ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

徳島県阿波市、市場町切幡観音「国指定重要文化財 切幡寺大塔」です!!

2024-07-09 06:30:34 | 文化財・寺社
市場町切幡観音地区は、阿波市役所のすぐ東側の地区です、切幡寺は北東約1kmのところから山の上へ長い石段を上ります

 阿波市役所の東側道路を南へ、直ぐの信号を左(北東)へ、県道139号線です

 約400mで「⇐10番札所 切幡寺700m」の標識に従って左(北)へ

 道成りに約400m坂道を上っていくと

 仁王門の先に駐車場があります

 長い石段を上って、本堂と大師堂にお参りしました

 本堂の西側の高い所に大塔の屋根が見えます

 大きな説明版が有ります
   「切幡寺大塔」概要
 ■名称    切幡寺大塔
 ■指定分類  国重要文化財
 ■指定年月日 昭和50年6月23日
 ■構造形式  五間二重塔婆
 ■寸法    間口・奥行 初重 10.000m
         〃    二重  4.848m
 ■高さ    総高       24.168m
 重要文化財「切幡寺大塔」は、慶長12年(1607)豊臣秀頼が大阪・住吉大社神宮寺再興時に東西二基の塔を建立したが、明治初頭、神仏判然令により神宮寺が廃寺となった為、当院がその「西塔」を買い受け、明治6年から15年(1873~1882)にかけて現在地に移築した。 
 西塔の完成年代は定かではないものの実肘木や須弥檀等に桃山時代の特色が見られる。
 昭和50年6月23日には、現存する唯一の二重方形塔婆で移築による改造も少ないことから、国の重要文化財に指定された。
 切幡寺大塔は、二重を方3間とするのに対し、初重を方5間とすることから大塔と呼ばれる。
 軒は初重・二重とも二軒繁垂木で、組物は初重が出組、二重は四手先組とする。
 内部は、初重では各柱通りの交点すべてに円柱を建て、入側柱通りに切目長押を廻してこれより外を外陣、内側は長押分床を一段高くして内陣とする。
 天井は内・外陣とも小組格天井であるが、四天柱内は折上げて内々陣とし、須弥壇を置く。
 須弥壇奥の来迎壁以外に内壁はないが、各陣境に内法長押と垂壁を廻すことで、それぞれの空間を分けている。
 二重は側柱を円柱・四天柱を角柱とし、心柱を含めすべての柱は初重入側柱上に組まれた柱盤に建ち、四天柱より外側に床板を張る。
 側廻りは初重・二重とも各面中央間を弊軸構え板戸両開き、他の間を連子窓とするが、初重の正面だけは両脇間も弊軸構え板戸両開きとして正面性をもたせている。
 外部は初重・二重とも四周に切目縁を廻し、二重には跳高欄が付き、屋根頂上にな多宝塔形式の宝鎖付相輪を飾る。

 須弥壇奥の来迎壁には「宝池の画」と桃山時代の代表的な絵師である狩野山楽(1559~1635)筆と認められている「猊座文殊画」は画面の左半に伏している大きな獅子の背上で、左手に柄の長い如意をとり、右手に経巻をもった文殊が立ち膝の姿で腰掛け、顔は静的な表情としている。
 画面の右下には教えを請おうとする童子が描かれ、その上には文殊の表情とは対照的に、炎のように大きく揺らめく獅子の尾を描き、獅子の動きを表現するとともに、画面全体に緊張感をもたせている。
 このような表現の非常に豊かな画法は、山楽の特徴の一つである。
 「宝池の画」は、絵の作製途中で下図を直し、全体の構図を変更した痕跡があり、おそらくは当時の画工が山楽の指導のもとに描いた作品と思われる。

 急な石段を上ります

 不動堂です

 大塔はもう一段上です

 大塔です

 南西側から

 説明版です
   国指定重要文化財 切幡寺大塔
 この大塔は元、徳川家康の勧めに依り、豊臣秀吉の増進菩提のため慶長12年(1607)豊臣秀頼が大阪・住吉大社神宮寺に建立したものである。
 明治初頭、同寺が神仏判然令により廃寺となったため、明治6年(1874)当山第45世住職天祐上人が買い受け、ここに解体移築したが同上人の時代には初重部のみ仕上がり、続いて智堪上人が二重部を仕上げ、完成に10年を要した。
 その特徴は、五間四面にして、初重と二重との間が方形をなす大塔である。
 今日この形式の遺構は本邦唯一であり、国指定重要文化財たる所以である。総高24.168m。
     指定 昭和50年6月23日

 南側から

 南西側から

 では、納経所に寄って次へ行きましょう



 2024・6・8・11・25
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