黒崎貞明著
恋闕
承詔必謹 から
・・・前頁 終戦への道程 4 『 8月15日 』 の続き
十九日になって、軍事資料部の整理は一応完了した。
そしてその夜は日本陸軍としての最後の送別の宴であった。
さすがに万感胸に迫って、涙に始まり涙に終わった。
誰もかれも皆泣いた。
・
夜半過ぎまでの宴を終って、
お茶の水の宿舎に帰ると、まったく思いがけないことがあった。
栃木県に疎開していた妻が私の寝台に生れたばかりの赤ん坊を寝かせていたのである。
三人の子供をつれて益子村へ疎開していた妻は、
この八月一日に四人目の子、次男を出産したばかりであった。
栄養不良と疲労と産後のために、みるかげもなくやつれた妻の姿をみて、さすがに胸が熱くなった。
忘れていたわけではないが、妻子のことなど顧みる暇もなかった。
「 三日前に、弟に託されてあなたの遺髪と青酸カリと遺言をいただきました。
軍人の家族として恥かしくない死に方をしてくれとありましたが、
でもこの生れたばかりの赤ん坊を一度も父に会わせないで殺すにしどうにも忍びない。
せめて死ぬ前に一度だけでもお父さんに見てもらっておきたいと上京しました 」
と妻はいって子供を抱き上げた。
聞けば、交通は混乱して汽車の屋根にまで、大勢の人が乗っているという。
切符も買えない。
必死の妻は夜中に家を抜け出し、線路を走って駅の中に入り、
朝早く、誰か親切な人に窓から引っ張り上げてもらって、
混んで身動きもできない車中を赤ん坊を抱いたまま無我夢中できたという。
汽車は駅で長く止まり五時間もかかったという。
子供を抱き上げると、私の片手の中に入ってしまいそうなほど小さく軽かった。
「 ちいさいなア、これで育つだろうか 」
「 どうせ皆で死ぬんですもの、育つかどうかなんて心配よりも、
私は四人の子供を私ひとりで殺せるかどうか心配です 」
「 そうか、もし死ぬなら私も皆と一緒に死のう。
それまで、益子に帰って待っていてくれ。私が益子に帰るまでは先に死んではならぬ 」
と私は固く言い渡した。
翌朝、妻の顔は晴れていた。
宿舎の原さんにつくってもらった握り飯を、
「 久しぶりの お米のおにぎり、子供たちがどんなにか喜ぶことでしょう。
この一ヵ月間ほどお米にはお目にかかっておりませんので 」
去って行く やせ細った妻の姿はいまでも私の胸にはっきりと焼き付いている。
疎開先では、この一ヵ月ほど、毎日配給のジャガ芋と、芋のつるの雑炊しか食べていないという。
このとき、妻は二十六歳であった。
日本の女性はみなそうであったろうが、しっかりと胸に秘めた覚悟のほどには、
男の私も 愧はじ入るばかりである。
帝国ホテル
二十七日、米軍が日本に進駐を開始した。
そして日本占領は驚くほど平静裏に進められていった。
問題は、外地にある軍の派遣軍将兵の復員作業であった。
このための対米交渉は難行をきわめた。
また、米軍が本土上陸作戦遂行のため、
日本の周辺に投下敷設されていた機雷の除去なども大きな課題として残されていた。
陸軍省、参謀本部の課員、部員たちはこの処理のため残留していた。
これらの処理が一応完了した十月末、大本営は完全に解散となり、
わたしも妻子待つ益子村へかえることになった。
・
疎開先で四人の子供とともに ひたすら私の帰りを待っていた妻は、
私の帰宅を死ぬためと判断したらしい。
「 すみません。日本刀と青酸カリの瓶は母屋の人に隠されてしまったのです。
でも短刀一振りだけは私の着物の中に隠していましたので 」
といって、一振りの短刀を差し出した。
妻は農家の八畳一間を借りて住んでいた。
お茶の水で別れて以来この二ヶ月余を、妻は私と死ぬために過ごしてきたという。
部屋を借りているお百姓さん一家に、それとなく着物類を形としてあげてしまって、
貴重品はすべて子供のおもちゃとして、身辺の整理はきれいにできていた。
「 いつあなたがお帰りになっても、心配なくすぐ皆で死ねるように覚悟も用意もできております 」
と妻はいった。
「 俺は、生きてこれからの日本のために、日本のその生きざまを見きわめようと思って帰ってきたのだ。
が、お前がその覚悟なら一応やるべきことは終ったので一緒に死んでもよい。
しかし子供はどうする・・・・」
「 勿論、子供も一緒です 」 という。
栄養失調でやせさらばえた子供たち、久しぶりの父にまつわりつく子供たちの頭をなでながら、
「 俺はこの子たちを殺すことができるであろうか 」
と一瞬不安を感じた。
無心の子供がいかにも不憫であった。
母屋の人々は、妻の荷物の整理ぶりを見て、私の帰りを一家心中自殺のためかと早合点して、
この家で死なれては困ると思ったのであろう、代わる代わる監視をつゞけている。
ふすま一枚向こう側にはいつも人の気配がして、妻とゆっくり相談することもできない。
だが妻の決心は固かった。
むしろ私がそれにつられている格好であった。
『 遣り損なったら惨めだ 』 と思い、機をうかがいながら二、三日を過ごした頃には、心身ともに疲れ果てた。
思い切って妻にいった。
「 どうもやれそうにない。
どうだろう、これからは、この子供たちのために、第二の人生を生きてみようではないか。
おまえがどうしても死をえらぶというなら、この家を出てどこかでやるよりほかはない 」
というと、妻は、
「 今まで、死ばかりを考えて張り切って暮らしてきましたのに、急に生きろといわれても・・・・」
と 泣き伏した。
「 今まで、私はお国のためにということばかりで生きてきた。
妻子のことなどまったく考える暇もなかった。
しかし、今日からは、お前たちのために生きようと思う。
もう俺たちの世の中は終った。
だがこの四人の子供たちを立派な日本人に育てようではないか 」
妻も泣きながらうなずいた。
母親というものは、いざというときには、男も及ばぬ覚悟を示すものである。
「 そうでした。私にはこの子供を立派に育てなければならない使命がありました 」
母屋の人々に、
「 私たちはもう死にません。
この子たちのために頑張って強く生きてゆくことに決めましたから、ご安心下さい 」
と告げて、監視を解除してもらった。
・
昭和二十年十一月であった。
北関東益子村の空は悲しいほど澄もきっていた。
