赤塚八番地区は、加美町役場の南南東約2kmのところ
加美町役場前から東へ花楽小路へ出て南へ進みます
花楽小路は鍵の手に曲がって更に南へ、鳴瀬川の土手道へ出ます
川沿いを南東へ、国道457号線の信号を超えると土手道は県道157号線です
約800mで、「鎮守 鹿島神社入口」の案内板が有りますので左(東)へ降ります
左手に鹿島神社参道の鳥居です
すぐ先に広い参拝者用駐車場がありますので車を止めさせて頂きました
村社 鹿島神社です
参道を進みます
参道右手に鐘楼です
手水舎です
説明版です
鹿島神社沿革史
鎮座地 加美町赤塚八番の14番地
境内地 2185坪
祭神 武甕槌大神
本殿 神明造承応3年(1654)9月建立
拝殿 流造り天和3年(1683)9月建立
長床 明治31年本間半右衛門修復寄進
神紋 九曜(別紋立三引)
延暦年中征夷大将軍坂上田村麿東征の砌、奥州一之宮塩釜神社左宮を勧請して、四日市場南元宿囲小松塚の地を卜として創建され、千葉家遠祖、千葉大膳川瀬清久をして奉斎せしめられ。
下って大崎伊達累代の尊崇殊に篤く、大崎の祖家兼の貞和4年、千葉家27代大膳久基を社家として初めて神事を行い、毎年9月9日湯立ての儀あり、翌10日には宮城郡松ケ浜に神輿を下し、海水煙潔し還日して鏑流の式あり盛大に祭礼を行うを例とした。
越えて寛永17年(1640)御竿入の際、鳴瀬川の水路移動による水難を阻れて現地に遷座し、中新田・四日市場・雑式目・上狼塚・下狼塚・城生・羽場・菜切谷の八邑の鎮守の神として齊き祀り
明治5年村社に列し明治43年7月神明社・田川稲荷・八幡社の三社を合祀、昭和29年の町村合併を記念し神鐘を奉献、鐘楼を改築献納、33年5月幣殿を拡張新築、40年5月社務所竣工、46年神殿・長床の屋根を大改造した、47年8月参道の舗装工事、50年10月丸か株式会社より奉納せられる要石を古事来歴により奉祀す、平成15年5月10日宮司神明奉仕50年記念として大鳥居修複、同18年5月10日遠藤石材より昭和天皇御製碑を奉納せらる。
平成19年5月10日 千葉家52世 宮司 千葉文雄 敬白
随身門です
鹿島神社古墳の標柱です神社社殿の建つ高まりは古墳で、裏面には・・・古墳時代に造られた円墳である。直径約30m、高さ約4mあり、円墳としては、大崎地方でも有数の規模である。墳丘からは埴輪が採取されている。
随身門を潜ってもう一段上に拝殿です
本殿です
本殿西側のスギの大木です
南西側から見ました、目通り幹囲3.5m(目測)ほどなので、目的のスギでは有りません
境内には神馬堂と境内社です、神馬堂には白馬が居ます
墳丘の西側に「要石」が有るよですので行ってみました
境内社です
要石です、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮にも要石が有りますね
説明版です
「要石」を祀る由来
要石は「建御之男神(たけみかづちのおのかみ)」の象徴として国家鎮護の石剣として祀る。
要石は国を鎮める意想で日本をとりまく「リュウ」を鎮める石剣とされる。
龍は海水を表徴する日本をとりまく「リュウ」が転化してナマズ(鯰)になった、地震は地下にもぐった鯰の寝がえりだとされて、この要石は地震ナマズを永遠におさえていると言う信仰を生んだ。
鹿島神社には要石が祀られているから、昔からこの地方には大きな災害がないと語り伝えられている。
ゆるげども よもや抜けじの 要石 鹿島の神よ あらん限りは
これは要石に鹿島の大神が降臨して守護っているから、日本の国土はぐらぐらしないと云う意である。
要石は鹿島神社以外の神社には祀られていない。
此の要石は、昭和48年故事来歴により、丸か建設様より奉納された「約10t」の要石で、往古の要石と共に祀る。
故に今年は天皇陛下御在位満60年を記念して、御影石をもって要石の玉垣を建立す。
昭和61年10月10日
千葉家52世 鹿島神社宮司 千葉文雄 敬白
稲荷堂です、中には沢山の狐の置物が並んでいます
墳丘西側下に目的の大杉です
天然記念物標柱です、裏側文面には・・・鹿島神社の神木である杉は二本あったが、拝殿右手前の神木は平成22年9月6日、ダウンバーストとみられる突風により倒れた。
幹周りが5.4m、高さ約30m、樹齢はおよそ340年と推定した。
現存している神木は拝殿左奥にあり、幹周りが4.5m、高さ約30mある。
昭和53年3月31日指定。
南側から見上げました
では、次へ行きましょう
2023年4月6日午後4時10分訪問です
加美町役場前から東へ花楽小路へ出て南へ進みます
