昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

生涯一の大風景

2021年11月24日 11時54分28秒 | 5 右翼青年 1974年~

昭和49年 ( 1974年 ) 11月25日
大東京は大快晴であった。
昭和維新を訪ねて独り
皇居二重橋から桜田門に向かった。
渡櫓門横に石段がある



上ってはならない との、立札があった。
「 上りたい・・」
「 上って、見たい 」
「 ・・・」
「 上ろう 」

意を決して 上って                 (ノボッテ)
塀超しに見た風景は、素晴らしきものであった。

Photo_2

 

 

 

 


二十歳 にして      (ハタチ)
それは
生涯一の大風景であった

大東京の重々しい空気
冷たく突き刺さる様な空気
神達の存た
警視庁が、内務省が、国会議事堂が、三宅坂台上
私は、そこから
昭和維新を一望したのである
「 なにかやれる 」
「 自分にも、何か大きな事がやれる 」
一生一大の偉業 ・・
そんな気持ちが、込上げてきたのである 
是が 男のロマン と 
そう、感じたのである

2_2

 

 

 

 

 

この日は
三島由紀夫憂国忌が行われた
大東京
東京の大きさを
つくづく、思い知らされた
私である

・・・リンク→男のロマン・生涯一の大風景

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あっという間に日が落ちて

2021年09月27日 04時07分41秒 | 2 男前少年 1963年~


    昭和39年 ( 1964年 ) 10月  私と山田

あっという間に日が落ちて
昭和和40年 ( 1965年 ) 10月終わりの土曜日
小学校4年生 ・山田、
5年生 (私)、
6年生・有原、の3人
淀川の堤防を、
毛馬から鳥飼大橋まで、
約8km 
マラソン しよう、という事に成った。
3人中、6年生・有原しか、
鳥飼大橋まで行った経験が無い。

淀川小学校では毎年、冬の3学期、耐寒訓練と称して淀川を走った
ゴールを学年に応じて決めていて、
5,6年生 男子は、鳥飼大橋まで、
3,4年生、5、6年生女子は、城北公園付近の河川敷 ( 今のラグビー場付近 )、
1,2年生は、学校内の運動場を駆ける
・・・と、そう謂うものであった
それは、午前中に行われた

昼飯を済ますと、3人は出発した。
家から、淀川小学校前を通り
北毛馬公園 ( 現、毛馬中央公園 )、
淀川中学校前を通って、淀川の堤防に上がる。

いざゆかん
意気揚々、走りだしたのである。
右に、
桜ノ宮高校のグランド

公団都島団地
左に、
赤川鉄橋
・・・
と、駆け抜けて、調子が良い。
城北公園にさしかかり、しばらく徒歩に。

イメージは 昭和55年 ( 1 9 8 0 年 ) 頃 ?   城北公園 
物語の 昭和40年 ( 1 9 6 5 年 )  当時は 豊里大橋 も 阪神高速道路も無かった


太子橋 ( 現、豊里大橋付近・昭和45年建造 ) 付近から又、走りだす。
家からだと、かなりの距離である。
ではあるが、
振り向くと、赤川鉄橋も見える。
此の辺りまでは、遠い とは、感じなかった。
ここから先、淀川が大きく蛇行する。

八雲 ( 守口市 ) まで来ると、
さすがに遠い処まで来たと実感するのである。
振り向けど、
赤川鉄橋はもう見えない。
さすがに、不安に成ってくる。
「 遠くまで、来た・・・」
八雲を過ぎると、前方に鳥飼大橋の姿が見える。
あと、すこし
走ったり、歩いたり、休憩したり
長道中ではあったが、
やっとのこと
鳥飼大橋に辿り着いた。

どのくらい、時間が掛かったかは、判らない。
時間なんて、気にも掛けていなかったのだ。
そもそも
時間の意識は無かったのだから。


ゲルバートラス橋の鳥飼大橋
1954年建造で、私と同い年
2006年 撮影

小休止終了
「 さあ、引き返そう 」
日は、未だ高い
高い と、想った。
 類似イメージ
秋の淀川、きれいな景色だった。
八雲付近で河川敷に降りると、
暫らく、河川敷を歩く。
「 クッツキムシ を探そう 」           ( クッツキムシ ・・オナモミ  )   
見つけると、
お互いに投げ合った。
3人は良い気分で歩いていたのである。
されど、時間の意識がない。

 類似イメージ
豊里大橋下から菅原城北大橋を撮影 ・・ 2006年
菅原城北大橋は当時は無い

河川敷から観た夕焼け、・・キレイだった
「 もう、夕方かァ ・・」
そこで、初めて、時間を意識したのである。
・・・
夕日も山に懸かっていない ・・し
「 大丈夫 」
そう、思いたかった。
3人から言葉がなくなった。
誰もが同じ気持ちなのである。
3人は黙ったまま、歩く
焦っているのに、気は逸るのに、もう走れない。

類似イメージ
「 どうしよう・・・」
日が山に懸かり始めた。
それでも、廻りは未だ明るい。
大丈夫、暗くなるまで、未だ、時間はある
・・・
そう、思った。

類似イメージ
而して
落日は速かった。
日が山に懸かり始めてから、
ほんの
2,3分 で、日が沈んだのである。
日が沈むと、
あっという間に暗くなった。

城北公園まで帰って来た頃には、廻りが、まっ暗になっていた。
暗闇の堤防、ひとっこ一人り居ない。
「 どうしやう 」
来た経路 ( ミチ )で、帰ることしか頭になかった。
「 これが一番の近道 」
・・・と、自分に言い聞かせていたのである。
然し
灯りの無い堤防は、まっ暗で歩けない。
これ以上進めない。
4年生・山田、泣き出した。
「 男は泣いたら、アカン 」
「 暗い 」 ・・・と、いう恐怖
その恐怖心が、パニックにする。
ちゃんとした状況判断を出来なくするのである。
然し
城北公園まで辿り着いていたことが幸運だった。
遊びに ( 連れられて ) 来た事があったのだ。
「 知っている 」 ・・・という、安心感が、
「 堤防を降りる 」 ・・・という、発想を生んだ。
城北公園から家の方角がイメージできたのである。
イメージした方向を 「 勘 」 で歩く。
街灯なぞない薄暗い道路を三人は黙々と歩いた。
そして、イメージどおり
赤川鉄橋・城東貨物線のガードまで辿り着いたのである。
ガードを くぐると、吾テリトリーである。
出発地点に着くと、薄暗い道端で 4年生・山田の母親が心配して立っていた。
山田、母親の胸の中へ
私の母親は、このことを知らない。

翌年の冬の耐寒訓練
私は鳥飼大橋まで、大勢の 6年生と一緒に走った。
「 川の向う ( 対岸 ) は、吹田ヤデ 」
・・・6年生が言った。
皆が一斉に
「 おなか!」 「 スイタ!」
「 おなか!」  「 スイタ!」
・・・そう、
掛け声をだして走ったのである。
・・調子に乗って
鳥飼大橋に着いて、小休止
堤防の土手の直ぐ際まで 「 ワンド 」に、なっていた。
土手の下に降りた私は、川の水で のどの渇きを癒やした。
それはもう、おいしかった。

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貞子さん(ていさん)

2021年09月14日 15時05分32秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

私は
幼年期 ( 昭和29年~昭和37年 ) を
広島県安芸郡下蒲刈町三ノ瀬 ( 現在は呉市 ) で過ごした。
此は
昭和36年 ( 1961年 ) 7才
小学一年生頃の物語である。

貞子さん ( ていさん )
 「 アッ! 貞子(てい)さん 」
叔父の自転車の後ろに坐っての帰り途、
波止場の端に、
一人腰掛けている
貞子(てい)さんを見つけたのである。
海を見ていたその背中は、
何か知らん 淋しそうであった。

呼びかけようとしたが、
叔父に制止されてしまった。
叔父と貞子(てい)さんは中学一年の同級生、
照れくさかったのだ。
貞子(てい)さんは気づいていない。

貞子(てい)さんは、
8人家族 ( 祖母、父母、二人の兄、二人の弟 ) の一人娘。
父親は肺病で伏せていた。
母親と出稼ぎの二人の兄が家計を支えていた。
日本中が貧しい頃のこと、貞子(てい)さんの家も変わりはなかった。
貞子(てい)さんは、働きに出る母親の代わりに家事をしていた。
「食うもんがないんで、(浜で) あさり採って食うたんよのう 」
想えば中学一年の少女である。
然し、このこと 何も特別のことでは無かった。
周りの皆もそうだったのである。
私の親父も大阪へ出稼ぎしていた。
けれども私は、貧しさというものをちっとも意識しなかった。
日々の暮らしとは、そんなもの・・・と、想っていたからである。

