上岩瀬地区は、羽生市役所の西約3kmのところ
羽生市役所西側の道路を南へ、約100mの丁字路信号を右(西)へ、駅前大通りです
約1kmの「行田⇒」の標識に従って「羽生駅入口(東)」信号を左(南)へ、元町銀座通りです
道成りに東武伊勢崎線の踏切を渡った約700mで右(北西)へ
約500mで左(西)へ、約1.2kmでのカーブミラーのある交差点を右(北)へ入ります

約200mで左手に東向きに医王寺参道が出ています
山門(仁王門)前に
車を止める事が出来ました

「真言宗 智山派 医王寺」寺号標です

山門の仁王門です、赤い仁王様がいらっしゃいます

山門を入ると正面奥に本堂が見えます

右手(北側)奥にある鐘楼には鐘はありません

参道右手(北側)に大きな樹冠で目的のシイノキです

説明版です
市指定文化財 天然記念物(羽生市指定 第35号)
上岩瀬(かみいわせ)のシイノキ
指定年月日 昭和44年6月26日
上岩瀬のシイノキは、樹高8m、周囲4.26mのシイで、樹齢は推定400年を数える古木です。
シイは常緑の高木で、雌雄同株となっています。本州以南では大変一般的な樹木で、照葉樹林で多く見られる樹木です。
また、森林以外の場所でも、ここ医王寺のように寺院や神社などの境内によく残っていることから、どんぐりの木の一種として親しまれています。
医王寺は新義真言宗自証山と号し、羽生市南の正覺院の末寺です。本尊は薬師如来で、病気平癒や求子安産の霊験があらたかであることが知られていました。
昭和37年(1962年)に境内に建てられた再建記念碑によれば、「520年前に証範により開山」され、「古賀公方春氏深く帰依」したとされ、大変歴史の深い寺院であると伝えられています。
現在シイは中心部が空洞化し、樹勢が弱ってしまっていますが、医王寺の歴史を長年見守ってきた貴重な樹木であり、今後も末永く保護されていくことが望まれています。
平成24年3月20日 羽生市教育委員会

南側から、前の一枚と変わりませんね~


南西側から

北側の社は八坂神社です



西側の枝下には隙間があります



西側から見上げました、幹には説明版にあったように洞に成っていて隙間があります

手水鉢です

営繕事業の碑です

参道南側に説明版にあった再建記念碑です
再建記念碑
当薬師尊は新義真言宗にて、羽生正覺院の末であり520年前に証範により開山せられ、古賀公方春氏深く帰依して祈願所となり、慶安2年8月(310年前:1649)薬師堂領として20石の御朱印を賜わり、以後継続されて居りました。
享保17年(228年前:1732:当寺12代)に後西院(110代天皇)の皇女宝鏡寺徳巖理豊内親王の御筆になる瑠璃光山の遍額を賜わり、今も尚のぼ額は現存して居ります。
次に御本尊の薬師如来及び十二神将の佛像(重要文化財に値いするもの)安置され祈願する時は諸病(特に眼病)の癒すに身を安楽に長寿延命、求子安産の霊験あらたかな薬師様と称されて、古来より人々に厚く信仰されてきましたが、昭和31年9月8日深夜に原因不明の火災にあいついに全焼の災を受けたので、一日も早く再建して御本尊を安置し祈願をせんと協議の結果再建委員会を組織して計画をたてたのですが、資金が多大に必要なので、境内の立木を売却て尚諸賢の絶大なる御徳賢を賜わり再建し信徒地区民の御繁栄を祈願す。
昭和51年4月7日 薬師堂再建委員会

境内の南端に石仏の祠です

本堂です
では、次へ行きましょう

2025・3・28・10・25
羽生市役所西側の道路を南へ、約100mの丁字路信号を右(西)へ、駅前大通りです
約1kmの「行田⇒」の標識に従って「羽生駅入口(東)」信号を左(南)へ、元町銀座通りです
道成りに東武伊勢崎線の踏切を渡った約700mで右(北西)へ
約500mで左(西)へ、約1.2kmでのカーブミラーのある交差点を右(北)へ入ります

約200mで左手に東向きに医王寺参道が出ています

山門(仁王門)前に


「真言宗 智山派 医王寺」寺号標です


山門の仁王門です、赤い仁王様がいらっしゃいます


山門を入ると正面奥に本堂が見えます


右手(北側)奥にある鐘楼には鐘はありません


参道右手(北側)に大きな樹冠で目的のシイノキです


説明版です
市指定文化財 天然記念物(羽生市指定 第35号)
上岩瀬(かみいわせ)のシイノキ
指定年月日 昭和44年6月26日
上岩瀬のシイノキは、樹高8m、周囲4.26mのシイで、樹齢は推定400年を数える古木です。
シイは常緑の高木で、雌雄同株となっています。本州以南では大変一般的な樹木で、照葉樹林で多く見られる樹木です。
また、森林以外の場所でも、ここ医王寺のように寺院や神社などの境内によく残っていることから、どんぐりの木の一種として親しまれています。
医王寺は新義真言宗自証山と号し、羽生市南の正覺院の末寺です。本尊は薬師如来で、病気平癒や求子安産の霊験があらたかであることが知られていました。
昭和37年(1962年)に境内に建てられた再建記念碑によれば、「520年前に証範により開山」され、「古賀公方春氏深く帰依」したとされ、大変歴史の深い寺院であると伝えられています。
現在シイは中心部が空洞化し、樹勢が弱ってしまっていますが、医王寺の歴史を長年見守ってきた貴重な樹木であり、今後も末永く保護されていくことが望まれています。
平成24年3月20日 羽生市教育委員会

南側から、前の一枚と変わりませんね~



南西側から


北側の社は八坂神社です




西側の枝下には隙間があります




西側から見上げました、幹には説明版にあったように洞に成っていて隙間があります


手水鉢です


営繕事業の碑です


参道南側に説明版にあった再建記念碑です
再建記念碑
当薬師尊は新義真言宗にて、羽生正覺院の末であり520年前に証範により開山せられ、古賀公方春氏深く帰依して祈願所となり、慶安2年8月(310年前:1649)薬師堂領として20石の御朱印を賜わり、以後継続されて居りました。
享保17年(228年前:1732:当寺12代)に後西院(110代天皇)の皇女宝鏡寺徳巖理豊内親王の御筆になる瑠璃光山の遍額を賜わり、今も尚のぼ額は現存して居ります。
次に御本尊の薬師如来及び十二神将の佛像(重要文化財に値いするもの)安置され祈願する時は諸病(特に眼病)の癒すに身を安楽に長寿延命、求子安産の霊験あらたかな薬師様と称されて、古来より人々に厚く信仰されてきましたが、昭和31年9月8日深夜に原因不明の火災にあいついに全焼の災を受けたので、一日も早く再建して御本尊を安置し祈願をせんと協議の結果再建委員会を組織して計画をたてたのですが、資金が多大に必要なので、境内の立木を売却て尚諸賢の絶大なる御徳賢を賜わり再建し信徒地区民の御繁栄を祈願す。
昭和51年4月7日 薬師堂再建委員会

境内の南端に石仏の祠です


本堂です

では、次へ行きましょう


2025・3・28・10・25
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