宮は、金丸の引田部神社(ひきたべじんじゃ)です

 今回は二ノ宮です

 吉岡地区は、佐渡市役所の南南西約7kmのところ

 国道350号線から県道65号線へ、真野御陵入り口を過ぎた次の沢を左へ

 坂道を登った集落で右へ入ります、南側の山裾の住宅の左に鳥居が見えます

 参道前を通って急な坂道を登った境内に車を止める事が出来ました

参道です

大目神社です

鳥居です

佐渡百選です

説明版です
   大目神社
 延喜式内社、佐渡国九社の一つ二の宮ともいう。
 祭神は大宮売神(オオミヤメノカミ)とされている。
 和名抄にみえる「大目郷」の神であろう。背後の大目林は神体山である。
 「佐渡志」に「徳治2年(1307)7月、吉岡地頭本間遠江守この社を修理せし時の棟札は今も残れり」とある。
   佐渡市教育委員会


参道石段を上がってきました、正面に拝殿です

本殿覆い屋です


右手に水盤です

境内右手に目的のスダジイです

東側から、目通り幹囲5.0mの巨木です


拝殿脇(南側)から

西側から見上げました

北北西側から

境内東端から


境内の南側の山は神体山です

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新潟県佐渡市、真野「石抱の梅」(市指定)と「真野御陵」です!!

2022-07-13 06:42:05 | 文化財・寺社
 真野地区は、佐渡市役所南南西約8kmのところのところ

 国道350号線を南へ、真野新町地区を過ぎて真野川の手前を左(南東)へ県道65号線です

 案内板に従って県道304号線へ

 観光施設の「佐渡歴史伝承館」の東側の坂道を登った集落内に

 佐渡市天然記念物の「石抱きの梅」が有ります

 真野湾沿いの国道350号線を南へ進みます

 国道350号線の真野御陵入口信号を左(南東)へ入ります


坂道を登って来ました、入り口まえの道路脇に車を止めさせていただきました

岩抱の梅への参道です、奥に梅の木が見えました

石抱の梅です

石碑です

説明版です
  市指定 天然記念物
   石抱の梅 
 順徳天皇の御手植えと伝えられ、木の根元に大石を抱いていることからこの名が付けられた。
 樹齢750年余とも伝えられる古樹ではあるが、毎年3月中頃には、美しい薄紅色の花が咲き香り、春の到来を告げてくれる。
 この地は上皇遷幸のときの駕與丁の子孫、式部長吉の屋敷跡と伝えられる。
   平成16年3月1日指定
   佐渡市教育委員会


南東側から

東側から

北東側から

北西側から


南西側から

では、次は真野御陵です、「石抱の梅」から400mほど集落の中を登ってきました


駐車場脇の地域の説明図です

少し歩きます

真野御陵は玉垣で囲われています

中部北陸自然歩道の説明版です
   順徳天皇御火葬塚
 承久の変(1221年)で佐渡へ御遷幸の順徳帝は、在島22年仁治3年(1241年)9月46歳で島の行在所で崩御された。この真野山で御火葬、御遺骨は翼寛元元年(1242年)4月従臣藤原康光によって都に帰られ、大原の後鳥羽帝の墓所の傍らに埋葬された。
 この御火葬所の地は従来「真野御陵」と称されてきたが、明治22年6月京都京都大原墓所が陵に定められると、ここは「御火葬塚」となるが御陵と同じ取り扱いをされ宮内庁で管理。
 戦国内乱期に境内は大いに荒廃したが、江戸時代延宝6年(1678年)国分寺と末寺(御陵別当)真輪寺の僧の修復願出により、時の佐渡奉行曽根五郎兵衛は幕府の許可を得、翌年には方五十間の現境域を復旧した。外部の石垣は明治8年相川県参事鈴木重嶺の修復になる。
    環境省・新潟県

道標です

石碑です

これも道標です

火葬塚参道です

手水です

境内では職員の方が清掃作業をされていました


境内入り口から真野の街を見ました


開店前のお土産屋さんには、佐渡の赤玉石です

*佐渡の赤玉石は、両津の赤玉地区で産出されたもので、鉄分と石英が高熱と高圧で結合した石で、非常に硬く磨くと透明感のある光沢が出るものです。神戸の本御影石・鳥取の佐治川石と並んで日本三大銘石だそうです。

では、次へ行きましょう




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新潟県佐渡市、長谷「長谷寺の三本杉」(県指定)長谷寺後編です!!

