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ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

栃木県佐野市、阿曽沼城跡です!!

2017-05-09 07:24:13 | 城跡・館跡・陣屋跡
阿曽沼城跡は、佐野市役所の南東約1kmのところ

県道9号線と県道16号線の浅沼交差点の南西側に郵便局が有ります

南側の道路を西に入ったところに浅沼八幡宮が有ります




浅沼町会所が有ります

阿曽沼城跡の標柱です

浅沼八幡宮です

手水舎です

拝殿です

正八幡大神の額です

八百年祭記念碑です

佐野市指定史跡阿曽沼城之跡の大きな石碑が有ります

裏面の碑文です
    鎌倉に源氏の幕府始められようとする12世紀末、阿曽沼城は阿曽沼民部四郎広綱によって
    この地に築かれ、以来、400年、戦国のおたけび山野を駆けるさなかまで、城の盛衰は阿
    曽沼氏歴代と共にあり、その哀歓は浅沼の地と人とともにあった。
    始祖広綱は秀郷流藤原氏にして唐沢山城佐野氏の同族、およそ寿永ののころ城館をこの地に
    構え、八幡宮を創建、地名をもって氏とし「阿曽沼」浅沼系諸氏の一祖となる。
    公の名の初めて史省に現れること、寿永2年2月、小山朝政の誚によって同族とともに志田
    三郎義広と合戦、下総古河のわたり、小手差ヶ原の大利根堤にこれを破る。
    これよりのち長子朝綱・次子観綱にいたる3代の間、寿永の源平争乱には平氏を追って遠く
    九州豊後に赴き、文治5年、平泉藤原氏を討っては東北の野を駆け、あるいは承久の乱に、
    尾張摩忍戸の渡りを先陣、また幕府営内にあっては、常に将軍の近くに座し、譜代の名門、
    一芸の達者、容儀神妙のほまれを受く地頭職としてその治める地は、阿曽沼郷本貫領のほか
    陸奥遠野保・安芸世能庄・備中諸郷村の散在領をわせ、城館は本城の辺に、大栗・畳岡・鐙
    塚の諸城を配し、さらに遠野横田城・世能鳥籠城の遠隔経営に及ぶ、城建ってよりここにお
    よそ800年、その間南北朝の動乱に っては悲愁の風狐城にただよい、戦国の秋、嫡宗地
    を散 るに及んで城ついに廃跡となる。
    今夕陽残光淡く、八幡 森と濠跡のみを照らすといえど広綱の後孫諸氏、ここ 霊の地に回
    帰の情を寄せ、所の人、この地を創業 地として敬慕の思いを託す。
    阿曽沼古城の跡今なお浅沼の地とともにあり・・・・

説明版です
     阿曽沼城跡
       阿曽沼城は、寿永元年(1182)に、佐野氏の一族である阿曽沼四郎広綱が築いた
      といわれている。
       城域と推定される浅沼八幡宮の東側に、土塁と堀跡が残存している。城域の範囲は、
      東西約180m、南北約230mになるものと思われる。
     おしどり塚歌碑
       自然石を使った碑面に
        「日くるればさそいしものを 安蘇沼のまこもがくれの ひとりねぞうき」とある
       本歌は、弘安6年(1283)、無住一円の著した仏教説話集「沙石集」の中に、物
       語りと共にのっている。
           平成10年3月         佐野市教育委員会

 
おしどり塚歌碑です

神社の東側に土塁と堀が残ります

堀を北側から見ました

外側はフェンスに覆われています

佐野市重要文化財の案内板です

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