貞子(てい)さんは、私の家に妹の子守で何度か来たことがあった。
おいしいものが食べれる、それが楽しみだといって、喜んで 引き受けてくれたらしい。
冬の寒い中、甘酒 ( 酒粕で作ったもの ) は、御ちそうである。
私は貞子(てい)さんと一緒に甘酒を呑んだ。
貞子(てい)さんは嬉しそうだった。
私も嬉しかった。

この頃は台風がよく来た。
私の村は島 ( 瀬戸内海に浮かぶ、対岸は呉 ) なので、その影響は大きかった。
褐茶の海は白く波立ち、
雲は飛び散っていく、
打寄せる波は道路へ飛沫を揚げた。
幼い私は台風が恐ろしかった。

深夜の事である。
貞子(てい)さんの家の屋根が落ちた。
一家は眠っていた。
貞子(てい)さんと父親が埋もれてしまった。
貞子(てい)さんには大きな梁がのしかかっていたのである。
駆けつけた消防団によって、父親から救助が始まった。
父親は病人
二人同時の救助には手が足りなかったのである

父親を救助しながら
「貞子、まっちょれよ、もうすぐじゃきんのぉ 」
「 ええ・・」
「 まっちょれよ 」
「 ええ・・」
「 がまんせえよ 」
「 ええ・・」
皆は返答する貞子(てい)さんは大丈夫だと思ったのである。

貞子(てい)さんの救助が始まったとき、息は無かった。
目も、鼻も、口も、耳も 泥が詰まっていたという。
苦しかったろうに
早く助けて欲しかったろうに
それでも貞子(てい)さんは、
「 ええ・・」 と、答えていたのである。
こんな状態で、返事をしていたのかと、
皆は その けなげ に胸をつまらせた。

先に救助された父親は数時間後、亡くなった。
「 貞子を先に救助していたら、死なさんで済んだのに・・」
「 もう五分でも助けるのが早かったら 」
・・・
と、皆は悔やんだ。

嗚呼
あまりにも悲しい
貞子(てい)さんの 運命(さだめ) である。

波止場に坐って
海を見ていた貞子(てい)さんの後ろ姿
脳裡に焼きついて 忘れる事は無い。


昭和36年 ( 1961年 )  卒園祝いの品 ・・ アンパンを食う私
道路と波止場の分岐点
私が坐っているコンクリート護岸の先端に
貞子さん ( ていさん ) は坐っていた。

古城


松風騒ぐ 丘の上
古城よ独り 何偲ぶ
栄華の夢を 胸に追い
嗚呼 仰げば侘びし 天守閣

崩れしままの 石垣に
哀れを誘う 病葉や
矢弾の痕の 此処かしに
嗚呼  時代を語る 大手門

甍は青く 苔生して
古城よ独り 何偲ぶ
佇み居れば 身に染みて
嗚呼 空行く雁の  声悲し
・ ・・ 
昭和34年 三橋美智也
貞子(てい)さん 
・・・の、想い出
を偲ぶ時、
なぜか知らん
何時もこの曲が脳裡を過る

追記
ていさん には 姉が存たとのこと
当時既に働きに出ていたので、私の記憶に登場しなかったようだ

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引き潮が 満ち潮に変わる時

2021年09月13日 04時37分34秒 | 3 青い鳥 1967年~


↑ 昭和37年 ( 1962年 ) のテリトリー
『 住吉浜病院 』
昭和34年( 1959年 ) 5歳の頃、
正確に如何いう病院かは知らなかった。
然し、「 肺病の病院 」 ・・・と、先輩達から聞かされていた。
浜辺を歩く寝間着姿の大人の姿を見たことがあった。
なにかしらん 異様なその姿を観て、
「 さもあらん 」 ・・・と、そう想った。
その頃はそうだったのかも知れない。
 仏ケ崎の妹
住吉浜病院へ祖父を見舞う
昭和44年 ( 1969年 ) 10月14日
祖母 ( 母方 ) の見舞に帰郷した。
昭和38年 ( 1963年 ) 海峡越えて大阪へ出てから6年振りのことである。
・・・リンク→「 おばあさん どうやった? 」 ・・・○○○ が 問いかけた

引き潮 から

祖母の見舞が一段落すると、
明日は、住吉浜に行くと母が言う。
住吉浜病院に祖父 ( 父方 ) が入院しているのだ。
想えば、昭和39年 (1964年 ) 伯父の葬式以来 祖父の顔を見ていなかった。
・・・リンク→明日があるさ
曇り空の15日、昼過ぎ。
母と共に、祖父の許へ向かった。
この日の為に、学校 ( 高校三年生 ) を休んでくれた3歳上の従姉が案内してくれる。
従姉の優しきは不変也。
昔のままに ちっとも変っちゃあいないのである。
 
昭和44年 ( 1969年 )            昭和37年 ( 1962年 )
向港の桟橋に立つと、
海峡を挟んだ三ノ瀬港から渡海船が迎えに来た。
昔のように 櫓を漕ぐ舟ではない。
エンジン付のスクリュー船だ。
乗船すると、向港から一直線に三ノ瀬港へと走った。
 向港と渡海船
三ノ瀬港に着くと、
桟橋を上って路に立った。
これから一路 住吉浜へと向かう。
曾て 少年の私が闊歩した路である。
同じ路を 同じ順に歩いた。
なにせ6年振りのこと、どこもかしこも 懐かしい筈である。
然し、そんな心持ちにはなれなかった。
曇り空が重い。
なにか知らん 憂鬱な心持ちであったのだ。
さもあらん、昨日の今日である。
曾て 少年の私が、
あれほど遠い処 と、想っていた住吉浜。
さほど遠くは無かった。
・・・そう、感じた。

祖父はベッドに臥せたまま 口をきいた。
母が、私が、
何を話したかの記憶はない。
唯、
祖父は、傍に居る従姉のことを尋ねた。
さもあらん、祖父にとって従姉は初対面なのだ。
私はそんなことを、
生涯の記憶として覚えているのである。

これが祖父との今生の別れとなった。

吾心も、曇天の空も、晴れないまま・・・帰り路を歩いた。
だから、折角の風景 みちゃあいない。
すれ違う人も 知らぬ顔ばかりである。
もはや、此処では自分等が よそ者になっていることを感じた。
「 もう、故郷はないのか 」
・・・と、そう想った。

丸谷の祖母の所には寄らなかった。
余計な心配をかけたくなかったからだ。
 イメージは1979年
満ち潮 に
三ノ瀬港の桟橋から渡海船に乗った。
船が桟橋を離れた。
これから港を出て海峡を越える。
「 嗚呼、これで三ノ瀬とも おさらばか 」
そんなセンチメンタルな気持に流されそうになっていたその時。
ミヤちゃーん !!  」
と、大きな声で母を呼ぶ声がした。
「 誰じゃろ ? 」
母が振り向く。 私と、従姉も、その姿を探した。
ガンギの上に立ち、こちらに向って手を振る女の人の姿があった。
「 あれは、サユリさんじゃ 」
と、母が呟いた。

その瞬間 とき
なぜか知らん
少し、気が晴れた
そんな気がした

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「 おばあさん どうやった? 」 ・・・○○○ が 問いかけた

2021年09月12日 19時17分51秒 | 3 青い鳥 1967年~


友ガキ・舟木、
よくぞ 頑張った。
斯くも必死なる形相、・・・拍手を贈る。
而も、裸足。 而も、完走。
『 まけてなるものか  くじけちゃならぬ 』
彼のそんな姿、
私は、それまでとうてい知るものではない。
卒業アルバム中の 斯の画像を見るまで知らなかったのである。
おそらく、彼の17年の生涯に於て、最も命を燃やした瞬間 ( とき ) であろう。
・・・リンク→17才のこの胸に
昭和44年 ( 1969年) 10月12日 ( 日 )
わが 淀川中学校の体育祭が行われた。
吾ら 中学三年生、
競技は7クラス対抗戦。
而して、
クラス一丸となり 吾クラスは優勝した。
私はというと、なんの活躍なく 無色な存在であった。
( ちなみに 徒競走は二位 )
 
