岡山県備前市吉永町今崎小板屋公民館裏のお墓の先に「明石掃部介守重宅跡」を見にいきました。
明石掃部(全登)は大坂落城後、ここに逃れてきたようです。
明石全登を調べてみると、岡山県赤磐郡熊山町「保木城主・明石飛騨守景親」の子として生まれ、浦上宗景に仕えて、宇喜多直家に通じ味方し宗景滅亡後、直家の客将となる。
明石全登(あかし たけのり)は、戦国時代のキリシタン武将で、今回も黒田官兵衛ネタを付けると、官兵衛の母の名は「岩」小寺則職養女(播磨国明石郡枝吉城主・明石宗和の娘)で、明石一族である黒田官兵衛の下で庇護されたといわれている。
近くには八塔寺(はっとうじ)と呼ばれる天台宗の寺院があり、山々に囲まれて、かつては「西の高野山」と称され、盛時には72坊もの僧坊や十三重塔が建てられたとされる宗教都市であり、山岳修行の僧が宗教活動の拠点とした、山岳仏教の聖地といわれるほど!
ここに土地勘があれば逃れて隠れてたのもうなずけます。
洗礼名ジョアンで、宇喜多秀家の姉を妻とし,家臣中最大派閥で、1600年(慶長5)関ヶ原の戦で西軍に属した宇喜多家滅亡後,黒田家にむかえられ,筑前秋月に住してましたが、豊臣秀頼の招きに応じ,大坂の陣にキリシタン部隊を率いて活躍しました。
この時の大坂城には、七人衆と呼ばれた名将がいたわけですが、その7人は、真田幸村、毛利勝永、木村重成、大野治房、長宗我部盛親、後藤又兵衛そして明石全登の7人が名将といわれてます。
・・・調べれば調べるほどおもしろいですね、岡山ゆかり地をまた調べてみたいですね。