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ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

茨城県桜川市、市村家館跡です!!

2015-02-17 20:47:34 | 城跡・館跡・陣屋跡
市村家館跡は、桜川市役所の南西約6kmのところ

谷貝峰城跡の南約1kmの所にあります

県道148号線を南へ、西に入ると住宅地の中に天神様が有ります

鳥居と社殿が有ります

天満宮の額です

社殿の壁に説明版が有ります
       下谷貝天満宮
    一・御祭神は菅原道真公である。
    一・天正年間(1580年頃)の頃、市村家一統の先祖が河内の国より移住したとき、道明寺天満宮より
      分祀したものと言い伝えられている。
    一・以来、近隣諸家の崇敬をあつめているが、明治新政府の命により鴻巣明神・鹿島神社と共に三所神社
      として、旧谷貝村の村社いも参加している。
    一・社殿は明治の始めまで現在地の南側大字下谷貝字天神453-1にあったが、明治三十五年道真公千
      年祭の折りに、拝殿、鳥居、灯籠などを整え現在のものとなった。
    一・祭日は一月二十五日、六月二十五日(百万燈)十一月二十五日
     ・十一月二十五日の祭礼が最も大切なものとされ、午前二時奥殿の御開帳をするのがしきたりとされて
      いる。
                             =平成十匕年四月十日市村家文書写=
社殿の北側に門のある大きな住宅が市村家のようですが、写真撮影は遠慮しました

社殿の周りには、石塔などもありました

鳥居の前の梅の木(白梅)が花を咲かせていました

では、次へ行きましょう
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茨城県桜川市、谷貝峰城跡です!!

2015-02-17 07:18:38 | 城跡・館跡・陣屋跡
谷貝峰城跡は、桜川市役所の南西約5kmの所、谷貝小学校の南側

県道148号線を南へ、谷貝小学校の南を西へ進むと

西側の田んぼに突き出すような部分があり、この中に城跡が有ります

この道路を北から上がってきました

南へ続きます

東側の道路です

城跡の中心部の十字路です、西側城跡への入口です、駐車には道路脇を利用させて頂きました

一郭へ行って見ます


堀跡です、北から登ってきた道路は、堀跡を壊さないように作られているのでしょうか


こちら側が二郭でしょうか

一郭南側の堀跡です

踏み跡がありました、一郭へ行って見ます

堀底です、きれいに管理されています

一郭内部です、真四角に近いと思われ、土塁が四方に巡っています

南面土塁です

東面土塁の上です

東側の堀の先に道路が有ります、その先にも同じ高さで郭や居館が有ったのでしょうか

東側土塁の中ほどに虎口が有ったようです、四方の土塁に切れ目はここだけでした

北側の堀跡です、少し薮に成っています

北側の堀も同サイズのようです

西側の堀ですが、解りにくいですね

二郭を西へ行って見ます

祠が有ります


一郭のに市側の郭の様です、土塁が残っています


西への虎口の様です


笹の窪みは堀跡の様です

西側へ出ました

西側の虎口です

南側の様子です

西側道路から北を見ます

では、戻って次へ行きましょう

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茨城県石岡市、丸山古墳と奥津城跡です!!

2015-02-14 16:15:37 | 城跡・館跡・陣屋跡
丸山古墳は、石岡市役所の北東約8kmの、県道42号線沿いの運動公園の南側の丘の上にあります

県道42号線が90度に曲がる直ぐ西側から北へ入る細い道を進みます

駐車場は、丸山古墳入口の直ぐ先にあります

県道脇には、史跡丸山古墳の石碑が有ります

案内板にしたがって進みます

佐志能神社前の案内板です

史跡丸山古墳と佐志能神社の説明版です

   高友の丸山丘陵の中央の丸山古墳と佐志能神社は、大和朝廷の東国討伐に大きな功績を残された第十代祟神天皇
  第一皇子豊城入彦命の奥津城であり、命を奉斎した社として、古くから崇敬され顕彰保存されてきた。
   昭和二十七年、丸山古墳の性格を学術敵に究明する必要から、明治大学の後藤守一教授の指導の下、高部民
  の、十日間の協力奉仕による発掘調査の結果、前方後方墳(長55m、高7m)で、後方部中央からご遺体を納め
  た粘土棺が発見され、内行花文鏡をはじめ、銅鏃、勾玉、管玉、小玉、鉄刀、鉄剣等多数の遺品が副葬されていた
   古墳の築造は四世紀末から五世紀初頭の頃と推定され、東国地方に於ける貴重な古墳であることが明らかにされ
  た(昭和27年12月18日県指定)
   佐白古墳、二子塚古墳等の縁の古墳約三十基を丸山古墳群と称す。
   副葬品は八郷地域内の出土品と共に柿岡博物館に保管、一般に展示公開されている。
    昭和五十五年    丸山古墳保存会   県文化財保護協会  