3年生入場                               全校生徒 ラジオ体操・・・リンク→ラジオ体操 第二

♪僕らフォークダンスの手をとれば  甘くにおうよ黒髪が ♪
 
吾ら 3年生、男子が組立体操、女子は創作ダンス
このこと、昭和41年 ( 1966年 ) 、
小学校6年生時の運動会と、ちっともかわっちゃあいない。
  ・・・ 白組優勝 「 こんなことが 親孝行になるのか 」
男女の差別無きも、ちゃんと 区別なされていたのである。
 『 男は男らしく  女は女らしく 』 ・・そんな、時代だったのである。
ところで、小学校時の運動会では決まって万国旗があった。
そして、開会時に国旗 『 日の丸 』 が掲揚された。
旗が昇り以て、 国家 『 君が代 』 が、拡声器・スピーカーから流れた。
吾々はそれを 『 きおつけ 』 の姿勢で聞いていた。見ていたのである。
それが運動会での一連の行事であった。
ところが、中学ではそんな一連の記憶はない。 

 
校長から、優勝の賞状を授与される
吾クラス代表の tei と 野田さん

戦い住んで日が暮れて
優勝の余韻を懐に抱えて帰宅すると、・・・・
「 おばあちゃんが、もう・・・ながくないらしい 」
・・・と、母。
長柄浜に住む伯母 ( 母の姉 ) と共に明日の夜行で帰ると言う。

昭和38年 ( 1963年 ) 4月、
吾々家族は海峡を越えた。
「 嗚呼、行ってしもうた 」
・・・と、祖母 ( 母方)
窓から海峡を見つめては、そう 呟いていたという。
・・・リンク→故郷は遠きにありて想うもの

・・・その、祖母である。

運動会の翌日の13日 夜行に乗り、
翌14日 暁払い 母の故郷である 向 に着いた。
想えば、6年振りの故郷である。
 
昭和44年 ( 1969年 ) 10月15日    三歳上の従姉 ( ・・・リンク→海峡を越えて  )

ところが、祖母は元気だった。
体は動かずとも、意識はハッキリ していて、会話もしっかりしていた。
然しそれは、
『 灯滅せんとして光を増す 』
・・・の、状態だったのだ。  (
・・と、想っている )
我々は17日 大阪へ戻った。
ところがやはり
戻って息継ぐひまもなく、母はUターンしたのである。

18日、学校からの帰り路
淀川小学校前まで来たところで、
「 おばあさん、どうやった ? 」
・・・と、背中越しに声がする。
○○○ の、声である。
振向くと、
○○○ と カーディガンの姿があった。

中学生最後の運動会の想い出は、
「 おばあさん、どうやった ? 」
・・・と、○○○が私に問うた、
祖母の見舞に帰郷した想い出とが 一に合わさる。
・・・のである

そして、もうひとつ

私の中学三年生時の通知表に、
「 欠席日数・・事故・・4日 」
とあるは、
斯の帰郷した4日間
のことなのである。

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白組優勝 「 こんなことが 親孝行になるのか 」

2021年09月11日 02時18分04秒 | 2 男前少年 1963年~


昭和41年 ( 1966年 ) 10月
わが 淀川小学校の 「 秋の大運動会 」 が行われた。
競技は
紅白に分かれて戦かった。
私は、白組であった。
そしてそれは亦、小学生最後の運動会でもあった。

何と謂っても、此年の目玉は
六年生男児・・吾々の行った
相撲体操
皆で、ふんどし締めて 四股を踏んだのである。 ( 褌は晒で拵えた )
そして、最後に形だけの取組みをした。
相撲の強かった私、小柄なれどクラスの横綱は周知の事実。
( 得意技は すくい投げ・・自慢であった )
・・・身長134cm ( 6年生時 )
だから、演武とは謂え、此は大に不満であった。
「 もっと相撲を取らせて欲しかった 」
・・・のである。


男は男らしく・・・女は女らしく
吾々の時代
質実剛健、優美髙妙、男女別ありて然り・・・・此が、信条であった。
騎馬戦、棒倒し は、男児の定番 その勇ましい姿を披露した。
そして女子は、踊り以て編む優雅な姿を見せた。
男と女の力の差
運動能力の差は歴然としていたのである。
( だからといって、此を差別と言うなよ。 区別と言えよ )

五年生男児の棒倒し              優美な姿の女子
( 六年生男児は騎馬戦 )


クライマックス は
楽しかった運動会も 愈々 ラストプログラム。
吾ら 六年生男子の組立体操で幕を閉じるのだ。
トンボ、サボテン、扇、タワー、・・・・
練習した成果を出し切ろうと、皆一丸となって頑張った。
クライマックスは、 5-3-2-1 のピラミッド 。  ( 私は、3の位置 )
組み上がったピラミッド。 どのピラミッドも それは堅固であった。
そして、
お立ち台の先生から号令がかかる。
「 ピーッ ! 」  ・・・『 頭、右 』
「 ピッ ! 」  ・・・『 頭、中 』
「 ピーッ ! 」  ・・・『 頭、左 』
「 ピッ ! 」  ・・・『 頭、中 』
そして、
「 ピーッ !!!
・・・と、一段と高い号令。
吾々は、
一斉に腹這いになって、ピラミッドを崩した。
巧くできた。
「 やったー 」・・・心でそう叫んだ。 
「 オオーッ 」 ・・・どよめきが起きた。
そしてそれは
「 よく やった 」 ・・・と、大歓声に変わったのである。
会場は もう ヤンヤ ヤンヤの 拍手大喝采。
「 してやったり !!
誰もが興奮の面持ちであった。
茲で吾々は、
大なる達成感を味わったのだ。
そして、意気揚々と引き揚げたのである。

興奮さめやらぬ
そんな中、
「 花田君  」
・・・と、おんなせんせい。
「 白組が勝ったら、あなたが優勝旗を取りに行きなさい 」
「 負けたら、準優勝楯は ○○さんが取りに行くことになってるから 」
・・・と、告げたのである。
○○さん・・とは、一学期 共に学級委員を担った女子のこと。
児童会会長でもある スーパーエリート。  ・・・リンク→おんな せんせい
然し 吾々の 斯の時代、
晴れの舞台は、やっぱり男児だったのである。

全てのプログラムを終えて、
全校生徒が運動場へ集合した。
愈々結果の発表が為される。
「 白組優勝 」
・・・と、アナウンスされたのである。
果して、白組が勝った。
私は徐に列を離れた。
そして 縦列の間を一人 小走り、前へ、前へ、進んだ。
皆が私を見つめていること、背中 せな で感じた。
そして、全校生徒の中央 ・一番前に立った。
私の正面には、お立ち台に立つ校長。
優勝旗を抱えて、私が来るのを待っていた。
私は校長の正面に進み出た。
全校生徒が見つめている。  父兄も見つめている。  全ての人が見つめている。

秋晴れの大運動会
私は、勝者白組代表として優勝旗を受けた
私の心は 天晴 日本晴れ

この後、( ↑ )
傍に付添う
6年6組の
鈴木百合子先生

「 泣いているの?」 ・・そう言った。
なんで泣くものか
私は
額の汗を拭っただけである。

親孝行とは
この瞬間を遠くで見ていた母は、息子の晴れ姿と慶んだ。
ご近所の多くの親達も見ていた。
そして、母共々、慶んで呉れたのである。
「 あんたとこの子、こんなに偉いんか
母は 鼻が高かった そうである。
「 こういう事が 親孝行になるのか 」
そう、想った私である。

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教師の驕り 人としての格

2021年09月05日 16時17分44秒 | 3 青い鳥 1967年~

昭和42年 ( 1967年 )
学一年の保健体育の時間は、
2クラスで1つ の男女別々に授業が行われた。
我々男子は授業が終わり、ホームの教室に帰って来た。
ところが、教室では未だ女子の授業が続いていたのである。
チャイムは トックニ 鳴っている。
教室に入れない吾々男子、
廊下で女子の授業が終わるのを待たねばならない。

  
我々が女子生徒の授業が終わるのを待った教室・廊下
当時は 左窓下には、下足箱があり、出入口のドア窓は透明ガラス だった         ↑ 見返し
2006 年撮影                                                                                          右階段、柱横がトイレ  
原型はちっとも変わっていない                                                                   奥が 美術室  
39年という歴史的時間も、つい昨日の様に思える

