中田町宝江新井田後田地区は、登米市役所中田庁舎の南約3kmのところ
登米市役所中田庁舎の南から国道346号線を南西に進みます
約1.9kmで信号を左(南東)へ県道201号線です
道成りに進んで右にカーブすると間も無く右手に登米市立宝江小学校があります

校庭の南側を右(南西)へ入ると東向きに赤城神社参道です

光永山 赤城神社の社號標です
社號標の脇に
車を止めさせて頂きました

鳥居です

赤城神社縁起の石碑です
赤城神社縁起
伏見天皇の正応2年(1289)春3月、新井田領主千葉掃部草創の際、凶作が続いて、領民の苦しむこと一方ならざるを憂い、当時下向して来た加賀国の産、増田掃部之輔と相い謀り、上野国の東宮赤城大明神に祈願せしに神験あり。
その年の9月、城の鬼門に当たる地を選び、境内を寄進し、社殿を建造して、大国主命を勧請し、厚く祀る。
以後、藤原晴信に神主を命し、産土神として崇敬し、3月・9月の28日を祭日と定め、領民挙つて信仰し、領主親しくい臨んで、家内安全、五穀豊穣の祭祀を行ったと云う。
嘉吉2年(1442)3月 一乗院清良之記
*古文書に書かれていたものを刻したようです

手水舎です

直角に右に曲がるとニノ鳥居です

正面に拝殿です

参道右手に目的のイチイです

「赤城神社の一位(おんこ)」の文化財標柱です
文面には・・・赤城神社、祭神「大国主命」社殿、3間4尺、4面、正応2年9月(1289)新井田城主、千葉掃部、当村草創の際、当寺下向の加賀国産、増田掃部之輔藤原晴信と謀り、新井田城鎮護のため、鬼門に当たる此の地に宮殿を建立す。
神木としてあがめられている。これはイチイの変種であるキャラボクで、アララギ、オンコとも呼ばれる。幹が高さ2mで5~6本に分岐して屈曲し、キャラボクとしては大きな樹冠を呈している。最近外科治療が行われ、3本の生存枝が蛇行しながら旺盛な生育を示し樹勢を保っている。


南側から

西側から



北西側(拝殿前)から

北側から太い幹を見ました


東側から

南東側から見ました

本殿です



本殿西側に御神木の杉の大木です

境内社です
では、次へ行きましよう
2023年4月5日午前11時40分訪問です
登米市役所中田庁舎の南から国道346号線を南西に進みます
約1.9kmで信号を左(南東)へ県道201号線です
道成りに進んで右にカーブすると間も無く右手に登米市立宝江小学校があります

校庭の南側を右(南西)へ入ると東向きに赤城神社参道です


光永山 赤城神社の社號標です

社號標の脇に


鳥居です


赤城神社縁起の石碑です
赤城神社縁起
伏見天皇の正応2年(1289)春3月、新井田領主千葉掃部草創の際、凶作が続いて、領民の苦しむこと一方ならざるを憂い、当時下向して来た加賀国の産、増田掃部之輔と相い謀り、上野国の東宮赤城大明神に祈願せしに神験あり。
その年の9月、城の鬼門に当たる地を選び、境内を寄進し、社殿を建造して、大国主命を勧請し、厚く祀る。
以後、藤原晴信に神主を命し、産土神として崇敬し、3月・9月の28日を祭日と定め、領民挙つて信仰し、領主親しくい臨んで、家内安全、五穀豊穣の祭祀を行ったと云う。
嘉吉2年(1442)3月 一乗院清良之記
*古文書に書かれていたものを刻したようです

手水舎です


直角に右に曲がるとニノ鳥居です


正面に拝殿です


参道右手に目的のイチイです


「赤城神社の一位(おんこ)」の文化財標柱です

文面には・・・赤城神社、祭神「大国主命」社殿、3間4尺、4面、正応2年9月(1289)新井田城主、千葉掃部、当村草創の際、当寺下向の加賀国産、増田掃部之輔藤原晴信と謀り、新井田城鎮護のため、鬼門に当たる此の地に宮殿を建立す。
神木としてあがめられている。これはイチイの変種であるキャラボクで、アララギ、オンコとも呼ばれる。幹が高さ2mで5~6本に分岐して屈曲し、キャラボクとしては大きな樹冠を呈している。最近外科治療が行われ、3本の生存枝が蛇行しながら旺盛な生育を示し樹勢を保っている。


南側から


西側から




北西側(拝殿前)から


北側から太い幹を見ました



東側から


南東側から見ました


本殿です




本殿西側に御神木の杉の大木です


境内社です

では、次へ行きましよう


2023年4月5日午前11時40分訪問です
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