おはようございます。久々です。
そういや、書かなくなると「キモイおっさん」を見かけなくなったな。彼は「女性雑誌だけ」を異常な興味を持って、ずーっと読んでる姿って、奇妙。勿論、調べてる人とかいるだろうし、業界の人とかかもしれないけど、彼は違っている風だった。分かる人には分かる話。
彼に言っておいて。
いくら仕事だからって、目立ち過ぎとか、場にそぐわないとか、そういうのは失敗なんだよって。何十分か小1時間くらいか、女性雑誌だけ読み続ける「おっさん」は、異様な光景なんだよ。稀にはそういう人もいるかもしれないんだけど。ま、いいや。
集団的自衛権行使云々という話は、いずれ朝鮮半島での「朝鮮戦争特需」でも狙っているのか?理由付けなんて、いくらでも可能だ。「米艦が北朝鮮軍に攻撃を受けました」とか「北朝鮮のミサイルが着弾した」とか、捏造は簡単だから。実際には米トマホークでも、北朝鮮がやったことにすればいいだけ。
旧日本軍も、こうした自作自演みたいな工作はお手の物だったでしょう?というか、戦後に日本軍の工作手法を研究して、活かしてきたということさえあったのでは?テロ育成方法とか、非常に参考になっているのでは?だって、現地の反宗主国ゲリラの組織方法って、テロ育成・支援とそっくりでしょう?
軍事的攻撃に耐性のない日本人にならば、ミサイルを少々ぶち込めば、「北朝鮮軍の攻撃だ!」って脅かしただけで十分効果が得られると考えても不思議ではない。そうすりゃ、日本の基地全部が米軍の後方支援基地にできる、と。これで戦争継続はできるし、米軍の金の節約にもなるぜ、とな。
前文は、条文ではない。法的効力を有するというものでない。また、国連憲章は締約国の国内規定に干渉できる権限を有しない。なので、国連憲章7章(殊に51条)規定にある自衛権の行使を、各国に義務付けるものでない。9条条文が、「国連憲章違反」という発想そのものが、根底から誤りだろう。
長谷川豊という人物は、これで「大量に釣れて」記事生産の一助になる、と踏んでいるのかもしれないな。炎上商法的な。ある国があって、国内法で「銃器、銃弾の製造、所持、持ち込み禁止」「警察その他治安職員の銃器禁止」と決めたら、それでいいんだよ。ヨソから攻め込まれても無抵抗降伏は自由なの。
国連憲章のどこに「他国から攻められたら、全国民が火の玉になるまで武器を取り戦え」って書いてあるんだよ。武器・兵器類を国内に一切持たない国があるとしても、それは自由なの。国連がそれを「武装せよ」と干渉できる権限なんかないんだっての。内政干渉って、よく聞く言葉だろ。→長谷川豊
米国の正当防衛:銃器所持OK、「フリーズ」と警告しても敷地内に入ったら銃撃できる
日本の正当防衛:銃器所持禁止、銃撃できない
どちらの国民にも、生存権はあるし正当防衛だって認められる。違いは、「国内法」の規定であり、正当防衛の判例(法的解釈)が異なる。米国で合法でも日本では違法
続)自衛権があるというのが同じであろうと、どのように行使してよいか、というのは、それぞれの国(社会)の慣習・歴史・倫理観等々、法令の違いとして出てくる。世界的に「暴漢から身を守る」行為が、個人の権利として認められていようと、日本において正当防衛の為にS&Wで銃撃したら違法なの。
続)個人が「暴漢から身を守る権利」を有することは否定されないが、拳銃を撃っていいとか自動小銃を撃っていい、ということが全世界共通で合法なわけでないんだよ。「暴漢から身を守る権利」があるのに、どうして拳銃所持し銃撃しないんだ、って言われても、拳銃禁止の国内法になってるから、だろ。
続)「暴漢から身を守る権利」を国連憲章(自衛権規定)に、「拳銃禁止の国内法」を日本国憲法に置き換えてみれば、おおよそは分かってもらえるのではないか。暴漢から身を守る権利、正当防衛は当然に認められるが、その行使の為に「拳銃で銃撃」することは法的に禁止されてるから、違法という理屈。
なので、たとえ他人から攻撃されたとしても、全員が「命懸けで戦う」義務を課せられるわけでない。ある人は「降参です」とすぐさま両手を挙げてもいいんだよ。暴漢と戦う自由もあるが、戦わないという選択だって、同じく自由なんだよ。どうして、「命懸けで戦え」と決めつけられねばならんのか。
国連憲章で認められた集団的自衛権は、日米安保条約前文においても「固有の権利を有している」ことが確認されている。日本国として、権利を有するのは日本国憲法の条文においても明示的に否定されていない。あなたは「暴漢から身を守る権利」を持っていますね、と確認されたのと大して変わらない。
しかし、「暴漢から身を守る権利」を行使する際には、「銃を所持、射撃してはいけません」「自分が襲われてない時は、徒党を組んで反撃してはいけません」ということが、守られてきたわけだ。ある行為について、「やっていいかどうか」は法律のタガがはめられてきたし、解釈も一貫性が保たれてきた。