神社入口です

下には、県道沿いに鳥居が見えます

古代散策ロードの案内図です

丸山古墳へ行って見ます

入口から北へ進みます


大きな堀跡があります

廓内です

虎口の土塁です

史跡丸山古墳説明版です

    県指定史跡 丸山古墳
          所 在 地  石岡市柿岡字丸山4123
          指定年月日  昭和27年12月18日
   丸山古墳は、八郷盆地の中央を流れる恋瀬川の流域に展開する広大な洪積地に南面した、柿岡の高友丘陵の景勝の
  地に占める全長55m高さ7mの前方後円墳で、古くから祟神天皇の第一皇子豊城入彦命の奥津城として伝承され、
  古墳の近くに鎮座する佐志能神社とともに顕彰されてきた。
   昭和27年12月明治大学後藤守一教授の指導の下に学術調査が行われ、その結果、後方部の墳頂下約2mの地点
  粘土床が発見され、内行花文鏡をはじめ、銅鏃、勾玉、鉄刀、刀子などの副葬品が出土した。
   これらのことから丸山古墳は前方後方墳という珍しい墳形であるとともに、副葬品の内容などから、五世紀初頭の
  頃に築造された県下でも代表的な古式古墳となっており、東国の古墳時代の研究には欠かせない存在である。
          昭和55年11月            石岡市教育委員会


丸山古墳へ行きます、鉄製の扉が有ります


墳丘への登り道です

前方部です

墳丘上です

後円部の登り口に五輪塔が有ります

後円部から前方部を見ます

古墳の周りに堀が有ります

北側へ続きます

堀跡と土塁が周濠と交わります

虎口まで戻ってきました

二子古墳へ行って見ます



二子塚古墳入口は、佐志能神社の東側からの入口です



二子塚古墳の説明版です
   
     二子塚古墳(丸山4号墳)
   古墳は恋瀬川左岸の高友地区の後背に連なる50~60mの丘陵部に所在し、丸山古墳(丸山1号墳)の東方
  30mに位置する。
   古墳としては、横穴式石室を有する中規模の前方後円墳であり、主軸を西北方を示し、丸山古墳及び筑波山に
  相対して築かれている。
   昭和29年度において、明治大学考古学研究室及び高友地区の奉仕活動を得て埴輪円筒列の調査と、明治時代
  に乱掘の被害を受けている横穴式石室の修復作業が行われた、墳丘からはきめ細かな粘土を用いて焼かれた円筒
  埴輪や形象埴輪(人物・馬)など出土している。
   県内の横穴式石室を有する前方後円墳としては、比較的早い時期に築造されたものと考えられる。
     所 在 地   八郷町大字柿岡字丸山4118番地の2
     古墳の規模   全長35m
             後円部径20.5m  高さ3m
             前方部端幅18m   高さ2.7m
                平成14年3月  八郷町教育委員会



全体像は把握できませんが石室の部分は覆い土がなくなっています

では、次へ行きましょう
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茨城県水戸市、河和田城跡です!!

2015-02-10 18:59:10 | 城跡・館跡・陣屋跡
河和田城跡は、水戸市役所の西約5kmの所

国道50号線バイパスと県道59号線の交差点川和田南信号の北に報佛寺が有ります

山門脇に駐車場があります

駐車場脇に土塁が残ります、駐車場は堀を埋めて作られている様です

報佛寺です

ここが嘗ての河和田城の跡です、石碑が有ります

報佛寺山門です

山門前の道路脇の堀跡です


山門を入ると土塁の上に鐘楼が有ります

唯円上人像でしょうか



保存樹の枝垂桜です

保存樹のツバキの大木です

本堂です


保存樹のクスノキです

水戸光圀公御手植の松だそうです


報仏寺の十字名号の石碑です

報仏寺から北にある天徳寺へ移動します

県道30号線沿いの土塁跡でしょうか

冠木門があります

土塁が有ります

こちらにも堀と土塁が残ります

山門(仁王門)です


鐘楼です

本堂です、本堂の裏側は河和田小学校です

山門の南側に入口が有ります

古い「不許軍酒入山門」門石碑です

では、次へ行きましょう
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茨城県水戸市、鯉渕城跡です!!

