気ままな推理帳

本やネット情報から推理して楽しむブログ

江戸期の別子銅山の素吹では、珪石SiO2源の添加操作はなかった?(5)

2020-03-22 08:17:56 | 趣味歴史推論

 別子銅山より前に住友が稼行していた備中吉岡銅山の素吹では、珪石の添加操作がなされていたかを調べた。元史料にはあたれなかったので、それらを基にした泉屋叢考によった。
鉱石は、黄銅鉱(CuFeS2)で、ほかに磁硫鉄鉱(Fe1-xS)である。
住友経営時1)
1. 貞享2年(1685)9月の覚書「備中川上郡吹屋村御山用控」(新任の代官後藤覚右衛門が初めて吹屋に来た時提出したもの)の内容。
「生鏈130貫を砕き選鉱すると、正味選り鏈100貫を得る。30貫は、砕き汰(ゆ)り物であり捨てる。選鉱100貫を焼釜にて焼鉱すると70貫になる。次いで、これを荒吹(素吹)すると 床尻銅3貫、鈹13貫(これを真吹すると銅8.06貫となる)を得る。〆て、銅(3+8.06=)11.06貫となる。残りの(100-11.06=)88.94貫は、からみになり捨てる。」
からみ重量は実測値ではないし、ガス分を考慮していないので間違いである。しかしこの書き方、算出法に着目する。鉑石は、銅以外には、全て無価値なからみとなり捨ててしまい、何も隠していませんというのが書き手の心であろう。算出法は仕込選鉱重量から生産銅重量を単純に引き算して求めているということは、目に見えない測りがたいガス分であるSとOの重量加減は考慮せず、銅以外は全てがからみになったとしている。もし、融剤として珪石が添加されていたら、からみ重量にはその分が足されたであろう。足されていないということは、珪石は添加されていなかったということになる。この段は、意図せずして、「珪石を添加していなかった」という傍証になると筆者は考える。
2. 元禄9年9月大坂で代官所の役人へ提出した「備中銅御山仕様之覚」の内容。
「焼鉱40荷(500貫)は床1間で1吹に8荷(100貫)ずつ5回に分けて1昼夜で吹かれる。木炭およそ160貫を費やし、鈹は70貫ほどで、その跡に床尻銅が合計8貫ほどできる。鈹70貫は、真吹床1間で1夜1吹にし、吹銅35貫ほどを得る。木炭およそ60貫を使用した。」
ここにも 珪石の添加は記載されていない。しかし、役人への報告書なので、わざわざ珪石の添加を書かなかった可能性もある。

大塚経営時 寛政5年頃(1793)2)
3. 「製錬法は元禄以前の住友経営のころと変わりはない。
焼鉱500貫を1日に100貫ずつ5度に素吹(鉑吹)する。床尻銅は平均11~12貫、そのほか鈹50~60貫をうる。鈹160貫を1度に真吹して平銅とする。」
ここにも珪石の添加は書かれていない。

まとめ
吉岡銅山の素吹で、珪石の添加操作の記録は見つからなかった。
選鉱した鉱石は、まだ多くの脈石を含んでいたのであろう。

注 引用文献
1. 泉屋叢考 第12輯 p31(住友修史室 昭和35年 1960)→図
2. 泉屋叢考 第14輯 p62(住友修史室 昭和44年 1969)
図 吉岡銅山の素吹の物質収支(1685)