2022-07-12 18:31:00 | 巨樹・大木
 長谷寺第三駐車場のうさぎ観音から参道へ戻って来ました

 
参道石段を進みます

左には、泉慶寺です

本堂側の鍾堂です、こちらも国登録有形文化財に指定されている建造物です

観音堂前左手に大きな幹が見えて来ました

石段の先正面に観音堂です

説明版です
  観音堂(国登録有形文化財)
 観音堂(大悲殿)は、「寺永境内案内帳」によれば、正長元年(1428~1431年・室町前期)6月に再建とあり、智円和尚の代である。
 現在の観音堂は、第20世の浄宥法印代、元禄4年(1691年・江戸前期)に改修された。
 永享6年(1434年・室町中期)に世阿弥が当寺の観音を懇ろに礼拝したと金島書に書き残している。

三本杉の手前の2本です


観音堂前から手前の2本と

奥の1本です

観音堂西端から奥の1本です

説明版です
  三本杉
 古くから「長谷の三本杉」と呼ばれ、多くの人々に親しまれてきた、三本杉はいずれも樹高約50m、目通の周囲手前6.5m、中央6.2m、奥6.4mの大樹である。
 樹齢は1000年以上(推定)とされ、現在でも樹勢は旺盛である。
 県指定天然記念物

観音堂前東端からようやく三本を写真に撮ることができました

観音堂西側から見ると左端が入りません

説明版です
  世阿弥と長谷寺
 しぐるるや 世阿弥の超えし 峠道
    山本修之助
 室町時代の有名な能作者であり能役者でもあった観世元清(世阿弥)は、永享6年(1434年)72歳の時、佐渡に配流された。
 上陸した場所は大田の浦(多田港)で、当日は大田に一泊、翌日笠取峠を通って配流先の新穂に向かった。この途中長谷寺に立ち寄って長谷観音を参詣したが、その折のことを世阿弥の書いた古謡曲集「全島書」の中に、「山路を下れば長谷と申して観音の霊地渡らせ給ふ、故郷にも聞こえし名佛にてわたらせ給へばねんごろに礼拝して・・・」と下記のこしている。
 このあと世阿弥は、無事国仲平野に出て、配流先の新保万福に辿りつくのである。
     ふるさと再発見委員会
         

観音堂の西側には加持水です

説明版です
  観音加持香水縁起
  寛永年間、時の佐渡奉行竹村九郎右衛門は、一国巡視、当寺参詣の際、本尊十一面観世音の開扉を強要せしが、住職は本尊は古来より秘仏として保管され三十三年毎に、開扉する事を慣例として居り、奉行の要請には応じかねる旨を、答えし処、奉行は大いに怒り厨子の錠を自ら取り壇上に登って、まさに開扉せんとし時、突然両眼視力を失い仏前に顛倒せり、奉行今更の如く仏罰のおそろしさを知り心から己の非行を懺悔し傲慢の罪を謝し、罪章消滅の為、以後百日間塩気を断ち、二十一日間参籠し観音加持水にて洗眼せし処、満願の日の失明の眼病快癒せり。
 竹村奉行大いに歓喜し、報恩謝特の為、供養料として田地及び山林を寄進し観音信者として誠をつくせり。以来一般民衆の信仰も篤く初春若水取り又は難病平癒祈願特に眼の仏様として御利益を受ける信者多し。
     長谷寺





沢山の石仏が並びます、一番大きいのが大地蔵です

さらに西へ石段を上がって三本杉を見ましたが良く分かりませんね

武村奉行墓の五輪塔です 

もう一段上に五智堂です

東側から見ました

説明版です
  五智堂(県指定)
 五智堂は、貞享4年(1687年)深海法印によって建立され、堂内には五智仏「弥陀(西)、釈迦(北)、大日(中央)、薬師(東)、宝生(南)の(金剛界)五仏が安置されている。
 この多宝塔は内陣が、円形平面をもつ大塔形式で全国的にも数少ない貴重な建物である。
 斗供の形式や木割が古風である反面、外陣天井に放射状の矢羽根文を大胆に用いている。


五智堂の東側には五輪塔が並びます、この奥には「長谷の生仏」深海和上の墓があるそうです


墓地の中には家形墓石が並んでいます


シラカシの大木です

もう一段先に奥の院が見えて来ました

奥の院です

説明版です
  奥の院(登録有形文化財)
 弘法大師(774~835)を勧請す
 御在の建物は元享年間(鎌倉後期)秀慶和尚の代に再建された。
  弘法大師(空海)
 平安初期の僧(774奈良~835平安前期)で、わが国真言宗の開祖。
 懽頂号は遍照金剛。延暦23年(804平安前期)唐の長安に学び大同1年(806)帰朝。
 弘仁7年(816)高野山に金剛峰寺創建。天長5年(828)京都に総芸種智院を設立。
 詩文に長じ、また、三筆の人。


奥の院の周りにも石仏が並びます

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新潟県佐渡市、長谷「長谷寺のコウヤマキ」(県指定)長谷寺前編です!!

2022-07-12 06:24:40 | 巨樹・大木
 長谷寺は「花の御寺」として有名なボタンの名所ですが、「うさぎ寺」として最近とみに有名です

 しかし、訪問時には「白うさぎ」が一頭だけになっています。

 昨年春に、多頭飼育(10頭以上を飼育する場合の第二種動物取扱業者の届け出)が問題になり、数を減らすことになったようです

 一時期は、数えきれないほどの「うさぎ除草部隊」が境内で除草作業に取り組んでいたとか、残念ですが「飼育崩壊」として保健所の指導に従うほかなかったようです。

 (うさぎは、雄と雌を一緒にしてはいけません「子孫繁栄のシンボル」ですからね~

 では、

 長谷地区は、佐渡市役所の南東約7kmのところ

 県道181号多田皆川金井線を東へ、地持院川を渡ると間もなく右(南)へ県道181号線をそのまま道なりに進みます

 小佐渡山地の山裾に入っていきます、ゆるく坂道を登っていくと長谷寺の案内板が有ります

 左に入って、長谷寺仁王門の前を通って第二駐車場に入りました


 県道から左に入ります

 三つのお寺があるようです

 手前は遍照院の参道です

 参道の上には山門が見えていますが、長谷寺の仁王門へ行きます


 参道入り口の山門は仁王門です

 真言宗 豊山派 長谷寺(ちょうこくじ)です(奈良桜井市の総本山と同じです)