2015-02-10 06:05:08 | 城跡・館跡・陣屋跡
鯉渕城跡は、水戸市役所の西南西約8kmの常磐自動車道の東側

県道30号線と県道52号線の交差点付近にあったようですが

現在は遺構らしきものは無くなってしまっているようです

信号の北東側に鹿嶋神社があります、神社の駐車場を利用させて頂きました





鳥居です、東日本大震災で壊れたものを再建したようです

壊れた鳥居があります


拝殿です

本殿です

本殿には手の込んだ彫刻がみられます

鹿島神社の北側住宅地の西側に堀跡らしきものがあるようですが見つけられませんでした

では、次へ行きます


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茨城県笠間市、湯崎城跡です!!

2015-02-09 17:13:18 | 城跡・館跡・陣屋跡
湯崎城跡は、笠間市役所の南南東約5kmのところ

県道16号線の南側、涸沼川に面した段丘の上にあります

道路脇の湯崎城本廓入口の案内板です

入口には寺院が有ります

本廓入口です


入口の両側の土塁です、かなり削られているようです

湯崎城本廓跡の石碑です、入口左手の薮の中にあります

石碑の後ろ側には堀跡がありますが、藪に成っています

本廓入口の堀跡です

本廓内部です

本廓内は畑や資材置き場に成っています

では、次へ行きましょう
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茨城県笠間市、宍戸城跡です!!

2015-02-08 06:15:13 | 城跡・館跡・陣屋跡
宍戸城跡は、元の友部町市街地のほとんどを敷地としていたようですが、遺構のほとんどは残っていません

土塁が残っているのは、笠間市役所の西約1.5km

JR水戸線ししど駅の南東側直ぐの所に

笠間市の観光案内板、旧陣屋です

旧陣屋コミュニティーセンターの前です

史跡 宍戸城址土塁の案内板が有ります


土塁の上には、末廣稲荷神社が有ります

末廣稲荷神社の説明版です
   末廣稲荷神社
  鎮座地  友部町平町102-1(旧宍戸町)
  交 通  水戸線宍戸駅から0.3キロ
  祭 神  宇迦之御魂命
  祭 祀  初午祭 二月初午日 例祭 十一月二十三日
   由緒沿革
   創立天保十年、旧宍戸城主松平氏の崇敬社、明治維新で松平氏東京へ移住後は、もとの家臣が維持してきた、
  俗「子供稲荷神社」と云い、幼児の健康・成長神徳顕著で尊敬者が多い、昭和二十八年一月二十一日宗教法人
  設立、同四十五年十一月二十三日本殿・拝殿・鳥居・玉垣竣功、明治三十に年村上長兵衛氏寄進の神田の処分
  代金によった。
  神 木  けやきの古木あり
  施 設  本殿(西向)流造トタン葺、方1.5間、瑞垣ブロック造り、切妻造りコンクリート柱外壁なし。
       拝殿間口三間奥行二間六坪、石灯籠一対、手水石二基、神明鳥居一基(コンクリート造)幟立石(
       大正十一年十一月十五日)石段十八段、社号標、聖徳太子碑(昭和三年十一月十日)境内134坪
       境外所有地一反歩
  宮 司  福田宣清 責任役員 幾浦道弘 川上武男 荒川登
  総 代  荒川登 潮田庄吉 加藤重男 海老次順 幾浦道弘 川上武男 橋本新吾 川上昭 海老沢惇 荒
       木和裕
   倉稲魂命(うかのみたまのみこと)宇迦之御魂命、宇賀魂命=伊      二尊の御子とも、素戔御命の
  御子ともいう、
   衣食住、殊に食物を主宰し給う百穀の神、
                                       