花楽小路は鍵の手に曲がって更に南へ、鳴瀬川の土手道へ出ます
川沿いを南東へ、国道457号線の信号を超えると土手道は県道157号線です
約800mで、「鎮守 鹿島神社入口」の案内板が有りますので左(東)へ降ります
左手に鹿島神社参道の鳥居です
すぐ先に広い参拝者用駐車場がありますので車を止めさせて頂きました
村社 鹿島神社です
参道を進みます
参道右手に鐘楼です
手水舎です
説明版です
鹿島神社沿革史
鎮座地 加美町赤塚八番の14番地
境内地 2185坪
祭神 武甕槌大神
本殿 神明造承応3年(1654)9月建立
拝殿 流造り天和3年(1683)9月建立
長床 明治31年本間半右衛門修復寄進
神紋 九曜(別紋立三引)
延暦年中征夷大将軍坂上田村麿東征の砌、奥州一之宮塩釜神社左宮を勧請して、四日市場南元宿囲小松塚の地を卜として創建され、千葉家遠祖、千葉大膳川瀬清久をして奉斎せしめられ。
下って大崎伊達累代の尊崇殊に篤く、大崎の祖家兼の貞和4年、千葉家27代大膳久基を社家として初めて神事を行い、毎年9月9日湯立ての儀あり、翌10日には宮城郡松ケ浜に神輿を下し、海水煙潔し還日して鏑流の式あり盛大に祭礼を行うを例とした。
越えて寛永17年(1640)御竿入の際、鳴瀬川の水路移動による水難を阻れて現地に遷座し、中新田・四日市場・雑式目・上狼塚・下狼塚・城生・羽場・菜切谷の八邑の鎮守の神として齊き祀り
明治5年村社に列し明治43年7月神明社・田川稲荷・八幡社の三社を合祀、昭和29年の町村合併を記念し神鐘を奉献、鐘楼を改築献納、33年5月幣殿を拡張新築、40年5月社務所竣工、46年神殿・長床の屋根を大改造した、47年8月参道の舗装工事、50年10月丸か株式会社より奉納せられる要石を古事来歴により奉祀す、平成15年5月10日宮司神明奉仕50年記念として大鳥居修複、同18年5月10日遠藤石材より昭和天皇御製碑を奉納せらる。
平成19年5月10日 千葉家52世 宮司 千葉文雄 敬白
随身門です
鹿島神社古墳の標柱です神社社殿の建つ高まりは古墳で、裏面には・・・古墳時代に造られた円墳である。直径約30m、高さ約4mあり、円墳としては、大崎地方でも有数の規模である。墳丘からは埴輪が採取されている。
随身門を潜ってもう一段上に拝殿です
本殿です
本殿西側のスギの大木です
南西側から見ました、目通り幹囲3.5m(目測)ほどなので、目的のスギでは有りません
境内には神馬堂と境内社です、神馬堂には白馬が居ます
墳丘の西側に「要石」が有るよですので行ってみました
境内社です
要石です、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮にも要石が有りますね
説明版です
「要石」を祀る由来
要石は「建御之男神(たけみかづちのおのかみ)」の象徴として国家鎮護の石剣として祀る。
要石は国を鎮める意想で日本をとりまく「リュウ」を鎮める石剣とされる。
龍は海水を表徴する日本をとりまく「リュウ」が転化してナマズ(鯰)になった、地震は地下にもぐった鯰の寝がえりだとされて、この要石は地震ナマズを永遠におさえていると言う信仰を生んだ。
鹿島神社には要石が祀られているから、昔からこの地方には大きな災害がないと語り伝えられている。
ゆるげども よもや抜けじの 要石 鹿島の神よ あらん限りは
これは要石に鹿島の大神が降臨して守護っているから、日本の国土はぐらぐらしないと云う意である。
要石は鹿島神社以外の神社には祀られていない。
此の要石は、昭和48年故事来歴により、丸か建設様より奉納された「約10t」の要石で、往古の要石と共に祀る。
故に今年は天皇陛下御在位満60年を記念して、御影石をもって要石の玉垣を建立す。
昭和61年10月10日
千葉家52世 鹿島神社宮司 千葉文雄 敬白
稲荷堂です、中には沢山の狐の置物が並んでいます
墳丘西側下に目的の大杉です
天然記念物標柱です、裏側文面には・・・鹿島神社の神木である杉は二本あったが、拝殿右手前の神木は平成22年9月6日、ダウンバーストとみられる突風により倒れた。
幹周りが5.4m、高さ約30m、樹齢はおよそ340年と推定した。
現存している神木は拝殿左奥にあり、幹周りが4.5m、高さ約30mある。
昭和53年3月31日指定。
南側から見上げました
では、次へ行きましょう
2023年4月6日午後4時10分訪問です
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