教室の前後に出入口の引戸がある。
引戸には透明ガラス窓があり、中が見える。
「 未だかいな?」 ・・と
前の入口の透明ガラス窓から、覗いた者がいた。

時間を越えた授業である。
そぞろ の
女子生徒の心は窓外に注がれ、
彼に視線が集中した。

そこで、つい
彼はふざけてみせた。

女子生徒か゛・・クスッ・・と反応する。

これに、教師が気づいた。
そして
教師は、烈火の如く怒鳴ったのである。

教育の機会を放棄して
当時の教師は、
強くって カッコ良かった。

この男子生徒を教室に入れ、
女子生徒40名の前に立たせたのである。
頭ひとつ ハッて (叩いて)
そして
男子生徒を、立たせたまま、授業を続けたのである。

そざかし、満足したことであろう。
しかし 満足して貰っては困る。
一部始終を観ていた男子は、私一人だけでは無い。
廊下の男子生徒も、謂わば 教え子の筈。
しかも、中学生とは謂え、 である。
女子の目前にさらされた男子の心を慮ることも無く
己が神聖なる授業を妨害した ・・・と、
その罰として、衆目にさらしたのである。

こともあらうに、さらし者 にしたのである。

其は、明かに私憤
私憤による暴力でしかない。
教師は権力者ではなからうに。
「 俺は教師だ 」
・・・との、
特権意識、差別意識から生じた驕り、
斯の
驕りが、
とんだ人格を露呈してしまった。

「 仰げば尊し、わが師の恩 」
吾々が懐く
先生とは 人格者を謂う。
だから、畏敬の念を持つ
・・と
私は そう想う

 

我々の世代が卒業して数年後、
全国的に中学が荒れた。



学園紛争がこの頃から大きな社会問題に
1967年11月12日、佐藤首相訪米反対阻止の半日共系全学連
毎日新聞社 1億人の昭和史 

コメント (1)

昭和48年 (1973年) 3月5日

2021年08月25日 12時12分59秒 | 5 青春のひとこま 1973年~

自分も世の中に出る
なにもかもが、新しい

昭和48年2月27日、高校の卒業式が終ると直ちにその足で
級友・中根に連れられ、阪神百貨店の「VAN」へ
黒いブレザージャケットを買う

独り、天神橋筋商店街で、グレーのスラックス
白のワイシャツ 腕時計を買う

親友・長野に付き添ってもらい、阪神百貨店へ
エールックのネクタイ  デサントのソックス
「VAN」で、黒いシューズを買う

さあ、準備は整った

今日から社会人
昭和48年(1973年)3月5日(月) 曇天

てこずったネクタイを締め、初出勤
もはや、学生服姿の自分ではない
バス停までの道中、それが何やら照れくさかった
緊張感一杯 18歳9ヶ月
「今日から社会人」
人生航路、出発の日である       (タビダチノヒ)


入社した頃
事務所は西区立売堀・第三富士ビルに所在した
地下鉄四ツ橋線本町駅から四ツ橋筋を南に歩いて5分

1階エレベーターに乗り込んだ私

「いざ・行かん」
1・2・・3・4・5・6・7・8・9
胸がときめく
エレベーターの扉が開く
「ついに・・着た」
事務所の扉を開く

「お早うございます」
社会人になっての 第一声である

「お早うございます」
「今、会議をしていますので、中で待っていて下さい」
・・と、受付の女性、席を立った
そして、私を仕事室の私の席まで案内して呉れる
本棚で仕切られた通路を歩く
「あなたのロッカーです、此処を使用して下さい」
ロッカーを開けるとハンガーが一つ入っていて、それに着ていたブレザーを掛けた

ロッカーの前で靴を脱いだ
テーブル前でスリーピース姿の男性と、上衣を脱いでチョッキ姿の男性二人と出遭った
ここでも私は
「お早うございます」」
そう言って彼等の前を素通りした
もっと気の利いた挨拶、できないものか

然し、此が、精一杯の挨拶であった

阪本二郎さんと東成光さん・・彼等との出逢いであった
彼等も亦、所長と番頭・横山氏の会議を終えるのを待っていたのである
終れば、次に所員全員での月曜日の定例会議が行われる

テーブル前を左へ折れると、パーティションで仕切られたブースが五つ並ぶ
此処で各々が仕事するのだ

そして、一番奥のブースに私の席があるのだと

「会議が終わるまで、此処で待っていて下さい」

暫らくの間、窓外の景色を眺めていると
「始りますよ」・・と、坂本昌子さんの声

愈々、会議が始まる
事務所の皆と、初の対面である
歩くほどに、緊張が増してゆく
ロッカーの前
一つあった、スリッパを何気なく履いて会議室へ這入った・・・

会議は所長室で行われる
室には大きな会議テーブルがあり
ホワイイトボードがある

ホワイトボードには工事名が書かれてある
1 2 3 4 5 6 7 8 9・・・・・・

その数の多いこと
昨年秋の面接で承知している
然し
出張中の所長に代わって番頭の横山さんのみの面接で採用された私
本日まで、赤崎先生とは一面識も無かったのである

先生と初めての初対面に緊張していた
奥から現れた赤崎先生
人当りの温かい、穏やかでおおらか、優しそうな為人に、初対面の緊張が緩む
「大人物」・・と、そう直感した
皆が揃った処で、私の紹介が行われた
赤崎建築事務所
赤崎先生 番頭横山さん 阪本二郎さん 宮田さん 東さん 
そして、北田さん
・・・入社前に
事務所に電話を入れると
応対してくれた若い女性の声がきれいで、しかも話方が優しくて
「どんなに、いい女の人なのであらう」・・と、淡い期待を抱いた
事務所に着くと、女性が応対してくれた
「この人が、電話の女の人か」
イメージどおりの人であった・・・その女性である
お前、屋根伏かいとるやないか
男の人が そんな事してはいけません!!
自分のスリッパが無いと言いながら這入ってきた浪花さん
「しまった」
私が穿いているのは彼の物であったのか
会議には参加せずに戸口から一瞬顔を出して去って行った黒のブレザー姿の人がいた
その人は、以後1か月間、事務所には顔をださなかった小久保さん
私が使ったロッカーとハンガーは、彼のもの
・・・と、彼が出社してからそう聞かされた
「坂本昌子さんから、此処を使って下さい」・・と、そう聞いていたのに

もう一人、本日 体の具合が悪いと欠席していた井上さん
さらに、4月から新期入社する美濃さん・・・と、総勢12名の構成である

午前9時、定例が始まった
受付の女性・坂本昌子さん
小柄でホッ゚チャッリとした可愛い容姿なれど才女である
自分の椅子を運んで、戸口に独り腰掛けている
膝上10cmのミニスカートから出た膝が大人の女性と意識させた

ホワイトボードに書かれた工事の各々担当者が一週間の進捗を述べる

さすが 設計事務所
格好いい
私が憬れたものである
皆が輝いて見える
「ヘェー」
社会とはこう謂うものなのか
自分もああして皆の様に発表する日が来るのか・・・
 横山さん
仕事場はパーティションで区切られ、二人一組で一つの一ブースに席を置いてしごとをする
私は、番頭・横山さんとのペア
番頭・横山さんが、私の教育係であった
記念すべき第一日
記念すべき初仕事
「数字を書いて下さい」・・・とな
なんとまあ
こともあらうに
記念すべき、最初の仕事は数字の書き取り・・だと
1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 ・・・・・ 
修業の初歩は 「雑巾がけ」 から
何の疑問も、不満もなく、・・・何せ私は素直であるから
これで、給料を貰っては申し訳ない
赤崎先生にそう言うと
「いやいや、これは君への投資です」
「一生懸命勉強して、早く一人前に成って下さい」
気にせずとも良いと

昼食
「オッ 豪華やな」・・と、浪花さん
豪華絢爛なる母の手作りの弁当は、我子への精一杯の想い
坂本昌子さん、北田さん、浪花さん・・皆は、仕出し弁当を食べていた
そんな中私は一人、皆に背を向けて食べた
なんと、不器用な青年なるか
せっかくの母の弁当も、味わう余裕なぞ・・あるものか

