goo blog サービス終了のお知らせ 

一句鑑賞

俳句ブログも長くなりました。この歳なりの記事が書ければと思ってますが、やや怪しげな時もあります。よろしくお読み下さい。

月の夜空へ!

2019-04-19 23:27:55 | 古代のロマンへ

若葉は初夏の季語です・・・歳時記の解説がいいですね。

柿の若葉は初夏らしく明るい萌黄色で、艶があり柔らか。

と書いてあります・・・例句には

しんしんと月の夜空へ柿若葉   中村汀女

柿若葉に月明がしんしんと降っているようだと。

昼間の青き空の下の柿若葉には、強さを感じます。

しかしその強さは月明の中にひそかに蓄えられたものだと・・・人も休んでこそ明日への力が湧いてくる。

こんな句を読みますと、川端茅舎の

ひらひらと月光降りぬ貝割菜   茅舎

が浮かびます。これも月明りの中でひそかに成長しているのです。

井上陽水も・・・月の光の下で、「レタスの芽が芽生えて(^^♪」と歌ってます。

 

といったところで、今夜は満月でした、カナ?

 

 

 

 


はらか、ばるか・・・

2019-04-15 00:11:49 | 古代のロマンへ

姪浜からほんのわずか西進すると糸島市に入る。

糸島市の平原遺跡は古代ロマンファンにとっては、ここが卑弥呼埋葬された墓だとの研究者もおられますね。

銅鏡もたくさん出ておりますので・・・。

平原・・・読みは・・ひらばる・・はらではなくてばるですね。

糸島の中心地、前原市街地も、ばるですね。まえはらとは言いません。


話は昔のテレビドラマになります。申し訳ないですね、いきなり現代で。

何処の局だったか、たぶんNHKかな?ドラマのタイトルが・・・

春日原まで一枚

「かすがばるまでいちまい」・・・西鉄大牟田線の春日原までの切符を買うのに、この「かすがばるまで・・」が言えない、言おうとすると、かかかっとなって声にならない、少年が主役だったような記憶なんですが、切符売り場でのそれが言えない・・最後は言えるようになるのですが、何かを克服したからという筋書きだったと思います。

春日原・前原・平原・と濁って発音するのは北部九州に多くあります。

これはなぜかな?と考えたことがあります。

原(はら)が、ばるなんですね。ずっと不思議に思っております。

考えてみたんですが、古代の話し言葉がどうであったかでしょうね。

また、原という言葉には、広い野という意味もありましょう、古代も開けた土地に集落ができていたようです。なぜ?そりゃ、お米を作るのに山地では無理ですから。

そういった稲作を行う集落全体を原(ばる)って言ったいたのかもしれないな?一人合点なんですが(-_-;)

この平原遺跡の近くに現在は井原(いはら)という地名があります。井は水のことですね、土を少し掘るだけで水が湧くようなところだったのでしょう。

井原は、いはら、と濁っていませんが、これは威張るに繋がるからわりと近世に濁音ではなくなったのではないかと推測しています。

 

長くなりそうなので・・・今夜はこのへんで・・・〆

神功皇后さんは遠賀川からと先日書きましたね、姪浜に上陸してなおまだ他にも移動できるのに支障がないのですね。これは北部九州を広く治めていた証だろうと思います。

何処にも神功皇后の伝承が残っています。これは一カ所に居を構えるような治め方をしていなかった。お米ができる北部九州の・・・糸島平野・筑紫平野・筑後平野もちろん朝倉平野・筑豊にも田園地帯があります。

その何処にでも神功皇后伝説がありますので、首都というか自らの館など置かない、移動的統治をおこなっていたと考えてます。

行く先々では、国外から入ってきた知識を基にしていろんな形態のクニを造っていたと・・・考えてます。

古代も、考え方は今と同じと思いますね。こうすればよい米がとれるとか、多くの民が困らずに済むとか・・・その辺が考え方の基となってるのでは?あちこちに似てはいるけどどこか違う遺跡が在りますもんね。

あんまりじぶんの所が卑弥呼の里とかいうのはどうかなと・・・王ですからね、すぐ隣に別の邪馬台国なるものがあっては・・・大変なことになります。

 

これで閉めます(笑)

じゃあ、博多の手一本で締めまっしょう!!よーぉお!パン!