 左に阿形像です

 右に吽形像です

説明版です
  仁王門(国登録有形文化財)
 仁王門は享保年間(1716年~1735年江戸中期)に建立された。
  仁王像(県指定文化財)
 阿形・吽形の二体の金剛力士像の製作年代は、平安後期の彫像製作にしばしば用いられた一木割矧造の技法に通じる点などから平安後期に遡ると考えられる。
 金剛力士像は、鎌倉時代以降の遺品が圧倒的に多く、平安時代に遡るものは、京都醍醐寺の像など、極めて少ないことから甚だ貴重なものである。

 仁王像の県指定文化財標柱です


説明版です
  長谷寺の歴史
 当山は今から1200年前の大同2年に弘法大師の創 なり。と「古伝縁起」に記されております。
 本尊十一面観音立像三躯は、太師の御作と伝えられ、明治39年4月国宝に指定されました。また本尊は古来から秘仏のまま常に御厨子の中におさめられ、三十三年毎に一回の御開扉法会を慣例としてきました。
 当山の寺号は、一説によれば、承久年間〔1219年~1222年)順徳上皇御還幸の際、地形が大和の長谷に似ている
ことから「里を長谷と称し、山号を豊山、寺号を長谷寺と称せり。」と佐渡誌に見えております。
 大悲殿(観音堂)は、正長年間第八世智円和尚が再建し現在の建物は、元禄4年(1691年、約300年前)に改修されたものです。
 天正17年(1589年)上杉謙信の嗣子景勝が佐渡国攻略の際、家老直江山城守兼続は、当寺の再興に尽くし、文禄4年当国支配役鳥羽備前守に令を下し寺領を兵火の災いから保護するためにつとめられました。永享年間(1431年)佐渡に流された観世元清(世阿弥)は、その「道の記」に「山道を下れば長谷と申す観音の霊地にわたらせ給い、故郷にも聞こえし名仏なれば懇に礼拝し」と記されています。
   長谷寺

 境内案内図です
  

 参道石段です

 参道左上の御堂は聖天堂です

 説明版です
   義僧 憲盛法印
 当山先師憲盛法印は、名を智専と云い真野町に生まれ17才の時、修業の為京都に上り勉学に励み学んだあと当寺の住職となる。
 明和3年佐渡では、農作物の大凶作に見舞れ重税に苦しむ国仲53ヶ村の農民は、年貢米の軽減と時の代官所へ願い出るも、聴き入れられず、此の時智専は途方にくれる農民の窮状見るに忍びず、此の請願を一身に引き受け、奉行所直訴の決心をしたのであるが、その頃早くも役人の知るところとなる。一部同志と共に捕縛の身となる。
 獄中3年拷問を受け、乍ら常に釈迦の救世捨身を信条として一切の責は愚僧にありと、同志農民を庇い通し遂に明和7年3月21日斬首の刑を受けたのであるが、刑場にあっても智専は泰然自若として般若心経を朗誦したと伝えられ、此の大慈悲心によって悪政漸く改り、同志農民も延納も許されたのである。
 智専没後憲盛法印と贈名され、国仲53ヶ村の村毎に石碑を打ち建て永くその仏徳を讃し、今なお信仰が絶えません。
   平成3年4月
   無量山遍照院


 更に西側には遍照院本堂です


 参道に戻りました、御不動様ですね

 参道右手に本堂入り口です

 入り口脇には手水です

 参道石段から、目的のコウヤマキです


 北西側から、本堂側に立っています

 本堂です


 コウヤマキは本堂側の参道との間です

 南東側から、目通り幹囲5.5mの巨木です


 本堂前(東側)から

 本堂脇(北東側)から




 本堂前では除草部隊解散後、白うさぎ一人(頭)で除草作業にあたっていました、写真を撮ろうとしたら石の影に隠れてしまいました

 うさぎ観音は第三駐車場、庫裏の東側です

 うさぎ観音は大きな方は高さ6m、夜になると目が赤く光るようです

 東側には、コロナ撲滅祈願犬 名犬コロの像です

 長くなりそうなので、次「三本杉」へまわします
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新潟県佐渡市、新穂大野「新穂大野の大イチョウ」です!!

