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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

何故に運動史をふりかえるのか

2020-05-26 02:20:22 | 社会
 先に新曜社が刊行した『社会運動史』2について、読み進む中での少しの途中経過を記した

 私は、阿部小涼がつかっている「左翼界隈」ということばに強い違和感を覚えたことを記した。阿部は「運動界隈」という語もつかっている。所有している電子辞書の『広辞苑』では、「界隈」を「そのあたり一帯」、「あたりきんじょ」としている。となると、「運動界隈」とは、如何なる意味になるか。「社会運動をしている人々のいるあたり」ということになるのであろうか。

 私はこの阿部という学者が書いた文を読むのは、これが初めてである。こういう言葉遣いにであうのも初めてである。

 さて、何故に運動史を研究するかについては、前回、山本義隆氏の文を引用した。山本義隆氏の指摘と共鳴する文を、山本崇記さんの「運動的想像力のために」に発見した。「運動的想像力」とは、山本崇記さんによれば、「現在の社会運動を実践するうえでの思想的、方法論的ヒントを、これまでの運動史のなかに見出すということ」である。

 内容については、私にとってはどこかで読んだことがあるものであったが、京都東九条地域における、被差別と在日コリアンの対立(被差別による在日コリアン差別)ではなく、「と在日の青年の接触が日常的に存在していた」ことを紹介するものだ。まさに「運動的想像力」を証明する事案である。

 山本崇記さんのこういう研究には、未来があるように思う。未来に開かれた過去の研究である。

 静岡で共に活動したことがある加藤一夫さんも、「運動することと運動について研究することの違いが問題になる。現場感覚がなくて資料だけで研究していると、論点がずれたりする」として、その例として小熊英二氏の研究を紹介し、「今回「社会運動史的想像力」という言い方が提起されているけれど、それが重要ではないかと思う」と記しているが、同感である。

 私は、加藤氏の「社会運動史的想像力」のなかに、社会運動を担った(担う)「当事者的想像力」を持つことが大切だと思う。それなしの社会運動史研究は、研究のための研究に陥り、未来に対して閉じられた研究に堕していくのではないかと考える。

 そしてそれは語彙のなかにも現れる。
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