ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

秋田県にかほ市、象潟町象潟島「象潟島めぐりコース」(国指定天然記念物・名勝)後編です!!

2022-07-30 18:31:20 | 文化財・寺社
 にかほ市役所の北約2kmのところ

 国道7号線を北へ、道の駅象潟ねむの丘の手前を右(東)へ入り

 蚶満寺の駐車場へ入りました

 では、島めぐりに行きましょう

 説明版です
 九十九島(くじゅうくしま)
  鳥海山の岩なだれがつくった大地
 鳥海山はおよそ60万年のあいだ活動を続けている火山です。
 今から約2500年前、鳥海山の山頂が大きく崩れ、大量の土砂が流れくだり海を埋め立てました。
 その後、このあたりは海とつながる浅い湖となり、たくさんの小島が浮かぶ風光明媚な土地となりました。
 しかし、1804年に象潟沖を震源とするマグニチュード7の大地震が発生し、象潟一帯は約2m隆起し、湖は一夜にして陸地と化しました。
 象潟は火山活動や大地震といった地球の営みの痕跡が残る貴重な場所として国の天然記念物となっています。
  なぜ芭蕉は象潟を目指したのか
 江戸時代に活躍した俳人・松尾芭蕉(1644~1694)がのこした紀行文「おくの細道」その旅の最大の目的地は宮城県の松島と象潟だったといわれています。
 江戸時代の象潟は、芭蕉が尊敬する西行法師や能因法師などが和歌に読み込んだ名所(歌枕)として知られていました。
 「おくの細道」紀行は全行程約2400km、日数約150日をかけて東北、北陸を巡って大垣にいたる長い旅でした。
 6月に松島を訪れた芭蕉はその後、平泉、山寺、酒田などを経て8月1日に象潟に到着します。天候は雨でした。
 芭蕉は象潟の情景を「松島が笑うがごと、象潟はうらむがごとし」と、松島と対照的な印象を持ち、「象潟や雨に西施がねぶの花」という句を詠んでいます。
 松島は、丘陵地が沈んでできた「溺れ谷」という地形です。波に削られて島の岩肌は白く、晴れた日はとても明るい印象を受けます。
 一方、象潟の九十九島は鳥海山が崩れてできた「流れ山」で、そこには鳥海山の溶岩が露わになっています。
 芭蕉が見た雨の象潟は、松島の明るさと対照的に悲しげな美女を連想させる風景に映ったのかもしれません。
 松島と象潟、成り立ちが違うふたつの地に芭蕉は引き寄せられたのでした。



旧参道へ戻って来ました、案内板があります

 1⃣蚶満寺です

 正面に駒留島です


 どの木も立派な黒松です、中には目通り幹囲3.9mの大木もあるそうです

 左に進むと大岩があります

 3⃣駒留島(北側)です

 右手に鮓蓋島です

 大きな「史跡名勝 天然記念物 象潟」の石碑です

 右手に見えるのは、鮓桶島です

 遊歩道左手に「みのわ島」のマツです

 上堂ノ森です



 4⃣下堂ノ森です



 右手に鮓桶島です



 5⃣弁天島です

 奈良島への遊歩道は草刈りされていないので戻ります

 説明版です
   天然記念物 象潟
 およそ2500年前に鳥海山が大きく崩れて岩なだれが発生し、海に流れ込んだ岩の固まり〈流れ山〉は多くの島々となり、やがて島々をかこむように砂嘴が発達して一帯は入り江となった。
 島々には松樹が茂り、水面に鳥海山を映し、松島と並ぶ景勝地として象潟は広く知られることとなった。
 しかし、文化元年(1804)6月の大地震によってこの地域は隆起して陸地となり、往古の潟は一変して現在の稲田と化したのである。
 象潟は、火山活動および地震による土地の変化を示す自然記録として学術上の価値が極めて高いため、昭和9年1月22日、国の天然記念物に指定された。
   文部科学省
   管理団体 にかほ市

 では、次へ行きましょう
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秋田県にかほ市、象潟町象潟島「蚶満寺のタブノキと島めぐりでマツ」前編です!!