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ポツダム宣言
1945年7月26日
一 吾等合衆國大統領、中華民國政府主席及グレート、ブリテン國總理大臣ハ
吾等ノ數億ノ國民ヲ代表シ協議ノ上日本國ニ對シ今次ノ戰爭ヲ終結スルノ機會ヲ與フルコトニ意見一致セリ
二 合衆國、英帝國及中華民國ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ自國ノ陸軍及空軍ニ依ル數倍ノ増強ヲ受ケ
日本國ニ對シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ
右軍事力ハ日本國ガ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄同國ニ對シ戰爭ヲ遂行スル一切ノ聯合國ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ
三 蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ對スルドイツ國ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本國國民ニ對スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ
現在日本國ニ對シ集結シツツアル力ハ抵抗スルナチスニ對シ適用セラレタル場合ニ於テ
全ドイツ國人民ノ土地産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廢ニ歸セシメタル力ニ比シ測リ知レザル程度ニ強大ナルモノナリ
吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本國軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スベク
又同様必然的ニ日本國本土ノ完全ナル破滅ヲ意味スベシ
四 無分別ナル打算ニ依リ日本帝國ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍國主義的助言者ニ依リ日本國ガ引續キ統御セラルベキカ
又ハ理性ノ經路ヲ日本國ガ履ムベキカヲ日本國ガ決定スベキ時期ハ到來セリ
五 吾等ノ條件ハ左ノ如シ
吾等ハ右條件ヨリ離脱スルコトナカルベシ 右ニ代ル條件存在セズ 吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ズ
六 吾等ハ無責任ナル軍國主義ガ世界ヨリ驅逐セラルルニ至ル迄ハ
平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本國國民ヲ欺瞞シ
之ヲシテ世界征服ノ擧ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ
七 右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ且日本國ノ戰爭遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確證アルニ至ル迄ハ
聯合國ノ指定スベキ日本國領域内ノ諸地點ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スル為占領セラルベシ
八 カイロ宣言ノ條項ハ履行セラルベク又日本國ノ主權ハ本州、北海道、九州及四國竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ
九 日本國軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復歸シ平和的且生産的ノ生活ヲ營ムノ機會ヲ得シメラルベシ
十 吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ國民トシテ滅亡セシメントスルノ意圖ヲ有スルモノニ非ザルモ
吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戰爭犯罪人ニ對シテハ嚴重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ
日本國政府ハ日本國國民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ對スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ
言論、宗教及思想ノ自由竝ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ
十一 日本國ハ其ノ經濟ヲ支持シ且公正ナル實物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルベシ
但シ日本國ヲシテ戰爭ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラズ
右目的ノ爲原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ區別ス)ヲ許可サルベシ
日本國ハ將來世界貿易関係ヘノ參加ヲ許サルベシ
十二 前記諸目的ガ達成セラレ且日本國國民ノ自由ニ表明セル意思ニ從ヒ平和的傾向ヲ有シ
且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合國ノ占領軍ハ直ニ日本國ヨリ撤収セラルベシ
十三 吾等ハ日本國政府ガ直ニ全日本國軍隊ノ無條件降伏ヲ宣言シ
且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適當且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ對シ要求ス
右以外ノ日本國ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス
・・・外務省仮訳文