2022-07-11 20:16:12 | 巨樹・大木
  新穂大野地区は、佐渡市役所の東約7kmのところ

 県道181号線から県道237号線へ東へ進み日吉神社前信号を右(南)へ県道65号線です

 ドラッグストアとホームセンターの先に大野ダムへの標識がありますので左(東)へ

 道なりに進んで、やがて大野川に沿うようになって上って行きます


  大きな右カーブに文化財標柱です清水寺の駐車場に車を止めておいたままに大イチョウへ向かいました

 道路左側の農家の奥に大きな樹冠が見えました

  すぐ先の道路右手に案内板です

 この細い通路を入ることが出来そうです

 行ってみましょう

 通路を進みます

 西側から

 太い幹を見上げました

 説明版です
  市指定文化財(天然記念物)
  新穂大野の大いちょう (平成16年3月1日指定)
 樹齢約1000年と推定され、地元では古くから「清水寺の大銀杏」と呼び親しまれてきました。
 樹高29.5m、根元幹周16.7m、胸高幹周8.2m、枝張りは東西、南北とも約19mを計測しています。
 イチョウは雌雄異株の樹木で、この木は雄ですが、イチョウの別名「乳の木」の名のとおり、幹には豊満な乳房根がいくつも垂れ下がっています。
 樹勢は今なお旺盛で、新緑の季節には大量の若葉が芽生え、夏には陽光を浴びて葉が生い茂り、晩秋には何千何万の黄金葉が舞い散ります。
   平成24年10月
   佐渡市教育委員会


 南東側から

 東側から見ました、北側は住宅の庭なので入り込まないようにしました


東側の田圃の畦から見ました

では、次へ行きましょう


 帰り際に南側道路から見ました

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新潟県佐渡市、新穂大野「清水寺のコウヤマキ」です!!

2022-07-11 06:27:54 | 巨樹・大木
 新穂大野地区は、佐渡市役所の東約7kmのところ

 県道181号線から県道237号線へ東へ進み日吉神社前信号を右(南)へ県道65号線です

 ドラッグストアとホームセンターの先に大野ダムへの標識がありますので左(東)へ

 道なりに進んで、やがて大野川に沿うようになって上って行くと

 大きな右カーブ外側に文化財標柱です

 右を見ると参道入り口仁王門です

すぐ先を右に入って駐車スペースに車を止めさせていただきました

 仁王門を潜ると杉並木の参道です

 この杉並木の杉はいずれも目通り幹囲3m以上の一般的に言う巨木ばかりです

 中でもこの杉は目通り幹囲5m近くありそうです


 参道を進んで来ました

 中門です

 中門を入ると正面木の枝の先に清水の舞台を模した堂です

 文化財の説明版です
   市指定文化財(建造物)
  清水寺本堂(附棟札一枚・佐州清水図一枚)・鐘楼(附棟札2枚)・中門・仁王門
 清水寺は、新穂大野の大野川扇状地の扇頂に立置し、境内には15棟の堂宇があります。
 京保15年(1730)建立の本堂は、当寺が属する真言宗豊山派の総本山である長谷寺本堂を模して建てられたとされ、屋根正面を入母屋とし、前面の札堂に舞台を付けた懸造としています。
 鐘楼は本堂前庭に面した中門の左手に配され、中門と仁王門を参道石段の起点と終点に設けて軸線の効果を高めています。本堂、鐘楼、中門、仁王門は、いずれも完成度と保存度が高い建造物であり、長く直線的な参道や伽藍配置と組み合わさり雄大な空間を構成しています。また、歴史的価値を明らかにする棟札3枚や境内俯瞰図「佐洲清水図」の残されており明確な歴史資料を伴った仏堂として貴重です。
    平成26年10月
    佐渡市教育委員会

 こちらも文化財説明版です
   県指定有形文化財(彫刻)
  木造二十八部衆及び雷神像(平成31年3月22日指定)
 清水寺の本尊である千手観音立像の眷属として、観音堂の左右脇壇に祀られた像で、平安後期に遡る作とされる。
 二十八部衆の内一躯は足と台座のみであるが、多くは像高約60~70cmで、雷神(風神像は欠)を含めて計29躯が現存する。
 本像は、京都蓮華王院本堂の風神・雷神合わせた30躯(国宝)に先立つ、最古級のものと考えられている。
 蓮華王院とは図像の系譜を異にしており、平安後期における当地域の歴史的特性、文化を考える上で貴重な作例である。
   佐渡市指定有形文化財(工芸品)
  清水寺明応九年鰐口(平成16年3月1日指定)
 この鰐口は鼓面径42.7cm、肩幅9.3cm、鼓厚9.3cmで、鐘座(鼓面中央)には蓮華の陽刻があり、8枚の花弁に9個の蓮子(れんし=蓮の実)があしらわれている。
 また鰐口の銘には「佐洲加茂郡下村十禅師旦那、四郎左衛門 願主 同内方 敬白」と「明徳九天庚七月二日 柏崎大窪今金屋大工家吉」とあり、この銘により、鰐口は明応9年(1500)7月2日に柏崎大窪(新潟県柏崎市大久保)の金屋大工家吉が鋳造し、下村(佐渡市新穂舟下)の十禅師権現(舟下日吉神社)が所蔵した後、願主の四郎左衛門とその内方(妻)により清水寺に奉納されたことがわかる。
 佐渡では14番目に古い鰐口であり、工芸品としての価値に加え、中世の佐渡越後地域の物流交易を探るうえでも貴重である。
     令和2年2月
     佐渡市教育委員会
 左手には庫裏です


 鐘楼です

 目的のコウヤマキです

 庫裏側の塀の内側です

 本堂への石段です
 
 石段の中段から見ました、目通り幹囲4.5mの大木です


 清水寺の舞台です

 入り口です

 文化財の鰐口です

 本堂です

 見事な彫刻です

 舞台です


 境内社です

 舞台から中門を見ました


 草に覆われた境内社です

 石碑です

では、道路向い側の「新穂大野の大イチョウ」へ行きましょう
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新潟県佐渡市、新穂井内「神宮寺の梵鐘」(国重要文化財)です!!