南側の道路を東へ行きます


県道沿いに宍戸城表門が有ります

説明版です
   茨城県指定文化財
   旧宍戸城表門   一棟
    指定日 昭和五十一年匕月五日
    様 式 木造長屋門形式 瓦葺
    建 立 江戸時代安政五年(1858)再建
   桁行七間半、梁間二間半、入母屋造りのこの長屋門は、元水戸藩の連枝宍戸松平家の陣屋表門であったが
  明治初期の廃藩後、現在地に移築されたものである。 
   宍戸藩は江戸時代初期に秋田氏が入封したが、天保二年(1645)三春(福島県)に国替えとなり、そ
  の後藩領は、幕府・旗本の治める所となった。天和二年(1682)徳川光圀の弟頼雄をもって、宍戸松平
  藩初代とし、石高一万石であった。代々藩主は江戸詰の定府制であり、陣屋の建築は天明七年(1787)
  とあるが、天保十四年(1843)十一月焼失し、安政五年に再建された。
   門の構造形式は、向かって左手に居室を二部屋、右に物置を配した長屋門形式である、正面の冠木には、
  松平家の家紋が三個(桜材、黒漆塗、金箔押し)飾られている。県内の大名屋敷の門の中では長屋門形式の
  唯一の遺構として、茨城県指定文化財となった。
                                   笠間市教育委員会

では、次へ行きましょう
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茨城県笠間市、小原城跡です!!

2015-02-06 07:00:44 | 城跡・館跡・陣屋跡
小原城跡は、笠間市役所(元の友部町)の北東約3kmの所

JR常磐線ともべ駅とうちはら駅との中間地点北側にあります

県道193号線の信号そばに小原神社があります、南へ進むと


道路右側に小原城本丸跡の標柱です、集会所の前に有ります

笠間市が設置している観光名所の看板もありますのですぐにわかります、小原館・古宿と成っています

本丸入口の鳥居です

鳥居の脇に説明版が有ります
  小原城本丸跡
   小原城は、宍戸城の北東部にあって、これを押える重要地点であった。
   築城年代は明らかではないが、里見氏が永享元年(1429)小原の地に領地を得、里見七郎義俊が
  文亀二年(1502)頃現在の館を中心に小原城(館)を形成し、周囲の坂場、和尚、橋場(木戸場)
  には、見張所を置いたと伝えられる。
   小原城本丸は、当時の面影を残す貴重な文化遺産である為昭和五十匕年六月十四日史跡第七号をもっ
  て、町指定文化財に指定された。                        友部町

史跡 小原城本郭跡の案内板です

神社の社です、社の後ろ側には土塁が残ります

北側土塁の切れ目が虎口の様に成っています

鍵型に残った東側の土塁です

北側の堀跡です

東側の堀跡です

本丸水堀跡の説明版です
 本丸水堀跡
  小原城跡は小原舘一帯の地がそれであるが、本丸跡である部分が史跡第七号をもって、
 町指定文化財に指定された。
  この土塁と水堀は城の本丸を囲むもので価値を有するものであるが、平成三年環境整備
 上やむなく水堀を埋め立てた。
  この水堀跡は、当時の面影をかろうじて残す貴重な文化遺産である。
                                  友部町


北側の住宅地の中にも遺構が残ります

北の住宅地に移動します



堀と土塁が残ります、綺麗に保存されているようです


では、次へ行きます
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茨城県那珂市、額田城跡です!!

