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一句鑑賞

俳句ブログも長くなりました。この歳なりの記事が書ければと思ってますが、やや怪しげな時もあります。よろしくお読み下さい。

伊予みやげ

2025-05-25 22:29:41 | 日記

松山みやげ・・・坊ちゃん団子と坂の上の雲

伊予ミカンを使用した、なんだっけ。

山田屋まんじゅう まだ開封してないが(笑)美味そう♬ 

 


みかんでスキャン?

2025-05-24 23:37:57 | 日記

小倉港、23日朝5時に下船したフェリー「くるしま」である。

先ずは無事に往復してくれたことに感謝したい。

コカ・コーラの自販機の横腹にこんなんがあるのである。

余はみかんは好きだが、誰か剥いてくれる人が居ればもっと食するであろう。

そういえば愚陀仏庵を出て上京する正岡に余は、ささやかな旅費の足しにと用立てておいた。松山での俸禄は学校長よりも多くおかげで二階建ての家、しかも清がいう門のあるお家に住みなさいということをこの松山でいとも容易く為し遂げたのである。手紙を書いて安心させたのだが、清は大そう喜んだに違いない。

さて一階に転がり込んできた正岡はやがてその仲間たちと句会を始め、大そう賑やかにやり始めるのだから余もときどきは覗いたものである。その影響もあり余は、生涯二千ほど俳句を作ったのである。

余の援助を受けた正岡は上京の途中に奈良の法隆寺近くの宿に一泊している。その時の句に・・・柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺 と詠んだがこれはお寺の鐘ではなくて、正岡が宿の若い女中が剝いてくれた柿を食べるときにずっと前に座って世話をしてくれた女中に心ひかれたものである。寺の鐘はその響きを余韻として聞けば風流なものだが、若といっても余と同じ28ではあるが10才ほど下の女中に心ときめいたのである。ときめきを鐘が鳴るなりなどと言わず彼女に打ち明けるのが現代風と思うのだが、正岡は意外に真面目な所があるのである。鐘は正岡の動悸なのだ。

季語は汗である・・・千年の汗とは大きく詠んだものと思うが正岡としては、道後の湯が千年二千年と湧いてくれとの願いがこもっての句だろうと思う。

余も浸かってはみたが赤シャツやらなにやらとはご一緒したくないので毎日とは許されないのである。

記念館に大きな垂れ幕に・・・城山の浮かび上がるや青あらし

と季節に応じての垂れ幕が幾種類かあるようである。これも余としてはすこしやっかみと思われるかしれないが羨ましさばかりこみ上げるのである。これほどのこと正岡はやったのかとも思うが、彼の元へ何通も句を見てくれと手紙を書いたのも余であるので、正岡の俳句の力には参っていたのも間違いないのである。余の書いた正岡への句の手紙が展示されているのかと見たがどうやらそれは保管庫に眠っているらしい・・・わが二千句の中の一部ではあるが、庶民に見られ評されるのもあまりいい気がしないので安心しているところでもある。

みかん色もいいが、葉っぱ色で張り合うのもまたいいぞなと。

余はのちに熊本へ行くことになるが、その時代には大分の宇佐神宮へ参ったりし、旧正月の頃だから大いに寒さと闘いながら日田市からうきは市吉井町(宿)へと下り、久留米市高良山あたりで地元文学者たちと交流し・・・

菜の花の遥かにとほき筑後川  漱石

などと私の知り得る場所に来てくれたのである。といったところで終わりますかな?

 


のぼさんに会ってきたぞな

2025-05-24 00:06:29 | 日記

ぶるぶるとベッドに入ってもこの音から逃れることのできない船の中で目覚め、下船は午前5時であった。

寝足りない頭と寝ぐせの酷い髪を撫でながら余はひとり高浜駅へと歩き出したのである。

右手に見える海の沖に低い山が連なっているがどの尾根も凸凹という表現は失礼なのだが不思議とその形に興味を覚える。

駅までの海岸には漁師の船が多く係留されていたが、一人の漁師がなにやら道具を肩と手に家から道路を横切り舫でいる舟へとすたすたと歩いてきた。

朝5時に歩いている余を不審げに一べつしたので軽く会釈を返した。話しかけようと考えたが、余も彼も先を急ぐ体であるのでそのまま急いで駅へ向かった。

海岸線の道が大きく右へ曲がりその先からは直線になるところに目的の高浜駅が昭和四十年代に建てられたであろう姿で迎えてくれた。といっても始発は5時18分であと数分ある。松山市駅までの切符をと料金表を見上げ小銭を用意して販売機で490円だったかを手のひらに収めた。