2022-07-10 18:56:14 | 文化財・寺社
 ここからは、2022年6月20日取材分です

 今日は、小佐渡山地を超えて佐渡ヶ島の南西部へ行きます

 今回の佐渡取材では、新穂ダムキャンプサイト駐車場で車中泊で4泊しました

 二泊目の朝も早くから起きて、準備作業をゆっくりしながらダム湖畔を散歩しました

 ダム湖畔は一周約3kmのウォーキングコースになっています、地元の方々が利用していました。

 では、

 新穂井内地区は、佐渡市役所の東約7kmのところ

 県道181号線から県道237号線そして県道65号線を東へ
 
 県道65号線が北に向きを変える手前に案内板が出ています

 右(南)へ入り、突き当りを左(東)へ道なりに進むと、神宮寺前に出ました

 境内入り口前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 (新穂ダムキャンプサイトからは、道路を下って三叉路を左へ、

 少し登って下った一時停止貫けた十字路を右へ進んだ所、わずか1.5kmです)
 

 境内入り口です

 重要文化財 梵鐘の標柱が有ります

 真言宗 醍醐派の神宮寺は佐渡百選です


 参道を進むと山門です

 正面に大きな屋根の本堂です

 山門入った右手(東)に鐘楼です



 目的の銅鐘です


 左から

 正面から

 右から


説明版です
  国指定文化財(重要文化財 工芸品)
   銅鐘 (昭和25年8月29日指定)
 中世銘のある和鐘で、高さ82.7cm、重さ187.5kg、肩の上部から下部にかけての線がなだらかでよく整っています。かつては落ち着いた音色を響かせていましたが、現在は撞かれて
 銘文には、永仁3年(1295)に沙弥能主という人物(加茂郷地頭渋谷氏の説あり)が、陸奥守朝臣(佐渡守護大仏北条宣時)の祈祷のため、銅匠藤原守重に鋳造させ、羽黒山正光寺(佐渡市羽吉)に奉納した鐘とありますが、明治元年(1868)の神仏分離令によって正光寺が廃寺となったため、末武某がこの鐘を買い取り、菩提寺の神宮寺に寄進したと伝えられています。
   平成24年10月
   佐渡市教育委員会

新鐘楼建立の沿革です
 旧鐘楼は、明治29年10月建立され、昭和の今日まで補修の上、永き歳月百年の風雪に耐え忍び、容姿が物語る如く、老朽甚だしく、今後補修し百年保持難しく、関係者再三審議の結果、新鐘楼建立の決まる。
 関係者の努力、教育委員会御支援を得て、県、国文化庁より認可を得るまで三年余の歳月で遂に実を結び、昭和49年3月認可と成る。特に文化庁より東京芸大講師(荒木保存設計事務所)荒木伸介技官派遣され、再三来島、現代建築の粋とも言われる執工技方による日本で第二番新鐘楼となり、着工に際して福田組に依頼、御支援によって総経費420万円で、昭和49年10月完工の運びと成る。特に村当局河原治一村長殿、教育委員会関係者の御支援謹み檀徒一同感謝の意を表示します。
*寄付された人達の名前が古めかしいのは、屋号なのでしょうかしょうか

 栄玉殿でしょうか

 庫裏の前には背の高い松の木です

 まだまだ朝早いのでゆっくり次へ行きましょう
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新潟県佐渡市、上新穂「日吉神社のケヤキと野生のトキ」です!!

2022-07-10 06:37:19 | 巨樹・大木
 「日吉神社のケヤキ」で、今日の取材も最後になります、佐渡産地物はAコープか地元スーパーですね

 ここJA佐渡Aコープ佐渡新穂店で晩酌のツマミをみつくろいました、

 選んだ惣菜は「加茂湖産カキの煮つけ」に「佐渡沖タラの煮物」「地元野菜のサラダ」です
 
 生魚(丸の物)なら地元のスーパーが良いとの情報でしたが、惣菜はAコープで正解です

 では、

 上新穂地区は、佐渡市役所の東約4kmのところ

 県道181号線を東へ、県道237号線となって更に東へ進みます

 次の信号が、日吉神社前信号です

 南西側のAコープの駐車場に車を止めさせて頂きました

 南から境内を見ました

 日吉神社です

 東側に県文化財 史跡 玉作遺跡の標柱です

 説明版です
   県指定文化財(史跡)
  新穂玉作遺跡 (昭和27年12月10日指定)
 国府川が形成した海抜5~10mの扇状地上に立地する4遺跡の総称で、A地区「小谷地(竹の花)遺跡」、B地区「桂林遺跡」、C地区「平田遺跡」、D地区「城の畠遺跡」からなり、遺跡総面積が30万㎡を超える国内最大級の玉作遺跡です。
 いずれも弥生時代に玉類が製作されていた場所とみられ、赤玉・碧玉の原石や細形管玉・角玉・勾玉などの原石・未成品・完成品などが出土したほか、石鋸・砥石・石針などの工具類も出土しました。これらの遺物は、玉作製作集団の存在と細形管玉の製作工程を明らかにするもので、その一部は現在、新穂歴史民俗資料館に公開展示されています。
   平成24年10月
   佐渡市教育委員会

