浜名史学

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河井重蔵のこと

2014-10-09 22:57:45 | 近現代史
 掛川市の河井家から、田中正造の書簡などが発見された。当家の河井重蔵(1854~1925)という政治家が、正造と深いつながりがあったからだ。
 
 佐久間町(現在浜松市)に久根鉱山という銅鉱山があった。近世から採鉱されていたが、1896(明治29)頃、久根鉱山で大鉱脈が発見された。銅の産出量が増加するとともに、鉱毒が発生した。精錬時に出る亜硫酸ガスが付近の山林を枯らし、有毒物質が天竜川に流出した。付近の住民が、それに対して反鉱害運動を始めた。

 1897年4月の静岡県議選で、重蔵が当選した。その年、 重蔵は正造の案内で大村和吉郎らと渡良瀬川の鉱毒を調査した。おそらくこの頃から、正造とのつながりができたのではないか。正造も重蔵も、そして大村も立憲改進党系であった。
 その年11月、重蔵、静岡県会に「銅鉱毒取締法新設建議案」を提出した。県知事は鉱毒被害を農商務省に上申、12月には、周辺住民も、農商務省に「鉱業除害法施設之義請願」を提出した。
 その結果、1898年5月、久根鉱山の採鉱、精錬が停止された。久根鉱山の所有者は操業することもできなくなり、1899年2月、古河鉱業に久根鉱山を売り払った。ただし古河は地元では製錬せず、まず東京の東京硫酸会社に運搬して亜硫酸ガスをとり(久根の鉱床は層状含銅硫化鉄鉱床と言われ、硫黄分の含有量が40%を超えるものが多かった)、その後足尾に運んで製錬を行った。反対運動の成果ではあるが、その分、足尾銅山だけではなく、久根からの鉱滓も渡良瀬川流域に蓄積されたわけである。
 さてその後、1902年8月、重蔵が衆議院議員に当選し、国会議員として活動するが、正造とのつながりは深く、選挙の際に正造は選挙応援のために掛川に何度も来ている。同時に、足尾鉱毒事件に関して、正造を支えることもおこなっていたはずである。

 正造の書簡などが発見されたというニュースが近日中に報道されるだろう。

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