「コーヒー飲みに行こう」
食後、阪本二郎さんがコーヒーに誘って呉れた
「食後、喫茶店に行く」・・・勿論初めてのこと
事務所傍の喫茶店 VIBU
お金を持っていない・・・
コーヒーを飲んで席を立つ段になって初めて気づいた
お金を払うこと・・全く意識の外であった
此を、以ての外・・と、謂う

午後になっても更に、数字の書き取りが進んだ
宮田さんが、数字の書き取りをしている私を覗いては、親切に声をかけて呉れる
新人の私に興味津々といったところか
誰も皆 新人の頃があった・・と
己が新人の頃を懐かしんでいる風である
とにかく 皆は親切であった

そして、5時
終了の時刻だ
然し、教育係の横山さん・・出かけていて不在
どう・・切りをつけやう
帰れない
どうしやう
・・
と、その時・
「もう、帰っていいよ」・・と、阪本二郎さん
やれやれ・・
私の顔を見て、
宮田さんが微笑んでいる
「ああ・・・疲れた」

此れが
昭和48年(1973年)3月5日(月)
私の社会人初日
長~い
一日の、ドキュメントである

昭和48年11月17日・合歓の郷
後列左から・・井上さん・・阪本さん・・美濃さん・・東さん・・宮田さん
前列左から・・浪花さん・・小久保さん・・前田さん・・北田さん・・横山さん・・赤崎所長・・私(19才)・・押条さん
坂本昌子さんは結婚退職・・前田さんと入れ替わった 美濃さんは4月阪大新卒入社 押条さんは6月移籍入社

赤崎建築事務所時代 1973年 ( 昭和48年 ) ~ 1979年 ( 昭和54年 )
リンク→ VAN は、憧れであった
リンク→ 羊羹(ヨウカン)と、クリープ の話 
リンク→ 10時になったら、帰ります
リンク→ 男の人が そんな事してはいけません!! 
リンク→ 酔うた~
リンク→ 「 どうして 俺が叱られる 」 ・・・因果な奴
リンク→ 隣りの あの女性(コ) 
リンク→ ミニサイクル と交通ゼネスト  
リンク→ 意見具申、そこに居た第三者
リンク→ 俺は男だ 
リンク→ 青春時代 『 青天霹靂のリストラ 』
リンク→
二級建築士に成る 
リンク→ クッターの公式

コメント

羊羹(ヨウカン)と、クリープ の話

2021年08月23日 07時35分49秒 | 5 青春のひとこま 1973年~

私には二人の師匠が存る
赤崎尚信先生
その一人である。
昭和48年 ( 1973年 ) 3月5日(月)、18才9ヶ月
設計士に成る夢を抱き 赤崎建築事務所に入社した私
赤崎先生に将来の夢を託したのである。
リンク→ 昭和48年 (1973年) 3月5日

先生45才、私19才 昭和48年合歓の里

先生の人物像を語るに
逸話多き人物なりと
先輩達より数々の、伝説的逸話を聞かされた。
その中の一つ
羊羹(ヨウカン)の話
午後三時は小休止、
頂き物の羊羹が御茶うけである。
皆して、一本半を食べた。
先生は所用で、後で食べるとの事
「しめた」・・と
此ぞと、皆の心に茶目っ気が湧いたのである。
さっそく、残り分の半分を模型製作で使う粘土で以てそっくりに作り、
そして、残った半分と合せ、元の一本として綺麗に包み紙に戻して置いたのである。
然しそれは、そっくりとは謂っても所詮は粘土、
殊更注意して見ずとも、子供でも一目で分るであらう程度の物
包み紙を開かば、たちどころに見破られ
「 すいません 」 ・・と、謝る振りをして大笑いする。
これが皆の筋書きであった。
ところが、筋書き通りにはいかなかった。
皆の思惑は外れた。
包み紙を開いても気付かなかったのである。
それどころか
つづいて、カッターを入れてゆく
「 ・・・・ 」
皆は、固唾を飲んでその様子を見ていた。
然し、先生、本当の羊羹と信じ切っている様子
皆のイタズラだと、全く気付こうべくもない。
そして
スワッ 大変
「 この羊羹、おかしいです 」
「 変な臭いがします 」
「 メーカーに連絡しなさい 」
・・と、いかにも真顔で叫んだ。
「 先生、気が付いていない 」
これで、慌てたのは仕掛けた方の皆であった。
「 まさか、真に受けるとは想わなかった 」 ・・と。
先生には冗談は通じない。
先生の生真面目は、皆の茶目っ気を凌駕したのである。

昭和49年11月3日 隠岐


オイルショックこそあれども、景気の良かった昭和49年(1974年)
大同門の新築工事に於いて、超突貫で設計を片づけなければならぬ事態が起った。
どうしても、期日に間に合わさねばならない・・と、
事務所の全員でその仕事を完成させることとなった。
「 皆が一丸と成って頑張るしか無い 」 と、赤崎先生。
各自、自分の担当仕事を一旦置いて手伝うことに成ったのである。
当仕事の担当者であった宮田さん。
統括責任者として、
皆からの質疑等の解答、各図面の連携、等々、専ら調整約に徹する態勢とし、皆に作業を割り振り
皆は割り振られた図面を作図したのである。
私は、展開図の作図の任に当った。
私は、急ぎの場合に多数で一斉に作業する方法をここで学んだのである。

 展開図サンプル
2005年、パソコンで作図したもの
手書きの1974年当時 からすると、考えられないくらい
作図する作業はスピードUPした

休日出勤となる土曜日
私は、( 平日の定刻は9時 ) 午前10時過ぎに出勤すると、
「 僕は、一睡もしなかった 」
「 君は何時間、寝たのかね 」
と、赤崎先生。
昨日は芦屋の自宅へは帰宅せず、唯一人 事務所に残って頑張ったのである。
「 僕は、徹夜した 」 ・・と、自慢する先生の手前
「 3時間程寝ました 」
・・私は、家へ持ち帰って仕事をしようとしたるも
帰宅するやバタンキュー、そのまま寝てしまった。
従って何もしていなかったのである。

クリープの話
ランチタイム
既に社会は、週休二日制が定着し始めていた。
土曜日とあって、仕出し弁当も休日、
平日なら、吾母の手作りである弁当持参の私も、さすがに持参しなかった。
そこで私は
事務所で用意していた カップ焼きそば を食べる事にしたのである。
 
お湯を注ぐだけで簡単に作れ 当時としては画期的なものであった

「 一緒に食べましょう 」
と、先生
いつもの如く、腰に手拭ぶら下げたるスタイルで現われた。
そして、二人肩を並べて食することに成ったのである。
ところが、何を思ったか先生
コーヒー用のクリープを取り出して
「 こうすると美味いんですよ 」 ・・と
ソース焼きそば にクリープをまぶして、然も 混ぜて食べ始めたのだ。
そして
「 美味しいですよ、君も ( クリープをまぶして ) 食べなさい 」 ・・と
私は遠慮した。
美味しい・・・なぞとは
とうてい想えなかったから。
満足そうに食している先生の横顔をまざと拝見しながら、
これぞ、赤崎先生の真骨頂
・・かな、と
感心したのである。

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木枯し紋次郎の一膳めし

2021年08月22日 16時02分47秒 | 4 力みちてり 1970年~

「 木枯し紋次郎 」
昭和47年 ( 1972年 ) 一月一日より、フジテレビで放映されたテレビ映画
「 あっしには関わりのないことでござんす 」
は、誰し
も知るところである。

偶々見たる、めし屋 で紋次郎が一膳飯を食う場面

冷や飯に味噌汁と、いかにも粗末なもの
紋次郎・・膳が運ばれるや
冷や飯に味噌汁をぶっかけ、それをササッと箸で混ぜると
カッカカカッ・・・・
一機に腹ん中に流し込んだ
そして、看板の長楊枝を咥え、足早に立去る
・・・と、いうもの


昭和47年 ( 1972年 )
1月6日 ( 撮影・下辻 )
高校二年生の17才

クラブ ( 軟式野球部 ) も、オフの日曜日。
いつも目を覚ますと、昼はとうに過ぎていた。
「 ハラ、へったなあ 」
昼食は終ってすっかり片付いている。
「 いつ起きるか判らんから、仕舞をつけた 」
「 晩ご飯まで待て 」
・・・と、母が言う。
然し、晩ご飯まで、この空腹に堪えることなぞ出来るものか。
この空腹如何して呉れよう
・・・と、覗か
鍋に僅か味噌汁と、
電気釜に冷や飯が残っているではないか。
然し、如何せん残りもん、美味い筈もなからう・・が
は、冷や飯に味噌汁をぶっかけ、それをササッと箸で混ぜると
カッカカカッ・・・・
一機に腹ん中に流し込んだ。
ところが然し
それはもう、美味かったのである