そばには水準点です

 参道鳥居です

 狛犬です

 鳥居手前の参道右手に目的のケヤキです

 西側から

 北側から、目通り幹囲5.5mの巨木です

 境内真ん中のケヤキの大木です

 参道右手のケヤキの大木です

 手水舎です

参道を振り返りました


 大きな拝殿です

 本殿です

境内社は稲荷社のようです


 境内の松の大木です


一羽のトキがいます

もう一羽のトキが飛んで来ました

一羽飛び去って、一羽とヤ残りました
 本殿西側の杉の木の天辺に、佐渡へ来て初めて野生のトキを見ることが出来ました(特徴的な大きな声で鳴いていました)

 では、今日はここまで

 まずは新穂潟上温泉へ、北東へ約4kmのところです

 県道65号線を両津方面へ向かいます

 今朝二番目に行った「牛尾神社の安産杉」の手前を右(南)へ入るとすぐです

 一日の汗を流して、湯船でのんびりしていると、南側の窓の外をトキが飛ぶのを見ることが出来ました

 潟上温泉のすぐ東側には「トキ交流会館」がありますので、トキも安心できるところのようです

 温泉を出て、コインランドリーは佐渡市役所の先です約9kmの移動ですが信号が少ないのですぐです

 で、また新穂ダムのキャンプサイトで車中泊としました。

 先客は、バイクのテント泊の方が一名だけでした
 

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新潟県佐渡市、市野沢「実相寺の三光杉(千年杉)」(市指定)です!!

2022-07-09 19:17:21 | 巨樹・大木
 市野沢地区は、佐渡市役所の西約5kmのところ

 県道306号線を南西へ、墓石の吉運堂と子供服の西松屋の間を北へ入ると

 実相寺の参道入り口前に出ます


日蓮宗 御松山 実相寺です

 参道を進んで山門前の駐車場に車を止めさせて頂きました

山門の仁王門です

説明版です
  佐渡市指定記念物(天然記念物)
   三光杉 (平成16年3月1日指定)
 実相寺境内に育成するこの杉は、樹高30m、根元幹囲約11.9m、目通り幹囲訳6.47mに達する巨木で、枝張りは南北約22m、東西約19.8mに及ぶ。「三光」と呼ばれるのは、この杉に三光鳥(サンコウチョウ=鳴き声が「月・日・星」と聴こえる夏鳥)がよく飛来したことに由来しており、樹齢がおよそ1000年と伝わることから「千年杉」とも呼ばれている。
 実相寺は、寺伝によると文永8年(1271)に佐渡へ流された日蓮聖人が同9年(1272)に開基したと伝わる日蓮宗の寺院である。
「一の谷」(いちのさわ)と呼ばれたこの地に移り住んだ日蓮は、晴れた日には必ずこの杉がある丘へ行き、朝日を拝み念仏を唱えたといい、日蓮に赦免の吉兆をもたらした鳥が止まった木もこの杉であったと伝えられている。
  佐渡市指定有形文化財(彫刻)
   木造 仁王像(平成16年3月1日指定)
 この両像はいずれも木製の彩色像で、阿形が像高1.97m、吽形が像高1.93mとなっており、いずれも中国風の甲冑を身に着け、力強い風格を漂わせている。また、像背面の墨書銘により、製作者は京都七条仏所の大仏師で法橋(ほっきょう)位を持つ康慶(こうけい)であることがわかる。康慶は鎌倉時代初期に活躍した仏師で、彫刻界を支配した運慶の流れを汲む名門の出身である。
 この仏像は「子安仁王尊」として古くから地元の人々に親しまれ、今も子供の無病息災を祈願したワラジが掛けられるなど、長きにわたり信仰を集めている。
  佐渡市指定有形文化財(絵画)
   普門品註画(平成16年3月1日指定)
 「普門品註画」とは、法華経「観世音菩薩普門品(妙法蓮華経)」の第八之巻の経文の内容を文字と絵で説明したものである。
 この註画は、絵師の狩野胖幽(はんゆう)により、文は楷書、絵は人物全員が繊細な筆法で描かれている。胖幽は延宝2年(1674)に佐渡へ流されて以来数多くの作品を残しているが、註画形式の作画は他に例がない。
 また、箱書きには「奉納普門品註画九幅 狩野胖幽守則筆」「為追善菩提」「施主 孝子狩野一角守美 表具箱共納之」「元文四巳未歳二月彼岸時正之日」などが記されている。文中の「一角」とは、胖幽の四男のことであり、父胖幽と母の追善のため、元文4年(1739)の彼岸に息子の一角が実相寺に納めたとされる。
    平成31年3月
    佐渡市教育委員会



