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一句鑑賞

俳句ブログも長くなりました。この歳なりの記事が書ければと思ってますが、やや怪しげな時もあります。よろしくお読み下さい。

新しき断捨離

2019-02-08 00:50:20 | 日記

本日はオフでした。終日雨がぱらつきました。

古い家の終い方を業者に来てもらって相談。それからガソリンを入れて鳥栖市へと走りました。妻のお友達がお店をしているのでした。古い着物の処分について相談しようと出向いたのですが・・・取り壊し中!

そうかお店を閉めたんだなと・・・電話をしますと、元気な声が!いろいろとありまして閉店だそうです。着物のことは専門の信頼できる業者を紹介してもらいました。さっそく来週に来てくれることになりました。断捨離といいますが、信頼というか何らかの伝手がある方に相談しようと思ってましたので、これで一つの目途がつきました、

着物の一つに男物の羽織があります・・・羽裏がいいのです。これを額装できないかも相談しようと思っています。昔の人は羽織の裏に凝っていたそうで、いわゆる隠れたお洒落ですね。四十七士の一人の物語というか一シーンが描かれています。

 

さてお米が減ってきましたので買いに行きました・・・みなみの里は駐車場の拡張工事中ですが、元気に営業はあってます・・・駐車場だけでなく店舗も拡張するのかな?

今日はお米のほかに、Café楓のあまおうイチゴが出ていましたので1パック。それから里芋を一袋買いました。夕食に久しぶりに里芋の土佐煮作りました・・・お味?残念ながら今一つ(笑)

秋月まで足を伸ばして「あきづき市場の鴨めし(350円)」を買って車の中で、行儀悪いかな?お腹すいてました。秋月のパン屋さんの山音ガーデンへ・・・水仙がまだ咲いていました。

秋月では3月3日まで雛巡り祭りが行われていますが、本日は天気と平日のせいでしょうか・・観光的な人は見当たりませんでした。実にひっそりとしていました。

2週間前に訪れた朝倉市立秋月博物館はその時、入館者は私だけ。入り口で入ろうかと覗くと受付の方が出てこられて・・どうぞと言われるので、一度は見てみようと入館料(安いのですが)を払って一通り見ました。出がけに受付の方から、どうでしたと質問がありまして、困りました。

虚子の書の短冊や掛け軸になったものと、秋月藩ゆかりのものが展示してあるのですが。

誰も興味がわかないでしょうねとお答えしました。昔から秋月郷土館がありましてそのリメイク版ですね。例えば虚子の書や句の説明ですが・・・ただ書いてある文字を活字にしただけ。作品の背景などむろん書いてない。調べればすぐわかることだと思うが・・・

写真は山音ガーデンの水仙と、椿でした。水の音は春でした。土筆を探しに行けなかった、残念。

わが家の断捨離は100年超(笑)、頑張らないと先へいけません。これからはコンパクトで居ても、その先でステップアップできるよう、新しい断捨離ができるようにしていかないといけません。つくづく実感しています。

決められたリズム・・・陽水。最近よく聴いております(^^♪

起こされて 着せられた 冬の白いシャツ

決められた 朝の長い道 ♫

声をそろえて ピアノに合わせ 大空へ歌声 ♫

 

明日も半日は断捨離を決められたようにやります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


博多ん噺・・・その前に志賀島

2019-02-05 00:16:58 | 日記

さて博多のことというか博多湾などを含めた周辺のお話しですが。

箱崎浜まで博多の街に近づきましたが、ここで振出しに戻ります。

海の中道という砂嘴、和白干潟から志賀島へと伸びております。その砂嘴もいよいよ切れてその先に周囲20キロ弱かな?志賀島があります。

松浦半島を西から流れてきた対馬海流は、糸島半島に沿って東進して能古島と西区姪浜(めいのはま)の間を抜けて博多湾へと流れ込みます。湾の奥が和白干潟となり海流は滞っています。

本来の流れは能古島と志賀島の間を勢い良く抜けて玄界灘へと大きく広がって流れて行きます。

蒙古来襲のときは西区の方から湾岸に、塁を築きました・・・防塁(ぼうるい)ですね。路面電車の電停の名に防塁前があったと記憶してます。

激しい戦いがあったわけですが、有名な神風が吹いて蒙古船団がことごとく波に飲まれてしまいましたね。流れつく蒙古兵の遺体を葬ったのが、蒙古塚として志賀島に残っています。

志賀島には例の金印が出土しましたね。志賀島の突端に近い勝間という所です。金印公園もありまして、近くにレプリカを展示した場所もありました。本物は市立博物館だったかな?

 

志賀島は安曇一族が支配していたそうです。操船に長けて漁を主にしていたのですが、ある時期にやはりどこかとの争いのために、志賀島を出ます・・・詳しくは一度読んだきりですので書けません。どうぞ安曇と志賀島で調べてください・・・無責任ですみません。

それで中心人物をはじめこの島を船で抜けるのです、というか新天地を求めて出たのですね。

航跡は?・・・やはり対馬海流に乗ってだったと想像しています。

北九から中国地方の山陰側を良港というか、農漁業が成り立ちそして安全な地を求めてだったでしょうね。一説によると立ち寄った入江や湾に暮らす人々に、操船や漁を伝えながらともいわれています。

山陰からさらに日本海側に沿って上って行ったのでしょうね。海沿いだけではなくて内陸へも入ったのでしょう。安曇という名がありますね。琵琶湖にそそぐ川に安曇川があるそうです。また長野は安曇野があります。