紋次郎の一膳めし
美味い・・・との想い
それは、今も尚、変らないでいる。
卵の入った、じゃが芋とワカメの味噌汁、
これに、刻んだネギを入れ、熱い味噌汁を啜る。
そして、汁が半分弱になった頃合いに、
斯の如く斯の様に食する。
もう堪らない
・・・至福の味わいなのである。

此を、貧しいと、品がないと、吾妻は嫌う。
然し、吾食が大時代の呑百姓 並 であらうとも、
「 うまいもん は うまい 」
・・・のである。

「 余は満足じゃ 」

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切身の塩サバ 一つ

2021年08月21日 15時09分51秒 | 3 青い鳥 1967年~

「 オイオイ、そんなん有りか 」
「 なんやお前、そんなん持ってきて、怒られるゾー 」
「 シルカー、俺が包んだんちがうわい 」
「 オッ、それ凄いな 」
「 俺にも見せろ 」
「 なんや、ナンヤ 」

弁当箱の包み紙を開くと
ディリースポーツ
こともあらうに

ポルノ洋画のワンシーン写真が一面に掲載されている。
普段、見たくても恥ずかしくて、堂々とは見れないモノである。
もう、昼飯し食ってる場合ではない。
女子の冷やかな視線も お構いなく、男子連中こぞって集った。


昭和42年(1967年) ツィギー来日により 世はミニスカートブームに

昼食は弁当
昭和42年 ( 1967年 )

我が淀川中学、給食なぞ無かった。

昼飯しは弁当
新聞紙に包んでカバンに入れると
偶に、オカズの汁がカバンの底まで染みた。
唯一、お茶のサービスがあって
当番が、湯沸室からお茶の入ったヤカンを運んだ。
男子は、弁当箱の蓋をコップに代用した。
女子の様に、myコップ を、持つ者なぞ誰も居やしない
湯沸室

ご飯の代わりに、パンを持参する者もいて
そのたいていは、アンパン、ジャムパン、クリームパンと牛乳
中には、菓子パンやクロワッサンとか謂うハイカラなモノを持って来る者もいたが
いずれにしても、パンは少数派であった。
その中に一人
食パンにマーガリンをぬって 淡々と食べる男子生徒がいた。
母一人兄妹二人の家庭である。
「 ・・・・」
その姿を目の当たりにして
だれも
冷やかしたり、茶化したり ・・そんなこと できるものか。


  
玄関袖勝手口            通用門
風紀委員に札を見せ通過          登下校時のみ開門


ちょっとした
 油断
弁当を持ってくる・・が、困難な家庭の者も存る。
彼等は、4時間目の授業が終わっての昼休み、特別に校外に出ることを許された。
昼食の食料品を買う ・・・が、条件である。
許可証の札を見せれば、風紀委員が、勝手口を通して呉れた。
偶々弁当を忘れた者や、その日に限りパン食の者等も大目に見てもらっていた。

偶にはパン食も 良いだらう ・・・と、その日はパン食の私
許可証を得て、正門袖の勝手口へ
いつものとおり、門番をする風紀委員の他に、4、5名の生徒がいる。
その中の一人から、声がかかったのである。
「 ハナダ 」
見れば、三年生の原田さん。
彼は、軟式野球部のキャプテン
「 高校から、スカウトがきたんやて 」
特待生として野球進学する ・・という噂の主である。
小学六年生の時、北毛馬公園で面識があり
私は彼から
「 中学に上がれば野球部に入る様に 」
と、勧められていたのである。

然も彼は、生徒会会長
吾々の入学式に於いて、生徒会会長として祝辞を述べた。
彼の、その低音 且つ 囁く斯の如しのスピーチは、印象的で

「 さすが中学三年生 」
「 大人だと 」 ・・・と、母を感歎させた程の人物である。
その大先輩が
「 頼むわ 」 ・・・と
私の許可証を利用するのである。
断れることなぞ できるものか
「 いいですよ、で・・何を買うんですか 」

「 チェリオ 買うてきて 」

野球を通して顔見知りの後輩の私
その気安さが、生徒会会長と謂う己が立場を忘れさせた。
ついつい
先輩後輩と謂う 普段の ノリ が、勝ったのであらう。

 
昭和42年 ( 1967年 ) 5月30日  六甲山

弁当のオカズは
切身の塩サバ一つ
昭和42年 ( 1967年 )
中学一年五組

昼飯しの時間のこと
 
同級生・谷口
教卓に腰掛けて私の弁当を上から覗き込んでいる。
最前列 中央教卓前が私の席
「 嫌な奴やな 」
・・・
とは、想えど
「 見るな、退いて呉れ 」 ・・・とは、言えなかった。  (ノイテクレ)
男前の私
弁当箱の蓋を立て、隠して食べる芸当なぞ できるものか。
「 オカズが貧阻だから恥ずかしい 」
・・・とは、想われたくなかったのだ。
男は豪快に ・・・誰もが持つ信条
そんなことくらいで恥ずかしがっていては、男が廃る (オトコガスタル)
そんな信条に縛られているのだ。 (・・・何が豪快なものか)

それでも、精一杯の痩せ我慢
なに喰わん顔をして、淡々と、カバンから弁当箱を取り出した。
今日は
通常の弁当箱 + オカズ入れ小箱、更に味付海苔一束
「 オッ、ハナダ今日は豪勢やな 」
私もそう想った。
普段なら弁当箱一つ
その中に粗末なオカズが入っている。
然し、今日は普段と違う
期待できる  ・・・と、そう想った。
そんな気持ちで以て、オカズ入れの蓋を開けたのである。

「 ・・・ 」
谷口
なんにも言わず
気まずそうな顔をして
スゴスゴと自分の席に戻って行った。

なんとまあ
おかず入れの中は、切身の塩サバ一つ
なんのことはない
普段の弁当箱のオカズが、
わざわざオカズ入れの小箱に入っていただけなのである。

  アルマイトの弁当箱
  私の場合、仕切板のみ
  普段、オカズ入れは使わなかった
  物語の日に限って登場したのである

 

 



弁当のオカズ

がぜん良くなったは、高校に入ってからのこと
私が、切身の塩サバ一つ の話、する度に
「 あの頃は、貧乏していたから 」
「 それに、(上手な)弁当の作り方 知らんかった 」
母は
いつも笑いながら
そう答えた。

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世の中に、こんなにうまいもんがあるのか

2021年08月20日 06時09分48秒 | 2 男前少年 1963年~

うどん
年期 ( 広島に在した頃 )、
素麺、ひやむぎ、中華そば は 記憶すれど、
「 うどん 」 ・・・を、食べた記憶がない。

昭和38年 ( 1963年 ) 大阪に引っ越してきて、
毛馬の大衆食堂 「 ふくのや 」
・・・で、
食べた 「 すうどん 」 から始る。
一杯、30円の 「 すうどん 」 に、大阪の味を感じたのである。
「 すうどん 」 という ネーミング にも 感心した。
以後、今日まで、うどん を 好物として食べ続けている。
そのなかでも、「 かもなんうどん 」 は、美味い。

恵叔父に連れられ、天王寺動物園へ行った。
もちろん、動物園など生まれて初めてのことである。
「 ゴツン・・言うたナァ!」
我々の見ている前で、
サイ が コンクリートの壁にその角を突いた。
突いた時の音に、見物の皆が、驚かされたのだ。
「 サイ・・すごいなぁ 」
ライオン や トラ を見たであらうが、その記憶は無い。
ゴツン という音の記憶が、あまりにも強烈だった為である。


動物園の帰り、
通天閣傍の大衆食堂で昼食を取った。
叔父が ちゅうもん したのは、
どんぶりばち の蓋に タクアン双切れが小皿の乗った
『 親子丼 』
生まれて初めて食べる
・・・・
ところが
食べて ビックリ
世の中に こんなにうまいもんがあるのか !! 」