説明版です
  御松山実相寺の縁起
 文永9年4月7日一の谷に謹居の身となった日蓮証人は、毎日朝この丘に登り、之松の根元より数歩の沢辺に湧出する清水を見付けて喜ばれ、老松に袈裟を掛け、清水で手を清め、口を漱ぎ昇天する朝日に向けて妙法を唱え、天下泰平四海帰妙の祈りを捧げ、遠く郷土安房の父母を追慕し親恩の深きを感謝され、生きて再び帰洛する事を、旭日に祈念なされた。
 「袈裟掛けの松」「御手清水」残っている、また樹齢千余年の「三光の杉」が町の文化財に指定されており、昭和56年には日蓮聖人思親銅像建立されました。袈裟掛けの松に因みこの寺を通称「お松」といいます。合掌
  昭和63年建之


苔に覆われた参道を進みます

杉並木の参道ですが、一般的には西側の車道を本堂前まで入れるため参道を歩く人はいないようです
石段下から境内の中門と目的の三光杉が見えました

石段を上がってきました

門を潜ると正面に本堂です

右手に三光杉です

西側から、目通り幹囲6.8mの巨木で、単幹の杉では佐渡最大です

天然記念物標柱です

説明版です
   千年杉(天然記念物)
 文永10年7月日蓮上人この大杉と袈裟掛け松の間に停ち梵天、帝釈、日月、四天に帰倉を念誦されるや白頭のカラス飛来す。
   燕の丹太子「山からす頭も白くなりにけり 我帰るべき時や来ぬらん」の故事にも等しく、翌、文永11年3月8日ご赦免状佐渡国に到達、同14日御出船され四ヶ年振りに御帰倉なされ給う。


北側から

鐘楼です

本堂右手には祖師堂です

さらに東側の建物です

境内東端には

日蓮の衣を掛けた松は切られてしまったようです(切り口は新しいものでした)

御堂です

三光杉を東側から

祖師堂前のアカマツです

西側から

日蓮聖人像です

境内西側の松の大木です

では、次へ行きましょう
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新潟県佐渡市、平清水「毘沙門天の百足杉」(市指定)です!!

2022-07-09 06:45:42 | 巨樹・大木
 国中平野は、佐渡の人口の約8割が集中した稲作の中心地です

 大佐渡山地と小佐渡山地に挟まれた地溝帯で、南北約8km、東西約12kmです

 北東の加茂湖側が高く、大佐渡山地と小佐渡山地から流れて来た川の多くは

 国府川に合流して西の真野湾に流れています、真野湾岸は砂丘が形成されています

 では、

 平清水地区は、佐渡市役所の北西約5kmのところ

 県道306号線を西へ、黒木御所入り口信号を右(北)へまだ県道306号市野沢中興線です

 道なりに進んで、北側の台地の上で平清水会館前を左(西)へまだ県道306号線です

 道なりに進むと藤津川の橋を渡り右(北)の道路へ、間もなく多門寺の案内板が有ります

 右(東)へ入って多門寺駐車場に入りました

 多門寺です

本堂です

山(鐘楼)門です

 山門前を東へ下ります

坂の下には御堂です

 参道入り口です


 社號標が並びます

 百足清水です

 弁財天です

 説明版です
   百足清水
  所在地 平清水 毘沙門堂 坂下
 江戸時代の「順村記」に毘沙門堂前に百足杉あり、杉の脇に池あり、その流れを百足水という、と記されている。
 この水のかかる田畑の旱魃を救うこと諸人の知る所である。
 百日照るとも水出ずと言うことなく、又百日雨降るとも増水して濁ると言う事なし。
 是尊像の地、毘沙門天の御加護によるものである。
    平泉文化財保護会


 参道右手に目的の百足杉です

 西側から


 天然記念物標柱です

 説明版です
   百足杉
  所在地 平清水 毘沙門堂 坂
 承久の頃、順徳帝が黒木御所から千種の里へ行啓の途中、藤津川で百足の波紋が立っているのをご覧になられ、「この川の上流に毘沙門天が鎮座されているのか」とお共の者にお尋ねになられた。
 共奉員は謹んで状況を申し上げると、帝は毘沙門堂にお立ち寄りになられる事になった。
 当時村々は大干魃で百姓達が苦しんでいたので帝は親しく毘沙門天に雨乞いの祈祷が行われた。
 この時、杉を植えてこれに百足杉と名づけられたのである。
   推定樹齢1000年
   平泉文化財保存会