2022-07-30 06:27:20 | 巨樹・大木
 象潟町象潟島地区は、にかほ市役所の北約2kmのところ

 国道7号線を北へ「道の駅・象潟ねむの丘」の手前右側に丸万商事のガソリンスタンドがあります

 この北側の通りが蚶満寺の参道(新参道・西向き)です

 JR羽越本線の踏切を渡って、参道右手(南側)の駐車場に入ります


 象潟島めぐりコースは左です

 蚶満寺境内案内図です、タブノキは本堂脇を通った北東側にあるようです


 皇宮山 蚶満寺です(新参道入口)


 芭蕉像です


 西施像と説明石碑です
  西施(中国四大美女の一人・紀元前502~470年頃没)
 中国の春秋末期時代、越国苧蘿村(今の浙江省諸墍市)の人。
 呉、越の両国が「呉越の興亡」と呼ばれるほどの争いをしていた国難の世に彼女は生まれました。
 越王勾践は会稽で敗れると美女西施を呉王に献し、呉王の心を乱し、政治を怠たらせる政策を立てた。
 西施は越の救国のためならと呉国に赴き献身的に呉王に尽くした。
 後、呉国を滅ぼし会稽の恥をすすぐや、越国では西施を愛国精神を具えた天下第一の美女として讃え、現在まで広く伝えられている。
 救国のためとはいえ敵国に身を捧げた悲劇的な美女西施を、俳人松尾芭蕉は松島に比べて「うらむがごとし」と象潟の風景に似通うものとして俳諧の世界に生かした。
 その句が、「奥の細道」に見れる次の句である。
    象潟や 雨に西施が ねぶの花
 この句が縁で、象潟町が平成2年から、平成17年からはにかほ市として西施の故郷中国浙江省諸墍市と友好関係を深めています。
   にかほ市
   象潟町日中友好協会


 ネムノキの花です


 芭蕉像の北側の境内の松です、目通り幹囲3.6mの黒松です


 旧参道です(北西向きですがJR羽越本線の線路で遮られていますが道の駅の前まで通じていたようです)

 電車が通過するところでした(駒留島手前の遊歩道から)


 山門の仁王門です

 見事な彫刻があります


 山門を潜ると左手には大きなケヤキの木が見えました

 右手にはお堂です

 六地蔵様です

 説明版です
  歌枕の地「象潟」を守った、蚶満寺二十四世覚林和尚
 象潟は、平安時代の頃から八十八潟九十九島の風景を、能因法師・西行法師が歌に詠んだ歌枕の地として広く知られ、風流人にとっては、憧れの地であった。
 江戸時代には芭蕉・一茶など名の知れた文人墨客が数多く来訪した。しかし、文化元年(1804)の大地震で潟底が隆起し、陸地に変貌してしまった。
 経済的に苦しい本荘藩は、象潟の景観保持の方針を変更し、島々を崩して新田開発に着手した。
 蚶満寺は古くから象潟を寺領とし維持管理の任にあった。二十四世覚林和尚は、寺領に対する不当な行為を改めるよう、嘆願書を送り、繰り返し交渉したが、開田は続けられた。覚林の奔走は続き、蚶満寺を閑院宮家の御祈願所とすることに成功し、宮家の権威を後ろ盾に開田を阻止した。藩は藩命に背いたとして、蚶満寺に理不尽な行為をした。
 覚林は、身の危険を感じ、上野の寛永寺に逃れたが、謀られて捕らえられ本荘に送られた。牢に入れられること4年5か月、冬の寒い日に牢死したという。
 覚林が命と引き換えに遺した島々と風景は「象潟」として国の天然記念物・名勝に指定され、往時を偲ばせている。この歴史と覚林和尚の功績を忘れず、感謝報恩の心で、語り伝えていくことを誓い、ここに記す。
   平成29年7月25日
   覚林和尚を顕彰する会
 


 位牌堂です

 左に本堂です

 鐘付堂(鐘楼)です


 本堂手前を北側の墓地の先には、袖掛地蔵尊と神功皇后袖掛けの松跡です

*神功皇后(西暦169年~269年)仲哀天皇の后で、応神天皇の母です。日本書紀では「気長足姫尊」と記されています。
 記述では、主に九州や関西、そして三韓征伐の朝鮮半島あたりが出て来ます、しかし、象潟まで来ていたとは知りませんでした。


 墓地はら戻って庭園に入ると正面に目的のタブノキです(北西側から)

 南西側から

 庭園端から

 北側から、目通り幹囲4.7mの大木です


 木登り地蔵ですが解かりずらいですね~

 木登り地蔵の有るタブノキです


親鸞聖人御腰石です

北条時頼公のつつじです(北条時頼は、1227~1263、鎌倉幕府5代執権です)が、ここまで来ていたのでしょうか

 では、戻って島めぐりに行きましょう
 



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