まさに感動の味であった
9歳の少年の私、
それはもう
幸せな気分に成ったのである

而今
吾々は何でも食べられる
そんな幸福の中に存る
それはもう、美味しいものばかりである
しかし
「 美味しい 」 とは 想えど

「 こんなうまいもん 初めて食べた !! 」
・・・そんな、
感動的な出遭いは無い

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「 なんやお前、教科書忘れたんと違うんか 」

2021年08月19日 05時13分41秒 | 3 青い鳥 1967年~

「 柿、うまそうやな 」
「 ん・・・ 」

授業中
二人して窓の外に目を遣れば
朱く熟した実をつける柿木が見える
秋・・哉

・・・・と
肩を並べて二人、良い雰囲気であった。


   昭和43年 ( 1968年 ) 10月9 日 京都国際会議場

大阪市立淀川中学校二年四組
男女相互に仲好く、私には、小・中を通じて一番のクラスであった。    
中学生の生活にも慣れたし
未だ未だ、高校入試にも間がある。
そんな雰囲気の中で誰もが、思春期の中学生を謳歌していたのである。
リンク→心を合わせるということ とは

昭和43年 ( 1968年 ) 二学期
くじ引きで決める席替え
偶々
○○○と、机を並べた私
暫らくの間、共に機嫌よう過ごしていた。

ある日突然 二人黙る・・

「あいつ、なに怒ってるんやろ」
ある日を境に
○○○が、くちをきかなくなった
今の詞で謂うと、「 シカト 」          ( シカト・・不愉快なる単語である、使いたくも無い )
「 無視 」・・される覚えは全く無かった。
ましてや、喧嘩をした訳でもない。
然し其の仕打ちは、理不尽であらう。
男のメンツまる潰れである。 ( ・・・男ごころが傷ついた )
理由を訊ねれば良かろうに然し、そこは たかが14才中学生。
それなら俺も、くちをきくまい ・・・と、
其れが相乗して、互いが意地を張り合う羽目に為ったのである。
然し、心底腹が立った訳では無い。
「 あいつ 如何して機嫌が悪いんやろ、つい昨日まではあんなに良かったのに 」
「 暫らくの間、辛抱我慢や 」 ・・と、そんな想いでいたのである。

何してんやろ、 こいつ
相も変わらずくちをきかない。
いい加減にせいよ。
もう、堪忍袋の緒も切れるぞ。 ・・・と、そんなある日
昼の休憩時間も終り、5時間目の授業がもう直ぐ始まる、
私は準備を済ませ、英語の森先生の到着するのを待っていた。
その時、左席から
「 アッ・・・、忘れた 」 
・・・の声
○○○、机の中を覗いて、何やら探している。
・・・
見つからないようである。
「 教科書を忘れたな 」・・私は、そう想った。
見ない振りをしてはいても、私の視界の端にその様子が入ってくる。
然し、ちゃんとは見えなかった。
知らん振りはしていても、やっぱり、気にかかる。
「 お前、忘れたんか 」
そう云へば、簡単だった。
然し、互いに意地を張っていた。
それが為、云えなかったのだ。
「 困るだらうに・・・」
そこで私は、
二人で教科書が見えるように、
ページをひらいて教科書を机の真ん中に、そっとつき出した。
・・・
ところが、○○○ の、反応が無い。
ン・・?
左席に目を遣れば、
「 ワオー、なんてこったい 」 ( ・・・ポパイ なら、きっとそう云うであらう )
○○○ の机には、教科書がチャンと置かれてあったのだ。
「 なんやお前、教科書忘れたんと違うんか 」
一人芝居の、一人大相撲。
トンダ三枚目・喜劇を演じた私。
頗るバツが悪かった。

○○○からすれば、
忘れたと想った教科書は、カバンの中にはいっていた。
只、それだけのこと。

ところが、
右席の私が 教科書をそっとつき出して来る。

「 何してんやろ、こいつ 」
そう想って、見ていたんだと。

「俺の気持も知らんで」
何をかいわんや・・である。
然し
『 女心と秋の空 』
此のことが素で、○○○の機嫌が元に戻って一件落着した。
やっぱり、女心は分らない。

硬派な女のポリシー
休み時間
列違いの女子と、私が喋っている。
然も、嬉しそうに ( ・・・○○○には、そう見えた )
「 男が、チャラチャラするな 」
「 男が、ニヤケたりするな 」
そういう男はキライ 」
それが○○○のポリシー・・・と、
不機嫌の因は其処にあった。 ・・・のである。

・・ 是
結局のところ
やきもちを焼いた
只、それだけのことであらう

「 ○○○ そうやろ 」

コメント

ブルー シャトー

2021年08月18日 05時45分59秒 | 3 青い鳥 1967年~

タカタカタカタカタン♪
ドラムのスティック を、持ち出して机を叩き始めた

昭和42年 (1967年 )
未だ夏服・中学1年2学期の教室での事である。
「 なんや なんや 」
男子生徒が寄ってくる。
私もその一人であった。
「 昨日な、ブルーコメッツのリサイタル、行って来たんや 」
「 へー 」
「 よかったでえ 」


クラスメイトの諏訪 を囲んで、男子生徒の輪ができた。
スティックさばき も上手いが、口も達者であった。
昨日の、ブルーコメッツショーの模様を上手に物語るのである。
その名調子に、吾々は魅了されていく。
そして、
メイン曲・ブルーシャトーのナレーションの模様を語り終えるや。
♪ タカタカタカタカタン♪
「 ゥおー 」
皆の歓声があがった。

私は、帰宅するとを取り出し卓袱台を叩いた    (チャブダイ)
 「喧しい 」
母に煩いと謂われてもかまわず。
タカタカタカタカタン♪・・
ミーハー な私、
この時より、ブルーコメッツのファンになったのである。

 
昭和42年 (1967年 ) 10月31日 、
嵯峨野へ一日遠足
そして、この日は
元首相・吉田茂の国葬が行なわれた。

ちょうどの時刻
吾々は帰りのバスの中で1分間の黙とうを行ったのである。
黙とうの余韻冷めぬ中、
クラスメイト諏訪、待ってましたとばかり


♪ ♪
雲が流れる 北国の街へ  

あなたが生まれた 心の国へ
胸にかざった 真珠のように  
やさしく輝く あなたの瞳
見つめあうふたり 
いだきあうふたりは
離れられずに
強く 強く 強く 強く
かわす ウ・・・         (クチヅケ)
雲が流れる 湖のほとり  

あなたは花に 埋もれて眠る
北国のはて ♪

得意のブルーコメッツ
サビの部分 ( ウ・・・) を 
敢えて唄わず これが大うけ

もう、彼の独壇場
北国の二人 を熱唱したのである。

グループサウンズ全盛のこの頃
「 グループサウンズは喧しいだけや 」 
・・・と、親父にチャンネルを回されることもあったが、
それにもめげず
歌のベストテン番組は、欠かさず視ていた。

小川知子 吾々のアイドル歌手であった ↓

その頃の印象曲と謂えば是
黛ジュン が歌う
「 霧のかなたに 」

♪・・・忘れな草空しく
胸ふかく抱いて
窓の明かり灯して
あの人を待つの ♪

思春期の私の心に、
淡い想いを抱かせたのである。

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殉国 「愛児とともに是非お連れ下さい」

2021年08月15日 15時37分20秒 | 9 昭和の聖代


東宝映画
「 日本で一番ながい日 」
三船敏郎演じる阿南惟幾陸軍大臣
「 一死ヲ以テ 大罪ヲ謝シ奉ル 」
敗戦の責任をとって自決する場面である。

時代劇での割腹シーンは、吾々の世代は馴染み深い

「 武士が責任をとる 」 ・・・とは、切腹するもの。
吾々は、子供の頃から そう認識していたのである。

明治維新なりて
国民は天皇に忠誠を誓った。
『 七生報国 』
「 殉死する覚悟をもつ者、憂国の至誠と認む 」 

国に殉じることは、天皇陛下への忠義であったのだ。

 神風特攻隊

殉国
親泊朝省

いよいよ降伏と決定
大日本帝国は有史以来初めて敗北を喫した。
親泊が精神の拠り処と仰いだ大元帥陛下は敵の軍門に降られ、皇軍は消滅する。
その上、故郷の沖縄は敵手に落ち、同胞の軍官民 数千人が戦死したという。
 