安曇はいつからこの漢字を使っているかは知りませんが・・・

安らかに、日も雲もと読めます。照り過ぎても曇りが続き雨風が強くても漁にはよくない。天安らかにということでしょうか。

文化とか文明とかは地理的事情をともに考えると面白いなと思います。志賀島を出ていかざる理由はあったにせよ、持っている操船や漁など文化が各地に残っていった。

志賀島の一族も、大陸や半島からの文化を基にして栄えてきたのでしょうね。

 

その志賀島を中学3年生の時に友人と自転車で一周したことがあります。わが家からは往復は7、80キロはあったと思います。

志賀島の頂上は見晴らしがよく展望所もあります。博多の街も湾を望んで立てば、左手には宗像氏への海岸と玄界灘。回れ右ではないけど真後ろには対馬から半島方面です。

古代のこの島は、他国から日本への入り口の目印ともなっていたでしょう。

 

次は箱崎辺りのお話しにしないと、脱線したまま何処に辿り着くか分からない話となってしまいそうです(-_-;)

追記:志賀島への海の中道、左手に博多湾が見えるところから1キロほど直線道路です。若いころはぶっ飛ばしていました、ここだけの話です(-_-;)

 


立春

2019-02-04 00:37:12 | 日記

節分立春、一夜にして冬から春(笑)。季節って待ち焦がれていてもなかなか来ない。でも来れば一夜にして春。なんか便利そうですが、待ち遠しくしてた人にはやっと新しくスタートを切れるって感じでしょう。

歳時記の例句にこんな美味しそうな句がありました

立春のまだ垂れつけぬ白だんご   中山純子

みたらし団子になるのか黄な粉をまぶすのか、はたまた抹茶粉をふるのか甘さ控えめの餡子が乗るのか・・・でも今は白無垢なのです。春になったばかりだから・・・

こんな鑑賞でいいのでしょうか?

バス停の時刻メモして春立てり   昔の句より

 

 

 


博多ん噺を・・

2019-02-03 00:41:59 | 日記

書くことが多すぎても書けない状態でした。

1月31日は・・博多の昔を書いていたのですが、私的な部分が多すぎてアップしませんでした。

きっかけは、古い物を整理しているといろんなものが出てきます。それを見ていると記憶が蘇り、祖母などからの話が私の中で一つの物語みたいに展開していくのです。

祖母の実家は今の博多区呉服町で博多人形店でした。正確にはお弟子さんが20名ほどの人形工房です。博多人形中興の人と言われる白水六三郎です。白水の家は黒田藩の医者でした。六三郎はとても医者には成りきらんけん、と別の道、人形師の世界に入ったそうです。当時は一体一体粘土で作り上げていたものを、石膏型を起こして量産が効くように工夫したのでした。そして人体の研究のために九大の解剖学に学んだそうです(医者にはならんで)。パリの万博などにも出品したそうです。また大正皇后様にも献上したそうです、これには続きがありましてお気に召されてずっと飾ってらっしゃたのか色がくすんだりしてきて、もう一体「同じ人形を」との仰せがあったそうです。政策に入るときは身を清めて、食事も弟子たちとは摂らずに一人籠って制作したそうで、それを持って皇居へ行ったそうです。また万博のことですが、出品してから一年かそこら過ぎたころにかなりな金銭が送られてきたそうです。ヨーロッパで好評だったのでしょう。

今の東区千代に大博座という芝居小屋があり、歌舞伎役者などの来演があってたそうです。団十郎か誰かは知りませんが、役者さんの人形を作っていたそうで、それを貰った歌舞伎役者さんは大喜びだったそうです。そのせいか祖母などは芝居小屋に通っていたと話してました。

なぜこんな話をといえば、その人形師の羽織がわが家にあるのです。祖母に祖父のために持たせたのでしょう。その羽織の裏が粋なんですね・・・

そこからの連想ですが、実際に祖母の兄や姉から、また母からもいろいろと聴いてきたことが一つの話として繋がっていくのですね。

話の中に出てくるお寺や芝居小屋(後の大博劇場)などは実際に見ていますし、人形師の墓のある蓮池の寺には母ともお参りしました。

祖母の兄や姉からもずいぶん可愛がられたことを思い起こしてます。もう親戚でも知る人が居なくなってきてます。この場に書いてみてもどうってことないことですが、記憶のあるうちにメモ代わりにと思ってます。いつか長い物語を記して息子娘に残しておきたいのです。

その序章としてですかね(笑)

東区の志賀島へと湾に伸びた砂嘴の根元が和白干潟・・・そこから博多の街へと海岸線は松林が続いていたそうです。

和白から湾沿いに下ると香椎浜、その浜から南に樟の並木が続いて小高い山のふもとにあるのが「香椎宮」。ここは3世紀初めのころよりの仲哀天皇神功皇后、武内の宿禰の話があり後に創建されたのです。

香椎浜から博多方面へ行くと多々良川に出会います。この辺りが名島という地名で一つの交通の要所だったようで、昔から城があったようです。黒田長政が福岡に来た時にその城跡に入ったのですがどうも地勢的にも良くないと判断して、今の中央区城内に福岡城を築きました。

名島から香椎と抜けて行きますと、箱崎浜に出ます。

 

ということで長くなりますので今夜は、ここまでにしておきます。箱崎浜の続きはいつになるやろう?またの機会に。

おやすみなさい

明日は強い南風と雨の予報。明後日だったら春一番?気温も18℃だそうで・・・