昨日、もと民生委員だった人たちのランチ会があった。民生委員を一緒に辞めた人たちと、年3回ほどランチ会を行っていて、すでに10年になる。残念ながら、徐々に参加者が減っている。その理由は、死である。
あまりこうした会を好きではない私が参加する理由は、もと民生委員の人たちは、きわめて善良な方たちであるからだ。自分の生活があるのに、さらに地域の困っている人びとの役に立ちたいという暖かい思いを感じるからだ。
民生委員が見守りの対象とするのは、高齢者が多い。どこの地域でも一人暮らしの老人、高齢者世帯が増えているが、私は月一回、必ず訪問して近況を聞いていた。男性の一人暮らしの場合は訪問しても早く帰ってくれとばかりの対応をされるが、女性の場合は、長時間いろいろな話をされる。私はそれをほとんど聞くだけであるが、しかしそれが高齢者にとっては息抜きになるのだと思う。時には一時間以上話を聞くこともあった。
高齢者からは、いかに苦労して生きてきたかが語られる。貧しい日々を必死に生きてきて、やっと安定した生活ができるようになったと思ったら、配偶者が亡くなってひとりになってしまった、とか。
そういう話を聞くと、あの世ではなく、この世で長生きして、それも健康を維持して、ぜひ幸せになってほしいと思う。
今生きている高齢者の人生をひもとくと、たしかに戦後の高度経済成長で国全体が経済的に豊かになってはきた。だがしかし、それは日本に住む人びとすべてではない。よく目を凝らしてみれば、私たちの生活の傍らに、貧困は巣くっていた。苦労ばかりの人生もあった。
民生委員は、高齢者だけではなく、経済的に恵まれない家庭にも目を向ける。いつでも、しっかり見つめれば、貧困は可視圏内にある。
私はずっと昔から、社会の在り方を考えるときには、底辺から見つめることを提唱してきた。底辺から見れば社会のすべてを見渡すことができる、と。
高齢者の生活は、決して豊かではない。もと民生委員の人たちは、その暮らしぶりをみると、家作があったりして豊かな人が多いが、見守りの対象となる高齢者はそうではない。
高齢者は早く死んだほうがよい、という意見を出す者もいるが、私は高齢者はできるだけ長生きしてほしいと思う。「長寿」の「寿」は、「祝いのことばを言うこと」という意味である。長生きは祝う対象なのだ。
高齢者も、子どもも、そして庶民も、みんなみんな幸せに生きていけるような社会にすることが必要なのだ。年齢で区切る必要はない。庶民は庶民である。庶民の生活が第一なのだ。