「21世紀、平和な世が」と期待していたのに・・共感の巻頭言

2023-11-13 | 個人的なこと
 
 世界中のあちらこちら起こっている戦争の悲しい報道を耳に目にするたびに心を痛めています。
たとえどんな歴史があったとしても、たとえどんな理由があったとしても。
「やって良い戦争」はありません。
「正しい戦争」「正義の戦争」はありません。
「平和のための戦争」はありません。
 
悲しみが募ります。
この世界を造り人間を造り、「はなはだ良かった」と仰った神様が一番憂いておられるはずです。
 
「主は多くの民の争いを裁き
はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」(ミカ4:3)
 
 
とあるバプテスト教会の週報巻頭言に出会いました。
共感をおぼえ、思わず「アーメン」
心に刻むためにcopy&pasteしました。
 
 
 
巻頭言 21世紀に生きる私たちは
   
 20世紀は「戦争の世紀」と言われました。そして21世紀は戦争のない世界になるように、とおそらく世界中の人が願い、2000年を迎えたのだと思います。あれから23年が過ぎ、まもなく24年目を迎えようとしています。21世紀に戦争は無くなったでしょうか?戦争によって命を落とす人は減少したでしょうか?答えは「No」です。新しい世紀を迎えても依然として戦争は続き、一般人をも含む大勢の人がいまだに戦争で命を落とし続けています。1996年に亡くなった作家の司馬遼太郎は1993年に若者に向けた小冊子「二十一世紀に生きる君たちへ」を著し、以下のようなメッセージを述べています。
「私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。君たちは、ちがう。二十一世紀をたっぷり見ることができるばかりか、その輝かしい担い手でもある。もし「未来」という町角で、私が君たちを呼び止めることができたら、どんなにいいだろう・・・自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。このため、助け合う、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。助け合うという気持ちや行動の元の元は、いたわりという感情である。他人の痛みを感じることと言ってもいい。やさしさと言いかえてもいい。「いたわり」、「他人の痛みを感じる」、「やさしさ」、みな似たような言葉である。この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである。その訓練とは、簡単なことである。例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、そのつど自分の中で作り上げていきさえすればよい。この根っこの感情が、自分の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりという気持ちも湧き出てくる。君たちさえ、そういう自己を造っていけば、二十一世紀は人類が仲良しで暮らせる時代になるにちがいない」
 司馬は「優しさやいたわりは本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならない」と述べます。21世紀に生きる私たち(世界)には訓練が必要です。最も基本的な根っことしての相手への思いやり、共感を持つ訓練です。信仰者はその根をキリストに求めます。戦争の止まないこの時「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)とのキリストの言葉を今一度心に刻みたいと思います。
 
 
 
 
コメント
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