2015-02-05 17:51:18 | 城跡・館跡・陣屋跡
額田城跡は、那珂市役所の北東約4kmの所

県道62号線と県道172号線の交差点の南東側に有ります

県道172号線沿いに阿弥陀寺が有ります

此の阿弥陀寺が、額田城跡への駐車場に成っています

阿弥陀寺の案愛版です

山門です

大きな桜の木です

本堂です

額田城の説明版です

額田城跡へ行きましょう

本丸南西側の堀跡へ下ります


大きな堀跡です

堀を渡ると土塁が有ります

案内板です


二重掘りに成っています

北へ進むと、本丸と二の丸の分れ道です、本丸へ行きましょう

虎口を登ります

本丸廓です

土塁が残っています

北側の二の丸側へ行ってみます

二の丸との間の空堀です

本丸の案内板です

本丸は東西二段に成っていたようです

本丸北東側虎口が有ります

本丸の切岸には窪みが何か所もあります

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本丸北東側虎口が有ります

堀底の様子です

堀底には一部水が湛えられています

二の丸南東側の入口です

二の丸へ行きましょう


二直丸に有る説明版です


二の丸です

二の丸の東端を外廓へ行きます


外廓との堀です

遊歩道を西へ行きます

大きな土塁を登ります

土塁の上です

左が二の丸、右が三の丸です

堀底から二の丸と外廓の間の堀を見ます

三の丸へ行きます


三の丸の中は畑や住宅地に成っています

三の丸と外廓の間の堀です

戻って、二の丸と三の丸のあいだの堀底を進みます

堀には折りが有ります

曲がっていますね

則の終点は土橋に成っています

先の堀の中では、城跡の清掃作業で枯れ枝などが燃やされています

二の丸の西側入り口を入ると、花壇が作られていました

三の丸側の道を通り、阿弥陀寺へ戻ります

額田城跡は大きな城郭だ田様です、県道172号線自体が堀の跡だったようです

では、次へ行きましょう







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茨城県那珂市、神室館跡です!!

2015-02-04 18:22:09 | 城跡・館跡・陣屋跡
神室館は、那珂市役所の、東北東約6kmの所

常磐自動車道が久慈川を渡る南側の直ぐ北側です


三島神社が有ります、舌状に北へ突き出した丘の上に有ります

西側の道路部分です、南へ延びています

久慈川を渡る常磐自動車道の高架橋です

南側に鳥居です

本木崎三島神社の説明版です

   当社の祭神は大山積命である
   創立年代は不明であるが古くは加納明神または加納の宮と呼ばれた。
   寿永年中、国司佐竹氏は当神社を祈願所と定め毎年流鏑馬祭をおこなった。
   天正年中、額田城主小野崎氏戦勝祈願し戦勝を得て社殿の修復した。
   元禄年中、水戸徳川氏二代藩主光圀公御神鏡一面を奉納した。
   那珂町本米崎の鎮守である。
   現在、神社の境内の椎の木は那珂町の文化財、天然記念物「椎の樹叢」として神域全体が指定されている
                                    (昭和四十九年匕月十五日指定)
   また、当社の社家は幕末の水戸浪士海後磋礒乃介宗親の生誕の地でもある
   磋礒之介は文政十一年(1828)父宗邦の四男として生まれたが二十歳の時、大志をいだき水戸に出て
   剣術、砲術を研究し、万延元年(1860)三月三日桜田門外の義挙に加わった十八人中の一人である。



天然記念物椎の木の樹叢です


鳥居の傍の椎の木です


土塁でしょうか

手水舎です

二の鳥居です

神楽殿です

拝殿です

本殿です

三島神社石碑です

.



境内社です

こちらにも境内社です

では、次へ行きましょう
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茨城県日立市、久慈城跡です!!

2015-02-03 07:19:38 | 城跡・館跡・陣屋跡
久慈城跡は、日立市役所の南約13km、日立市にの南の端

久慈川河口近くの独立丘陵上に有ります

城跡の直ぐ東には、日立港が広がっています

南下して来た国道245号線から日立港の南側の橋の手前信号を右に入ります

南側から道を上がると、大きな墓地(船戸山共同墓地)に成っています、駐車スペースは墓地の先です

車を置いて戻ってきます、墓地入口の所から東へ入る道路が有ります

道路の脇には、堀跡が認められます

丘の南端は住宅地になっています、道路や住宅地は腰廓の様に成っているようです

どうろ入口の所に戻ります、堀を越える土橋が有りました

虎口の様です

堀底から土塁を見上げます

南側の郭内部は薮で見通しが利きません

東側へ行きます

東側の切岸ですが見通せません

木の枝の間から日立港が見下ろせます

少し南へ入った所から久慈川河口方面が何とこ見る事が出来ます

戻って、墓地の北側に行って見ます

新しく造成中のぼりノ先の竹薮の中

土塁の様です


堀跡の様です

墓地のなかから、JR常磐線の久慈川鉄橋が見えました

墓地の北側に続く道路(車は通れません)です

墓地の部分も城の郭に成っていたのでしょうか、案内板などは有りませんでした

では、次へ行きましょう             2015.1.3

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茨城県日立市、天神山城跡です!!

