風の音には木々の枝葉の擦れ合う、密かな話声が混じっている気がする。
水の音には源流に住む水の女神が、これくらいは流しておくかなという枯れない涙なのではといった気がする。
なぜ? 絶え間なく続く胸のしずかな鼓動と同じだから。
そんな音が耳に残ったときは夜の静けさにハイボールが心地よく喉を通る。
生きているとはそんなこと・・・
読者でもあるブロガーの記事と、さっきまで長電話していた加代子ちゃんとの内容がこの記事の元になっている。
加代子ちゃんは小学中学の同級生で、気の合う人だったが控えめな人だった。
今夜の話は・・・とすべては書ききれないのだが💦
要は感性・・つまり認知の話などいろんな話からの結論としての感性の大切さをしみじみと納得して電話を終えた・・・小一時間はスマホの手も疲れる(^_^;)
俳句では嘱目といって目に触れるものを材料に句を作ると言うが、見たままを17音にしては文字を並べただけ。見て感じた何かに心が動いたとき、その対象の何かは俳句の材料になる。あとは心の揺れ具合を季語に助けられて作品にするだけだ。
俳句でものを見ると先達の先生方は仰るが、正にその通りと感じる今日この頃である。つまり・・・見たときに感じなさいって感じかな?
長電話の中でもそう話しをした。
さて長くなるので、もう寝よう。
一日をいろいろと用事を片付けながら充実を感じた・・・<(_ _)>
画像は2年前の秋月、野鳥川・・・流量が多い・・・涙ではあるまい。