 

何時までこげなつまらん話ばしようとな!はよ、寝らんね!博多んごりょんさんがおれば叱らるうことですやな・・・(笑)

なんかばらばらの記事になりましたやな(-_-;)

 

 

 

 

 

 


夜も更けてまいりました(^^♪

2019-04-13 23:18:13 | 古代のロマンへ

昨日の奢莪の花です。夏の季語となっていますね・・・今ごろから6月くらいまで咲きますので。

私はこの奢莪の花が好きです。山地の湿った樹下などに群生すると解説にありますように、おっと驚くぐらいに群生します。

もう10年ほど前に豊後竹田市の、岡城址に登った時ですが・・・城壁の下辺りにそれほどではなかったけど少し群生していました。

歳時記の例句には・・・

奢莪のはな犬を叱りに尼の出て   川崎展宏

尼寺に来客でしょうか、犬が盛んに吠えるのを尼さんが叱っているのですね。見たままの景色ですが、温かみを感じる景です。

尼さんのたぶん作務衣すがたと日本犬、その傍らに奢莪の花があるのです。温かみを感じさせるのは、犬を叱りに、自然の中での生活に季語がぴったりですね。

英彦山の登山道にも咲いてました。


BGMは懐かしのマイルスデイビス、ラウンドアバウトミッドナイト・・・🎺


先日の記事の姪浜に神功皇后が上陸したと・・・これはいったん上陸したのです。

また船で博多方湾へ出て・・・先日書きました能古島や志賀島を通り過ぎ、宗像の大島、地の島も通り抜けて芦屋町の遠賀川河口から遡っていくのですね。

それで下船した場所が、飯塚市の中心部ですが壇の上神社(この時代はありません)がありますが、その下の川土手が壇になっている所で下船したようです。壇の上神社は能祖神社といいます。

さて朝鮮へ行く前に身ごもっていた神功皇后さんは、飯塚から内住川沿いに上っていきます。九郎原というところから、かなりきつい山越えをします。身重の皇后さんは、立派な御輿などではなく、しょうけと言います、竹か布か素材は定かではありませんが大きな笊状の担ぎものに乗って、きつい峠を越えたと言われています。

峠の名は、ショウケ越え峠として今も地名になっています。

ショウケ越えを下ると途中からこんもりした楠の森が見えたはずです。今も見えます(笑)

そのときに・・・早も見えたり、と言われたので「早見」という地名が残っておりますが、最近の町名表示の際にこの地名は行政的地名から消えました(-_-;)

それから須恵町の旅石というところで、身重の体を休められたと言われています。腰かけられた石を基に旅石という地名になったと・・・これは住居表示でも残っています(-_-;)

旅石から、光正寺古墳辺りを通り、今の宇美八幡宮がある楠の森に到着します。

この地は、古代の道の南北の十字路でありました。

この地で神功皇后は後の応神天皇を出産されます。楠の森の中でもひときわ大きな楠が2本あります。

夫々名がついておりまして、出産時の衣を掛けた樹齢2500年ほどの大楠。また産まれた皇子の産湯をしたときに、その枝が湯船に蓋をするほどに茂っていたという、湯葢の森(大楠)


さてこのように北部九州には神功皇后さんゆかりの場所がたくさんあります。

そこで考えるたのですが、ほぼ同時期の魏志倭人伝には卑弥呼さん。北部九州の狭い範囲に女傑は二人も存在しえたのでしょうか?

私は同一人物だと思います。

 

この話はこのページでは収まりません。またの機会に続きを・・・