2015-02-02 06:10:16 | 城跡・館跡・陣屋跡
天神山城跡は、大窪城跡の北西、愛宕山城跡の北側にあります

日立市役所の南南西約6kmの山の上です


駐車場の説明版です

愛宕山城跡から戻って標柱の処を天神山城跡へ向かいます

良い雰囲気の道路を歩きます

坂道を登って、愛宕神社の祠の切通を通ります

生伝寺墓地の上り口です、岡部統共同墓地となっています

墓地の一番上まで上がってきました


太平洋まで見渡せます、足元に正伝寺の御堂が見えます


東側足元には大久保城跡の竹藪が確認できます


墓地上の道の脇に、大きな横堀が確認できます

堀のきたの端です

林の中の道を登って行きます


登り切ると、大きな切通の道路の上に出ました

最上部を南に入ります

堀跡です

土橋に成っています


両側に堀跡が残ります

廓の土塁が虎口状に成っています


広い郭のようですが、木々のため見通しはききません

東へ下ると右手に土塁が残ります

更に林の中を下ります

大きな堀跡です

林の中なので、下草が少なく良い状態です

更に林の中を進みます

土塁が残ります

これも土塁でしょうか

土塁の脇を通ると、虎口の様です

山道が曲がりくねっています


墓地上の堀跡まで戻ってきました

土橋を渡ると、もうすぐ出口です

墓地脇に出ました、この注意看板の直ぐ上左側林の中の墓地入口が城跡への下側入口に成っています

墓地したの道を下って、大窪城跡の脇を通って、駐車場へ戻ります

では、次へ行きましょう
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茨城県日立市、愛宕山城跡です!!

2015-02-01 07:35:07 | 城跡・館跡・陣屋跡
愛宕山城跡は、大窪城跡の西側に迫る舌状の尾根に造られていました

日立市役所の南南西約6km、JR常磐線ひたちたが駅の西約2kmです


大久保城跡への駐車場から西へ県道61号線を進むと

標柱が有ります、まだ480mある様です

川の西側が城跡です、川は外堀のようなものだったのでしょうか


県道から右に入ると、多賀配水場の入口が有ります

登って行くと、配水場が有ります

上から見た配水場です

更に先へ進みます

更に先にも配水場の施設が有ります

手前を右の旧道へ入って行きます

進んでいくと

左手の切岸の上に配水場のフェンスが見えます



配水施設の上側に虎口が有るようです、フェンスで降りていくことはできません

フェンス脇の切岸です

旧道も堀跡の様です

右は郭の切岸に成っています


切岸の緩い所を登って行くと


廓内には丸い古墳?が三か所に有ります

二つの古墳が一つに成っているのか、大きめの古墳が土塁の様です


折れのある堀跡が有ります


奥にも堀跡が有ります

廓の中は平坦になっている様です

廓はこのあたりで終わりの様です

先は藪が濃く成っています


行くのを諦めて戻ります

次は、天神山城跡です

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茨城県日立市、大窪城跡です!!

2015-01-31 21:14:46 | 城跡・館跡・陣屋跡
大窪城跡は日立市役所の南南西役6km、JR常磐線ひたちたが駅の西約1.5kmの丘の麓にあります

国道6号線から県道61号線を西へ入って間もなく


カーブの先に駐車スペースが確保されています、大窪城跡の他に、愛宕城跡と天神山城跡も歩いて行ける距離です

駐車場から西に進むと、案内石柱が有ります


南側の堀跡です

虎口への道です

上から見た虎口です

土塁です

土塁前の郭です

暇修館(復元)です

史跡碑が有ります

大窪城跡説明版です

  この場所を中心として、東西220m、南北150m一帯が大窪城の範囲と考えられ、西側に張り出す尾根上に
 築かれた天神山城とその南方の愛宕山城と合わせて大久保城とも呼ばれています。
  各城郭はお互いに密接な関係を持っていたと考えられています。
  大窪城跡は、永承元年(1177)平氏一族の大掾宗幹が大窪郷の愛宕山に築いたのが始まりとされ、14世紀
 ごろ奥州の石川冠者有光の十四世詮光の三男光治が、佐竹氏に仕えて初代大窪城主となりました。
  以後、大窪郷を支配すること八代200年に及びました。
  戦国時代の16世紀頃、城は愛宕山・天神山に加えて現在の地へも造られ、地域支配と防衛の拠点となりました。
  今でも山頂から東側を眺めると、二重の濠跡(ほりあと、斜高四~七m)や土塁跡(高さ1~2m)がその面影
 をとどめています。
  暇修館は水戸藩の郷校で、天保十年(1839)に元城郭の一部が畔に提供され、学問研修の施設として作られ
 ました。
  水戸藩に設立された十五の郷校のうち五番目に古いもので、初代館守大窪光茂のもと、身分を分かつことなく、
 医学、剣術、弓術、射撃訓練などがおこなわれました。
                                 日立市教育委員会


