浜菊会のブログ

半泣き老狼団。一道民が生き抜く為の記録。

9月19日(土)のつぶやき その2

2015-09-20 06:55:16 | 政治

経済成長なんて、普通に「破壊された供給力を回復する」という過程を経るだけでも、達成されるだろうに。軍需生産に傾いていたのを、民生用に向けて、尚且つ、破壊された供給力を元に戻すだけでも、成長としてカウントされるに決まっているだろうに。何も、米国が特別に市場開放したわけでない。


早い話が、全部潰れた家を、建て直すだけでも、成長率にカウントされるに決まってるんだから、特別難しい話でもなかろうに。アメリカの支援で全部が全部そうなったわけでもない。不足だったのは外貨と輸入物資だろう。生産するにはまず輸入が前提とならねばならなかったから。それには外貨が必要だった


戦後日本に供給されたのは、主に米国産の「不要物」だった。米国で余剰生産となったものを一括買い上げしたものが、日本人にヤミ市経由で高値で払い下げされたということさ。不要物の処理には、丁度良かったというだけ。しかも無償援助でなく、有償だったのだから買ったに過ぎない、ということだ。


当時のGHQの経済政策の傾向としては、どちらかと言えば社会主義経済学の影響を受けており、計画経済の香りがぬぐえない。資本家=財閥解体、農地解放などは、そうした典型のように見える。いわゆる資本家を排除、縮小すると共に、労働者階級への均等化・平等化ということ。為替も管理為替だった


日本がサンフランシスコ条約締結後の54年においても、余剰品を日本で処分したいというのが米国側の意向であり、日米間で余剰農産物協定が締約された。日本人に米じゃなくパンを食え、ということに変換されたってことだよ。米国で過剰生産となった農産物を買い上げて日本に処理を押し付けると。

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年寄り達は何故かそういう大事なことを言わないし教えないんだなw。日本の繊維業界は戦前から通じて競争力があったので、日本産の綿製品などは輸出品として欧米品に競合できたんだよ。だが、そのことが自由貿易を閉ざす結果を招いた。50年代から日本の繊維摩擦は問題となり、日本側が自主規制を(続


強いられたんだ。その先鞭をつけたのは米国であり、日米交渉で輸出自主規制(大体は数量制限だな)を求められ、それが欧州諸国にも右へ倣えとなった。どこが市場開放、自由貿易なんだよ。鉄鋼輸出も同様で、自主規制を強いられた。ITOの流れを汲むGATT加盟は中々認められず、反対に遭った。


日本の戦後復興は、米国や欧州の自由貿易という市場開放の結果ではなかろう。大規模災害後の復興需要が旺盛と同様のこと、偶然にも朝鮮戦争が勃発し日本国内からの調達が行われたこと、復員など国内回帰=国内人口回復で需要増、戦火での供給力大幅減が回復する必要性があったこと、などであろう。


もはや戦後ではない、の(s31年だったか)白書文言は有名だが、破壊からの復興需要の期間は去ったということである。日本が戦前の供給力を回復してきた結果、急速に欧州先進国に追いついていった時期だろう。それは特別な庇護や恩恵を受けてのものではなかったろう。逆に日本の生産力を危惧された。



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