やがて駅員が一人動き始めたので、この鉄道はICカードの交通系は使えるのかと訊ねてみたら、はい使えますよとの返事を頂いた。改札を通るときに、あぁいつものピッがあるなと発見したが、余は切符を握りしめている。

駅員はこちらへと私を招き、パチンと切符を切る・・・なんと言うのか記憶の底に埋もれてしまったが、その鋏で私の切符に小さな穴を開けてくれたのである。

始発にはほかにニ三人の客が居たが一人はマニアックな旅人のようで駅舎に居るときからあちこちスマホを向けている。

動き出して海岸線だから平坦な地形を想像するが実は山が迫っている、その中を走るので退屈はしなかったし駅名に「港山」などと見ると、港もあるが山もあるのだなと地形と名を比べたりしていた。

途中のやや広い駅構内で電車が何両も見えるのでここが電車区の一つかと考えていると脳が目覚めたのである。なんとみんなオレンジ色を否、みかん色をしているではないか。なるほどと余は納得したのである。みかん色の車体には白抜きで IYOTETSU の文字がやや右斜体であり、ふつうの電車は軽やかさを出すために横にラインを見かけたりするが いよてつ は違うのだなと思った。

やがて三津という駅に停車したが余の脳はなにかを思い出していた。余の後輩の作者が書いた坂の上の雲という本にあったが、たしか余の同級の正岡が16才の時に松山か上京したがその港の地名だったとお思い起こした。港と言っても浜のような処から舟を漕ぎだしたのであろう。その浜を看れなかったのは残念だったが、やがて松山の市街地が近まりマンションの高い建物も目に入りやはり四国一の町なのだと思った。

終点の松山市駅に下りたがその上は大きなビルであり高島屋という百貨店が入っているのであるというか、メインテナントなのであろう。夕刻にここに夕食のお弁当を買うことになろうとは朝の時点ではまったく思いもよらないことだった。

さてと路線検索しておいたイヨテツ市内線へと停車場へ出ると一人の駅員さんが手帚とチリ取りを手にしてらっしゃる。おはようございますと声をほぼ同時に掛けたのでついでに質問してみた。IC交通系は使えますかと、はい、交通系各社さま10社全てお使えできますよと、親切な物腰で教えてくれた。あぁこれでnimoca一枚で動き回れると安心する。

同級生の正岡は故郷に余も見たことのない立派な記念博物館を建ててもらっているが、当然に知る由もないだろう。余としてはある意味羨ましくも思ったりする。

長くなりそうなので伊予での続きは後日にしておこう、あちこち歩き回ったり改札や百貨店や記念館での階段の上り下り、はたまた砥部焼工芸館近くまではバスで行ったが往復30分ほど歩いたりしたので脚の筋肉が今日はこわばって痛くなった。痛みが終わるころには続きを書きたいものである。

しかし地元に人に話すことができなかったのは残念。コンビニで買った朝のパンや、記念館で切符を買ってもこの国の形としての共通の言葉しか聞けない。

そんなこと感じた旅の前半であった ぞなもし(^_^;)

画像などはいつになるやらでお湯るしを!道後本館湯は入らなかった、理由はフェリーの寝不足で湯上りで休憩したらいつまでも眠ってしまいそうじゃが(^_^;)


引っ越しよりも旅に行きたいのだ

2025-04-22 22:32:22 | 日記

編集ページを開くと、お引越しをせかされているようだ。

とりあえず今は忙しいので、8月末を目途に転居しようと思っている。

やはりなんか書きたくなった時に、日記帳的ものがあれば気が済む。

父が三年日記帳を書いていたが、母も亡くなったあとに開いてみたら・・・

私ら家族のことぐらいで、そのうち飽きてきたのだろうか、今日は・・・の後になにも書かないページもあった。毎朝、おはようと線香をあげているが、写真の笑顔はなかなか良い(^_^;)

 

さて自治会の役だが今週末に総会があり腫れて?船出するのだが・・・厄介なことがあり、その解決策をさっきまでワードで打ってた。なんとかなるかなと思っている。

こんなん今迄の生活からみると余計なことだが、責務上、波風立つかもしれないが立たないと変わらないので💦

 

こんなんで役場への連絡や会議やらで、5月の句会に行けない。それに俳句モードに頭が入って行かないのだ。昨夜も遅くまで歳時記開いたりかすかな記憶を開いてみたりしたが・・・とりあえず二句ほど・・・しかし、数日後には削除している句かも。いつもの句作と考えて気楽にやってる。

 

画像が無い・・・独り吟行へ行けない。さびしい記事になりましたね。8月になってもこんなんかもしれない・・・あぁ、ひとり楽しみを計画している♬これはまだ秘密だが・・・チャンスが6月で途絶えるのでなんとか実現をと計画をしているのだバカボンみたいに。