「 帰りなん、いざ、魂は南溟の果てに 」
敗戦と決定して以来、親泊の心中を去来したのは
この思いではなかったか。

彼の動かぬ決意を知った妻の英子は、
「 愛児とともに是非お連れ下さい 」
と、同行を願った。


長文の遺書 「 草莽の文 」 をしたため

この命断つも残すも大君の
勅命 (マケ) のままに益荒男達よ

九月二日の夜
「 ガ島で死すべかりし命を今断ちます、諸兄皇国の前途よろしく頼む 」
と、同期の井本、種村、杉田宛にしたため
妻子とともに 四十三年の清冽な生涯を終えた。

敗戦時は大本営陸軍報道部員として、
民間の報道機関に戦況を報知する任務についていた。

しかし、この任務は正直な親泊にとっては、辛い、耐え難い職務であったらしい。
「 軍の機密保持のため、実際の戦況を国民に報道することが出来ないのは残念だ。
心の中では申し訳ないと詫びつづけている。 ほんとうに辛い職務だ 」
と、うつむいていたという。

「 その時は大佐殿はもう四十をすぎておられたが、青年時代そのままの純真で清潔な、
心中一点の曇りもないようなお人柄であった。

終戦の前後はたいむが忙しくてお会いする機会はなかったが、
その悲痛な御心中はよくお察しすることができる。

大佐殿が御家族もろ共自決されたことは、九月上旬たしかに騎兵学校内で開いた。
ああ、やっぱり誤りの報道をしていた ( それはたとえ軍の命令であったにしても ) ことを、
自決して国民にお詫びなされたのだと思った。

大佐殿の平素の御性格、御心中を知る私には、
乃木大将と同じく立派な御最期だと、今でも感服し敬慕している」
と・・・岡治男 元機甲大尉

親泊の自決は、親しい人にはうすうす感づかれていたらしい。
形見わけのつもりで持ち物を知人にやっていた。
終戦処理のため、
名古屋東海軍管区司令部に転じていた私は、
憲兵隊の課長をしていた
岡村適三の世話になった。
ある日 東京から帰った岡村は、
「 小山、親泊は死ぬらしい。新聞記者がそういうとる。
何でも持ち物は自分のものは勿論奥さんや子供さんのものも惜し気なく人に呉れるそうだ 」
「 そらいかん、貴様いってとめてくれ 」
「 うん 」
岡村が上京した時は既に後の祭り、
親泊は夫人と共に愛児を道連れに朱にそまっていた。

たしか彼が陸大専科学生の頃だったろう。
夫人は可愛い子供さんをつれて私の家を訪れた。
夫人は妻の兄の教え子
その義兄から 「 妻を娶らばああいう人を 」 とすすめられた人である。
私は うちくつろぐ二人の女を比較して、親泊の幸を羨ましく思った。
それは 私の浮気性ばかりではなく、真に非のうち所のない婦人であった。
その人も共々・・ ( ・・小山公利手記 )

昔から
「 慷慨死に赴くは易く、従容義に就くは難し 」 と、言う。
従容死に赴くのはさらに難しいのではあるまいか。
大日本帝国は降伏し
天皇陛下は 「 万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス 」 と仰せられた。
これから平和が来るのだという時に、その平和に背を向け、
祖国の終焉に殉ずる決意は容易なものではあるまい。

額田坦著 「 世紀の自決 」 に五百六十八柱の芳名が載っている。
しかしそれ以外に、民間人でありながら祖国の難に殉じた人も多い。
尊攘同志会の人々の愛宕山上の自決、明朗会 ( 高級船員の団体 ) の人々、大東塾の人々の集団自決がある。
これらの人々はまことに国難に殉じた人であり、日本人の華である。
降伏時陸軍大臣であった阿南惟幾、
東部軍司令官であった田中静壱、
特攻隊の生みの親であり軍司令部次長であった大西滝治郎、
後には杉山元、本庄繁と、いずれも立派な最期を遂げている。
しかし、この人々は軍における枢機に参じ、責任のある地位にいた人々である。
この 五百八十六柱の中には、中少尉から兵士までいわゆる草莽に生きた人々が、
国の内外で祖国の敗北に殉じている。
岡潔は 「 世紀の自決 」 の序文で、この人々の散り際を花吹雪にたとえている。
「 日本人が桜の好きなのは散り際が潔いからである 」 といっている。

親泊朝省もそのうちの一人である。
「 親泊は敗戦と決定した直後から、自決を心中深く決していた、
もっと壮烈な死に方をしたいと思っていたようだ。 いつ死ぬか、その日を選ぶのに苦慮したようだ。
出来れば降伏した八月十五日に死にたかったようであろうが、
大本営の後始末、
書類の焼却などで、自決などできる状態ではなかった 」
と、親泊の親友菅波三郎は語ってゐる。
そこで、九月三日、東京湾上のミズリー号で降伏文書に調印される日の前夜、
降伏を潔しとせぬ皇軍軍人としての誇りを秘めて、妻子ともども皇軍の終焉に殉じたのである。

菅波三郎と親泊朝省(右)

満蒙の風雲がしだいに険しさを増しつつあった昭和五年の春、
鹿児島にいる菅波三郎の下宿へ、ひょっこり親泊朝省が訪ねてきた。
つもる四方山話に興じていた親泊が、急に姿勢を正すと、
菅波の目を見すえながら、
「 菅波、お願いがある。貴様の妹を俺の妻にくれないか、一生大事にする 」
と、言った。
突然のことで 菅波も返事の言葉に窮したが、

「 うむ、英子本人が何と言うか、こういう事は本人次第だ。俺には異存はない 」
と、言うより外はなかった。
その年の秋、東京で式をあげた。
この時 親泊二十五歳、英子十九歳

「 親泊様、御一家一同御自害、相果てられました 」
昭和二十年九月三日の早朝、
小石川大原町の親泊宅の隣家なる米屋さんが、
目黒区碑文谷の拙宅へ駈けつけての報せを受けて、愕然とした。

かねての覚悟の上のことではあったが、かく現実のものとなってみると、
哀痛、万感交 ゝ この胸に迫る。

取るものも取りあえず、現場へ急ぐ。
空襲を免れた古い街並みの一角、シーンと静まる親泊の家、
一瞬ハッと戸締りのしてある二階を見上げた。

「 あそこ、か 」。
玄関の扉を排して階段を上り、八畳の間に行ってみると、
親子四人、枕を並べ、キチンと姿勢を正し、
右から親泊朝省、英子、靖子、朝邦の順に、晴着を着て、立派な最期を遂げていた。

凛々しい軍服の朝省と、盛装して薄化粧の英子は、拳銃でコメカミを射ち抜き、
十歳の靖子と五歳の朝邦は、青酸加里で眠るが如く、一家もろとも息絶えていた。
件 (クダン) の拳銃は、私が満州事変で使ったもので、
二・二六事件後出所してから、出征する朝省に贈ったブローニング二号であった。

通夜、翌日納棺、荼毘に付す。
いよいよ出棺の間際、
「 お別れを 」 と 係の者が蓋を開けると、
大勢の近所の仲よしだった子供たちが中をのぞき見て、
「 ワーッ 」  と  一斉に声をあげて泣き出した。

無理もない。
きのうまで無邪気に睦み戯れた二人の顔が土色になって横たわる姿を、
まのあたりにして、ああ。

・・・・・・
終戦の日から、ミズリー艦上の降伏調印の日までの間に、
一度だけ朝省が拙宅に来た。

「 千年の後、明治天皇と大西郷が出現する。
その日まで待つのだ。祖国日本恢興の日まで」
と 語った。

「上に戴くわが皇室、上御一人の周辺から崩れ去った。
だらしなさ、国民の下部から壊れたのではない」
とも。

また別の日、
妹英子が子供を連れてそれとなく、お別れに来た、

帰る時、五歳の朝邦が、私の長男隆(四歳)の手を握り、
「 うちに行こう、一緒に行こう 」
と 言って泣き出した。

虫が知らせたのかと、あとで思った。・・・・」
・・・菅波三郎談


親泊朝省時に四十三歳、
妻英子三十七歳、
十歳の長女、
五歳の長男と共に逝いた。
英子は菅波三郎の妹である

・・・二・二六事件 青春群像 須山幸雄著から

嗚呼
敗戦が為、殉死したと
嘆に想うな
哀しいことと想うな

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