 参道石段です

 石段下から見ました、目通り幹囲6.7mの巨木です

 石段中段から


 水盤です

 登りきると毘沙門堂拝殿です


 本殿です

 説明版です
   毘沙門天の由来
 毘沙門天は商売繁盛の神様だといわれる、別名、多聞天とも呼ばれ、四天王の一つである。
 その昔(587年)聖徳太子が物部守屋を討伐に向った時、四天王の像を戴き出陣し、大勝を得たので以来四天王を信仰することが深かったと伝えられる。られる。
 その後太子は、柳の霊木で毘沙門の像を二体彫刻し、元木の像は当毘沙門堂に納められ、末木の像は京都の鞍馬寺に安置された。
 現在、毘沙門堂の本尊は、延暦16年(797年)9月3日天台の儀真僧都という坊さんが佐渡へ渡り、奉安したものといわれている。
 以前、毘沙門天は平清水の鎮守であった、このことから平清水区民は毘沙門天の氏子として、柳の木の下駄ははかなかったという。
 縁日は2月と9月の3日である。特に2月の縁日は、2日の晩からおこもりがあり、3日の早朝にかけて近郷近在から老若男女が集まり、商売繁盛、家内安全を祈願し賑っている。



 東側には白山神社です

 説明版です

狛犬です

更に東側には、太子堂です

では、次へ行きましょう
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新潟県佐渡市、泉「黒木御所跡」(市指定史跡)です!!

2022-07-07 19:32:19 | Weblog
 黒木御所は順徳皇が佐渡に島流しとなって住まわれた場所です

 黒木とは木の皮を剥いていない木材のことで

 この黒木で建てた行宮が、黒木御所となりますなります

 かなり粗末な家だったと思われ、この中で「上皇の金北山詣り」のなかでも

 村人たちは上皇を高貴な方だと思っていなかったようです

 では、

 泉地区は、佐渡市役所の西約3kmのところ

 県道306号市野沢中興線を西へ

 黒木御所入り口を右(北)へ進むと間もなく右手に見えて来ます

 向かい側の駐車場に車を止めさせて頂きました

 黒木御所跡入り口です

 順徳院御配所跡の石碑です

 説明版です
  黒木御所跡
 承久の変(1221)により、順徳上皇は佐渡に配流となり、初め国分寺を行在所と定められたが、当時国主が直接管理していた泉に仮宮を行宮とし、そこに移られた。
 御所の四隅には上皇の御持仏であった、観音・阿弥陀・薬師・天神が祀られ、日夜礼拝されたと伝えられている。
 順徳院はこの黒木御所に御選幸以来、崩御までの22年間、行在所とされていた。
 御所内には昭和天皇が皇太子であられた大正5年7月9日、行幸の際の御手植えの松が実在している。

案内板です

 玉垣に囲われています

 公園化された境内には歌碑がたくさん建っています

 石碑が有りました
   上皇の金北山まいり
 順徳上皇がここ黒木御所に住まわれていた頃、やむごとなき高貴な方だとつゆ知らず、村人たちはある時上皇を金北山詣りに誘った。丁度その時上皇はドジョウ汁を煮ていたので「ドジョウ汁を食べてから出かける」と言って村人たちから出かけてもらった。あとを追った上皇は、村人たちが帰るのと抜川で出合った、上皇は村人たちと一緒に帰るため「わたしはここで金北山の神様に会うから」と言って川の水で口をすすぎ金北山に向かっておもむろに、かしわ手を打った。すると金北山の神様は白馬にまたがり空中を飛んで来た。村人たちはこの時はじめて、上皇がまみまみまらぬ高貴な方だと思うようになり、上皇を尊敬するようになった。
 また、上皇が川の水で口をすすいだ時上皇の口からドジョウが飛び出して来ました。
 今でも山中の抜川にドジョウがいるのはそのためであると伝えられる。



案内図が有ります

 では、次へ行きましょう
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新潟県佐渡市、金井新保「新保八幡宮のセコイア」です!!

2022-07-07 06:35:57 | 巨樹・大木
 佐渡の歴史は、弥生時代の遺跡に始まり

 中央政権の影響がおよび初めたのは8世紀に入ってから

 国分寺や清水寺、長谷寺などの寺院の建築に見られるようになります

 江戸時代には、佐渡金山を始めとして天領(徳川幕府直轄地)となりました

 では、

 金井新保地区は、佐渡市役所の北約2kmのところ

 国道350号線を北へ、大佐渡スカイライン入口信号のすぐ先に

 新保八幡宮の参道が南南東向きに開いています

 参道の北側に駐車場があります

 参道入り口です

 新保八幡宮です

 佐渡百撰です


 桜並木の参道を進みます


 狛犬です(佐渡特有の雰囲気です)

 もう一組の狛犬は普通の感じです

 境内入り口右手のクスノキです(左手にも同サイズのクスノキが在ります)

 参道左側にも大木です

 左には手水舎です

 鳥居です

 社務所前の杉の大木です

 西側から

 社務所前のアカマツの大木です

 拝殿前から見ました


 モミノキの大木です

 拝殿前から見ました

 参道左手に目的のセコイアです

 根元に案内板です

*セコイアはヒノキ科セコイア属の一属一種の常緑針葉樹です。アメリカ西海岸に自生する、セコイアスギ、センペルセコイア、レッドウッドと呼ばれて、地上最大の植物として樹高100m以上のものも珍しくありません。
 どうしてここ佐渡に植えられたのでしょうか

 東側の参道から、目通り幹囲4.1mの大木です

 北側拝殿脇から


 西側から

 南側から

 離れて見ました
 
 大きな拝殿です


 本殿も大きなものです

では、次へ行きましょう

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