暇修館復元の記です

  天保十年ここ大窪城跡に水戸藩立郷校が創立され興勢館と名付られた、数年後暇修館と改められ、文庫には和漢
 の書籍数十冊を蔵し庶民研修の処として整備され、安政三年には武場の新設に伴い、名も大久保郷校となったが、
 藩末の内乱で哀徴した、維新後再興されたが間もなく廃校となった、その後建屋は改造されて学校役場等に用いら
 れ暇修館の名を以って親しまれてきた、終戦後老朽甚だしく、地元大久保協同組合等の切なる要望もあり、日立市
 当局は文化財保護の方針により復元を期して解体した。
  偶々天保十一年この地を視察した筑波山麓の学者長嶋尉信の見聞記が発見され、復元計画はにわかに進み茲に心
 籠る工事の完成をみたのである。
  水戸藩の郷校十五を数えるなかで暇修館の存在は極めて大きい、学問尊重の意味と教育が一部の特権層に限らず
 広く庶民に普及した歴史的意義に思いを致し乞われるままに一文を草して暇修館復元の記とする。
    昭和48年8月     筑波大学教授 瀬谷義彦撰文     日立市教育委員会教育長 軍司勲一郎書
 




暇修館裏庭です、土塁が巡ります

土塁の先には堀が有ります

北側の堀跡です

虎口先から北側に回り込んでみます、土塁は有ります

北側の土塁の先は堀です



先にも土塁が続き、堀が有ります

では、次へ行きましょう
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茨城県日立市、助川海防城跡です!!

2015-01-30 05:14:08 | 城跡・館跡・陣屋跡
助川海防城跡は、日立市役所の南西1kmほどのところ、

国道6号線の日立病院や小学校の直ぐ西側の高台にあります

上り口に城跡案内が有ります、あと190mです

助川城址公園入口です

助川城跡公園案内図です

西側から見た、養生館跡です

西側の公園入口です、虎口状に成っています

本丸まで行きましょう

広い段郭が並びます

段郭からの太平洋の眺めです

尊王攘夷の石碑が有ります

遠見番所跡です

番所前から見た太平洋です

表門礎石跡です



階段の先は枡形に成っています

史跡 助川海防城跡石碑です

助川海防城説明版です

  水戸藩第九代藩主の斉昭公は、天下に率先して海防の重要性を強調し、天保七年(1836)家老山野辺義観を
 海防総司という新設の重職に任命し、太平洋を一望におさめるここ助川(介川)村の高台、要害の地形に拠り城郭
 を築いて居住させ、異国船の無断侵入に、備えさせた。
  これが助川海防城です。これを海防城と称するのは、一大名の城と異なり、わが国にも当寺類例のない海防を目
 的とする城郭だったからである。
  この城は完成までに五年の歳月をようし、総面積は六十八万平方メートル(二十余万坪)で、助川小学校の校門
 付近にあった館入口(城の表門)から三の丸(一部は助川小学校敷地)、二の丸(一部は太陽の家)本丸と進むに
 したがって高く、本丸には、異国船を見張る櫓もあった。
  海防城は、元治元年(1864)九月、幕末水戸藩内乱のときに焼失し、当時の遺構としては本丸表門の礎石の
 一部、二の丸にあった鳩石だけとなった。
  しかし、茨城県史跡に指定された二の丸の一部と本丸跡等には百余年前の城郭を偲ばせるものがある。
  ちなみに、大佛次郎氏は、昭和四十年十二月中旬この城跡を訪れ調査されたが、その直後執筆された氏の歴史小
 説「夕顔小路」に、この海防城の落城前後の模様が興味深く書かれている。
                            日立市教育委員会



本丸館跡です

では、次へ行きましょう
 
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